「私を・・・恐れぬのか?」

「なぜ恐れる必要がある?」

 グロールフィンデルは、受取ったナイフをさやに収めた。

「死を、恐れぬか?」

 意味ありげに、スランドゥイルは口元をつり上げた。
グロールフィンデルの質問には答えず、手元にあった木の枝を
炎に投げこむ。オレンジ色の炎が、一瞬高く燃え上る。

「ノルドを憎んではいないのか? なぜ私をここに導いた?」

「質問攻めだな」

 ほくそえむ輩に、またグロールフィンデルの胸が痛む。
この苛立ちは、何だというのだ。

「この森には魔法がかけられてある。メリアンの守りの魔法に比べれば,
あまりに儚いものではあるが。森に害成すものは入ってはこれぬ。
だがそなたは迷いこんできた。私はそなたの正体を知るために来たのだ。
森を出れぬのは、心にわだかまりがあるからだ。私はノルドールを好かぬ。
もしそなたの目的が我らの王国の破滅であるなら、
私はそなたを切って捨てよう。
我らの王国を、二度とノルドールに汚されたくはない」

「なら、なぜ私を切らぬ?」

 スランドゥイルは、おかしそうに笑った。

「そなたは変っておる。それともノルドの民は皆そうなのか。
そなたの胸の内には、敵と味方しかないようだな。
そなたの目的は我らの王国にはない。私は迷った獣に餌を与え、
元の場所に返そうとしているだけだ」

 獣・・・ノルドを獣と呼ぶか。

「獣と呼ばれることに、不満そうだな。
私には、そなたは手負の獣に見える。
強い獣ほど、手傷を負ったとき恐ろしいものはない」

「傷など、負っておらぬ」

「ほら、そうやってすぐいきり立つではないか。
平常を見失っている証拠だ」

 月の光に似た、澄んだ笑い。グロールフィンデルは、
ふと肩の力を抜き、密かに己を笑った。

 たしかに、そのとおりだ。

「スランドゥイル・・・私と一緒に来ないか? 
ドリアスの生き残りを、エルロンドは歓迎するだろう」

 スランドゥイルはグロールフィンデルを見つめ、
微笑を悲しげに歪めた。

「シンゴル王の世継が、そちら側についたのは残念だ」

 それが、答。もとより期待はしていなかった。
そう簡単になびくような奴に、心奪われたりはしない。

「私はそなたらに聞きたい。そなたらは何を望んでおる? 
魔王の滅亡か、ミドルアースの平和か。その先に、何があるのだ? 
献身的に戦いに明け暮れ、望みが成就されたとき、
そこにそなたらの幸福があるのか?」

「もちろんだ」

 そう答えたあとで、不安がよぎる。

「目的と手段を、取り違えてはおらぬか」

 何が言いたい? 何を否定する? 
ほかにどのような方法があるというのだ? 
スランドゥイルは、そっと手を伸ばしてグロールフィンデルのあごに触れた。

「ノルドの戦士よ、そなたは生きていて楽しいか」

 反射的に、グロールフィンデルはその手を払って飛退いた。

 なぜ?

 誰かに触れることなど、もう記憶にないほど忘れ去られていた。
グロールフィンデルの反応に、スランドゥイルはくすりと笑いをもらした。

「恐れているのだな」

「恐れるものなど・・・ない!」

 

 なぜ、そんな行動に出たのだろう?

 挑発されたからか?

 己を否定されることに怒りを覚えるのは、自分に自信がないからだ。
そんなことはわかっている。そうやって蛮行に走る愚か者を、
歴史の上で数多く知っている。

 それでも、許せないと思った。

 気付くと、スランドゥイルの上にのしかかり、その首に手をかけていた。

 そして

 シンダールの王の子は、蒼い瞳でじっとグロールフィンデルを見上げていた。

 

 非難するでもなく、抵抗するでもなく、己に与えられる暴行を受入れる。

 ただ苦痛に顔をゆがめ、悲鳴を押し殺すように唇を結んでいる。

 そんな態度に、また怒りを覚え、苛立ちのまま、
グロールフィンデルは彼を犯した。

 

 

 

 いつから意識を失っていたのだろう?

 グロールフィンデルは風のささやきを耳にし、
星の輝きをその目に認めた。

「・・・美しい・・・空だ」

「今ごろ気がついたか」

 風のささやきの代りに、静かな声がその耳に届いた。
あれは、風ではなく、彼の歌声だった。

 ハッと我に返り、体を起す。

(夢・・・を、見ていた?)

 いったいどこからが夢だったのか? それともすべて真実か?

「私はお前を・・・」

 隣に座り、星を眺めていたエルフが、振りかえって静かに笑う。

「殺しはしなかったよ」

 引きちぎられた外套の止め具が、痛々しく垂れ下っている。

「私は・・・・」

 いったい、何をしたのだろう? 
どんな罪を、犯したというのだろう・・・。
辱めを与えるということは、死を与えることと同じだ。

「そなたは私を殺さなかった。ノルドールの呪縛に、勝ったのだな」

 それ以上の言葉を失い、スランドゥイルを見る。
彼は多少血の気の失せた顔で、東の空を指差した。

「見よ。夜明だ」

 地平線の彼方が、明るい銀色に染まっていく。

 いつまでもいつまでも、二人はそれを見続けた。

 やがて、グロールフィンデルはポツリとつぶやいた。

「美しい、空だ」

 その言葉に、スランドゥイルは笑った。

 夜明の光を背に受け、そのシンダールエルフは穏かに笑った。

 それは、生れてはじめて見る、美しい光景だった。

「闇ばかりを見つめていて、光を忘れていたのであろう? 
ヴァラールの与えたもうた恩恵である、この地の美しさを。
空も、大地も、森の木々も、風も、雨さえ、
ヴァラールの光が宿り、そして美しいのだ」

 スランドゥイルは立ちあがり、その身に付いた泥を払った。

「私はこの美しきものを愛している。
それを汚す悪しきものと戦うそなたらを、私は認めよう。
共に歩むことはないがな。そなたも道を間違えぬよう、
心しておくがよい。闇を倒すための戦いではなく、
光を守るための戦いなのだ」

 グロールフィンデルは乱れた服を整え、そして立ち上がった。

 スランドゥイルが口笛を吹き、片手を差出す。
その指先に、夜明の喜びを歌う、一羽のツグミがとまった。

「鳥についてゆくがよい。出口は見つかる」

 投げ出された己の剣を拾い、見に付けながらグロールフィンデルが頷く。

「エルロンドに伝えよ。我らに干渉するなとな」

 まるで冗談でも言っているように笑うスランドゥイルに、
グロールフィンデルは真顔で応えた。

「・・・たとえ袂を分っていても、
我々はシンダールの隠れた王国を見捨てはしないだろう。
我らの力が必要なときは、イムラドリスを訪ねるがよい」

 スランドゥイルは何も言わず、指を開いた。ツグミが飛立つ。

 グロールフィンデルは、シンダールエルフに背を向けた。

 

 そして、美しき森を、永遠に後にした。