麗らかな日ざしの差込むポーチで、彼は壊れた弓を繕っていた。

 ここは、なんて心地よい風がふくのだろう・・・?

 何度も手を止め、やわらかな風に瞳を閉じる。

 このような平穏で美しい谷があるなんて。

 探していたものが、見つかるかもしれない。

 

 ここなら・・・。

 

 パタパタと小さな足音がして、レゴラスは長い廊下に目を向けた。

 あの子供だ。

 人間の子供の足音は、すぐにわかる。聞き馴染みがないから。

 廊下の角から現れた子供は、つたない駈足で、一生懸命駆けて来る。
レゴラスは立ち上がり、子供がここまで来る長い時間を待った。

 子供はレゴラスを捜していた。

 目の前に現れた金髪のエルフに、まっすぐ目を向ける。
そして、レゴラスの前で立ち止ると、荒い息に小さな肩を上下させた。

「元気になったね?」

 レゴラスは微笑み、子供の視線にあわせて身をかがめる。
子供はギュウっと握り締めた右手を、レゴラスに差出した。
開いた子供の手には、粉々になった焼き菓子が乗っていた。

 驚いたようにそれを見つめていたレゴラスは、
にっこりと笑って、菓子の残骸を受取った。

「ありがとう」

 子供にじっと見つめられ、レゴラスは菓子の残骸を口に入れた。

「おいしいよ。君のおやつたったんだろう?」

 子供が真剣な眼差しで頷く。

「分けてくれたんだね? 優しい子だね」

 そう言って子供の頭を撫でる。

 子供は唇をぎゅっと結んだまま、にこりともしない。
レゴラスは子供を抱き上げた。

「じゃあ、お礼をしなくちゃね」

 片腕で子供を抱えたまま、ポーチの端まで行き、
張出した枝に手をのばす。

「つかまってな」

 一言だけ言って、枝に飛び移る。
驚いた子供は、レゴラスにしがみついた。

 子供を落さないようにしっかり抱えて、木の枝を登ってゆく。
そして、あっという間に天辺まで着き、
目を閉じてしがみついている子供にまた微笑みかけた。

「見てごらん」

 恐る恐る子供が目を開ける。
そこには、美しい森と谷が広がっていた。

「きれいなところだろう? 
僕もこんなきれいなところは初めてだ」

 目を丸くして周囲を見回していた子供は、
やっと口元をほころばせた。

「いい顔だ。ここは安全だよ。怖いものは何もない。
だから、もっと笑っていいんだよ」

 子供が笑みをレゴラスに向ける。
レゴラスも微笑んで、子供の額にキスをした。

「お母さんが呼んでるね。さあ、降りよう」

「もっと」

 子供は、はじめて口を開いた。

「そうだね、また連れて来てあげるよ。
僕がこの谷にいる間にね」

 レゴラスはまたしっかりと子供を抱えて、
木を降りてポーチに戻った。

 子供の母親は、蒼い顔をしてそれを見つめていた。

「申しわけありません、子供が・・・」

 レゴラスは、抱えていた子供を母親の腕に戻した。

「事情は知りませんが、貴女が笑わなければ、
子供は笑いませんよ。人間の子供が無邪気でいられる時期は
とても短いのです。大切にしてあげてください」

 女は困惑しているようだった。
きっと、そんなことを言われたのは初めてだったのだろう。

 この子供は、世界を変えるかもしれない。

 子供の父親を亡くしてから、女に心の余裕はなかった。
エルロンドに保護を求めることが精一杯で。

 そして、谷に着いた。

 もう怯えなくて良いのだ。

 それでもこの子は、特別な・・・。

「今度は名前を教えてね」

 レゴラスは、普通の子供にするように、その子の頭を撫でた。
笑う子供に、女が泣きそうになる。

「・・・あ・・・ありがとうございます。あなたは?」

「北の森に住むレゴラスと言います」

「・・・あの時は・・・助けていただいて、本当に・・・」

「たいしたことはありません。
ここの館主に治療していただきました。それより、
おやつの途中だったのでしょう?
行ってたくさん食べさせてあげてください。
子供は食べないと大きくなれない」

 女は大きく頭を下げ、子供を抱えたまま戻っていった。
女の腕の中で、子供は嬉しそうにレゴラスに手を振った。

 笑いながら手を振り返し、女と子供が見えなくなると、
レゴラスは左肩に手を当てて顔をゆがめた。
無意識にうずくまってしまう。

 良くなっているはずなのに・・・。

 人影に気付いて、
レゴラスは痛みに顔をゆがめながらそれを見上げた。

 エルロンド卿・・・。

 慌てて平静を繕おうとするが、遅かった。

「無茶をさせるために部屋を出したのではないぞ」

「申しわけありません・・・」

 エルロンドはレゴラスを抱えあげた。

「あ、歩けます」

「良くなるまでは、私の患者だ。好き勝手は許さん」

 横暴な口調。

 だがそれさえも心地よく、
レゴラスはエルロンドの肩に額をあずけた。

 

 

 ベッドに戻され、ふさがりかけている傷に手当を施される。
治療するエルロンドの手は、心地よかった。
谷川を流れる清純な水のように。
目を閉じてうっとりとその感触を味わっていたレゴラスは、
シャツのボタンを留められて、目を開けた。

「弓を・・・置いてきてしまいました」

「あとで取って来よう。だがそれも禁止だ。
しばらくおとなしくしていなさい」

 レゴラスが小さくため息をつく。

「ただ寝ているのでは、暇をもてあましてしまいます」

「とんだじゃじゃ馬だな」

 エルロンドは、微笑んだように見えた。

「お前の父上の心労を察する。暇なら何か本でも持ってこさせよう。
腕を使ってはいけない。子供を抱くのもダメだ」

 レゴラスは、またため息をついた。

「子供が好きか?」

「人間は好きです。見ていて面白い。特に子供は」

「扱いに慣れているようだな」

「湖の町と交易がありますので」

 エルロンドの館とは、また違った人間との接触があるのだろう。
それにしても・・・。

「笑わない子供はかわいそうです。
たとえ将来重荷を背負う運命を持っているにせよ
・・・今はまだ幼いのですから」

 気付いていたのか。いや、あたりまえだ。
エルロンドの兵が総力をつくして守ろうとした子供だ。

「あの子供の背負うものについて知りたいか?」

 レゴラスは、じっとエルロンドを見つめた。
それから、ふと口元をほころばせる。

「いいえ、今はその時ではないようです」

「賢明だ」

 思っていたより、ずっと頭が良いようだ。
自分をしっかりわきまえている。

 エルロンドは衝動に駆られて、レゴラスの髪に触れた。

 何かを思い出す。

 忘れていた何か。

 

 ずっと忘れていた・・・。

 

 若いエルフの髪を撫でる手を、
何か熱いものにでも触れたように引込め、エルロンドは視線を外した。

「眠りなさい。寝ている間は、悪戯もできないだろう」

 レゴラスも、自分に触れるエルロンドの指に、
感じたことのない何かを感じていた。

(もっと触れていたい)

 心がそう求めている。

 

 何故?

 

 それを知るには、自分はまだ若すぎ、あまりに物事を知らなすぎる。

「夢を・・・与えてくださるなら、眠ることもできましょう」

 過ぎる要求に、自分でも驚く。

 それでも、もう一度あの夢を見たかった。

 自分の知らない、自分の国。

 エルロンドは、レゴラスの胸に手を置いた。
そして、その額に唇を止せ、遠い記憶を囁いた。