ボロミアは、眠れぬ夜を過していた。

 もう何日も(何年も)ここにいるような気がする。

 

 静かな葉擦れの音がして、
フレトの端からエルフが顔を覗かせた。

「レ・・・・」

 言葉を出す前に、レゴラスは指を立てた。
ボロミアの隣では、ギムリが眠っている。
アラゴルンは、よくある事だが姿をくらませていた。

 レゴラスはにっこりと笑って手招きをする。
静かに下りて来いと言うことか。

 ボロミアは、レゴラスの後についてフレトを降りていった。

 

 連れて行かれたのは、木立を過ぎた小さな草地だった。

「何か?」

「そうつれない言い方をしなくてもよいでしょう?」

 そう言われても、他に言葉が見つかるわけでもない。
戸惑うボロミアに、レゴラスは座るよう促した。

「たぶん、明日発つ事になるでしょう」

「急だな」

「そんなものですよ。みんな疲れも癒えたようですし。
そうそう長居もしていられません」

 それはそうだ。むしろ、早く出発してくれた方が、
自分としては喜ばしい。

「それはそうと、結局貴方にエルフを好きになっては
もらえませんでしたね。ドワーフの心は誘惑できたのですけど」

「誘惑?」

「ギムリはエルフを見直したと言ってくれました」

 そういう意味か。ボロミアは苦笑する。
ドワーフも、エルフ同様異性に対する欲望を
ほとんど持たない種族と聞く。
醜い性欲を抱えているのは人間のみか。

 ボロミアは自分の感情を処理しきれないでいた。
不可解な感情を。

 女になど、興味はない。ましてや・・・。

「で、俺を誘惑しに来たのか」

 冗談めかして言ってみる。
案の定、レゴラスはくすくす笑いながら
「そうだ」と肯定した。

「別の誘惑なら、乗せられてもいいが?」

 自分でも、何故そんなことを言ったのか
・・・過ぎたる冗談か、それとも本心か。

 ボロミアは隣に座るレゴラスに顔を寄せた。

 レゴラスはじっとボロミアを見つめたまま、
戸惑いのそぶりさえ見せない。

「どんな誘惑なら?」

 さらりと、そんな言葉まで吐きだす。

 たぶん、ボロミアにもっと女性経験があったら、
それが「誘い」の台詞だと気付いただろう。
結局戸惑いを見せたのはボロミアの方だった。

「いや・・・なんでも、ない」

「貴方は面白い。じゃあ、私からお願いしてもいい?」

「・・・何を・・・?」

「武装していない貴方を見てみたい」

「それは無理だ。他の服は持ってきていない」

「無理じゃないですよ、その服を脱げばいいだけですから」

 そう言いながら、ボロミアの上着の金具を外しにかかる。

「レゴラス殿・・・?」

 不思議な笑みに吸い込まれる。
困惑して動けないボロミアの、胸をはだけさせて
レゴラスはそこに触れた。

「人間は、美しい肉体をしていると思います。
鍛えられた身体は、私は結構好きですよ。
エルフは、決してこんな筋肉は持ちえませんからね」

 言われてみれば、エルフは誰もほっそりとしている。
レゴラスの弓の腕は何度も見たが、この細い体のどこに
あのような力が隠されているのか、いまだになぞである。

「それに・・・熱い」

 はっと我に返ったボロミアは、身を引いて上着を引き寄せた。

「からかうのはいいかげんにしてもらいたい!」

「からかうだなんて、そんな」

 相変わらずレゴラスは微笑んだまま、
己のシャツにも手をかけた。

「なんなら、私の身体も見ます?」

「けっこう。そういう冗談は好きではない」

 ボロミアの反応がよほどおかしいのか、
レゴラスはしばらく笑っていた。

「ボロミア、貴方は戦乱の世に生れ、
戦うことしか知らない」

「それが? お説教などは聞きたくはないぞ」

「ちがいます」

 レゴラスは笑うのをやめ、憂いだ瞳で月を見上げた。

「私も、そうなのです。私の国、・・・父が王国を築いた頃、
あの森は闇の森ではなく緑森と呼ばれていたそうです。
魔の者が力を増す前の話です。
私は、故郷の本当の美しさを知りません。
私は闇の中で生れ、戦い続けることを教わりました」

