はたして、自分は本当にあの男を許していただろうか? 執拗にかの宝玉を追い求め、 シンダールの王国を壊滅させただけでは物足りず、 それを持つ女を海に落し入れたあの男を。 許していただろうか? 愛していただろうか? ならなぜ、エルロスはエルフたる道を選ばなかったのか? あの男は、後悔していた。そして、ヴァラールにより罰を受けた。 そのとき感じた悲しみは、本物だっただろうか? 何度も何度も、悲しみは繰り返す。 それでもまだ、西方の楽園に渡ることは許されない。 最後の上級王、ギル=ガラドから受けついだ力の指輪を守るため。 はたして自分は、そんなことを望んでいたのか? 死という神の恩恵を与えられた兄弟を、妬みはしなかったか? ひとつの指輪を我物にした人間を、憎みはしなかったか? はたして、自分はすべてを許しているだろうか? すべての愛は、本物だっただろうか・・・? もう、歌うことさえ忘れて久しい。 自分ははたして・・・・愛する息子たちに、 歌ってやったことがあるだろうか? レゴラスは、ベッドの上でぼんやりと恋の歌を歌っている。 数多くの苦痛を超えて生きてきた、彼の父に教わった歌を。 「お前の父は、優しいのだな」 天井を見上げたまま、レゴラスは思い出すように微笑む。 「はい」 強さの上にある、優しさだ。 「エルロンド卿は・・・なぜ私に親切にしてくださるのですか?」 頭をめぐらし、愛してくれた男を見る。 まだぬくもりは、消えていない。 「卿は、とても優しい手をしていらっしゃる」 エルロンドは己の手を見下ろし、ほくそえんだ。 血塗られた、手だ。 時々、結局自分は無力なのだと思い知らされることがある。 一度たりとも、愛していた者たちを救えたことがない。 自分を育ててくれたノルドの養父も、敬愛していた上級王も、 愛していた妻さえ。 「そんなことはない」 「いいえ」 レゴラスはエルロンドの手をとり、そっと口づけた。 「貴方は、とても優しい・・・」 エルロンドは立ちあがり、服を身につけた。 「ここで寝るといい」 「・・・ありがとうございます」 レゴラスはまた天井を見上げ、静かに歌った。 エルロンドが部屋を出て行ったあと、歌を止めて目を閉じる。 それからゆっくりと体を起した。 「・・・・約束どおり、これで終りにしましょう・・・」 まだ夜の明けぬ静かな時間。 月は沈み、太陽はまだその光の先端さえ見せない。 闇に支配される時間。 僅かな星明りの下で、エルロンドはその男を見つけた。 星の輝きを楽しむことをしない彼は、普段なら出歩いたりはしない時間だ。 グロールフィンデルは、レゴラスがよく星々を楽しんでいる中庭にいた。 「レゴラスなら、私の部屋にいる」 グロールフィンデルは振り向き、冷たい視線を館主に向けた。 「あの者を追うのはやめろ」 「・・・そうはいきません」 たとえ貴方のご命令でも。グロールフィンデルは呟いた。 「グロールフィンデル・・・・」 「エルロンド卿、貴方は何もご存知ではない」 エルロンドは眉根を寄せた。この男が真向から異論を唱える姿を見るのは初めてだ。 それまで、過ぎるほどエルロンドに忠実であったのに。 何が彼を狂わせる? 「レゴラスを、返してください」 「グロールフィンデル!」 「・・・まだ、終っていないのです」 いつも以上に冷やかな瞳は、どんな感情を押し殺しているという? エルロンドは、グロールフィンデルの肩を両手で掴んだ。 「グロールフィンデル、わかっているだろう? お前は私のものだ。 シンダールの王子にくれてやるわけにはいかぬ」 いつになく感情的になるエルロンドの手を、 グロールフィンデルはそっとはらった。そして、悲しげに笑む。 「レゴラスを、抱いたのでしょう? 彼の匂いがします」 一瞬ぞっとして、一歩引く。グロールフィンデルはエルロンドに顔を寄せ、 その耳元でささやいた。 