息を切らせて館に戻ったアラゴルンの姿は、当然のように何人かの
エルフに目撃された。アラゴルン自身は、そんなことを気にも止めて
いなかった。

 何も考えられなかったといってもいい。

 中庭を突っ切って自室に向おうとしたとき、そこに人影を認めて足
を止めた。

 顔を見なくても誰かはわかる。 

「レゴラスと森に行ったのではなかったのか?」

 アラゴルンの姿を危ぶむ口調。

「レゴラスはどうした?」

 保護本能の強いレゴラスは、決してエステル一人で館に戻らせる性格
ではないはずだ。連れ出した以上、責任を持って連れ帰ってくる。今ま
では、ずっとそうだった。そんなレゴラスを、エルロンドは信頼してい
た。彼の腕も。仮に森でオークに出会っても、レゴラスなら必ずエステ
ルを守って館に連れ帰ってくる。華奢な見た目では計り知れない戦闘能
力を、彼はもっている。そう信頼していた。

 アラゴルンは、浅く早い息をしていた。まるで溺れそうな人間のよう
に。いや実際、彼は溺れかけていた。

「答えなさい」

 多少の苛立ちをこめた口調。あたりは夕闇が迫り、エルロンドの黒髪
に星が映る。黄昏時は、館主を一層大きく見せる。

 アラゴルンはからからに乾いた喉で息を呑み、思い切って顔を上げた。

 エルロンドがいぶかしげに眉根を寄せる。今までに、アラゴルンがこ
んなにも感情を剥き出しにした表情を見せたことはなかった。

「・・・犯した」

 喉が張りつくほどの痛みを訴える。かすれそうになる声で、アラゴル
ンは言った。

「抱いたんだ。彼を」

 エルロンドは言葉の意味がわからないと言うように、じっとアラゴル
ンを見つめる。アラゴルンは、むしろそんなエルロンドの表情がおかし
かった。まるでオークの大軍に攻め入られたような顔をしている。

「何を・・・」

「説明なんかいらないだろう? あんたがいつもしていることだ!」

 ひゅん、と風を切る音がして、何がおこったのか理解できぬままアラ
ゴルンは地面に伏した。一瞬遅れて、平手を食らったことを知る。口の
中に血の味が広がり、せき込みながらそれを吐きだす。

 殴られたのなど、もちろん初めてだ。

 ひどい頬の痛みと共に、怒りがあふれる。

「恋人を寝取られたのが、悔しいか!」

「愚かなことを言うでない。自分のしたことがわかっているのか?」

 それでも怒鳴りはしない。多分に怒りの含まれた声ではあるが。

「わかっている! レゴラスが好きだ。欲しい。たとえ貴方に背いても!」

 今度は、エルロンドの手があがるのが見えた。視線をそのままに歯
を食いしばる。

「・・・おやめください」

 疲れたような力ない声。

「・・・レゴラス」

 エルロンドは自分の前に立ちはだかる麗しいエルフに、上げた手を
握り締めて下した。

 アラゴルンも、思わず彼の名を呼ぶ。

 彼の乱れた髪には、一応整えようとしたあとはある。平静を装って
はいるが、疲労の影はうかがえる。

「申しわけございません」

 まるで力が抜けるように、レゴラスはエルロンドの足元に跪いた。

「禁を犯しました」

「自ら身を奉げたというのか」

「・・・はい」

 両手をついてアラゴルンは立ち上がった。

「違う! 俺が無理矢理・・・!」

 激情に任せた言葉に、レゴラスが振り向く。

「自惚れるでない、エステル!」

 その表情は冷静で、見たことのないほど瞳は冷たく輝いている。

「お前ごときが、本気でエルフ王の子である私を組敷きれるとでも
思っているのか!」

 言葉を失い、アラゴルンは呆然とレゴラスを見下ろした。

 忘れていた、森を守る王族の高貴な表情。

 レゴラスはエルロンドに向き直った。

「たった一人の人間ごときが、力でエルフに勝てるはずもないこと
はご承知のはず」

「・・・では、お前がそれを望んだというのか」

「そうです」

 エルロンドは自らを落着かせるように息を吐き、頭を振った。

「愚かな・・・死すべき運命の者と契りを交すということの意味を
知らぬわけではなかろう?」

「勿論」

「自由人としてのエルフの運命を覆すのだぞ」

「わかっております」

 アラゴルンは、息を飲んだ。彼とて知らないわけではない。ここ
で最初に学ぶ歴史は、誰でもない、エルロンド自身の歴史なのだ。

 それは、悲しい恋の物語でもある。

 背を向け跪くレゴラスの表情は覗えない。だがエルロンドの表情
ははっきりと見えた。

 冷たい怒りが、瞳の色を燃やす。

「ならば・・・」

 エルロンドは、静かに、そしてすばやく、懐から細身のナイフを
取りだした。夕日に切先が光る。

「その人間を殺して、私がお前を束縛から解放ってやろう」

 すべるような歩み。

 レゴラスは立ちあがり、エルロンドの刃先を己の喉もとで受けた。

 一筋の鮮血が滴る。

「貴方がそのおつもりなら、私は古の契約に基いて、この命に代え
ても彼を守ります」

 恐ろしい静寂。

 アラゴルンは次の行動の機会を覗った。自分とて、目の前でレゴ
ラスを失うつもりはない。

 エルロンドはナイフをしまった。アラゴルンが大きく息を吐く。

「森に帰れぬことも承知しております。人の血を国に持ちこむこと
は出来ませんし、何より父は・・・スランドゥイル王はあまり人間
を信頼しておりませんので」

 エルロンドの視線が、背後のアラゴルンに移る。

 お前にとってただの欲望のはけ口でも、エルフにとっては生をも
左右しかねる事なのだ、と。一人のエルフを自分の縛りつける行為
なのだ、と。

 その責任を取れるのか?

