マルローン樹の黄金色の葉の下で、
ボロミアは一人想いにふけっていた。

 美しすぎる森は、
血の匂いの染付いたこの身体には似合わない。

 どうしようもない憧れと、居たたまれなさ。

 何故?

 分っている。自分は怖いのだ。

 ガラドリエルという奥方が。

 

「暇そうだですね」

 顔を上げると、レゴラスがにこやかに立っている。
このエルフは、この森に来てから旅の仲間と行動を
共にすることが極端に少なくなった。あたりまえか。
もし自分でも、己の国、あるいは己の種族の住まう地に
帰りついたら、仲間と別行動を取るだろう。

「・・・」

 応える言葉もないまま、美しいエルフの
端正な顔を見つめる。レゴラスはボロミアのそばに
腰をおろした。

「何か?」

「別に。暇そうだから、
話相手にでもなろうかと思いまして」

 子供扱いされているのか。ボロミアが顔をしかめる。

「真面目すぎるみたいですね、貴方は」

「・・・そうか?」

「ええ。ホビット達といるときは楽しそうだけど。
私にはあんな表情見せてくれないんですね?」

 レゴラスの言葉に、顔が熱くなって背ける。
レゴラスはそんなボロミアにくすくすと笑った。

「本当は・・・何の用なのだ?」

 小首をかしげ、小鳥が人間の心を読もうとするように、
レゴラスはボロミアを見つめ、そして視線を外して
美しい黄金色の木々を見上げた。

「・・・ボロミア、何か心配事でも?」 

 このエルフは、何故そのようなことを尋ねるのだろう?

「お主には関係のないこと」

「冷たいね」

 冷たくあしらってしまう事に、胸の痛みを感じる。

「何故私にかまう?」

「好きだからですよ」

 どくん、と心臓が波打つ。わかっている。
このエルフの「好き」と言う言葉には他意はなく、
メリーやピピンの「好き」という言葉と
同じなのだと言うことが。

「アラゴルンは別としても、
この森は本来人間の入るべき所ではありません。
げんに貴方は、ここに来ることをずっと
嫌がっていたじゃないですか。
今でもその気持は変らないのでしょう?」

「・・・まあ、な。エルフと言う種族は、
私とは相性が悪いようだ。
特にあの奥方は・・・私には恐ろしい。
エルフとは皆ああなのか?」

 レゴラスは、ボロミアの手を握って
じっと瞳を覗き込んだ。

「ボロミア、私の目をみてください」

 顔を背けようとするボロミアの頬に触れ、
自分の方を向かせる。

「私を見てください」

 ボロミアは。目を細めてレゴラスの薄い蒼の瞳を見た。

「私は恐ろしいですか?」

「・・・そんなことは・・・」

 ない。ただ、魅了されるだけ。
ある意味、それは恐ろしくもある。

 レゴラスは微笑んで手を放した。

「何も恐れることはありません。
奥方の瞳の前では、誰でも緊張感は持ちます。
それだけです。エルフと一言で言っても、
みんな特徴があるんですよ。ガラドリエル様は
何でも見通す目をお持ちだし、
エルロンド様は治療の大家です」

 それから、おかしそうにクックと笑う。

「私の父、スランドゥイルなど、
人間が一口飲んだら倒れるほどの強いワインを
平気で一樽空けてしまうことが有名です」

 ボロミアは、そんな俗物的な言葉に、目を丸くする。
それから、そっと手をのばしてレゴラスの髪に触れてみた。
絹のようにやわらかい。

「して、お主は何ができる?」

「歌うことだけ。ただし、その気になれば、
人間を永遠に眠らせてしまうこともできますけど」

「恐ろしいな」

「知りませんか? 
闇の森のエルフの宴会に近づいてはいけない。
その歌声を聞いた者は眠り込んでしまうから
・・・という人間の噂を」

「知らぬ」

「では、知って置いてください。
闇の森に近づくときは気をつけて」

 レゴラスは笑い、ボロミアもつられて
口元をほころばせた。

「やっと笑った」

 このエルフは・・・とボロミアは思う。
気を使ってくれている。きっと、誰にでも優しいのだろう。
王族と言ったが、裂け谷でもロリアンでも、
このように人間に優しくしてくれるエルフは、いない。
皆親切ではあるが、優しくはない。

