契約

 

 

      遥かなる想い

 

 

 

 時はよどみなく過ぎていく。

 エステルと呼ばれた少年は、いつしか大人への階段を駆け上り、
成人を迎えた。

 今では、彼を幼名で呼ぶものはない。

 彼には、本当の名が与えられ、それに追随する権利が与えられた。

 裂け谷での完全な保護は終りを告げられ、
遠く旅立つ許可が与えられた。

 その年、アラゴルンは養父であるエルロンドの娘、
アルウェン姫と出会い、恋に落ちた。

 それは、王者の恋であった。

 エルロンドはアラゴルンに試練を与えた。

 真にその資格を得るまでは、
結婚の約束をすることさえ許さない、と。

 アラゴルンは、それを承諾した。

 

 そして、数年が過ぎた。

 

 アラゴルンは、エルロンドの双子の息子、
エルラダンとエルロヒアと共に、南を旅していた。
まだ霧ふり山脈を越えたことはない。

 帰路の途中、アラゴルンは二人と別れた。
二人のエルフは父王の命を受け、霧ふり山脈を越えて東に渡り、
アラゴルンは裂け谷である人物と落合うことになっていた。

 

 アラゴルンは、初めて灰色の魔法使いガンダルフと会った。

「わしは初めてではない。
お前が小さな赤ん坊の頃から知っているよ」

 魔法使いは、そう言って笑った。

「しかし、よく成長したものだ。立派な若者になった」

 エルロンドは自慢げに微笑む。
エルロンドは、アラゴルンを自分の息子のように可愛がっている。

「のう、エルロンド」

「困ったくせはあるがな」

 エルロンドの言葉に、ガンダルフは声を上げて笑った。

「完璧な人間などおらんよ。かつての王達しかり、な」

 アラゴルンは、この先ガンダルフと旅路を共にすることを告げられた。
エルラダンとエルロヒアが戻り次第、
アラゴルンとガンダルフは出立する手はずになっていた。

 

 アラゴルンを下がらせた後、
エルロンドとガンダルフは膝を交えた。

「しかしエルロンドよ、闇の森に連れて行くだけなら
お前さんの息子たちだけでも十分役は果せように。
わざわざわしが連れて行かんでも」

「そうもいかないのだよ、ミスランディア」

 エルロンドはガラにもなくため息をつく。

「スランドゥイル公は得体の知れない者をひどく毛嫌いする」

「じゃがイシルドゥアの末裔、
アラルソンの子であることは伝えているのじゃろう?」

「ああ、今息子たちが伝えに行っている」

「なら、それほど問題は・・・」

 ふと気が付いたように、ガンダルフは言葉を止めた。

「・・・最近、スランドゥイル公の子息を館で見かけなくなったが
・・・それと関係があるのか?」

 エルロンドはけだるげに頷いた。

「けんかでもしたのかの」

 冗談めかして言う。

「その程度なら、よかったのだがな」

 意に反して、エルロンドは深くため息をついた。

「息子たちはレゴラスをいたく可愛がっている。
最終的な選択を迫られたら、そちらの肩を持ちかねん」

「それはそれは、困った事態だな」

 それでもガンダルフはあまり真剣に心配をしてはいないようだった。

「闇の森の王族の者が、そこまで見境がないとは思えぬが?」

「・・・勿論、そんなことを望むほど愚かな者ではない。
だが・・・人間の強い感情に引きずられる。弱さからではなく、
その優しさゆえに、だ。アラゴルンは成長した。我娘と恋仲になるほど」

「それはそれは」

 ガンダルフがまた笑う。

「困った『くせ』ですな」

「良いのだ、それは。娘に対してはちゃんと礼儀をわきまえている。
いずれ約束も果そう。娘がそれを望むなら、私に止める権利はない」

「なら、よろしいのではないか?」

「人間の心はひとつではない。わかっておろう?
 悪しきこととわかっていても、誘惑に勝てぬこともある」

「誘惑、かのう」

 ガンダルフは椅子に沈み込んだ。

 ガンダルフは知らない。あのときの「エステル」の燃える瞳を。
まるで、指輪の所有権を主張したかつての彼の祖先のように。
そして、レゴラスの凍るような決意の瞳の色も。

「まあよいわ。その役、引き受けよう。
アラゴルンという男を試してみたい気もするしのう」

 

 しばらくして、黒髪の息子たちは帰って来た。

 何の問題もなく。

 