「貴方は騙されています。彼の本当の目的は・・・・」 言いかけて、グロールフィンデルは顔を上げ、エルロンドは振り向いた。 微かな星明りの下、立っているのはレゴラス本人。 「・・・何も言わなくていい。本当に、これで終りにするから・・・」 手にしているのは、抜身のナイフ。 「グロールフィンデル殿、貴方はすべてを失う。館主の信頼さえ」 「レ・・・」 踏みだそうとするエルロンドを、 グロールフィンデルは片手で制して後に追いやった。 次の瞬間、 レゴラスはその男の胸に飛びこんでいた。 「貴方はいつか、誰が私に欲を教え込んだのか、聞きましたね? ・・・答は、父です。肉欲ではない、すべての光を、 父は私に教えてくれました。父は、私の愛するすべてなのです。 ですから・・・・父を汚した貴方が許せなかった」 ナイフを伝って、真赤な液体がレゴラスの手を染めていく。 「スランドゥイルが、話したのか?」 「いいえ、父は闇の話は私にしません。でも、夢にうなされる。 私は父の夢を覗き見て、その闇を知るだけ」 ひたひたと、音を立てて暖かな液体が流れ出ていく。 グロールフィンデルは、微笑んだ。たぶん、今までで一番優しく。 「・・・・レゴラス、その程度の踏みこみでは、私は殺せぬ。 手伝ってやろう」 両手を持ち挙げ、グロールフィンデルはレゴラスを抱しめた。 「もう十分だ」 エルロンドはグロールフィンデルの腕を振り解いて、 後からレゴラスを抱いて後退った。 引き抜かれたナイフが地面に落ち、真赤な沼を作る。 レゴラスは、その瞳から光を失わせていた。 「愚かなことを! 憎しみに慣れていないものは、 それだけでマンドスに堕ちる」 純粋であればあるほど。 そう、自分はあの時・・・・息子たちをこの地に繋ぎ止めた。 憎しみという鎖で。 もし、それ以外に方法があるのなら・・・? 「レゴラス! 私を見ろ! お前は誰も憎んではならない。 スランドゥイルはそれを望まない! お前が奴の光なのだ!」 エルロンドの声に、僅かに瞳が揺らめく。 グロールフィンデルは、エルロンドを見やった。 (あなたに隠していたことを、お許しください・・・) そう心が呟く。エルロンドがレゴラスから離れ、 かわりにグロールフィンデルが彼を抱きしめた。 「お前は信じぬかも知れぬが、私はスランドゥイルを愛している。 愛し方がわからぬだけで。・・・・私を、許してくれるか?」 血に染まった手で、レゴラスはグロールフィンデルの髪に触れ、 それを強く抱き寄せた。 「・・・許します」 「よかった。これで、私はもうしばらくこの地に留まれる」 語尾が吐息として消え、グロールフィンデルは崩れ落ちた。 銀色の涙を零す、レゴラスの腕の中に。 愛し方は、一様ではない。 傷つけることでしか、それを表現できない者もいる。 エルロンドは思った。 自分は、彼らを愛していた。 許していた。 だから、 今ここに、こうしているのだ。 自室のベッドの上で治療を受けていたグロールフィンデルは、 意識を取戻した。 「本当に殺す気など、なかったのであろう? お前ほどの弓の腕なら、いつでも狙えたはずだ」 ベッドの下で膝を抱えるレゴラスに、エルロンドは言ってみる。 「憎しみを助長し、自らを傷つけて・・・何の意味があるというのだ。 それこそ、お前の最も愛する者を悲しませるだけではないか」 「・・・怒りをお治めください、エルロンド卿」 静かに口を開くグロールフィンデルに、エルロンドが向き直る。 「お前もだ、グロールフィンデル。 私は目の前で二人を失うところだったのだぞ」 クスクスとグロールフィンデルが笑う。 彼が、そんな笑い方をするなど、今まで知らなかった。 「本音を、知りたかったのですよ。お互いに。貴方のお心内も」 エルロンドがため息をつく。 