エルラダンとエルロヒアがその部屋に入ってきたとき、
二人は顔を見合わせて苦笑をもらした。

 ベッドの上で起き上がり、レゴラスは小さく歌を口ずさみながら
弓を補修していた。

「父上に見られたら、また怒られるな」

 二人に目を向けたレゴラスは、にっこりと微笑んだ。

「もう終ります」

 なんて無邪気な笑みをするのだろう? 
長い間、そんな笑い方を忘れていた気がする。

「本を持ってきた」

 エルラダンは抱えていた本の山を、ベッドサイドのテーブルに置いた。
それを見てレゴラスが目を丸くする。

「まさか字が読めないとは言うまいな?」

「・・・字は読めますが・・・
あまり本というモノには馴染みがないもので」

 双子がまた顔を見合わせる。

「闇の森の王国には、本がないのか?」

 エルロヒアの言葉に、レゴラスが困ったような顔をする。

「ありますけど・・・これほどには」

「歴史は学ばないのか?」

「学びますよ、でも・・・本によってではなく、
それを知る者の口からです」

 もしかしたら、それが本来あるべき姿なのかもしれない。
レゴラスを見ているとそう思う。
エルフの心がひとつであった頃から遠く離れ、
それぞれの生活を営むようになってから生れた世代である。
心情の違いに驚かされても無理はない。

「では、父上の蔵書の数を見たら腰を抜かすな」

 双子の言葉に、レゴラスは苦笑して見せた。

「私は本を読むより、
それを知る者の記憶を語ってもらう方が好きです」

「父上に伝えておこう。若き王子に歴史を語ってくれるように」

「少なくとも、話を聞いている間は弓矢の補修はしないだろう」

 双子に言われて、レゴラスは笑った。

 それから、レゴラスは補修したばかりの大弓を
エルラダンに差出した。

「あなたの手に合う様には作れなかったかもしれませんけど」

 エルラダンは弓を受取り、
その補修の見事さに思わず感嘆の息を漏らした。

「お前にやると言ったのに」

「嬉しいですけど、何もお礼ができませんから」

 エルラダンはエルロヒアに弓を渡して見せた。
エルロヒアもその完璧さに舌を巻く。

「礼ならこちらから言わなければならない。
ドゥナダンを助けてもらった」

「傷を負ったのは私自身の責任です。
治療していただいたお礼を言わなければなりません」

 これでは水掛論だな。微笑むレゴラスに、双子は笑った。

「変った奴だな」

「そうでしょうか?」

「少なくとも、この裂け谷にはお前のような奴はいないよ」

「それは、喜んでいいのでしょうか?」

「褒めているつもりだ」

 なるほど、遠方からの来訪者を迎えられることを喜ぶべきだ。
長き間かの国の王と交流が絶えていた理由は問わぬが、
少なくとも、この若い王子には好感がもてる。

 無邪気で純粋で、何者にも負けぬ弓の腕を持つ王子に。

 しばし双子はレゴラスの部屋に留まり、談笑を楽しんだ。

 

 

 

 こんなにも穏かな時間を過すのも、たまには悪くない。

 エルロンドはそう思った。

 暖かな日ざしの中、肘掛け椅子にもたれ、
昔懐かしい数々の歴史を語って聞かせる。

 いつから、こんな時間を失ってしまったのだろう?

 

 彼の双子の息子は、今朝早くに旅立ってしまった。

「もうしばらくレゴラスと時間を共有していたかったのですが」

 オークがドゥネダインの動きを知っていたことが気になる。
それに、子供を無事保護したことをドゥネダインの長に
報告しなければならない。

「珍しいな、お前たちがそんなことを言うのは」

 エルロンドの言葉に、双子は苦笑した。

「父上にもわかりますよ。レゴラスには、
なぜかひどく懐かしさを感じます。
・・・私たちがオークをこれほどまでに憎む前の時間を
・・・彼はもっています」

 憎しみを知らないエルフに、同族でありながら心を癒される。

「危険も感じますがね。あまり一緒にいると、
彼を帰したくなくなってしまいます」

 魅了されすぎて・・・。
人間が美しきエルフの乙女を手に入れたがるように。

 エルロンドは曖昧に口元をゆがめた。

 

