「人間を堕落させることは、簡単だ」

 手のひらの内側にあるパランティアを見つめながら、サルマンはほくそえんだ。

「わが主に楯突く者に、苦痛なる死を」

 

 

 

 ファンゴルンの森に足を踏み入れた三人は、ふと足を止めた。

「別れて探そう」

 アラゴルンの発案に、レゴラスは顔をゆがめる。

 この森で、離れ離れになることは、正しい判断とは思えない。

 今のアラゴルンに、冷静な判断を求める方が、難しいのか。

「どうした、レゴラスの旦那?」

 ギムリにつつかれて、レゴラスはドワーフを見下ろした。

「・・・・嫌な・・・気配だ」

 アラゴルンは待ち合せの場所と時間を決め、さっさと行ってしまった。

「それはこっちの台詞だ。森はあんたらの得意分野だろう?」

 笑って見せるギムリに、レゴラスは顔をゆがめる。

「そうだけど・・・・そうだけど、この森は、違う」

「何が違うんだ? 俺にはどこも不気味なことには変わりない。恐れているのか?」

 恐れている? そう、恐れている。濃すぎる森の空気は、肌を刺す。

「僕は北を。ギムリ、迷子にならないように気をつけて」

「その時は松明でも焚くから、探してくれ」

「そうならないことを祈るよ。
この森では、枝の一本を折ることでも、何がおこるかわからない」

 レゴラスは、鋭く周囲を見回しながら、大木の根をまたいで歩みを進めた。

 

 嫌な空気だ。

 何かが潜んでいる。

 ゆっくりと歩みを進めながら、アラゴルンやギムリは大丈夫かと思う。
この異様な空気に、ギムリは気付いていない。

 なんだろう。殺意?

 神経を研ぎ澄ませ、風の匂いのひとつも漏らすまいと集中する。

 ホビットの気配は、まったくない。オークの気配も、消えて久しい。

 オークでさえ、こんな奥までは入り込まないのか。入り込めないのか。

 足音を立てずに進んでいると、湿った匂いが濃くなってきて、いつしか霧に囲まれた。
レゴラスは足を止め、注意深く周囲を見回す。視界がきかない。

 何かの気配にぴくりと指先を震わせ、振りかえったレゴラスはじっとそこを凝視した。

 何か、来る。

 ぼんやりとした影は、やがて金色の光に包まれ、霧をマントのように羽織ながら、
レゴラスの前にゆっくりと姿をあらわした。

「・・・・・!」

 その姿に、一瞬息を飲む。

「何を驚いておる」

 その影は、静かに口を開いた。

「・・・・・スランドゥイル王・・・・」

 レゴラスの動きが、固まる。

「レゴラス、こんなところで何をしておる? 
わが森に向け、オークどもが集結しておる。すぐに襲撃してくるであろう。
それに対するわが軍の兵力は少ない。指揮官たるお前が抜けてしまっては、勝ち目などない。
わかっておるのか」

 流れる金色の髪。枯れる事のない木の葉の冠。憂いだ表情の王は、霧の中で動きを止めた。

「レゴラス、何を考えておる? わが国より、人間の方が大切と申すか」

 王の瞳に、怒りの灯火が灯る。

「アラゴルンと申したな、あの男。あの人間ごときに、お前の父を、国を、見捨てるのか?」

「・・・・」

「わしは、二度と無残な戦いはしたくはない。
お前は見たことがあるか、エルフの累々たる死体を。愛するものの死を。
今、国が襲われれば、あの、最後の連合の戦いの二の舞であるぞ。
お前は、わしの亡骸を見たいのか」

 唇が乾いて、息を飲む。

「人間など、信用できぬ。あの人間につき従い、何を得られるというのだ? 
奴はお前を利用するだけだ。エルロンドの娘と恋仲にあるそうではないか? 
わからぬのか? あの人間は、どんなにお前がつくしたところで、
お前のものになどなりはしないのだぞ? お前は裏切られるのだ」

