愛している。

 そんな言葉が、この世界に存在していたのか。

 愛している・・・と。

 

 彼を支えている何かが途切れたように、
レゴラスは膝を折って崩れ落ちた。

 エルロンドの腕の中に。

 

「震えている」

 そう言われても、身体に力が入らない。

「顧問達の前で、見得を切ったのではないか? 
その命さえも厭わない、と」

「刃に恐れは抱きません・・・・」

「ではなぜ震える? 何を恐れる?」

「あなたを・・・」

 あなたの言葉を。

 愛していると、その言葉が切先となって心に突き刺さる。

「なぜに?」

 なぜ? 

 それは、許されないから。

 誰より敬愛する父の言葉を裏切るから。

「スランドゥイルのためになら、この私も殺すか」

 口に出さない言葉を悟られて、レゴラスは唇を噛んだ。

 なぜあなたを殺すなどと・・・。

「口にせねばわからぬか?」

 レゴラスは顔を上げた。エルロンドの瞳を見つめ、
その色に溺れる。

「そばにいたいと・・・言いだしたのはお前の方だぞ?」

 最初から、わかっていたのに。許されないことは、
わかっていたのに・・・。

「お前は、愛する者を失う悲しみを知らぬ。それは、心の死だ。
私とて、酔狂でシンダアルの王子を抱いたりせぬ」

 愛している。

 愛している・・・と。

「・・・愛しています」

 その言葉に、レゴラスは全ての思いを込めた。

 

 たった一言で、癒される。

 魔力を秘めた言葉。

 

 エルロンドは、そっとレゴラスの身体を離した。

「立てるか?」

「大丈夫です。もう・・・」

 不思議なほど、身体に力が戻っていた。

 いや、今まで以上に。

「一人で部屋に帰れるか?」

「グロールフィンデルさんに付添っていただくわけには
いかないでしょう」

 微笑んで見せる。エルロンドも笑って見せた。

「奴なら背負っていってくれるだろうよ」

「・・・私は、嫌われてはいないのですか?」

「私の信頼する者達は、種族の確執にこだわりはせぬ。
現に、私にもシンゴルの血が流れている。人の血も。
生き方と理念の問題だ」

「理解はしても、曲げる気はないのですね?」

「スランドゥイルもな」

 エルロンドは、レゴラスの涙の痕をぬぐった。
その指のぬくもりに、レゴラスは瞳を閉じる。
それからエルロンドの指にキスをして、表情を引きしめた。

「ちゃんと休むのだぞ?」

「無理です。冷たい床に一人で横たわることなど、
できません。せめてもの慰めに、一晩中歌でも歌っていましょう」

 こんなにも無邪気に、またエルロンドの心を縛る。

「私も今宵は眠れそうもない」

 エルロンドはレゴラスに口づけ、そのほんの少しの触れ合いだけで、
レゴラスはドアの向うに去っていった。

「主の心の安らぎは、裂け谷のエルフ達にとって
喜ばしいことではありますが」

 月影の向うから、声がする。

「盗み聞きか、グロールフィンデル」

「王子をお連れした責任がありますゆえ」

 エルロンドは唇をゆがめた。

「相手が悪いですな、エルロンド卿」

「情に流されると?」

「そのようなことは申しておりませぬ。
苦難は続きますぞ、覚悟なさいませ」

「・・・わかっている」

 それでも惹かれる心を止められぬのは、
エルフの姫を娶った人間の剛勇さの血筋か。

「よい夢を」

 グロールフィンデルは背を向け、エルロンドは部屋のドアを閉めた。






 沈黙の中に、レゴラスは座していた。

「疑うばかりでは、先に進むことはできない」

 主は顧問達を見渡した。今一度、反論のないことを確める。

「スランドゥイル王に伝えることは二つ。

 我々はイシルドゥアの末裔を保護している。
名を明かすことはできないが、了承願いたい。
我々も時満まで真の名は使わぬのだ。

 それにともない、近々白の会議を招集する。
マイアとエルフ王で構成される」

 レゴラスはただ館主を見つめる。
口元を引締め、事の重大さを反芻する。

「内情を話した以上、スランドゥイル王にも
こちらの条件をのんでもらう。異議はないな?」

「勿論です」

「よろしい。イシルドゥアの末裔については
極秘事項であるが故、王と貴族以外には一切他言無用とする。
その保護に関して、我々は闇の森に協力を求めることはしない。
しかし、その者が真の王と認められた暁には、
人間の王に必要な助力は取ってもらう。
その者自身が協力を願出た場合のみ、手を貸してやって欲しい。

 白の会議の出席に関しては、無理強いはせぬが、
心に止めておいてもらいたい。その時が来れば、使いを送る。
今までのように追い帰しはせず、こちらの話を聞くこと。

 そして、以後、定期的に使者のやりとりを行う。
秘密を明かした以上、スランドゥイル王が心変わりすることを
こちらは望まぬ。使者は最低限の人材で行い、
その内容は秘密厳守とする」

 レゴラスは短く肯定の返事をした。

「我々は闇の森からの使者を歓迎する。
以後館内を自由に歩き回る権限を与えよう。
レゴラス殿、そなたの言葉は王の代弁と理解するが、
以上を王に伝えた後、王自身の了承を持って再び裂け谷を訪れたし。
返事をよこすことを成さねば、王は我々の要求を却下したとみなし、
それ相応の対処を取らせてもらう」

