契約

 

 

 

 

 エルフの谷は、居心地がいいと皆が言う。

 だが、本当にそうだろうか?

 安穏とした日々に、時折苛立ちを感じる。

 

 自分は、エルフではないのだ。

 

 物心がついた頃から、この谷にいる。それがあたりまえの生活の
はずなのに、時折違和感を感じるようになったのは、自分がそれだ
け成長したからなのだろう。

 ヌメノールのドゥナダンが、時々彼を訪ねてくる。

 自分は、そちらの種族に属している。

 失われた王族の末裔。

 そんな言葉は聞き飽きた。

 誰もが彼を特別だと言う。

 王宮さえ持たない彼らが、日々荒野で戦い続けているというのに
・・・自分はこの谷で守られている。

 何故?

 それは、彼が特別な存在だからだ。

 

 谷のエルフも、ドゥネダインも、彼を「希望」と呼ぶ。

 

 それでも、この独特の苛立ちは、彼が人間ゆえのものなのだろう。

 そして、その苛立ちをエルフたちは理解してくれない。

 

 欲望は、悪しきことなのか・・・・?

 

 

 

 谷を見下ろすポーチでエルロンドの蔵書のひとつを何気なく開いて
いたアラゴルンは、来客の知らせを受けた。

 それこそ、幼き頃からの憧れの君。

 それを恋と呼ぶことを誰も教えてくれないし、認めてもくれない。

 誰にも教わらなくても、本能が教えてくれることがある。

 

 彼が好きだ。

 

 人間特有の欲望で、いつしか彼が欲しいと願うようになっていた。

 自分の汚れた感情に寒気がすることもある。それだけ、ここの連中
は清純な生物だ。

 

 でも、自分は違う。

 エルフではない。

 

 エルロンドに謁見を終えた彼を廊下で待つ。

 一年ぶりの彼は、少しも損うことなく美しい。エルフは全て美しい
生物ではあるが、闇の森の一族は特に秀でていると言われている。

「レゴラス」

 声をかけると、彼は振り向き、笑う。

「大きくなったね、エステル」

 会うたびに言う。大きくなった、と。人間と接する機会の少ない
彼らには、人間の成長の速さは驚きなのだろう。

 ゆっくりと歩み寄り、挨拶がわりに軽く抱しめられる。彼の髪は
森の匂いがする。幼少の頃はよく抱き上げてくれ、谷を森を散策し
たものだ。その頃彼は大きくて、力強い存在に思えた。

 しかし成長期の只中にあるアラゴルンの目に、今の彼は細くて
繊細に見える。

 逆に抱き上げることも簡単だろう。

 そこまで自分は成長してしまったのだ。

 

 今回に限って、何故こんなに違和感を感じるのだろう?

 昔のように、彼に会えてただ「うれしい」と思えない。

 胸のわだかまりが、出口を求めて騒ぎ出す。

「どうしたんだい? 浮かない顔をしているね。悩みでもあるの?」

 穏かな声が問う。

「・・・別に」

 昔からするように、彼はアラゴルンの額にそっと唇を押し当てた。

「僕は食堂に行くけど、一緒に来る?」

 食事の時間は決められているが、遠方からの来客のために、
軽い食事を用意してくれたのだという。

「いや、いい。まだ本を読みかけているんだ」

 苦笑いをして言うと、彼はちょっと残念そうに首をかしげた。

 彼の誘いを断ったのは、多分これがはじめてだ。いつだって、
ただ一緒にいることを切望していたから。

「大人になったね」

 からかうように言って、彼は金糸をなびかせて食堂に向った。

 そんな後姿でさえ、麗しいと思う。

 緑葉と呼ばれる彼の美しさは、静寂の中にはない。木漏れ日に
輝く新緑の美しさは、日に当ってこそ、風にゆれてこそ増すもの
なのだから。

 

 

 

