あの時

 

 どうして僕は、彼から目を離してしまったのだろう?

 

 そんなことばかりを、考える。

 

 いつも

 

 視界に入れておくようにしておいたのに・・・。

 

 どうして・・・・

 

 あの時は、

 

 彼を見ていなかったのだろう・・・・

 

「レゴラス」

 

 彼が、落ちるなんて

 

「レゴラス」

 

 彼が、手の届かないところに、行ってしまうなんて

 

「レゴラス!」

 

 

 

「レゴラス!!」

 背中を肘で押され、レゴラスはふと我に返った。

 ここは・・・・・?

 呆けた表情で、周囲を見回す。

 ああ、そうだ。ここは角笛城。

「ああ、まさか寝てたんじゃないだろうな?!」

 野太い声が、邪険に言う。声の主は、隣にいた、同じくらいの背丈の少女に笑いかけた。

「エルフってのは、目をあけたまま寝るんだぞ」

 泥と汗で汚れ、つかれきった表情の少女が、クスリと笑う。

「寝てる場合じゃないんだ、レゴラス! 
このお嬢さんの荷物を運ぶのを、手伝おうって気にはなれないのかね? 
それとも、エルフってのは薄情な種族なのか?」

 見下ろすと、重そうな木箱に縄をくくりつけ、
年端も行かない子供がうんうん唸りながら運ぼうとしている。
手伝える大人はいない。誰も、手一杯なのだ。
ギムリも、両手に荷物を抱え、難民たちを手伝っている。

 

 ここは、角笛城。

 ローハン最後の砦。

 

 頼りになるはずの男たちは、・・・・その大半は帰ってこなかった。
年寄と、女子供。頼りない人間たちが、食料や武器、
なけなしの家財を城の奥に運んでいる。狼狽して嘆く老女。赤子を抱えた母親。
子供たちの笑顔は、ここにはない。

「・・・どこに運ぶんだい?」

 レゴラスは木箱をひょいと担ぎ上げた。

「エルフってのは、力もちなんだ」

 またギムリが少女に耳打する。笑うことさえ疲れてしまったように、
少女は黙って先を歩き出した。ギムリが溜息をつく。

「ローハンの王様は、本当にこんなところで戦争をするつもりなのか」

 並んで歩きながら、小さくこぼす。城の作りは頑丈だ。だが、戦う兵がいない。

「畜生! ガンダルフもアラゴルンも、この大事な時にどこに消えちまったんだ」

 それでも・・・・。レゴラスはギムリを見下ろして思う。このドワーフは、強い。

 

 アラゴルン・・・・・

 

「ぼやっとしてない! 運び終ったら、城を一周して来ようぜ! 
オークに攻めいられて迷子になったんじゃ、話にならないからな!」

 心の一部を失ってしまったように、考えることをやめてしまうレゴラスを、
ギムリはせっついた。ギムリにどやされることで、
レゴラスは自分が心を彷徨わせていたことに気づく。無意識に、彼を探している。

 

 どこにいるんだ、アラゴルン?

 

 死ぬはずがない。

 絶対に、死ぬはずがない。

 なぜなら・・・・・

 彼には、アルウェンの恩寵があるから。

 

 手首に絡めたペンダントを、そっと握る。

 まるで、ひとつの指輪が主を求め、主の元に帰りたがっているように、
このペンダントも持主の元に帰りたがっている。

 

 アルウェンも、彼を探している。

 

 彼女にしか出来ないこと。

 彼女だけが出来ること。

 

 アルウェン・・・どうか彼を探して。

 

 

 

 こうも自分は無力だったのかと、思い知らされる。

 もちろん、人間の国で戦いを起すことなどはじめてだ。彼らは、異種族。
考え方も戦い方も違う。もし自分なら、どうするだろう? この戦いに、勝算はない。
近隣の国に助けを求めるか? しかし、それも出来ないとなったら・・・。
エルフの国では、ありえない事だ。
少なくとも、己の国には足手まといになる子供はいない。
守るだけの戦いなど、したことがない。

 信じるべき指導者は、・・・・ローハンの王は、自分とは違う考え方のようだ。
つまり、ここは攻めいられないと信じ込んでいるようだ。絶対に大丈夫だと。
その王の考えが、また自分を不安にさせる。

 いったい自分は、ここで何をすればよいのだろう?

 ギムリは忙しく歩き回っている。こんな時、ドワーフの強靭さを思い知らされる。
彼は決して思い悩んだりはせず、目に付いた仕事をさっさとこなしていく。
難民の荷物運びを手伝ったり、錆びた武器が目に付けば、その場で磨いたり。
食事の心配も。何も出来ず、ただ様子を眺めている自分とは違う。
それに、エルフには近寄りがたい雰囲気があるようで、
人間たちはドワーフには話しかけても、レゴラスに話しかけてくる者はいなかった。

「エルフの君よ」

 王が、言葉をかける。レゴラスはエルフらしい無表情の瞳を向けた。

「この城をどう思う?」

 レゴラスは周囲を見回し、冷静に答える。

「頑丈なつくりです。立派な砦です。そう簡単には落ちないでしょう」

 エルフの言葉に、王が嬉しそうににやりと笑う。

 慰めのつもりはなかった。見たままを口にしただけだ。

(兵が足りませんが)

 その言葉は、飲みこんだ。

「食料はもつのか?!」

 慌しく歩き回りながら、ギムリがひょっこりと顔を出す。

「しばらくはな。夕方までに追加が届くであろう」

「それはよかった! エルフは食わなくても戦えるが、人間とドワーフはそうもいかん!」

 豪快に笑って、ギムリはまた出て行った。王は、それを頼もしく見送る。

「夜には私が見張り台に立ちましょう」

 ギムリを見送った後、レゴラスは言った。

「できるだけ腕の立つ者は、休ませた方がおよろしいかと」

 王は腕を組み、側近に耳打した後、レゴラスに向き直った。

「そうしていただけるとありがたい。エルフの君よ、感謝している」

「・・・レゴラスと・・・お呼びください、セオデン王」

「ありがとう、レゴラス殿。貴殿もしばし休まれるとよい。部屋を用意させよう」

 休む必要など感じなかったが、とりあえずレゴラスは王の申出を受けることにした。

 王は側近たちと王の間に入っていった。それを見送り、肩を落す。

 自分は、ここで何ができるだろう?

 ギムリのように人間たちを手伝うことはできない。
落胆した気持が、肉体を動かしてはくれない。
攻め入られれば、もちろん弓を手にするだろう。だがそこに、勝算はない。
希望のない戦いに、神経を集中させられるだろうか?

 

 誰に、従えばいいのだろうか?

 

 その時、腕に巻いたペンダントに、重さが増したように思えた。

 

(レゴラス・・・・・)

 

 アルウェンの声・・・・彼女の思念か。

 

(アラゴルンが、帰ってきます)

 

 レゴラスの胸が激しく高鳴り、人ごみを縫って歩き出した。

 

 アラゴルン・・・・!

 

 レゴラスより先に走りだしたギムリが、その男を捕える。

 

 アラゴルン!

 

 闇に沈んだ心に、光が射す。

「遅かったな」

 やっと口に出した言葉に、安堵の全てが含まれていた。