 怯むことなくアラゴルンはエルロンドを見つめ返した。

 もちろん、その責任は取る。

「・・・アラゴルン、部屋に帰って謹慎していなさい。私の許しが出
るまで外出は禁止する。レゴラス、私の部屋に来なさい。湯を浴び、
その身を清めてからな」

 エルロンドは背を向け、レゴラスは振り向きもせずに彼についていった。

 残されたアラゴルンは、切れるほど唇を噛み、自分自身を吐き捨て
るように部屋に駆け戻った。

 

 あたりはすっかり夜の帳に包まれていた。

 

 

 

 エルロンドの部屋に湯を運んでもらい、レゴラスはそこで湯に身を
沈めた。

 濡れた髪から、宝石のような水滴が滴る。

 彼の前で素肌をさらす事に、ためらいがなかったわけではない。
レゴラスの身体は傷ついていた。たとえオークとの戦いの後でさえ、
その肌を傷つけることはまずないというのに。

「痛むか?」

 傍らに立つ彼が、そう呟く。レゴラスは目を閉じたまま肯定も否定
もしなかった。平気といえば嘘になる。欲望をねじ込まれた箇所は鈍
い痛みを続けているし・・・それよりも、何より心が痛んだ。

 エルロンドが差しのべた手にすがるように、レゴラスは湯を上がった。

 

 濡れたまま、彼のベッドに横たわる。

 アラゴルンの言っていた事は本当だ。自分は、この谷の王と情を
結んでいる。

 

これは、裏切り行為だ。

 

 何も言わず、エルロンドはレゴラスの傷を手当した。

「・・・スランドゥイル公には内密にしておこう。知らせなければ
感ずく御仁でもあるまい」

 レゴラスが小さく笑う。

「父上は情交には疎いのでね」

 現に、もうずっと続いている谷の王と息子の関係にも気付いて
はいない。

「策士だな」

 はじめからそのつもりだったのだろうと、軽く額を撫でる。

「・・・エステルには、事の重大さを理解してもらわなければ
なりませんから」

 ふう、とエルロンドはため息をついた。侮れない奴だ。

「それに、今はアラゴルンの敵は作らないでおきたい。エルフ
を敵に回すと厄介だ」

 この先、彼が人の王となるべき日のために。エルロンドは、
ずっと先を見ている。

 レゴラスは身体を起した。気遣わしげに腕を差しのべようと
するエルロンドに、悲しげに微笑む。

「大丈夫です。もう痛みません」

「・・・無茶をしたな。何故受けいれた? お前なら言葉でか
わす事もできただろうに」

 たしかに、拒絶をすることは簡単だ。多分、言いくるめるこ
ともできただろう。なのに、自分はあえてアラゴルンを受け入
れてしまった。彼の神経を逆なでする態度をわざと取りながら。

「人間に、エルフの生活は窮屈なのでしょう。熱き魂を妨げる
ことは彼のためにはなりません。情熱をぶつける相手が・・・
たとえそれが暴力であっても、必要なのだと思います。エステ
ルはまだ『愛』を知らない。きっと、今回のことで自分が求め
ているものとそれを得るための行動が相反してしまっているこ
とを学ぶでしょう」

「奴の成長のためとはいえ、犠牲は大きいな」

 エルロンドが触れたところから、レゴラスの髪は乾きさらさ
らとした感触を取り戻していく。

「私は神ではない。お前の運命を決めることはできぬ。選択権
を与えることもな」

「かまいません」

 人間と情交を結ぶエルフは多くはない。それでも確かなのは、
人間に恋をしたエルフはその永遠の命を失うということだ。
しかしそれさえ、己の意志で決める。創造紳の強制ではない。

 死すべきさだめのものを愛するということは、死を受けいれ
るということ。

「私はエステルと婚姻を結ぶことはありません。ただ、彼に
従うだけです」

「奴が死ぬまで」

「それも、私の命の流れの中ではほんの一時です」

 エルロンドは考え込むように目を伏せた。

 一見陽気に見えるとはいえ、高貴な王族の者をこうも簡単に
引き付けてしまうのは、アラゴルンの天性の資質なのだろう。
王となるべき運命の者は、むしろそうでなければならない。
多くの者をひきつける素質が必要なのだ。

 それでも・・・。

「私はお前に禁を犯した罰を与えなければならない」

 エルロンドは立ちあがり、レゴラスに服を着るように促した。

「何なりと、我心の主人よ」

 レゴラスは忠誠を示すように頭を下げた。    
              







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  ああ、すみません・・・アラゴルンファンに喧嘩を売ってるかも。
 一応私的には、かっこいい男ほど若いときに辛さを味わってるとか、
 絶対的な愛を知ってる人は失恋をいっぱい経験してるとか、そう思って
 いる訳でして・・・。ダメ?
  契約云々という話は、嘘です。ホントはどうか知りません。
 間違っていたらごめんなさい。
  そして、まだ続きます。(脱力)