グロールフィンデルが客間を訪れたとき、
闇の森からの使者は身じろぎもせず椅子に腰掛けていた。

「会議は終った。明日主より通達があるであろう」

「ありがとうございます」

 そう言ったきり、レゴラスは口を閉じ、
相変らず正面を見つめている。

 よほど緊張しているのか。

「そなたの歌を心待ちにしている者は多いが、
その気はないようだな?」

「遊びに来たわけではありませんから」

 グロールフィンデルはほくそえんだ。確かにまだ若い。
古き因縁の種族を説得することは、かなりの重荷と見える。

「我らの決定しだいで、本気で命を差出してもよいと
考えているのか?」

「その必要があるなら」

「なぜそこまで?」

 レゴラスはゆっくりと振り向き、裂け谷の貴人を見た。
以前会ったときと・・・歌を楽しんでいたときとはまるで違う、
冷たい瞳の色。

「血族の確執など、私には知る由もありません。
なぜお互いの貴人達がそこまで執着するのか、理解しかねます。
エルダアルがミドルアースに帰ってきた直後から、
種族の融合は行われているというのに。
真に憎むべきは知恵あるものを貶める魔の者であって、
血の違いではないはず。それでも私は、王と我一族の受けた苦痛を、
その業を背負って生れてきました。捨てきれるわけではありません。
お互いを真に理解しあえる布石になれるなら、それが私の本望です。
裂け谷の貴人たちは、私を辱めることはなさらないでしょう。
その良識を信じています。そして、その良識を持って私は
わが国へ帰りたいと願っています」

 業、か。

「私はそなたの本心が知りたいのだが・・・
話す気はないであろうな」

「と、いいますと?」

「情に流されているのではないか、ということだ」

 グロールフィンデルを見つめるレゴラスは、
僅かに口元を歪めた。

「スランドゥイル王にも・・・父にも同じ事を言われました。
信用されていないのですね」

「情を悪しき感情とは理解しておらぬ。
時として、情は力を与え、すばらしい功績を成す。
歴史においても、だ。ただ、どれだけ己で自覚しているか」

 レゴラスはまた視線を外した。

「・・・父にも・・・グロールフィンデル殿、
あなたにも隠すことはできません。おっしゃるとおり、
私はエルロンド卿を慕っております。
たぶん、私が己の国の貴族達を説得しようと考えた発端は、
そこにあるのでしょう。でも、それだけではありません。
私はこの谷を美しいと思います。
この光を、どうしたら我森へ導けるのか。
人間の「希望」は、私の「希望」でもあるのです。
その行程として、エルロンド卿に少しでも接する機会が
あるのであれば、私はそれで満足します」

「実に謙虚だ」

「それ以上は望めません」

 エルロンドがこの若き王子をいたく愛でる気持がわかる。
たぶん、彼の心にはもっと熱い炎が隠されているのであろうが、
本人はそれに気付いていない。
いつか、己の炎でその身を焼き尽してしまうかもしれない。

「・・・そうか。私はそなたの友人にはなれぬが、
エルラダンとエルロヒアはそれを望むであろうな。
二人がいないのは残念だ」

 ふとレゴラスの表情が緩む。

「お二人は何処へ?」

「二人には血族の確執など関係のないこと。
それこそ、己の母を苦痛に追いやったオークに
底知れぬ憎しみを抱いておる。彼らはほとんど館には
帰らぬでな。今ごろはオーク狩りに勤しんでいるだろう」

 まるで古い友人の便りでも聞くように、
レゴラスは僅かに微笑んだ。

「私も、会いたかったです」

 そんなレゴラスの表情に、
またグロールフィンデルはほくそえむ。

「いい顔だ」

「?」

「ところで、私はそなたをここから連れ出しに来たのであるが」

「・・・遠慮しておきます」

 またレゴラスが沈んだ顔になる。

「そうはいかぬ。それこそ、ちゃんとした待遇をせねば
スランドゥイル王に申しわけが立たぬのでな」

 苦笑するレゴラスに手を差しのべる。

「そなたは捕虜ではないのだ。ついて来なさい」

 

 

 

 月の光の差込む長い回廊を通り、奥まった部屋の前に
グロールフィンデルはレゴラスを連れてきた。

 そこが何処であるのか、レゴラスは知っている。
思わず息を飲む。

「力の指輪を、知っているか」

「?・・・はい」

 ドアに手をかけたグロールフィンデルは
密やかな声で言った。

「現存するエルフ王で指輪を持たぬのはスランドゥイル王だけだ。
緑森が闇に閉ざされたのは、その影響もあるのであろう。
だから私は、エルロンド卿も、スランドゥイルを尊敬している」