 別に本を読みたかったわけではない。むしろ、古い歴史には飽
き飽きしていた。本を閉じ、視線を風の中に泳がす。館の中は熟
知している。どこの部屋も外に向って窓があり、新鮮な空気をた
くさん取り込めるように大きく開け放ってある。

 どの廊下から、どの部屋を盗み見れるかも知っている。盗み見
ることが目的ではなかったが、どこからどんな景色が望めるのか、
ありとあらゆる方法を試したことがある。人並外れた好奇心と観
察力は持前のものだ。

 ふと思い立って廊下を移動し、食堂の窓が見られる場所に行っ
てみる。食堂の窓は特に大きく、どこからでも眺めることが出来る。
だが、この斜め上からの位置は、下からは柱が邪魔になって見えない。

 ごく簡単な食べ物と飲物を並べ、それにたいして手もつけずに
レゴラスは誰かと談笑していた。

 相手は誰なのか、見なくてもわかる。アラゴルンの養父であり、
この館の主人だ。

 見つめるともなく眺めていると、不意にレゴラスが振り向いて目
が合った。とっさに柱の影に隠れ、別に疚しいことをしているわけ
ではないのに隠れてしまう自分に戸惑いを感じる。向うからは見え
ないはずなのに・・・・。

 自分の感情を理解しきれず、柱にもたれて眼を閉じていると、
ふわりとした風が吹いてきて、頬に冷たいものを感じた。目を開けると、
そこににこやかにレゴラスが立っており、よく冷えたグラスをアラゴルン
の頬に押し当てている。

「・・・どうやって、ここまで?」

「森のエルフはね、梢を渡るのがうまいんだ」

 細い木の枝を伝って、こんな上まで音もなくあっという間に移動して
きたというのか。一瞬子供に戻って感嘆の声を上げる。レゴラスはうれ
しそうにニコニコと笑っている。すまして大人ぶっているより、そんな
素直な彼の姿の方が好きなのだ。それから魔法のように手の中から小さ
な焼き菓子を取りだして、アラゴルンの口元に差出す。

「いらないよ」

「おなかが空いているんじゃないの? もの欲しそうに見てたから」

 そんなことまで見透かされて、急に恥かしくなって視線を落す。

 欲しいのは食べ物じゃない。

「僕は戻るよ、館主を置いてきてしまったから」

 焼き菓子のかけらとグラスをアラゴルンの手に押しつけて、レゴラス
はひらりと窓から飛び降りた。その動作を思わず目で追ってしまう。
まるで木の葉が舞うようにひらひらと降りていく。その先は・・・・・。

 見なければよかったと、アラゴルンは目を閉じた。

 食堂の窓辺で、迎える館主の腕の中にレゴラスは舞い降りた。

 愛しい小鳥を迎え入れるように、エルロンドはレゴラスの細い身体
を受けとめて、奥の影へと入っていった。エルロンドは一瞬アラゴル
ンを見上げ、ほくそえんだように思えた。

無言で彼は、一片の木の葉の所有権を見せ付けているようだった。

嫌いではない。尊敬もしている。だが偉大すぎる養父に、アラゴルン
は時折嫉妬する。

アラゴルンが憧れ求めているものを、彼は所有している。

 

アラゴルンは、本が置きっぱなしになっているポーチに戻っていった。

 

 

 

会えない時間に感じることのない欲望を、アラゴルンはかみしめてい
た。自室のベッドの上で、何度も寝返りを打つ。

同じ館の中にいる、たったそれだけのことが彼を興奮させる。

手をのばせば届くところにいる。

あの美しい黄金色の髪も、白くて細い指先も。肩から背中にかけての
滑らかな曲線。ひきしまった腰とそれに続くすらりと長い足。そんな
シルエットに、今始めて気付いたような興奮を覚える。

 

彼が欲しい。

 

それがたとえ背徳行為でさえも。

 