 激しい動悸に、新鮮な空気を求めて胸が上下する。

「レゴラス、愛しいわが子よ。帰ってくるのだ。わしのところへ。
そして、わが森を守るために、共に戦うのだ。レゴラス」

 王の手が持ちあがり、抱擁するように開かれる。

 どんなに・・・・・

 あの腕に中に飛び込めたら、どんなにいいだろう。新緑の香のする、あの腕に中に。

「帰って来い、レゴラス」

 懐かしい声色。切ないぬくもり。

「・・・・・父上・・・・」

 己の森の、芽吹いたばかりの若葉の匂いと感触。思い出すと、苦しくなる。

 こんなに

 こんなに、遠くまで来てしまった。

「おいで、レゴラス」

 優しく微笑むその唇に、レゴラスは霧の重たい匂いを感じた。

「父上・・・・・」

 まるで引きつけられるように、一歩足を踏みだし、そして・・・・

 するりと矢を引きぬいて、誰よりも愛する父の胸を射抜いた。

「消えろ」

 乾いた唇が、言葉を出す。

「汚らわしい幻影で、王を侮辱することは、許さぬ」

 矢は霞の向うに飛んでいき、射抜かれた王は不敵な笑みを作った。

「王は決して弱音を吐いたりはせぬ。人間の王を侮辱したりもしない。消えうせろ」

 濃い霧の中で、舞いあがる砂埃のように、王は崩れ去った。

 そして、同時に霧もかき消された。

 

 また、元の森が戻ってきた。

 まだ動悸は続き、レゴラスは片膝をついた。

「レゴラス!」

 聞き知った声が、背後から走り寄ってくる。

「今、弓音が・・・・レゴラス?」

「・・・アラゴルン?」

 その男は、跪いたレゴラスの背後から、そっと彼を抱き起した。

「何が、あった?」

「なんでもない」

 小さく何度か深呼吸して、ゆっくりと立ちあがる。

「それより、どうしてここへ? 東の方を探索していたのではなかったのかい?」

「おかしな霧に囲まれた。うかつだった。離れるべきではなかった」

「霧の中で、幻影を?」

 アラゴルンが辛そうに微笑む。

「アルウェンが・・・・帰って来い、と」

 レゴラスも苦笑を返す。

「それで?」

「アルウェンがそんなことを言うはずもない。森の悪意か・・・・サルマンの仕業か」

 目を閉じて呼吸を整えたあと、レゴラスは口元をつり上げた。

「たぶん、後者でしょう」

 俺も同じ意見だ、と、アラゴルンは片眉をあげて見せた。

「ギムリを探そう」

 レゴラスが歩き出そうとすると、アラゴルンはその手を掴んで引きとめた。

「・・・・なに?」

 レゴラスが怪訝そうな視線をアラゴルンに向ける。

「どうしても、話しておきたいことがある」

 真剣な眼差し。その熱い視線に、いつだって自分は困らされる。
小さく溜息をついて、何? と聞き返す。

「アルウェンの幻影に会って・・・・自分の心内を知らされた。
これから先、死ぬかもしれないのだ。打明けておきたい」

「ずいぶん、弱気だね?」

「・・・・ホビット達のこともある。多少はナーバスにもなるさ」

 笑おうとするアラゴルンは、辛そうに見える。
レゴラスが改めて向き直ると、アラゴルンは唐突にエルフの細い身体を抱きしめた。

「ア・・・・・・」

「何も言わずに、聞いてくれ。許されざる恋なのはわかっている。
俺は・・・・昔からお前に惹かれていた。裂け谷にいた頃から、ずっとだ。
優しくしてくれるお前に甘えているだけかもしれない。
それでも、お前が旅の同行を申し出てくれて、嬉しかった。・・・愛している」