 それから、蒼い瞳をボロミアに向ける。

「故国を思うのは貴方だけではありません。
もし指輪を葬ることができなければ
・・・遅からず私の国も襲撃を受けるでしょう。
もちろん、そんなに簡単に落されはしません。
でも・・・サウロンがあの指輪を取り戻したら
・・・やがては」

 ボロミアもレゴラスを見た。

「お主らはエルフだ。人間とは違う」

「・・・こう言ったらわかってもらえますか? 
私の父王は、ガラドリエルの奥方やエルロンド卿のような
強い力は持っていません。
たぶん、最初に落されるのは私の国でしょう。
現に、ガラドリエル様の住まうロリアンの地は
これほどまでに美しく、私の森は闇と化しています」

 ぎゅっと心臓が縮む。

 なら、尚更・・・。

 ボロミアの次の言葉を先回りして、
レゴラスはボロミアの胸に触れた。

「悪しき力の指輪を葬り、私たちは希望を手に入れる」

「レゴラス・・・」

「大丈夫。きっとできる」

 そして・・・そっと唇を重ねた。

 ボロミアが驚いて目を見開くと、
すばやく身体を離したレゴラスがクスリと笑った。

「私は恋愛感情は持ちあわせていません。
ただ、強い者に憧れるのです」

 そう言って、大きなボロミアの手を取る。

「貴方の腕は、私を安心させてくれますか?」

「・・・わからぬ」

 ボロミアの手を頬に当て、レゴラスは微笑んだ。

「もっと自信を持ちなさい。自分の腕に。
・・・・さあ、帰って眠りましょう。
子守唄が必要ですか?」

 ボロミアは苦笑いを見せた。

「用はそれだけか?」

「他に何かお望みですか?」

 ほんの少しの励ましの言葉。
たったそれだけのために、
レゴラスはここに連れて来たのか。

 ボロミアは逆にレゴラスの手を取り、
己の唇に押し当てた。

「・・・冷たい手をしている」

「人間の体温が高いのでしょう。
胸の内に秘める情熱とともに」

 情熱。エルフは、激しい情動を持たないのか?
 たとえば、誰かを愛するような。

「お主は、風のようだな。それ自身は熱を持たぬのに、
冷たくも暖かくも感じる。知らぬ間にそばにいると思えば、
次の瞬間には遠く離れている」

「つかみようがない、と?」

 ボロミアの曖昧な笑みは、それを肯定していた。

「私はここにいます。触れることもできるし、
感情だってありますよ。貴方が望むなら、
一晩中そばにいてもいい」

「それで子守唄を歌う、か?」

 握った手を離せない自分を、もどかしく思う。
何を求めているのか? 何を期待しているのか・・・。

「訂正しよう。風ではなく、森の木々だな」

 たくさんの恵みを人に与え続け、
なんの見返りも求めない、木。
その木陰で眠ることの心地よさは、何ものにも変えがたい。

「お主は恋愛感情は持たぬと言ったな。
それを向けられたら、どうする?」

 少しだけ考えるようにレゴラスは目を細め、
それからまた微笑んだ。

「好かれるのは、好きです」

「・・・キスを・・・してもよろしいか?」

 答える代りに、レゴラスはゆっくりと顔を近づけ、
また唇を重ねた。

 

 夜風が梢の葉をさらい、心地よい音を立てる。

 静かで、安らかな、夜。

 月の光は人の心を惑わし、つまらぬ意地を透かしてしまう。

 闇に抱かれ、心安らぐ。

 こんな夜なら、明けぬともよい。

 そんな愚かな願望さえもってしまう。

 

「ボロミア・・・?」

 触れるほど近くで、彼を見つめていたレゴラスは、
人間の男の熱に触れた。

「・・・日の光の下で、お主に触れられたらと思う」

「旅が終ったら」

「許されるか?」

「許します」

 二人はそっと身体を離した。

「その時、告白しよう」

 レゴラスは微笑んだ。

 瞳が煌くのは、潤んでいるから。

 哀しくて、哀しくて、

 このまま明けぬ夜を望んでしまう。

「その時までに・・・恋愛感情ってものを
私も学んでおきましょう」

 笑いながら立ちあがり、
レゴラスはボロミアに手を差しのべた。

「でも、エルフと違って人間には寿命ってものが
ありますからね。私も急がないといけないかもしれない」

「・・・そうか。お主は死なぬ運命の者であったな」

「私がちょっと目を離した隙に、
小さな子供だったアラゴルンはあんなに
大きくなってしまった。・・・だから、
次の約束はしないことにします。
だって、私がちょっと目を離した隙に、貴方は
よぼよぼのお爺さんになってしまうかもしれないでしょう?」

