それは、不思議な感覚だった。

 喜びというより、安堵。

 もとから、死んだなんて信じてなかったから。

 嫌味のひとつも、言いたくなる。

 ある意味、長い間の緊張が解けたように。

 

 主の元に、帰りたがっていたペンダントを返す。

 まるで、ひとつの重荷を下すように。

 

 不安な別れの後のアラゴルンは、

 アルウェンの匂いを、強く漂わせていた。

 

 まるで、

 僕に見せ付けるように。

 

 大丈夫だよ、アルウェン。

 僕は、貴女から彼を奪ったりできないから。

 だって貴女は・・・・・

 

 貴女だけが、彼から愛される権利をもっているから。

 

 またひとつ、

 僕は強くなれる。

 

 

 

 アラゴルンのもたらした戦況は、安堵とは程遠いものであった。
むしろ、最悪の予想が的中したもの。
それでも、レゴラスにとっては十分予想できたものであったし、
指揮官を取戻した自分にとって、ローハンの王ほど狼狽する知らせではなかった。

 王と話をしながら城中を歩く彼の後を歩きながら、アラゴルンの心中を察する。

 これから起ることに、楽観はできないものの、
どう作戦を組みたてるのかを頭の中で探る。
アラゴルンと王との意見は食い違っていたが、今の現状を変えることはできない。

 時間が、なさすぎる。

 夕闇が、迫ってくる。

 武器を持ったことのない民間人に、慣れない武器を与えながら、
アラゴルンはなんとか戦気を保とうとしていた。
そんなアラゴルンに食ってかかってしまった自分に、後悔する。

 苛立たしげなアラゴルンに、エオウィンがそっと近づいた。

「アラゴルン殿、どうか少しでもお休みください。一時間・・・いえ、三十分でも」

 アラゴルンの腕の傷に目をやりながら、不安げに申し出る。

「今、アラゴルン殿だけが頼りなのです。お願いですから・・・傷の手当も・・・」

 躊躇するアラゴルンに、エオウィンは食下がる。

「部屋を用意させました。狭いですが、静かに、ひとりになれます。
一口でも、何か口に入れてください。・・・・どうか、王の為に・・・・私の為に」

 アラゴルンのぴりぴりした雰囲気は、慣れない武器を手にする民の不安を助長する。

「・・・・・ありがとう。では、少しだけ休ませていただこう。
何かあったら、すぐに呼びにきてくれ」

 城の奥の小さな部屋に、エオウィンはアラゴルンを招きいれた。
厚い壁で囲まれ、外の音はあまり入り込んでこない。

「物置だったところです。こんなところしかありませんが・・・」

 かろうじて身体を横たえることのできるベンチに、
つぶれたクッションが数個置いてあるだけの部屋。

「怪我の手当を・・・・」

 申し出るエオウィンを、やわらかく断ろうとしていると、
入口からかすかな光が入り込んできた。

「手当なら、僕が」

 振向いたエオウィンが、驚いて目を見張り、そんな彼女の肩にアラゴルンは手を置いた。

「エオウィン姫、あなたの待遇に感謝する。キズはたいしたことないし、
自分で手当できるので大丈夫。少し・・・・ひとりにしていただければ」

 入口に立つエルフとアラゴルンを交互に見比べながら、
エオウィンは俯くように頷いて、ドアに向った。ドアのところには、もうひとりいた。

「ほら、食物持って来たぞ、アラゴルン!」

 ギムリは、りんごとパン、それに水の入った瓶を持っていた。

「姫、すまないが武器庫をもう少し案内してくれないかね? 
あそこに出ている甲冑は、どうもわしには合わないようでな」

 子供くらいの背丈しかないドワーフに、エオウィンは微笑を作った。

「ええ、ギムリさん。今すぐ」

 出て行くエオウィンの後から、ギムリはアラゴルンにウインクして見せた。

「残念だが、ゆっくりしている時間はなさそうだ。三十分で迎えに来る。
それまでに食えるものは食っておけよ、旦那」

 そう言って、ギムリはレゴラスを部屋に押しこみ、重たいドアを閉めた。

 

 

