風の話

 

 

 

 それはまだ、旅の本当の苦難を知らぬ頃。

 

 

 冬の空は晴渡り、束の間の暖かさを一行に与えてくれた。

 そう、その日は暖かかった。

 旅の行程は思いのほかはかどっていた。

 

 しんがりを歩いていたレゴラスが不意に立ち止って、
森の小動物のように空を仰いだ。風の匂いを嗅ぐように。
フロドは無口なエルフのそんな行動が不思議で、歩きながら見つめた。
フロドが見ていることに気付いているのか、エルフは足音も立てずにフロドを抜かし、
前を歩くガンダルフに近寄って耳打をする。

「何を話しているんですかね?」

 サムがフロドの隣で首をかしげる。

「さあ」

 フロドが答えている間に、ガンダルフはアラルゴンを呼び、
二人でひそひそと何やら話し合った。エルフはまたしんがりに戻って、
何食わぬ顔をして歩いている。

 ガンダルフとアラルゴンは何か結論に達したようだ。
アラルゴンは振り向いて、一同の足を止めた。

「雨が来る」

「雨?」

 メリーやピピンと一緒に、ボロミアまで驚きの声を出す。

「こんなに晴れているのにか?」

 代表してボロミアが尋ねる。

「エルフが言っておる。風が変ったと。わしの記憶に間違えがなければ、
この先に雨宿りができる岩屋があるはずだ。そこまで行って雨宿りするとしよう」

「じゃあ、お昼ご飯もそこで食べられるんですね!」

 嬉しそうにメリーとピピンが声をそろえる。

「そういうことになるじゃろう」

 やった、と無邪気な二人は我先に走りだした。

「おい待て! 方向はわかっているのか!」

 すかさずボロミアに止められ、二人は顔を見合わせて肩を落した。

 ガンダルフは笑ってそれを眺め、アラゴルンはため息をついた。
あの二人は、旅の重大性をわかっているのだろうか・・・?

 フロドとサムはくすくすと笑い、
不意に思いついてフロドは後のエルフを振りかえって見た。
ただ目を細めるだけで、エルフは表情を崩しはしなかった。

 フロドは心配を隠していた。いくらビルボの古い友人の息子とはいえ、
自分はこのエルフとうまくやっていけるのだろうか?

「フロドの旦那?」

 心配げなサムの表情に、フロドはなんでもないと笑って見せた。

 

 ガンダルフの言う岩屋のそばまで来たとき、ぽつぽつと雨は降りだした。

 九人の仲間がかろうじて食事が取れるだけのスペースが、そこにはあった。

 九人?

 フロドは人数が足りないことに気が付いて、あたりを見回した。

「・・・レゴラスさんは?」 

 隣で簡素な食事をとっていたアラゴルンが、外をあごでしゃくる。

「見回りに行ってる」

「こんな雨の中を?!」

 雨は、今ではどしゃ降りになっていた。大粒の雨が地面をたたきつける。
フロドの心配を察して、アラゴルンは笑って見せた。

「このくらいの雨、エルフにはどうってことないのさ。雨だけじゃない。
雪だって何だってね」

 給仕をしていたサムの方が感嘆のため息を漏らす。

「すごいんですねえ、エルフって」

「ほら、帰って来た」

 アラゴルンは雨の先を指差した。雨粒のカーテンの向うから、
美しい金糸をまとった人影が現れる。

 

 彼は、歌っていた。

 

 追跡の心配がないからだろう。岩屋の少し手前で立ち止り、
まるで雨を堪能するように両手を広げて歌っている。

 フロドは、その姿を美しいと思った。

 目にしてきたエルフは誰も美しいが、また違った、特別な感動を覚える。

 雨の中で、嬉しそうにレゴラスは歌っていた。

「その名のとおりじゃな」

 さすがにガンダルフも歌に聞惚れてか口元をほころばせている。

「その名って?」

 メリーが聞き返す。

「レゴラスはエルフ語で緑の葉という意味じゃ。植物は雨を喜ぶ」

 なんとなく納得して、フロドはレゴラスに視線を戻した。

レゴラスが、こちらを見て微笑んだ。そう思えただけかもしれない。
フロドは何かに気付いたように、仲間を振りかえった。サムと同じように、
ボロミアもエルフの姿に呆然と見惚れている。

何を・・・見てる?

止った時間の中、フロドはその視線の先に気がついた。

レゴラスは、アラゴルンを見ていた。だが、その視線の意味は図れない。
アラゴルンも、笑みを返したように見えた。

 

小一時間で雨は止んだ。

 

レゴラスは岩屋に入ってきて、ガンダルフとアラゴルンに周囲の状況を告げた。

その間に、メリーとピピンがぬかるみに出て、泥の投げあいを始める。
今日の行程を話しあっていたガンダルフは、じゃれあうホビット達を見つめて、
何度目かのため息をついた。ボロミアがなんとかやめさせようと走り回るが、
メリーとピピンは喜んで逃げるばかり。

「完全に遊ばれてるな」

 アラゴルンが苦笑する。フロドも肩をすくめて見せた。

「私がやめさせてきましょう」

 エルフがすっくと立上る。アラゴルンは驚いて止めようとしたが、
レゴラスは泥に足を取られない軽さで走っていってしまった。

 メリーとピピンが走り回っているところに、一本の大木が生えている。
レゴラスはするするとその木に登っていった。

「レゴラス、やめろ」

 強い口調ではないが、事を察したアラゴルンが後を追う。

 しかしアラゴルンの努力空しく、丁度ホビット達が木の下に来たとき
(ボロミアもそこにいたが、かろうじてアラゴルンは梢の下から逃げ出した)、
梢から大粒の水玉が大量に降ってきた。