「いけない、ギムリと約束していたんだ」

 レゴラスは立上った。

「森を案内してあげるって」

「忙しいのだな」

 優しげに微笑むレゴラスの瞳は、どこか悲しげに見える。 

 忙しくしていたいのだ。
ガンダルフを失った悲しみを紛わすために。

「また後で」

「ああ。ホビット達とも少しは遊んでやってくれ。
あの若い二人はお主を気にかけている」

「ええ、そうします。私もホビットは好きですよ。
一緒にいると楽しいもの」

 立去ろうとして、レゴラスはもう一度振り向いた。

「約束、忘れないで下さいね。
貴方の国、イシリアンを案内してくれると言う約束」

「わかっている」

 深く微笑み、レゴラスは去っていった。

 ボロミアは、レゴラスの触れた己の手を見つめた。

 戦い以外に、こんなに魅了されたのは初めてだ。

(何も恐れることはない)

 レゴラスの言葉が、いつまでもボロミアの耳に残った。

 

 

 

 アラゴルンは、高いフレトの上に登っていった。

 こんな高い場所は、ギムリは登れないし、
ホビット達も好まない。ボロミアでさえ、
自ら進んで登ろうとは思わないだろう。

「レゴラス」

 アラゴルンはレゴラスを探していた。
ギムリが、レゴラスが一人になりたがっていると
アラゴルンに教えてくれたからだ。いつのまにか、
この二人は仲良くなっていた。もともと正直な種族だし、
二人とも旺盛な好奇心を持ちあわせていたので、
仲良くなっても不思議ではない。エルフにとって、
ドワーフは人間ほど不可解な生きものではないようだ。

案の定、レゴラスはそこにいた。

 フレトの際で、膝を抱えて座っている。

「レゴラス?」

 そっと歩み寄り、その肩に手を置く。

「・・・来なければよかった」

 消入りそうな声で、レゴラスは呟いた。

「どうした? 憧れていたんじゃないのか? 
あんなに喜んでいたじゃないか」

「・・・来るべきじゃなかった」

「レゴラス」

 アラゴルンはレゴラスの肩を掴み、
自分の方を向かせる。

「知らなかったんだ。奥方の真の力を。眼力の鋭さを」

「何を言っている?」

「アラゴルン、貴方だって心を覗かれたでしょう?」

「別にやましいことはない。お前だって・・・」

 アラゴルンは、レゴラスの肩に置いた手を放した。
一瞬目の前が白くなる。

「・・・ボロミアか・・・」

「気付かせてはいけなかったんだ。
やっと・・・ホビット達とも仲良くなって・・・
和らいだ心をまた尖らせるような・・・
彼に己の本心を見せてはいけない!」

 ギュっと手のひらを握る。
アラゴルンは奥歯を噛んだ。

「レゴラス、奥方は間違ってはいない」

「エルフ的な考えは止めるんだ、エステル。
真実が全て正しいわけじゃない。
人間は、目をつむらなければならないときもある」

 エルフ的な考え、か。
エルフの、しかも王族の者の台詞じゃない。

「どちらがエルフでどちらが人間なのだ、レゴラス?」

「エステル、ここは貴方の愛する人の故郷だけど、
貴方の故郷ではない。貴方は人間だ。
理想と強欲を持つ心弱き人間だ。僕の言うことがわかるね?」

「レゴラス、お前は北の森のエルフでスランドゥイルの息子だ。
ここで奥方のことを悪く言うのは賢明ではない」

「・・・違うよ。悪いのは人間だ。
いつの時代も、道を踏外すのは人間。
エルフの忠告を聞かない愚かな種族だ。
だから・・・その愚かなる人間をこの神聖な場所に
連れてきてはいけなかったと言っているんだ」

