幾度となく、レゴラスはエルロンドの私室を訪れていた。
時には自発的に。

 幼き時代はとうに過ぎているというのに、
まるで闇を知らぬ子供のように振舞う。

 それが意図して振舞う行為なら、相当の役者だ。

「ここはとても魅力的な所ですが、物足りませんね」

 エルロンドの部屋の窓から、落ちる夕日を眺めて彼は言った。

「ここの方たちは、あまり歌を歌わないのですか?」

「・・・そんなことはない・・・が」

「いいえ、全然です!」 

 振り向いたレゴラスの瞳がきらきらと輝く。

「私の森では、いつも誰かが歌っています。
毎晩宴を開き、月の満ち欠けや季節の移りかわりを祝います」

 自分の国のことを話すとき、
なんて誇らしげに楽しそうに瞳を輝かせるのか。

「ノルドールは、シンダールほど歌に長けてはいない」

「それは、単なる思い込みではありませんか?」

 思い込み? エルロンドが一瞬眉をしかめる。

「生きていることを楽しめ」

 エルロンドの瞳を直視し、そしてレゴラスはにっこりと微笑んだ。

「父の教えです」

 なるほど、スランドゥイルの愛息子だ。他の顧問たちが言うほど、
血筋に自覚がないわけではない。
むしろ、その歌声には人の心を軟化させる魔力があり、
それこそ両血族に必要なものなのかもしれない。

「でも、ここは好きです。闇に犯されていませんから」

 レゴラスは、闇に覆われる前の森を知らない。

「そのことについて、私はスランドゥイル王と
話合いを持ちたいと願っているのだが」

「闇を払ってくださるのですか?」

 不信そうな表情をする、そんなレゴラスは王族の威厳を垣間見せる。

「それは、できぬだろう」

「父はノルドを信用しません。どんな些細な助力の申しでも断るでしょう」

「・・・では、レゴラス、お前はなぜこの谷を訪れた?」

 レゴラスは、ぱっと表情を変えた。その変化のあり方を、
エルロンドは見逃さなかった。まるで鎧を着込むように笑みを作る。

「迷いこんだだけです。私は、いろいろと見て回るのが好きなもので。
父は私を閉じ込めようとしますが、こればかりは譲れません」

 無邪気に言って見せ、また窓辺の夕日に目を移す。
そしていつものように歌を口ずさんだ。

 

 

 

 輝く星の下、レゴラスは一人中庭に座っていた。
石でできたテーブルによりかかり、指を顔の前で組んで、
物思いに耽っている。唇が、吐息のような歌を形作っている。

「考え事か」

 唇は歌うことをやめたが、すぐには振り向かない。
一度瞳を閉じ、ゆっくりと顔を上げる。

「グロールフィンデル殿」

 その瞳は、どこか憂いがかかり、星の光を映し出していた。

 