 先ほどの雨宿りを完全に台無しにするくらい、
二人のホビットと一人の人間はずぶぬれになった。

 そしてレゴラスの予告どおり、メリーとピピンはふざけあいをやめた。

「泥を洗い流す手間も省けたでしょう?」

 意外な、本当に意外なエルフの言葉に、フロドは呆然とし、
ガンダルフは吹きだして笑った。

 ボロミアが二人のホビットを両腕に抱え、梢の下から出て、
エルフを見上げて怒鳴る。

「ずぶぬれになったではないか! どうしてくれる!」

「風があるからすぐに乾きますよ。服を脱ぎなさい、
私が高いところで干してあげましょう」

 木陰で姿の見えないエルフが笑いながら言う。
何かいい返そうとするボロミアに、アラゴルンは首を振って
「何をいっても無駄だ」と表現する。

「よいよい、服を乾かせ。昨日今日で思いのほか遠くまで来れた。
今日はこのままここで休むとしよう」

 ガンダルフの言葉に、メリーとピピンは歓声を上げてボロミアの腕から抜けだし、
アラゴルンは苦笑いを見せた。

 岩屋の奥で食後の昼寝を楽しんでいたドワーフが、何事かと片目を開ける。

「もう出発かい?」

「いや、ここに泊る事にしたよ」

 ガンダルフが答えると、ドワーフはあくびをしてまた目を閉じた。

「ありがたい。岩の感触は安らぐのでな」

 

 三人は着替え、濡れた服と靴はエルフが木の高いところへ運び去った。

 

 午後の日よりは本当に暖かく、春とも思える風がふいていた。
それまでの疲れと緊張をほぐすように、皆うとうととうららかなぬくもりを堪能した。

 アラゴルンは周囲の偵察に出かけ、ガンダルフは岩屋でパイプをふかした。

 メリーとピピンは木陰で眠り、ボロミアはその隣でぼんやりと
美しくかかった虹を眺めている。エルフは木の上に上ったまま、
静かな歌を口ずさんでいた。その歌声がまた、一行の眠りを誘った。

 ギムリの隣で、サムも眠りに落ちていた。

 フロドはガンダルフの隣に腰掛け、同じように虹を眺める。

「綺麗ですね。指輪のことも全部忘れそうだ。
・・・いっそ全部夢だったら良かったのに」

 ガンダルフは答えず、パイプの煙を吸いこむ。

「僕は不安でした。正直に言って、サムやメリーやピピン、
それにガンダルフと馳夫さんはよく知ってるし、
一緒にきてくれて嬉しいんですけど・・・他の人たちのことは良くわからないし。
ボロミアさんはもっと怖い人かと思っていました。それにエルフやドワーフも」

「そうじゃな」

 煙を吐きだしながら、ガンダルフは言った。

「エルロンドの人選は確かじゃよ」

「・・・一番わからないのはレゴラスさんです。
会議のときはもっと・・・威厳があってきつい感じの人かと思いました。
館を出てからも、ずっと寡黙でいましたし」

 それには、ガンダルフは噴出して笑った。

「そうじゃな・・・」

 しばらくクックと笑ってから、またパイプをくわえる。

「ガンダルフは良く知っているんですか?
 馳夫さんも顔見知りのようですけど」

「知っておるよ。ビルボも知っておる。
うむ、闇の森のエルフはちょっと変っておるから」

 変ってる?

「裂け谷のエルフたちとは違うな。うむ、大分違う。
ある意味気難しく戦闘能力にも長けておる、がその反面、
とても陽気な連中だ。慣れるまではつかみ所がなく思えて当然じゃろう」

「・・・何故、大勢いるエルフの中でレゴラスさんが仲間に選ばれたんでしょう?」

「うむ・・・もちろんレゴラスの弓の腕はエルフ一と言ってよい。
それでも、戦うだけならグロールフィンデルの方が上じゃろう。
レゴラスは若いが、奴は過去の戦いで多くの功績を残している。
グロールフィンデルのすばらしさは知っておるな?」

 フロドは頷いた。黒の騎手たちの手を逃れられたのは、彼のおかげだ。

「じゃが、グロールフィンデルと旅をすることになったら、
さぞ息苦しかったじゃろうな。特にホビット達にとっては」

「そうでしょうか?」

「一日中奴のしかめっ面を眺めていなくちゃならん」

 フロドは苦笑した。威厳あるエルフには、
ホビット達の悪ふざけはどう見えるのだろう?

「レゴラスさんもあまりしゃべらないようですけど」

「あれは口を開くと悪態ばかりじゃ。しばらく口を閉じさせておいた方がよい。
それにたぶん、あれなら他の種族たちともうまくやっていける。
好奇心のかたまりじゃからな」

 アラゴルンとも旧知の仲じゃ、とガンダルフは付け足した。

 あの雨の中で、レゴラスはアラゴルンを見ていた。
それは幻想ではなかったのだろう。フロドは、そのことは口にしなかった。

「少し眠るが良い、フロド。明日はまた歩きとおさねばならん」

 はい、と答えて横になる。

「エルフが子守唄を歌っておる」

 子守唄・・・そうなのか。なんてあたたかくて安らかな・・・。
フロドはまるでやわらかな布団にくるまれるように、ゆっくりと眠りに落ちていった。