己の欲望に打ち勝てるほど、まだ大人になりきっていない。押えれば
押えるほど、欲望は大きく膨らんでいき、心の全てを支配する。

静かなノック音がして、アラゴルンは体を起した。音も立てずに入っ
てきた人物を見て、一瞬ぎくりと身体を強張らせる。

「散歩にでも誘おうと思って」

 緩やかな微笑み。彼の気遣いが見える。旅装束から着替えた彼は、
薄い純白のシャツを着ている。素肌まで透けそうな、薄い服。

「・・・ああ、行く」

 

 

 

 レゴラスとの森の散策は、好きだ。

 小さな花、萌出たばかりの木の芽、高い梢から聞える小鳥のさえず
り。それらの一つ一つに目を止め、足を留め、耳を傾ける。

「ほら、エステル、ごらん、つぐみの雛だ」

「どこに?」

「よく見てごらん、あの梢、巣があるだろう? 卵から孵ったばかり
だよ、親鳥を呼んでる」

 そんな何気ない会話。

 午後の日ざしは暖かく、風が心地よい。

 

 そして何より、彼の歌声。

 

 いつも静かに口ずさんでいる。エルフの唄は森の囁きのようだ。
耳に心地よく、心を静める。

 それでも今日は、彼の歌声さえアラゴルンのあらぶる心底を落着か
せはしなかった。むしろ、欲情を逆なでする。

「何か、困ったことでもあるのかい?」

「なんで・・・そう思う?」

「いつもと違う」

 いつもと違う・・・? いつもとは、いったい何時の「いつも」
だというのだろう? 遥か昔の幼年時代か? 与えられた環境に満
足し、甘えていた子供時代の。

「ああ・・・」

 木立にたたずみ、澄んだ空を見上げる。

 静かだ。

「困ったことがあるんだ。・・・そう、とても困っている」

 傍らに立つレゴラスは、自分よりずっと小さく思えた。身長はか
わらないのに、体の肉付きが違う。むしろ、アラゴルンよりずっと
少年っぽい。

「レゴラス」

 思いのほとばしる熱い視線を彼に向ける。思いがけない大人びた
表情に、レゴラスもひるんだように見える。

 彼にとって、自分はいつまでも「小さなエステル」なのだ。エル
フが百年かかる成長を、人間は十年でなし遂げてしまう。それこそ、
あっという間に。

「愛してる」

 自分でも驚くほど、その言葉はさらりと口をついて出る。歌を口
ずさむことを止めたレゴラスが、じっとアラゴルンの瞳を見つめる。
その真意を探るように。それから、子供に向けるような笑みで
「僕もだよ」と言ってみせる。

「本気だ」

「冗談のつもりはないけど」

 その先の言葉を、アラゴルンは聞いていなかったし、レゴラスも
続けることは出来なかった。

 唐突に、その細い身体をひき寄せ、唇を重ねたのだ。

 一歩、レゴラスは身を引き、身体を離した。

「どこでそんなことを・・・・」

 覚えたのか、と聞きかける。が、その言葉もアラゴルンの唇に
吸い取られる。小さくもがく身体を羽交い絞めにして、地面に押
倒す。驚くほど軽くて、あっけなくアラゴルンの腕に落ちる。落
葉の上に横たわるレゴラスに覆い被さるようにじっとその身体を
見つめる。そしてやおらその白いシャツのボタンを外しにかかる。
レゴラスはそっとアラゴルンの手に自分の手を重ね、拒絶を表す。

「やめなさい。悪戯が過ぎる」

 落着いた声。少し悲しげな瞳の色。何も言わず、アラゴルンは
またレゴラスの唇を吸った。そして、乱暴なくらい強引にその服
を脱がす。

「・・・エステル!」

 抵抗しようとする手を難なく掴んで地面に押付け、唇から喉も
とを通って胸に唇を這わす。

 腕の中で、レゴラスは小さく喘いだ。

 もはや欲情の波は止められない。

 本能の命ずるまま、その白く滑らかな肌を愛撫する。薄い肌は、
軽く吸い上げるだけで朱色の痕を残した。

「エステル!」

 喘ぎながら、彼がまたその名を呼ぶ。それさえ無視して、アラ
ゴルンは欲望のままに彼を求めた。彼の肌の感触は、ぞっとする
ほど心地よい。全ての衣服を取り去り、全身にキスをする。その
たび、レゴラスは唇をかみ締め、声を押し殺した。