 ボロミアも声を出して笑った。
エルフと人間では、流れる時間の早さが違う。

「では、よぼよぼの爺さんになる前に告白してしまおう」

 月の光の溢れる草原の上で、
ボロミアはレゴラスの手を取った。

「お主を好きだと思う。
だが己のものにしようなどとは思わぬ。
出会えた事を誇りに思う。
いつか俺の命の尽きた後でも、俺の愛する地を、
愛してもらえたら・・・それで十分だ」

「約束しましょう。貴方の愛する地を、私も愛すると。
エルフの時間の中で、永遠に。
限りある命のものに愛を奉げる事はできないけれど、
私も貴方に会えたことを誇りに思います」

「いつか俺が死んだとき、・・・悲しまないで欲しい。
俺はお主の笑顔が好きだ。俺の想いは祖国と共にある」

「・・・約束しましょう」

 誓いの握手を硬く交し、もう一度だけ抱擁する。

「帰って眠ろう。また辛い旅が始るのだから。
子守唄は必要ない。エルフが俺の国を守ってくれると思えば、
それが安らぎになる」

「貴方は・・・」

 本当に純粋で、欲のない人間だ。
今なら、エルフの肉体を手に入れることもできるのに。
レゴラスは跪き、ボロミアの手に口づけした。

「お強い人ですね」

 その後は言葉もないまま、二人は寝場所に戻った。

 

 

 

 

 出発の時。

 

 船に乗りこむ前に、レゴラスはそっとアラゴルンに耳打した。

「泣かないよ。ボロミアと約束したから」

 アラゴルンがレゴラスを見る。
レゴラスは、いつもの屈託ない笑みをしていた。

 アラゴルンは、唇をつり上げて見せた。

 

 これからの旅は、もっと辛くなるだろう。

 だがお前がそうやって笑っていてくれれば、

 俺も、何も恐れず強くいられる。

 

 レゴラスは一度深く笑んで、
仲間のところに走っていった。

「ギムリ、手伝うよ。
ねえ、でも、ギムリとボロミア、どっちが重いかな?」

「何を言い出すかと思えば」

 レゴラスの軽口にギムリが肩を落す。
すかさずメリーとピピンがあっちだこっちだと騒ぎ出す。

「馳夫さん」

 フロドはアラゴルンの袖口を引張った。

「レゴラスさんって・・・」

 本当は一番みんなに気を使っているのかもしれない。
フロドが何か言い出す前に、アラゴルンは笑って見せた。

「口は悪いが、いい奴だ。信用していい」

 考え深げにフロドも笑い返す。

「アラゴルン、小さい人を落しちゃダメだよ! 
泳げないかもしれないから」

 遠くでレゴラスが手を振る。

「大丈夫、ぼく泳げます!」

 答えるフロドの隣で、サムが身震いする。

「おらは泳げません」

 誰もが笑い、和やかな雰囲気を作る。

 アラゴルンはボロミアを見た。
メリーやピピンと笑い合っている。

 

 どうか、少しでもこの時間が長く続きますように。

 誰もがこれから待ちうける苦難を胸に抱きながら願った。

 もう誰も、失いたくない。

 

 それが叶わぬことと知りながら。 






















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 原作読み返しもせずに、書きあげてしまいました。
だいぶオリジナルです。すみません。
 なんかすごく内記らしい話・・・。
こういう救いようのない哀しい話、書くのは好きだけど、
絶対読者側に回りたくないよう・・。
他の人の書いた話だったら、即効封印モノだね。
アラゴルン老衰エピソードとか、哀しくて読みたくないもん。
(すげーわがまま。自分でも書こうとか思ってるくせに)
 ごめんなさい。封印してください(泣)