 レゴラスの瞳が見開かれる。グロールフィンデルは微笑んだ。

「お強いお方だ。そなたはその血を引いている」

 言葉を失うレゴラスを無視して、グロールフィンデルは
軽くノックをして扉を開いた。

「エルロンド卿、客人をお連れしました」

 

 エルロンドは背もたれのある椅子にゆったりと腰掛け、
瞑想していた。

「私はこれで」

「ご苦労」

 エルロンドの言葉に、グロールフィンデルは去っていった。

 一人残されたレゴラスが、ドアの前で立ちすくむ。

「どうした? こちらに来なさい」

 躊躇するレゴラスに、エルロンドが視線を向ける。

「・・・瞑想の・・・お邪魔ではありませんか」

「かまわぬ」

 胸が激しく動機して、感情の波が押し寄せる。

「私に・・・何かお話が・・・?」

 エルロンドは立上り、ゆっくりとレゴラスに歩み寄った。
レゴラスは思わず後退る。

「なぜ逃げる?」

 差出された手に、びくっと身をすくめる。

「なぜ怯える?」

 レゴラスは唇を噛んだ。

 もう一度触れたいと・・・あれほど切望した指に、
今はこんなに怯えている。震える唇を開き、言葉を搾り出す。

「父に・・・二度とエルロンド卿に触れてはならぬと・・・」

 のばした手を握り締め、エルロンドは小さくため息をついた。

「そうか。では触れぬでおこう」

 背を向けるエルロンドに、レゴラスはどうしようもなく
床を見つめた。

 なぜこんなにも苦しい?

 ここに・・・来なければよかった!

 身が引裂かれるほどの感情に、逃げ出したくなる。

 

 タスケテ・・・!

 

「お前の心が惹かれるのは、私の持つあの森の記憶だ。
事成して森に光が戻れば、お前は私を必要としない」

 今すぐその背にすがりたい気持を必死で押し殺して、
レゴラスは顔を上げた。

「あなたの記憶は、あなた自身ではないのですか? 
どうか・・・どうか偽らないでください。
私は耐えることができます!」

 ふり向いたエルロンドは、哀しげに微笑んだ。

「強いのだな」

 心の緊張がぷっつりと切れたように、涙があふれる。
止める術もなく、次から次へ、溢れて零れ落ちる。

 ああ、本当に強くなれたら・・・。

 なぜこんなにも、弱い自分を曝け出してしまうのだろう。

 こんな大役、自分に勤まるはずもない。
ノルドオルとシンダアルの桟になど、なれるはずもない! 
彼を慕う気持だけで、こんなにも胸が張裂けそうなのに!

「レゴラス・・・」

 崩れ落ちそうになる足をかろうじて押え、
ただ彼を見つめて涙を流す。

「案ずるな。私はスランドゥイルを知っている。
お前を苦しめなどしない」

 力なく壁によりかかり、首を横に振る。

「正直、私は驚いているのだ。
スランドゥイルと堅物の貴族達を説得して使者をよこしたことも。
宮廷顧問達の前での堂々とした態度も。
グロールフィンデルはお前を高く買っている。
前回のお前の来訪では私に異議を唱えていたのにだ。
お前が生れる以前、私は三度使者をスランドゥイルに送り、
三度追い帰された。話合いを持ちたいと切望していたのは私の方だ。
機会を与えてくれたことを感謝している」

 エルロンドはレゴラスに歩み寄り、その頬に手をかけた。

「レゴラス」

「・・・父を・・・裏切れません」

 エルロンドはほくそえんだ。

「お前が私に触れるのではない。私がお前に触れるのだ。
狡猾だと蔑むか?」

 また、一滴の涙が落ちる。

「ノルドオルとは狡猾な種族だ。スランドゥイルは知っている。
それを承知でお前をよこしたのだ。文句は言えまい」

「シンダアルがノルドオルを嫌う理由がわかります」

 僅かに微笑むレゴラスに、エルロンドは唇をつり上げた。

「私を嫌うがよい。楽になれる」

「努力してみます」

  エルロンドは、レゴラスに唇を重ねた。

「愛している」