 レゴラスは良い聞き手であった。

 スランドゥイルは歌を好んでいた。
生れながらに歌に囲まれて育ってきたのだろう。
レゴラスは飽きることなく、エルロンドの言葉に耳を傾けている。

 こんなに長い間語り続けたのは、どれくらいぶりだろう? 
エルロンドは普段、沈黙を好んでいた。

「エルラダンとエルロヒアはどうされました?」

「オークを追って、今朝早く出て行った」

 レゴラスは目を瞬いてエルロンドを見つめた。

「息子たちは、ひどくオークを憎んでいる」

「・・・なぜですか?」

「あれの母親がオークに捕えられ、傷を負ったからだ」

 事の一部始終をエルロンドは話して聞かせた。
彼の妻が、喜びを失ってアマンに渡った話を。

 小首を傾げてレゴラスは聞き入っていた。

 エルロンドは思い出していた。
妻はベッドの上で彼の治療を受けながら、
ついに微笑むことをしなかった。オークは彼女から微笑を奪った。
優しさを、美しい歌声を。彼女は、心を失ってしまった。

 若き王子の横たわる、この同じベッドの上で。

「エルロンド卿も、オークを憎んでおられるのですか?」

「・・・ああ、そうだな」

 母を失った息子たちほどではないにせよ。

 息子たちは、憎しみで悲しみを紛わす。

 永遠に。

「私は・・・深い悲しみを知りません」

 レゴラスは言った。

 憎しみも。

 恐れさえ。

「だからそのように笑っていられるのだな」

 レゴラスは哀しげに俯いた。

「申しわけありません」

「謝ることはない」

 エルロンドは手をのばし、レゴラスの頬を自分に向かせた。
レゴラスは、少しだけ微笑んでみせた。

「恐れを知らぬのは、若さゆえか」

「わかりません」

「オークの毒矢の前でさえ、臆せぬのだな」

「オークは怖くありません。毒矢とて・・・
撃たれたのは初めてですが。肉体の痛みは
恐れの対象ではありません。少なくとも、今回はそう学びました」

 強い精神を持っているのだな。
エルロンドはレゴラスの頬に触れる手を離した。

「私は何も知りません。だから、もっとたくさんのことを
知りたいのです。父の国のことも、森の闇も、
人間も・・・霧ふり山脈の向うに何があるのかも。
世界には、私の知らないことで満ちています」

「好奇心旺盛だな」

「父は悪いことではないと言います。
知りたければ自分の目で見、耳で聞き、
肌で感じなければならないと」

 そう言ってレゴラスは瞳を輝かす。

「私は、ここに招いていただいて感謝しています。
美しい谷ですね。とてもよい風がふいています。
それに、ここの方たちと話をしていても楽しいし。
エルロンド卿の知恵の深さには特に惹かれます。
もっとたくさんお話を聞かせていただけたらと・・・」

 言いかけて、レゴラスははっと気付いたように口をつぐんだ。
それから、申しわけなさそうにはにかむ。

「すみません。しゃべりすぎるとよく父に叱られます」

 エルロンドは笑った。
自分でも、こんな笑いをするのは久方ぶりだと思う。

「かまわん。話相手に飢えているのだな。
明日にでも『炎の広間』に連れて行ってやろう。
ここにだって話好きのエルフは大勢いる。
お前を飽きさせはしないだろう」

 またレゴラスの瞳がきらきらと輝く。
そんな無邪気さに、エルロンドはほくそえんだ。

「だが、今日はまだ私の相手をしてもらおう」

 レゴラスは更に笑みを深める。

「楽しい話ばかりでなくて悪いが、
お前がオークを追っていた理由をまだ聞いていないのでな」

 ふとレゴラスの表情が強張る。
まるで現実に引戻されたかのように。
さすがにエルロンドも少しばかり胸が痛んだ。
自分とて、彼の笑顔を見ている方が好ましい。

 レゴラスは考え込むように片手を口に当て、
しばらく一点を凝視していた。それから一度目を閉じ、
完全に笑みを消してエルロンドを見据えた。

「森に不穏な輩が増えています。
森が闇に覆われたのは私が生れる前の話ですが、
それでもここ数年ひどくなる一方だと父は懸念しています。
森を闊歩するオークの数も増えてきました。
そこで王はオークの動きを調べるために兵を四散させました。
それで私はオークを追って霧ふり山脈を越えたのです」