 レゴラスは入口の前で立ち尽していたが、アラゴルンはベンチに座り、
さっさと上着を脱いで、エオウィンの用意してくれた水と布で腕の傷を洗った。

 どこもかしこも、傷だらけの身体。

 見慣れているはずなのに。

 携帯していた薬草で、傷の血をぬぐう。自分を見つめるエルフに、
アラゴルンは視線を向けた。

「こっちに来い、レゴラス」

 命令的な強い口調。素直に、それに従う。
アラゴルンの前に跪くと、アラゴルンは手にしていた薬草も布も、床に投げすてた。

「怒っているのか?」

「怒る? 僕が? どうして?」

 見つめたまま、視線を離さない。

「心配していただけだよ」

 エルフは、嘘をつかない。ただ、本当に心配していただけ。

「俺が・・・死んだと?」

「死ぬとは思っていないよ。あなたにはアルウェンがついているもの。
ただ・・・どうしていいかわからなくなっただけ。
人間の国で戦う事に、僕は慣れていない」

 強い光を放つ瞳を、アラゴルンはふと床に投げた。
それから、片手を挙げて、レゴラスの頬に触れる。 

「・・・・すまない」

「謝ることなんて・・・・なにもないよ」

「ついて来いと言ったのは俺なのに、お前をひとりにした」

「僕はひとりじゃないし、あなたに言われたからついて来たわけじゃない。
買かぶりすぎだよ、アラゴルン」

 再会した瞬間の、胸の高鳴りが戻ってきて、レゴラスは目を細めた。 

そんな瞳に吸いこまれるように、アラゴルンはレゴラスの唇に自分のそれを重ねる。

 いつものように、抵抗なく受入れる。

 いつだって、レゴラスは抵抗などしたことがない。

 アラゴルンのキスは、血の味がする。

 眠る時にも閉じない瞳は、じっとアラゴルンを凝視したまま。

 

 愛してるなんて、囁かない。

 

 そのままアラゴルンはレゴラスを抱えるようにベンチに押倒した。

 汚れることのない金髪が散ばる。

 腹をすかせた獣のように、乱れることのないエルフの襟元を乱暴に開き、
白い胸に唇を這わす。レゴラスはただ、天井を眺めていた。

 

 僕が人間だったら、あなたを求めることもできたかもしれないのに。

 あなたを愛することが、できたかもしれないのに・・・。

 

 求められるままに身体を与えながら、ぼんやりとそんなことを考える。

(違うわ。あなたが彼を受入れようとしないだけ)

 頭の中に響く、その声はアルウェン。

(心を開かないから、何も感じないの)

 そう、そうかもしれない。

(恐れているのね、彼を、愛することを)

 無理だよ、アルウェン。だって、彼には貴女がいるもの。

(私はかまわないわ。だって、彼を愛しているのですもの。彼の全てを)

 強い女性だね。

(レゴラス・・・・アラゴルンを、愛してる?)

・・・・・たぶん。

(なら、怖がらずに、彼を受入れてあげて)

 できないよ。

(私のことは、気にしないで。・・・いいえ、私の為に)

 アルウェン・・・。

(今、彼にはあなたが必要なの。わかるでしょう? 
私はそばにいてあげることができない。彼は今、不安なの。わかるでしょう? 
不安だから、あなたを求めるの。レゴラス・・・いいえ、ごめんなさい。
わがままだったわ。あなたの心を、察してあげられなくて)

 いいんだ、アルウェン。

 信じられるかい?

 僕はね・・・今、幸せなんだ。

 どんな状況であっても、

 彼と一緒にいられることが、幸せなんだよ。

 彼に求められることを、嬉しく感じてしまう僕を、軽蔑するかい?

(彼に、応えてあげて。受入れてあげて。不安を、拭い去ってあげて)

 貴女は、本当にそれでいいの?

(私は、彼の全てを愛してる。恐れるものなどないわ)

 

 意識を肉体に引戻し、レゴラスは自分の上のアラゴルンを見た。
そっと両手を持ち上げて、その男の顔を包む。

「アラゴルン、あなたにはアルウェンがいるのに、どうして僕を抱くんだい?」

 そんなこと、言われなくてもわかっている。アラゴルンは、じっとレゴラスを見つめる。

 

 愛してるとは、言わないよ。

 

 言葉を探すアラゴルンに、ふと微笑みかける。

「レゴラス・・・・・・・・」

「いいんだ、答えなくて。ごめん、意地悪を言いたかっただけ。
それだけ、僕は不安だったんだ。約束して、アラゴルン。
もう二度と、僕の前から消えないと。
あなたの命が終るまで、僕はあなたのそばにいる。
だから、僕の前から姿を消さないで。約束してくれる?」

 アラゴルンはレゴラスにキスをし、「約束する」と呟いた。

(いいんだね? アルウェン。僕は彼を受入れるよ?)

 辛い彼の生き様に、ほんの少し潤しの水を与えるように。

 

 アラゴルンは、激しく求め、そしてレゴラスは黙ってそれを受入れた。

 

(疲れているんだね? 眠るかわりに、肉体に安らぎを与えよう。
それで心が癒されるのなら)

 激しさで、不安を紛わせることができるのなら。

 今は、それでいい。

 

 彼の熱に溺れながら、レゴラスは切なさを押し殺した。