 彼の引きしまった腰に手をまわすと、レゴラスの身体は小さく
はねた。

 怯えているのか。

 逃れようとする身体を引戻し、ひざを割る。

「や・・・やめなさい!」

 上ずる命令口調に、顔を上げたアラゴルンは、冷やかに言った。

「やめない」

 彼の体内に侵入を試みる。レゴラスはのけぞって両手でアラゴ
ルンの身体を押し戻そうとする。

 彼の細い手が、震えているのがわかる。

 それでも思い切って欲望をねじ込むと、レゴラスの薄い唇から
か細い悲鳴があがった。

 アラゴルンの額を、汗が流れ落ちる。

「・・・痛い・・・」

 硬く目を閉じ、喘ぐ姿に欲情は留まりを知らない。

「レゴラス」

 愛していると呟き、彼の耳を甘噛みする。レゴラスの手が、
アラゴルンの肩口を掴んで爪を立てた。

「!」

 そこに痛みが走り、一瞬動きを止める。レゴラスの爪が食い
込んだ肩から、血が滲み出している。苦痛に顔をゆがめながら、
うっすらと目を開けたレゴラスと視線が絡む。

「俺を・・・引裂け。それでも俺はやめない!」

 再び情熱を注ぎ込んでくるアラゴルンに、レゴラスはまた目を
閉じてうめいた。その唇からは血の気が失せ、陵辱される痛みに
押し殺した悲鳴をあげる。

 アラゴルンは気付いていた。それでもレゴラスは彼を受け入れ
る事が出来る事実を。彼の体内を犯すのは、自分が初めてではな
いのだと。

「痛い・・・」

 苦痛を訴える唇を吸い、なおも激しく抱すくめる。

 

 世界が終っても、後悔はしない。

 

 アラゴルンは、若い欲情の全てを、この美しいエルフの中に
注ぎ込んだ。

 

 

 

 

 どれくらいそうしていただろう? 日は西に傾きかけている。

 枯草の上でうずくまっていたアラゴルンは、顔を上げて横た
わるエルフの四肢を見た。無謀な愛欲の痕が色濃く残っている。
白い肌は汚され、乱れた髪は枯草にまみれている。

「・・・レゴラス・・・」

 そっと名を呼んでみるが反応はない。

 ドクン、と心臓が音を立てる。

 自分は、何をしてしまったのだろう?

 本当にこんなことを望んでいたのか?

 いつも歌を口ずさんでいた唇が、わずかに開いたまま何の
メロディも奏でない。

 

 いったい、何をしてしまったのだろう・・・?

 

 そっと顔を寄せ覗き込むと、レゴラスは潤む瞳を開けて
アラゴルンを見た。

「・・・レ」

  言いかけて言葉に詰る。レゴラスはゆっくりと身体を起し、
髪についた枯葉を払った。

「・・・アラゴルン、満足した?」

 驚くほど優しげな声色。レゴラスはまっすぐにアラゴルンの
瞳を見つめている。

 何の非難も口にせず。

「・・・俺は・・・」

「満足かい?」

 わずかに微笑む。その表情は、アラゴルンの胸に鋭いナイフをつき立てた。

 

 満足・・・? 

 

 こんなことを望んでいたのか? 激しく心がかき乱され、
自分の服を手早く着込んで、アラゴルンは森を走出た。

 逃げるように。

 

 一人残されたレゴラスは、捨てられた自分の服を引き寄せ、
空を見上げた。それからひざを抱き、顔をうずめた。

 頬を濡らす涙の落ちるままに。    

 






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  今までと別シリーズの話のため、背景を変えてみました。
 とはいっても、どこかからきれいな背景を持ってくる技術は
 ないため、真白です。

  ちなみに続きます。(赤面)