嘘

 

 

 

 闇の森の王宮は、
城というより砦といったイメージの方が強かった。

 確かに美しいとは思う、
それでも、一度入ってしまうと容易に外には出られないようであった。
逆もまた然り、である。

 見慣れたエルロンドの館とは、ずいぶんと違う。

 

 レゴラスの故郷。

 

 きっと、アラゴルンが与えられた環境に満足しながらも
息苦しさを感じていたように、レゴラスにもこの岩屋は窮屈だろう。
そんなことを思う。

 それでも、彼はここの主であった。

 彼の父は、ここの王なのだ。

 

 たくさんの明りの灯された大広間に、王は鎮座していた。

 木の葉の冠は、生きている植物のようでもあり、
精巧に作られた宝石のようでもあった。たぶん、後者だろう。
王は輝くものをこよなく愛していると聞く。

 王の前でガンダルフは跪いた。アラゴルンもそれに従う。
案内してきた闇の森の王子は、王の玉座の傍らに立った。

 王と共に、客人を値踏みするように鋭い視線を向けている。

 ガンダルフはアラゴルンを紹介し、
アラゴルンも己を名乗った。

「長旅で疲れたであろう。食事の仕度をするまで、
部屋で休んでくれ」

 王の態度はそっけなかった。

 人間の王となる者に興味がないのか、
あるいは訝しがっているのか・・・。
アラゴルンには判断しかねた。
噂どおり、とっつきにくい男だ。

(少なくとも、歓迎はされていないな)

 それだけは確信が持てた。

 王の隣に佇む王子をちらりと見やる。
レゴラスは、アラゴルンの視線に気づいても、
何の反応も示さなかった。

 

 レゴラスは、まずガンダルフを客間に案内し、
少し離れたもう一部屋にアラゴルンを案内した。

「不自由があったら言ってください。
必要なものは用意します」

 ガンダルフに対してと同じように、
曖昧な笑みで言う。

 アラゴルンは苛ついていた。

 何かを期待していた自分が馬鹿だったというのか?

「・・・歓迎されていないようだな」

「そんなことはありません。スランドゥイル公は、
イシルドゥアの末裔を楽しみに待っておられました。
ただ、もともとああいう態度を持つ方ゆえ、
お許し願いたい」

 そんなことを言っているんじゃない。
アラゴルンはレゴラスの肩を掴もうとして、
・・・するりと逃げられた。エルフらしい身のこなし。
他者にむやみと触れられることを良しとしない。

 アラゴルンは落着くように一度深呼吸をし、
改めてレゴラスに向き直った。

「ここまで追って来た。約束どおり。
これは、俺の独りよがりなのか?」

 手のひらを握り締める。

「レゴラス・・・どうしたら、
もう一度触れることができる?」

 ふ、と・・・レゴラスの表情が緩んだ。
いつか見た、困ったような、悲しむような瞳。

 今度はレゴラスが言葉につまり、
ほんの少し、視線を外した。
それからもう一度顔を上げると、切ないほどに目を細めた。

「・・・貴方が己の運命を捨て、
与えられた権利も名前さえ捨て、
姫との恋を永遠に諦めるなら・・・
私は父の前に跪いて許しを請い、
流浪の民として貴方に触れるだろう」

 アラゴルンは、心臓がぎゅうっと掴まれたような気がした。

 なぜ・・・そんなことを言う?

 たくさんの答えが、胸から溢れて涙のように零れ落ちる。

 

 愛している・・・

 

 一瞬後、レゴラスはまた王子の表情に戻っていた。

「宴の仕度ができましたら、使いの者を呼びによこします。
それまでゆっくりと休んでください」

 アラゴルンはお決りの礼を口にし、
レゴラスは振り向きもしないで去っていった。

 

 百万の苛立ちと百億のもどかしさ。

 封印しておいた情熱が、出口を求めて荒ぶる。
そんな自分に、アラゴルンは驚きもした。

 自分は、こんなにも彼を求めていたのか?

 忘れていた感情の波に溺れそうになる。

 ああ、全てを捨てていい。何もいらない。

・・・お前だけが欲しい・・・。

 

 

 やがて、宴会の仕度ができたと見知らぬエルフが呼びに来た。

 大広間にはテーブルが用意され、
食べ物とワインが設えてあった。

 ガンダルフとアラゴルンは、
王と共に上座の席に案内された。

 闇の森の王は宴会好き、その言葉を思い出す。
そして、その言葉どおり、王の表情も緩んでいた。

 周囲を見回していたアラゴルンは、
王子の姿がないことに気付いた。

「・・・レゴラスは?」

 隣のガンダルフに耳打する。
ガンダルフはにこやかに答えた。

「歌姫は最後に登場すると決っておる。待っていなさい」

 歌姫?