「心配にはおよびません。私自身の名誉にかけ、
王に会議の内容を伝え、その返事を持って参りましょう。
私が一年のうちに返事を持ってこぬ場合は、
我森に兵を差向けてかまいません」

 顧問の一人が苦笑する。

「闇の森の使者は、ずいぶんと乱暴なお方のようだ」

 レゴラスはその者に目を向け、冷笑した。

「他に手がおありなら、何なりと」

 その者は口をつぐみ、レゴラスは主に視線を戻した。

「寛大なご処置に感謝いたします」

「レゴラス殿、そなたの考えをお聞かせいただこう」

 そう言葉を発したのはグロールフィンデルだ。

「闇の森は迫り来る闇にどのように対処するおつもりか」

 レゴラスは質問者の瞳をまっすぐ見据える。

「今はまだ、あるがままを受容れましょう。
しかし時が来れば、私は竪琴を弓に持ち替え、
『希望』のもとに馳せ参じるでしょう。
我王国も全ての兵を立ち上がらせる覚悟はできております」

「そなたはたいそう自信家でおられる」

「私は王の血を継ぐ者。時代の傍観者ではありません」

 エルロンドの瞳は、満足げに見えた。

「会議を解散する。闇の森の使者殿、
しばし滞在して英気を養ってから帰られるがよろしい」

 エルロンドの言葉に、レゴラスは冷たい視線を返した。

「最初にもお断りしましたとおり、我らがふたつの種族の確執は
消えたわけではありません。私はシンダアル王の血を引く者として、
ノルドオルの館に長期滞在する気はありません。
会議終了の後は速やかに帰郷したいと思います。
お心遣いだけ頂いておきましょう」

 レゴラスの言葉に、館主エルロンドは唇を上げてほくそえんだ。

「では、長旅に必要なものはすぐに揃えさせよう」

 

 

 

 客間で帰郷の仕度をするレゴラスの元に、小さな来訪者が現れた。
周囲を覗いながら、こっそりと部屋に入ってきて、
レゴラスを見つけたとたん満面に微笑む。

「レゴラス!」

「エステル・・・!」

 驚いたレゴラスは、同じようにドアの外を覗い、
早急にドアを閉める。

「ダメじゃないか、こんなところに来たら」

「どうして会ったらいけないの? 
レゴラスが来ているって皆知っているのに、
会いに行ったらだめだって」

 子供には難しい話かもしれない。
子供は自分自身の素性さえ知らされていない。

「帰っちゃうの? 遊んでくれるって約束したのに」

 レゴラスは腰を落して微笑んだ。

「ごめんね。急用なんだ。またすぐ来るよ」

「うそつき」

 うそ・・・? レゴラスは驚き、少し哀しげに目を細めた。
そうだ、人間とエルフでは流れる時間が違う。
前回別れてから半年以上経過している。子供の時間は早い。
その半年で、見違えるほど成長する。

「すぐっていつ? あした? その次?」

「明日は無理だ。僕の住む所は、ここからとても遠いんだ。
急いでも・・・」

 子供はぎゅっと唇を結んだ。涙をこらえている表情。
レゴラスは子供を両腕で包んだ。

「ごめんね。寂しいかい?」

「寂しくないよ。お母様もいるし」

「じゃあ、またもう少し待っててね。
僕も、君と遊びたいんだ」

「誰がダメだって言うの? エルロンド様? 
ボクが言ってあげる。だから、すぐ帰るなんて言わないで」

 子供の頭を撫でながら、レゴラスは笑って見せた。

「ありがとう、エステル。歌を歌ってあげるよ。
そうしたら、お母様のところに帰るんだよ? 
僕はいつでもエステルの味方だからね」

 子供を抱き上げて、静かに歌を口ずさむ。

 不思議な魔法の力のある歌。
彼の王国の歌うたいだけが操る魔法。

 子供は、レゴラスの腕の中ですぐに眠りについた。

 眠る子供を愛しげに抱き抱えて、レゴラスは部屋を出た。
誰もいない廊下に、エルロンドが立っている。

「やはりここに来ていたか」

 レゴラスは子供をエルロンドに手渡した。

「何故、こうもお前に懐くのだろうな」

「さあ・・・。
無意識に、私を支配しようとしているのかもしれません」

 子供を受取ったエルロンドは、そっとレゴラスに口づけた。

「私も気が抜けぬというわけだ」

 レゴラスは笑った。

「私の支配者は、あなたです」

 それだけ言って、レゴラスは部屋に戻っていった。 

 

 

 

 装備を整え、館を出たレゴラスを見送りに来たのは
グロールフィンデルだけであった。

「気をつけて帰られたし。次に来訪されし時には、
ぜひそなたの歌を聞かせてもらいたいものだ」

「喜んで」

 レゴラスは、裂け谷の貴人にはじめて無邪気な笑みを見せた。

 

「あなたの小鳥は帰られましたぞ」

 エルロンドは、テラスの椅子に腰掛け、谷を眺めていた。

「うむ」

 グロールフィンデルは、主が見ているのと同じ谷を見下ろした。

「長い戦いになりそうですな」

「こんどこそ」

 エルロンドは、信頼する貴人に目を向けた。

「魔王サウロンを打ち亡ぼすことができるかもしれぬな。
だが、犠牲は最小限に留めたいものだ」

「あなたの小鳥は、あなたの手を離れ、飛立ってゆくでしょう」

「・・・運命ならば致し方ない」

 二人は澄渡る空を見上げ、やがて来るであろう時代の波に思いを馳せた。