 エルロンドは眉根を寄せた。噂は本当かもしれない。
近いうちに会議を招集する必要があるだろう。

「オークが終結するのには、理由があるのでしょう。
あれだけの数で人間を襲うというのも・・・
ただならぬものがあると思いますが」

「そうだな」

 慎重に応える。

「父は、この百年のうちに時代が動くと言っていました。
悪しき者が増えているのはその予兆だと」

「・・・百年もかからぬかもしれぬぞ」

「エルロンド卿は、理由をご存知なのですね?」

「私は預言者ではない。
だが、スランドゥイルがそう感じているのなら、
それは正しいだろう。人間が真の王を再び見出したとき、
最後の決戦が行われる、今の私に言えるのはそれくらいだ」

「人間は『希望』を見出したのですね? 
だから魔の者が増え、動きが慌しくなっていると」

「いや、もうひとつ恐れているものがある」

 それを口に出してよいものか、エルロンドは迷った。
エルロンドの迷いを察して、
レゴラスは問いただすような視線を外した。

「過ぎたる質問をお許しください」

 まだ、その時ではない。まだ見つかってはいないのだ。
見つかるかどうかさえわからぬ。白の会議が
決定を拒んでいる以上。・・・全てのカギとなる、
ひとつの指輪を。

「時代の波が大きく変るのだとしたら、
私はそれを見てみたいと思います。
もし少しでも私の力が役に立てるのであれば」

 今度はエルロンドがレゴラスの瞳を凝視した。
これは仕組まれた運命なのかもしれない。
何故今、この若き王子が裂け谷を訪れたのか・・・。
人間の「希望」を救ったのが、彼である理由。

「それで、王子よ、お前は何を望むのだ?」

 時代の傍観者になることか?

 レゴラスは、緊張を解いたように笑みを作った。

「父の愛した森を、見たいのです」

 魔の者を打倒し、再び森に光をと・・・。

「エルロンド卿は知っておられるのですね」

「ああ、知っている。美しき大森林を」

「私も見ることができるでしょうか?」

「・・・お前が真に望むのであれば」

 森が光を取り戻すか、世界が破滅するか。
どちらかしかないのだから。

「お前は、苦難を恐れぬのだな」

「たぶん・・・人間の『希望』は、
私にとっても希望となるでしょう」

 エルロンドも肩の力を抜いた。

 だからこんなに、心が惹かれるのだ。
希望という言葉を強く信じるこの者に。

「レゴラスよ」

「はい?」

 どうしようもない衝動に、エルロンドは立上った。

「・・・私と話していると疲れるであろう。
すまなかった。私は去るので休みなさい。
明日には館の連中と楽しい話ができるだろう」

「エルロンド卿」

 立去ろうとするエルロンドを呼びとめる。
振り向くと、レゴラスは追いすがるような瞳で見ていた。

「私と話をするのは、お嫌ですか?」

 とくん、と胸が脈打つ。何故そんな顔をする? 

「嫌では、ない」

「ではもうしばらく・・・ここにいてはいただけませんか?」

 なぜこんなにも胸が高鳴るのであろう? 
長く忘れていた情動。
ふと、何故あの時妻を助けられなかったのだろうと思い起す。
自分は彼女に、喜びを与えられなかった。

 息子たちのように、怒りで悲しみを紛わせることはできず、
胸に秘めたまま沈黙を守ってきた。
自分がこの地に残された使命を果すことだけを考えて。

 妻が喜びを失ったとき、自分も喜びを失ってしまった。

 

 純粋な瞳が、複雑なエルロンドの心境を刺す。

 

「先ほどの話で、不安になったか?」

 そう言ってみる。レゴラスは首を横に振った。

「いいえ。・・・不安とか恐れとか、私にはわかりません。
ただ・・・そばにいて欲しいと」

 エルロンドは、レゴラスの横たわるベッドに腰掛けた。

「何故そう感じるのか、私にはわかりません。
ただ、心がそう望むのです。失礼なのは承知ですが
・・・もしお嫌でなければ・・・。
エルロンド卿は何でもご存知の方です。
わかっていただけるでしょうか」

 じっと見つめるレゴラスの髪に触れ、
指先で頬を撫でながらエルロンドは答えた。

「わかる」

 

 それを、恋と呼ぶのだ。