 その部屋は、エルロンドのものとは大きく違っていた。
美しく施されているのにかわりはないが・・・
優美な彫刻の代りに研ぎ澄まされた剣が飾ってある。

 レゴラスはそのひとつを眺め、刃に指を這わす。

「本物だ。触らぬ方がよい」

 指先から、ほんの少し流れ出た血を、レゴラスは己で舐めとった。

「私に、何かお話が?」

 飾られた剣の前で尋ねる。グロールフィンデルは座ることも勧めず、
レゴラスの前に立った。

「単刀直入に聞きたい。目的は何だ?」

 まるで質問の意味がわからないように、丈高きエルフを見上げる。

「エルロンドは優しかろう。だが私は違う」

「グロールフィンデル殿、貴方は優しくない、と?」

 威厳ある戦士に詰寄られ、レゴラスはあとづさって壁に背をぶつけた。
頭上数センチの位置に、剣の先がある。

 しかし、怯えたそぶりは微塵も見せない。

 それどころか、レゴラスは冷たく笑んでさえいた。

「・・・私は闇の森で生れました。美しく平穏な時代を知らない。
身を守る術として、戦い方を身に付けてきました。
それゆえ、私は強きものに惹かれます」

 グロールフィンデルの刺すような視線を、真向から受けとめる。

「フォルノストの英雄たる貴方に、憧れております。
そして、強き戦士の住まうこの谷に、魅了されるのです」

 ゆっくりと、グロールフィンデルは片手を差上げ、
レゴラスの細い首にかける。

「嘘が、下手だ」

「嘘だとおっしゃるのなら、なんとでも好きにされるとよいでしょう」

 指先に、ほんの少し力を加える。

「細い首だ。指先だけで殺せる」

 レゴラスは、まっすぐグロールフィンデルを見つめ、
一度たりとも視線を泳がせたりはしない。

「・・・・私が、何の覚悟もなくノルドの国へ赴いたと御思いですか? 
それこそ私を見くびりすぎていると思いませんか」

「死をも覚悟していると言うか」

 レゴラスの、蒼い瞳が鈍く光る。

 ゆっくりとレゴラスは片手を上げ、頭上の剣に触れた。
鋭い切先に手のひらを押し当てる。そこから鮮血が滴った。

「恐れを知らぬのだな」

 血の滴る手を、グロールフィンデルに向け、狡猾に笑む。
グロールフィンデルはレゴラスの手をとり、手のひらの血を舐めた。

「・・・シンダールの血は、甘いな」

 腕を掴んだ手を引き、冷たい床に押倒し、レゴラスの華奢な体にのしかかる。
グロールフィンデルは、己の下の若いエルフに、残酷なほど優しく微笑んだ。

「その覚悟は、どこまで本当だ?」

「試してみるといい。私が泣言を言うか」

 

 

 挑発に乗るのは、二度目だ。

 昔、彼の父を犯した時のように。

 冷静な判断を欠いてると、館主は怒るだろう。
そう、エルロンドなら、この若きシンダールの王子を
説き伏せることもできただろう。館主は、そういう男だ。

 だが、自分は違う。

 優しさなど、必要ない。

 目的のためなら、手段を選ばぬ。

 戦う運命の元に生れてきた。

 そして

 数々の功績をあげてきたのだから。

 

 

 白き肢体を貪りながら、僅かな罪悪感も芽生える。

 彼がスランドゥイルと決定的に違うところは

 

 死線を知らない

 

 というところだ。

 ドリアスの死闘を経験し、憎しみと悲しみを昇華した、奴とは違う。

 余裕が違う。

 それゆえ、

 グロールフィンデルは、この青年を殺してしまうのではないかという
己の欲望に気付く。痛みを知らない者に、痛みを与える快楽。

「許しを請え。さすれば私はお前を放そう」

 貫かれる痛みに、半ば朦朧としながら、
レゴラスは傷ついた手をグロールフィンデルの頬に当てた。

「・・・私は・・・ただ歌うことしかできない小鳥ではありません。
簡単に、握りつぶされなどしない!」

 そう、その強さだ。

 己の心を乱すのは!

 暴力に決して屈しない、その芯の強さに苛立たされる。
ノルドは、決してシンダールを駆逐することはできない。

「泣くなよ」

 片手でレゴラスの口を押え、
グロールフィンデルは激しく欲望を彼の体内に注いだ。

 

 

 

 冷たい石の床の上で、青ざめた唇のまま、
レゴラスはいつまでも動けないでいた。

 手のひらの傷は乾いていたが、欲望をねじ込まれた傷が、
いつまでも彼を床に縛り付けていた。

「死にはしない」

 声のする方を、ぼんやりと眺める。

「痛みは消えぬだろうがな」

 彫刻の施された椅子に座り、その男は血の様に赤いワインを飲んでいた。

「・・・今年の・・・ワインの出来はいい」

 乾いた声で呟き、レゴラスは、下半身を引きずるように体を起した。

「エルロンドに泣きつけ。痛みを消してもらえる」

 自虐的な言葉だ。レゴラスはほくそえんだ。

 時間をかけて起きあがり、自分を犯した男の傍らに跪く。

「グロールフィンデル殿・・・貴方は誰を抱いたのですか?」

 グロールフィンデルが、眉根を寄せる。
レゴラスは、蒼い瞳をまっすぐに彼に向けた。

「貴方は、私など見ていません。私がここに来たときから。
私の中に入っているときまで、貴方は私を見ていませんでした。
自分でもお気づきでしょう? 貴方が私の瞳に見ているのは、
私の父、スランドゥイルです。貴方の心には、父しかいない」

 レゴラスの言葉に、息を呑む。

「私は・・・貴方を振り向かせます。父の幻影ではない、私を」

 レゴラスは立ちあがり、一度よろけた。とっさにその体を支えてやるが、
その手をレゴラスは振り払った。

「私に優しさなど、必要ありません」

 乱れた服を引き寄せ、体を引きずるようにレゴラスは出て行った。

 

 夜明け前の、閑散とした時間。

 

 グロールフィンデルは、ワイングラスを壁に投げつけた。

 

「今更私に罰を与えるつもりか」

 

 ひとりごちて、窓の外の月を見上げる。

 欲望の代償は、あまりに大きい。