「目の前で愛する者を失う苦痛を、お前らは知るまい」 グロールフィンデルは体を起し、エルロンドの手をとって唇を寄せた。 「私は決して、貴方より先にこの地を離れたりしません」 エルロンドは、もう一度ため息をついた。 「レゴラス」 膝を抱えていたレゴラスが、顔を上げる。泣き濡れた表情。 痛々しいくらいの、幼い瞳。 「歌を歌ってやれ。お前の歌声は、痛みを和らげてくれるだろう」 それからもう一度、グロールフィンデルを見る。 「・・・・力で奪うことしかできないのがノルドの血なら、 魔法の力で相手を虜にしてしまうのがメリアンの血だ。 私にその力が残されていないのが、残念だよ」 本気で言っているのか? グロールフィンデルがほくそえむ。 「いいえ、エルロンド卿。貴方にはその魔法が備わっています。 誰もが貴方の虜になる。かつて貴方を愛した者たちも、この私も。 ・・・そうだろう、レゴラス?」 レゴラスは応えず、目を伏せた。 最初から、騙すつもりだった。 彼を? 自分を? その答は、まだ見つからない。 「まあいい。そういうことにしておこう。これからは無茶をするな。 とにかく二人とも休みなさい」 背を向け、部屋を出て行こうとするエルロンドに、 立ち上がってレゴラスは追いすがった。 「エルロンド卿・・・私は・・・・」 「レゴラス、お前は光だ。何があっても、その光を失ってはならない。 私は、自分が失ってしまったものをお前の中に見ることができる。 父の愛を信じなさい。それが私の希望にもなる」 涙の残る頬に口づけし、エルロンドは出て行った。 「ひとつだけ」 グロールフィンデルの声に、レゴラスは向き直った。 「お前は私に闇を残した。あの時、お前を抱いたエルロンドに、 私は本気で嫉妬したのだよ」 ゆっくりと歩み寄りながら、レゴラスは皮肉な笑みを取戻した。 「では、私の復讐は成功したのですね?」 「・・:ああ」 ベッドサイドに、レゴラスが跪く。 「貴方の血は、暖かい」 「お前の血も暖かいだろう。今度他の誰かに抱かれたら、 そのときは本当に心臓を抉り出してやろう」 レゴラスは微笑み、グロールフィンデルの腕に顔を埋めた。 「・・・ご自由に」 いつかの庭。 グロールフィンデルの剣に、レゴラスは愛用のロングナイフで応戦していた。 持前の身軽さで、十分対等に戦って見せる。 「いいかげんにしないと、傷口が開くぞ」 エルロンドに止められ、二人は武器を収めた。 「いい腕だ。直接剣の指導をしてやれないのが悔まれる」 グロールフィンデルの言葉に、レゴラスがニヤリと笑う。 「遠慮します。私には長剣は扱えませんので」 二人のやり取りに、エルロンドは鼻で笑った。 「いつでも遊びに来なさい。私はお前を歓迎しよう。 今は留守をしている息子たちにも会わせたい」 レゴラスは館主に頭を下げた。 それから、エルロンドの隣に控えているグロールフィンデルに向き直る。 「・・・次に私の前に現れたときには、是非笑みを見せてもらいたいものだ。 歌もな」 「それは、どうでしょう?」 挑発的とも取れる笑みでレゴラスはグロールフィンデルに近づき、 すばやくキスをする。 簡単な別れの挨拶だけで、レゴラスはここを訪れたときと同じように、 無邪気なしぐさで谷を出て行った。 後姿を見送った後、エルロンドがグロールフィンデルに呟く。 「触れたものを狂わせる宝玉とは?」 「スランドゥイルのことでしょう」 即答する男を、いぶかしげに見る。 「私は奴を知っている。確かに魅力的ではあるが、狂わされはせぬぞ?」 「それは、貴方も同じ力を持っているからです」 訝る館主を残して、グロールフィンデルは館に向って歩き出す。 「もし、あなたに仕えていなければ、 私はスランドゥイルに寝返っていたかもしれません」 エルロンドは複雑に口元をゆがめた。 「喜ぶべきなのだろうな」 ちょっとだけ振り向いて、グロールフィンデルは唇をつり上げた。