 その夜、エルラダンとエルロヒアは、アラゴルンを自室に呼んだ。

「明日にでもガンダルフと旅立つのだって?」

「行先は聞いているのか?」

 代わる代わる質問され、アラゴルンは口元をつり上げた。

「・・・霧ふり山脈を越える、ということだけ」

「闇の森へ行くことは聞かされてないのか」

 闇の森。その言葉に心臓がはね上がる。

 エルラダンもエルロヒアも、エルロンドに良く似ている。
その瞳の前に据えられると、心の奥底まで見透かされているようで
居たたまれなくなる。

「何故、闇の森へ?」

「スランドゥイル公へのお目通りだ。アラルソンの息子アラルゴン、
イシルドゥアの末裔として」

 この日が来ることを、待ち望んでいたのか、それとも恐れていたのか。

 エルラダンとエルロヒアは互いに耳打してにやりと笑った。
心のうちを感づかれていることはわかっている。
アラルゴンはあえて話題をそらした。

「ロリアンへは? まだ行っていないが、紹介はしてもらえないのか?」

「ロリアンの奥方はなんでもお見通しだ。
今更のこのこ訪ねなくても、時が来れば機会は訪れる。それに」

 エルロヒアの言葉を、エルラダンが続ける。

「いとしの妹君が匿われているからな。
もうしばらくは会わせてもらえないだろう」

 人間の分際で、エルフの姫に求婚するなど、大それたことだ。
それでもアラゴルンは、そのことを後悔はしていないし、
いつか認められる自信があった。

 そう、彼女のために待つことなど、苦ではない。

「まあ、まずは闇の森だ。行けばたぶん驚くだろう。
ここのように恵まれた地ではないからな」

「ああ、なんといっても蜘蛛が多い!」

 二人が目配せして、また笑う。

「闇の森のエルフは陽気だが気が短い。
よそ者は信用しないし、すぐ土牢に閉じ込める」

「スランドゥイル公もたいした変り者だ。
ぶどう酒ときらきら輝く宝石が好き」

「年中宴会を開いているし。春が来たといっては宴を開き、
秋の芳情を祝ってまた宴を開く」

「真暗な森の中に、歌声の響かぬときはない」

 二人の言葉に、アラゴルンは眉根を寄せた。

「だが侮るな、アラゴルン。彼らはエルフの中でも
もっとも優秀な弓の腕を持っている。決して怒らせてはいけない」

 何と答えてよいのかわからないでいるアラゴルンに、
二人はまた目配せしてくすくすと笑った。

「その闇の森の王子から与り物をしてきた」

 エルロヒアが、手の中から小さな宝石を取りだした。
それを困惑するアラゴルンの手のひらに乗せる。

 ほんの指先ほどの小さな石だが、
これほど美しい石をアラゴルンは見たことがなかった。
表面は艶やかに磨き込まれ、その色は淡い蒼とも緑ともとれた。
光にすかせば、角度によって違った色に見える。

「くれぐれも、誰にも見せないように。
ガンダルフにも、勿論父にもだ」

 二人は石の意味を知っているのだろう。神妙な面持になる
。アラゴルンは、石を眺めながらかの人物の瞳の色を思い出していた。
切ないほどに。

「お二人がお父上に秘密をもたれるとは知りませんでしたよ」

 皮肉をこめた口調に、二人は顔を見合わせて笑う。

「・・・そうだな、私たちはレゴラス王子を気に入っている。
可愛がっていると言った方が正しいかな。
王子が君を可愛がっているようにね」

 

 王子が始めて谷を訪れたのは、ずいぶんと前の話だ。

 エルロヒアは、そう話を始めた。

 その頃、スランドゥイルとエルロンドは長いこと袂を分っていた。
懐柔策に出たのはスランドゥイルの方で、それには理由があった。
闇の森の南に居を構えた悪しき死人占師が勢力を広げてきたからだ。