 耳元で囁かれるその声に、目眩さえ感じる。

 抱しめる腕の力を抜いたアラゴルンは、レゴラスに唇を重ねた。

 熱く湿った唇の感触。

 彼の唇が、頬から耳に、そしてうなじに落される。

「アラゴルン・・・・・」

「嘘でもいい。今だけでいいから、愛していると言ってくれ」

「・・・エルフは、嘘はつけないよ」

 襟元の金具が外され、そっと熱い指先が滑り込んでくる。
レゴラスは、少し顔をゆがめ、身をよじって逃げようとした。
が、もう片方の手でがっちりと抱え込まれている。

「レゴラス」

「嘘は言えないし、刹那の慰めもしない」

 喉もとを這う唇の感触に身を震わせながら、言葉を搾り出す。

「アラゴルン・・・・僕は、君を愛しているよ」

 ふと唇の感触が遠のき、レゴラスがアラゴルンを見ると、
彼は嬉しそうに顔をほころばせ、抱しめたままレゴラスを押倒した。

「ギムリを・・・探さなきゃ」

「大分離れている。一時間・・・三十分でいい。お前のぬくもりを確めたい」

「アラゴルン」

 有無を言わさぬ強引さで胸元を開き、露になった胸にまたキスをする。

「愛している、レゴラス」

 アラゴルンの無骨な指がレゴラスの足に触れた時、
レゴラスは強い力でアラゴルンを押し戻した。

「?」

「だめだよ、アラゴルン」

「いいだろう? 初めてでもあるまいに。すぐ終る」

 子供のような真剣な眼差しに、レゴラスは困ったように眉を寄せる。

「レゴラス、これが、最後かもしれないんだ」

「しっ」

 突然レゴラスは、人差指をアラゴルンの口元に押し当てた。
そしてアラゴルンの腕を引っぱって、手近な木に這い上がる。

「レゴラス?」

「何か、来る」

 木の影に隠れるように、背中を木の幹に押し当て、
レゴラスはアラゴルンをより濃い影に押しこんで、自分はその気配の主を探した。

「・・・・ウルク=ハイ・・・?」

 一匹のウルク=ハイが、何かを探すように周囲を見回しながら、
少し離れた木の根元を歩いてきた。アラゴルンもちらりと見てそれを確認する。

「オークの軍隊の生き残りか?」

「・・・・」

 レゴラスはアラゴルンの顔をじっと見て、それからまた視線をウルク=ハイに戻した。

「かもね」

 曖昧に返事をして、敵の動向をうかがう。

「向うはまだ気付いていない。レゴラス」

 矢で射ろ、と身振りで指図する。レゴラスはまた、アラゴルンの顔をじっと見た。
そして、狡猾そうに口元をゆがめて微笑む。

「この距離なら、アラゴルン、君でも外さないでしょう? 君は昔から弓が下手だったけど」

 アラゴルンの口元が引きつる。

「外したら、やっかいだ」

「その時は、援護するよ」

 背後の矢を引きぬくと、しぶしぶアラゴルンも矢を番えた。

「喉を狙うんだよ」

 助言して、アラゴルンの矢の先を人差指で修正してやる。

 ウルク=ハイが、こちらの気配に気付いて、体の向きを変えた。

 今だ。

 その合図のかわりに、レゴラスは小鳥のさえずりのような声をあげた。

「!」

 アラゴルンの矢はウルク=ハイをかすめ、その直後、
ウルク=ハイの弓がアラゴルンの肩に突き刺さった。

「本当に、下手なんだから」

 ニヤリと笑うレゴラスに、アラゴルンが信じられないという表情をする。

「アラゴルンはね、僕の前で『死』という言葉を使わないんだよ」

「レゴラス・・・何を・・・?」

「今のはシルヴァンエルフの合言葉で、僕のそばに敵がいる、という意味さ。
本気で僕を騙したかったら、もっと研究することだ」

 レゴラスは不安定なアラゴルンの肩を押し、枝の上から突き落した。

 その身体は、地面に叩きつけられる前に、霞のように消え去った。

 

 地面に降立ち、落ちた矢を拾うレゴラスに、本物のアラゴルンが駆寄ってきた。

「今のは、何者なんだ?」

「さあ。もっと弓の腕を磨かなきゃ。急所を外したよ」

 緊張感のない嫌味に、アラゴルンが肩を落す。

「悪かったな。で、何者だったんだ?」

「わからない。森の悪意の作り出した幻影か、あるいは・・・・」

「サルマン?」

「たぶんね」

 矢をアラゴルンに手渡すと、アラゴルンはそれを矢筒に放り込んだ。
そうしながらも、レゴラスの乱れた胸元に目が釘付けになる。
レゴラスはそれとない仕草で服の乱れを直した。

「何があった?」

 レゴラスは口元で笑むだけで、それには答えない。

「ばらばらにならないほうがいい」

「・・・・そうだな。ギムリを探そう」

 先に立って歩き出すアラゴルンのうしをろ歩きながら、
レゴラスは幻影の落ちた場所をかえり見た。

 どんな幻影にも騙されはしないけど、心の一番痛いところを突かれたのは確かだ。
相手は、自分の不安を読み取っている。

(スランドゥイルは負けはしない)

 オークごときに、滅ぼされはしない。

 そして・・・・・。

「レゴラス」

 前を歩くアラゴルンが、振向かずに言う。

「不安が悪夢を招く」

「悪夢なんて、見ないよ。僕は君を信頼しているから」

 そう、陳腐な告白など必要ない。

 それ以上の、信頼関係で結ばれているのだから。

 

 

 

 サルマンは、肩の痛みに顔をゆがめた。

「・・・・エルフめ・・・・」

 吐き捨て、パランティアの間を出て、玉座に座る。

「敗北の苦しみを味わうがいい」

 我等が軍勢は、ローハンに向っている。