 アラゴルンはレゴラスを見つめ、そして深くため息をついた。

「悪かったよ、言い争いをしたいんじゃない。俺は・・・」

 驚いて、そして嫉妬したんだ。

 お前の涙に。

 あの、ボロミアという男に流す、お前の涙に。

「それで、レゴラス、お前は何を見たんだ? 
ボロミアの心に」

 レゴラスは俯いた。レゴラスがボロミアの手を握り、
見つめ合っていたことは知っている。
アラゴルンは、遠くから、一瞬垣間見てしまった。

 レゴラスは、ボロミアに嘘をついた。
他愛のないもので、彼には必要な嘘。

 レゴラスだって、その気になれば
人の心を読むことはできる。ガラドリエルや、
上のエルフほどではないにせよ。

「・・・」

 レゴラスは、ただ首を横に振った。

 アラゴルンはレゴラスの両手を掴み、自分に引き寄せる。

「俺の目を見ろ、レゴラス。やましい事がないなら」

「できないよ」

「なぜ?」

「貴方に僕の心は見せられない」

 また、残酷なことを言う。

 アラゴルンは手を放した。

「アラゴルン、どうかボロミアから目を離さないで。
もし彼を救えるとしたら、それは貴方にしかできない」

「俺は万能じゃない。約束はできない」

「約束して!」

 レゴラスの瞳が、アラゴルンの視線を捉える。

 いつだって、俺はこのエルフには逆らえない。

「約束をしたら、何をくれる?」

「何が欲しい?」

「知っているくせに」

 レゴラスが真剣なまなざしでアラゴルンを見つめる。

 知っている。

 そう、知っている。

 重い言葉を出そうと口を開きかけたとき、
アラゴルンは首を振って見せた。

「やめよう。約束はできない。だが努力はしよう。
俺だってボロミアが嫌いなわけじゃない」

「エステル」

「その名で呼ぶな」

 レゴラスはふわりとアラゴルンに抱きついて、
耳元にちょっとだけキスをした。

「やめろ。自制が利かなくなる」

 身体を離したレゴラスは、ふと笑った。

「・・・メリーとピピンが呼んでる。
ご飯の時間だって」

 しばらく耳をすませていたアラゴルンにも、
やっとアラゴルンを探す二人の声が届く。

「・・・ごめん。貴方にはいつも
弱いところを見せてしまう」

 小さく呟くレゴラスの声に、
アラゴルンはその髪にキスをした。

「俺としては、もっと甘えて欲しいものだが?」

「生意気なことを言うようになったね。
僕は小さいエステルを肩車してあげたこともあるんだよ?」

 アラゴルンは片方の眉だけ器用に動かした。

「しかし、何故ボロミアにばかりかまう? 
ガンダルフが・・・落ちた時でさえ気丈でいたのに」

「あの時、僕に何かすべきことがあった? 
ミスランディアを救えると思うほど僕は思い上ってはいない」

「シビアだな」

「エルフだから」

 レゴラスは悲しげに笑った。

 結局、エルフにとって人間など子供にしか見えないのだろう。
悪戯と反抗を繰り返す、手におえない子供。
アラゴルンは、見た目ではレゴラスの年齢を
遥かに上回ってしまったが、
その年齢差はいたちごっこにさえならない。

 追いつくことはない。

「ボロミアのことは、俺も気にかけている。
心配しているのはお前だけじゃない。
だから・・・もう泣くな」

 一度目を伏せ、レゴラスは顔を上げた。
いつもの悪戯っぽい笑みを浮べて。

「先に降りなさい。
一緒のところを見つかると、またうるさいから」

 どうして一緒にいたの?いつからいたの?
なにを話していたの?僕らも仲間に入れて!

 想像がつくだけに、アラゴルンは苦笑した。

「またあとで」

 去り際にさっと唇を重ねて、アラゴルンは降りていった。

 

 レゴラスは、またため息をつく。

 この旅で、失う犠牲はあまりに大きい。

 いつしか歌を口ずさむ。不死の国を憧れる歌。

 

レゴラスは静かに歌い続けた。  
        












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 またいいかげんなことを・・・。
なんとなくエルフってみんな読心術ありそうな気がして。