 アラゴルンは首をかしげた。

 

 難しい話は何もないまま、宴会は進められた。
何人もが歌を歌い、王は満足げに微笑んでいる。

 突然、全ての音が止んだ。

 誰もが口を閉じ、広間の入り口を見つめる。
そこで改めて楽器が演奏され、入り口から噂の歌姫が登場した。

 アラゴルンは、息を飲んだ。

 美しい。

 素直にそう思った。

 いつもの緑色の服のかわりに、薄い布を何重にもはおい、
春のそよ風のような装いで彼は現れた。形の良い唇が、
心地よい歌を口ずさんでいる。

 美しい、とため息が漏れる。 

 レゴラスは、その歌声を王とその客人に献上した。

 

 再びざわめきが戻った。

 レゴラスは微笑みながら何人かと会話を交し、
また歌った。

 悦ばしげに眺めるスランドゥイルに、
レゴラスは歩み寄って頭を下げた。

 隣で見ていたガンダルフが、
不意に気付いたようにレゴラスに話しかける。

「宝冠はつけないのか? たしか、前に訪れた時には、
美しい石の埋め込まれた宝冠をしていたように思うが?」

「ああ、あれですか? あれは、無くしました」

「無くしたじゃと?」

 ガンダルフが驚き、スランドゥイルを見やる。

「そうだ、ミスランディアよ。
レゴラスはあの宝冠を無くしたというのだ」

 王は苦笑いをする。

「なんと! レゴラスよ、どこで無くしたのじゃ? 
あれは価値あるものだったのじゃろう?」

「どこで無くしたのか、わかれば無くしたとは言いませんよ。
もっとも、私は父ほど石の価値などわかりませんがね」

 悪びれもなくレゴラスは言った。

「困った放蕩息子だよ」

 王は肩をすくめた。レゴラスはちらりとアラゴルンを見た。
アラゴルンは、ジリっと胸が焼ける気がした。

 

 宝冠の、石?

 

 エルラダンとエルロヒアが、
絶対に言わなかった石の出所。まさか・・・?

「父上、今宵はもう下がらせていただいてよろしいですか?」

「客人の前だ。もう少し付き合えと言いたいが、
お前はあまり宴が好きではないからな。
だが城の外には出ぬのだぞ」

「月を見たいだけです。今宵は新月ゆえ」

 王は渋々承諾し、レゴラスは一礼して広間を出て行った。

 

 いつ果てるともなく宴会は続いた。

 アラルゴンはガンダルフに相談をもちかけ、
一礼をして王に申し出た。

「申訳ありませんが、休ませて頂いてよろしいでしょうか?」

「まだ宵の口であるぞ?」

「人間は、エルフと違い夜は眠るものなのです」

 気分を害したふうもなく、王は笑う。

「限りある命を持つものは不便だな。
夜を楽しむこともできぬ。まあよい。くれぐれも城を出ぬように。
蜘蛛に食われたくなければな」

「外の空気を吸いたいときは、どうすればよろしいですか?」

「中庭がある」

 アラゴルンは丁寧に礼を言い、退出した。

 王はガンダルフに向き直った。

「おぬしも眠りたいなどと言わぬであろうな」

「魔法使いは人間ほど睡眠を必要としませんのじゃ、
スランドゥイル公よ。わしはつきあいますぞ」

「それは良かった。おぬしとはじっくり話もしたいしな」

 微笑む王の視線が鋭くなる。ガンダルフは、
決して侮れないこの男に微笑み返した。

 

 ほとんどのエルフは宴会に出席していて、王宮は閑散としていた。
アラルゴンは、中庭に出る道を、すぐに見つけた。

 

 王宮の中が居心地が悪いわけではないが、
それでも外の空気を吸うとほっとする。
月は細く、明りは僅かで、夜風は冷たく心地よかった。

 どこからともなく、かすかな歌声が聞える。
広間から漏れてくるのではない。

「街の人間たちは噂をしていた。
夜、森で迷ったときは明りに近寄ってはいけない。
それはエルフの宴会で、その歌声を聞いたものは
深い永遠の眠りに落ちてしまう。
眠り込んだ人間をエルフは連れ去り、
その牢へ永遠に閉じ込めてしまう、と」

 独り言のようにアラルゴンは呟いた。

「この歌声には、そんな魔法がかかっているのかな?」

 中庭の木の上の方で、すっと歌声が止む。

「王宮の奥深く、土牢に閉じ込められたければ、
魔法をかけてあげましょう」

 懐かしい声。

「レゴラス・・・そこに行ってもいいか」

「登れるなら、どうぞ」

 アラゴルンは器用にするすると登っていき、
枝に座って足をぶらつかせているレゴラスの隣まで来た。

「・・・会いたかった」

 素直に告白し、レゴラスの白い頬に触れる。
レゴラスは応えることをためらった。
それでも、逃げはしない。

「迷惑か?」

 レゴラスは悲しげに微笑んで、首を横に振った。

「来ると思っていたよ、エステル」

「約束は果した。俺は全てを捨てて、
お前を連れてここから出て行く」

 本気で言っているのか? レゴラスは笑った。

「人間は、すぐ嘘をつく。
できもしないことを言うものじゃないよ。
アルウェン姫を、愛しているのでしょう? 
そして貴方は人間の王になる」

 今度はアラゴルンが笑った。

「姫の話をどこで?」

「僕の耳は節穴じゃない」

 なぜか、後ろめたさは感じない。
姫に対する思いと、レゴラスに対するそれは違う。

「俺に課せられた荷は重過ぎるな。
もし、王になることができなければ、
俺は何も手にすることはできない。姫さえも。
そこには、俺の生れてきた意味さえなくなる」

「大丈夫、貴方ならできるよ」

「もしできなければ?」

「僕が死ぬまでそばにいてあげよう」

 アラゴルンを見つめるレゴラスの瞳は優しく、
裂け谷でいつも憧れていた、あの色をしていた。

「俺は・・・それでもいい」

「最初から諦めるために、僕がいるんじゃない。
それこそ、この僕さえ失うことになるよ?」

「選択の余地はなし、か」

 アラゴルンは手をのばし、レゴラスの髪に触れ、胸にかき抱いた。