 国交をとり戻すために、公は十数人からなる使節団を送ってよこした。

 その中に、まだ成人してもいない、幼き王子が含まれていた。

「私が貴方たちを拒絶したなら、
幼き王子は人質として差出されるおつもりなのかな」

 警戒し、嫌みをこめたエルロンドの言葉に、
使節団の血気盛んな戦士は言った。

「もしそのようなことになれば、
我々は命に代えても王子をお守りするよう言付かっている」

 その者は剣を抜き、他の者達は弓を構えた。

 が、それを止めたのは誰でもない王子自身であった。

「武器を収めなさい」

 幼さの残る表情に、鋭い視線で王子は戦士たちを一括した。

「私たちは戦争をしに来たのではありません」

 そして、事もあろうに、幼き王子はエルロンドの前に跪いたのだ。

「ご無礼をお許しください。
私はスランドゥイルの息子、レゴラス。
裂け谷の王エルロンド殿に、ぜひお力添えを頂きたく参上いたしました」

 それは、王族のものの持つ威厳であった。

 エルロンドは彼らを信用することとし、館に招き入れた。

 

「父や私たちがレゴラスを気に入ったのは、
それだけが理由じゃない」

 エルラダンは続けた。

 

 しばらく滞在していた折、
レゴラスは館の中を自由に歩き回る許可を与えられ、
美しい谷の水辺に案内されたときのことだ。

 厳しい表情が、まるで日に溶けるように消え去った。
たぶん、彼本来の表情なのだろう。満面に浮ぶ笑みは、
新緑の木の葉を思わせた。

「すごい、きれい!」

 すぐに走りだし、水の中にばしゃばしゃと入り込んだ。

「僕の森にも、こんなにきれいな所があったらよかったのに!」

 エルロンドはつられて笑みをこぼしたほどだ。

「あまり走り回るな」

「蜘蛛が出ても大丈夫だよ」

「蜘蛛など、ここでは出ない」

「オークだって怖くはない」

 金色の髪に、水しぶきが宝石のように輝く。
臆面もなく、レゴラスは谷の王に笑いかけた。

「王子は怖いものがないのだな」

 嬉しそうに、くすくすと笑う。

「分らない。父上はあまり僕を王宮の外に出してはくれないもの」

 よほど大切にされているのだろうな。
さしずめ、宝の宝石のひとつと言うところか。
はしゃぎすぎて、レゴラスが足を滑らす。
エルロンドは腕をのばして王子の軽い身体を抱き寄せた。
レゴラスはまっすぐにエルロンドを見つめ、真顔で言った。

「髪に・・・触ってもいいですか?」

「髪?」

「はい。黒髪のエルフを見るのははじめてなもので」

 それがどれだけ不躾な要求であるか。
それでもエルロンドが承諾すると、
レゴラスはまるで小鳥の羽にでも触れるようにその髪を撫で、
うっとりと目を細めた。

 エルラダンとエルロヒアはたまたまそこに居合せていた。
幼きものを愛でる父を見るのも久しかったし、
これほど無邪気なエルフを見るのも珍しかった。

 強い意志をもつ王の息子は、天性の無邪気さを備えていた。

 そしてそれは、美しく輝いて見えた。

 

 双子の話す昔話に、アラゴルンは驚いたように息を詰めて聞いていた。

 そんな頃があったのかと想う反面、
その無邪気さは今でも失われていないことに気付く。

(ほら、エステル、ごらん、つぐみの雛が親を呼んでいる。

 エステル、ヒースの花が咲くところだよ。

 エステル、風が温かいよ。

 こっちへ来てごらん・・・エステル・・・)

 あの無邪気な瞳を、・・・自分だけに向けさせることができれば、
他の何もいらないとさえ思った。自分だけのものにしたかった。

 

 たとえ過ちだとしても。

 たとえ罪だとしても。

 

「私たちにとっては、レゴラスはいつまでも幼き王子のままなのさ。
だから、小さな秘密の片棒くらい担いでやろうと思ってね。
だが、私たちにできるのはこれだけだ」

「石の意味を考えれば、十分すぎる秘密だとは思うけどね」

 石の意味? 

 アラゴルンは我に返ってそれを問うた。
だが、エルロンドの双子の息子たちは答えてはくれなかった。

「直接聞けばいい。もうすぐ会える」

 会える。

 もうすぐ・・・会える。

「アラゴルン、忠告しておくが、馬鹿な真似はするなよ。
エルロンドがガンダルフを付き沿わせるのには理由がある。
常に監視されていると思いなさい。お前にも、レゴラスにも」

 監視の目など、恐れはしない。

 

 そうだ、会えるのだ。

 

 アラゴルンは石を握り締めて二人の部屋を出た。

 

 会えるのだ。もうすぐ。

 

 翌日、アラゴルンは魔法使いと共に裂け谷を出た。

 闇の森に向って。