馬鍬谷

 

 

 

望郷

 

 

 

 

 

 エオウィン姫は、アラゴルンの後を追いかけ、追いつき、懇願した。

 連れて行ってください、と。

 貴方と共に戦いたい、と。

 アラゴルンはやわらかな声色で、しかしきっぱりとそれを断った。

 

 急ごしらえの仮小屋とはいえ、簡素な二階建ではある。
一階二階共に二つづつ部屋がある。多分、一番大きな小屋だ。

 指揮官が寝泊りするための。

 二階の窓から、レゴラスとギムリは二人のやりとりを見ていた。
相変わらずレゴラスは窓辺で外側に腰掛、足をぶらぶらさせている。
内側でギムリは窓枠によりかかっていた。

「無粋な男だなあ、アラゴルンの旦那は。美しい姫に言寄られて、
眉ひとつ動かさない」

 ニヤニヤしながら言うギムリに、レゴラスが笑いかける。

「君が姫のような女性が好みとは知らなかったよ」

「よせや。美人だが、俺の好みじゃないな。ちょっと違う」

「奥方の足元にも及ばないって?」

「おいおい、女性にそんなこと言うもんじゃない。エルフってのもダメだな。
もっと女性には親切にするものだ」

「ドワーフを見習って?」 

 ドワーフ族の女は極端に少ない。人間のようにすぐに異性と恋に落ちて
子孫を産み増やす種族ではない。だからこそなのか、女は大切に扱う。
種族を守る大切な存在だから。

「ああもう、いいよ。ほら、旦那がご帰宅だ」

 エオウィン姫が去っていく後姿をいつまでも見送っているレゴラスを窓辺に残して、
ギムリは一階に下りていった。

 

 

 小屋に入ってきたアラゴルンは、さすがに疲労の色が濃く見えた。

「色男だねえ」

「からかうな」

 ギムリを見て、それでも明かに安堵したようだ。今のアラゴルンには、
女性とのしがらみより男同士でいる方がよっぽど気が楽なのだろう。
それでなくても、これからの道は平坦ではないのだ。

「寝室は上に二つと下にひとつ」

 一階の大半は居間で占められている。居間といっても、簡素な木のテーブルと
椅子が何脚か置いてあるだけだが。テーブルの上には、ワインの壷と人数分のグラス、
そして手を洗うための水が置いてある。

 アラゴルンは水を器に注いで顔を洗った。

「当然俺様は下を使わせてもらうよ。エルフと違って、高いところじゃ安眠できないんでね」

 アラゴルンはそれとなしに肯定した。あまりギムリの話を聞いていないようだ。
上に行って眠る、ということ以外は。

「俺は疲れているからすぐに眠っちまう。眠っちまえば物音は気にならないからな。
声も聞えないだろう」

 用意された清潔な布で顔を拭きながら、アラゴルンは顔を上げた。

「?」

「まあ、そういうこったから、ゆっくりと休んでくれや。
また当分屋根のあるところじゃ休めないだろうからな」

 やっとギムリの言っていることを察する。ガラにもなく頬が引きつる。

「ギムリ、君は何か勘違いをしている。そういうことは・・・」

「おやすみ。旦那」

 アラゴルンの言葉を最後まで聞くことなく、ギムリは奥の寝室に入っていった。

 アラゴルンはため息をついて、二階に上がる階段を上った。

 

 

 レゴラスはまだ窓辺に座って外を眺めていた。

 闇夜に浮ぶ遠くの高い山々を。美しく輝く星々を。

「眠らないのか?」

「眠るより、星を眺めている方が休まる」

 アラゴルンは頭を振った。いくら睡眠をあまり必要としないエルフでも、
それでも眠れるときには眠った方がいいのだ。

「・・・何を・・・考えている?」

「エオウィン姫には可哀相なことをしたね」

 一瞬、むっとする。

「俺に、姫を連れて歩けと?」

 レゴラスは窓辺からひらりと舞い降りた。月の明りに髪の色が透ける。

「いろんな生き方があって、それを選ぶのは自由だけど、
姫は大切なことを知らないようだね?」

「大切なこと?」

「守るものがあるから、男は戦いに出られるということ。
後を守る女性がいるから、男は安心して外に出られる。
特に、アラゴルンのように運命が常に外を向いている人間にとってはね。
アルウェンは貴方を支えている。見えないところでしっかりと。
そういう女性の生き方を侮ってはいけない。本当に強い女性にしかできないことだ」

 愛しき姫の名に、目を細める。

「・・・ああ。俺は・・・アルウェンがいるから戦える。どんな苦難にも耐えられる」

 レゴラスはアラゴルンの肩に手を置いた。レゴラスは、二人を祝福している。
見守っている。

「隣で支えてくれる奴もありがたいけどな」

 レゴラスのその手を、アラゴルンは掴んで唇を寄せた。

「貴方は前だけを見ていればいい。そのために私がいる」

 アラゴルンは乱暴なほどレゴラスを抱き寄せ、腕の中に閉じ込める。

 手の届く安らぎ。信頼という名の安心感。

 珍しく抗うことをしないレゴラスに、アラゴルンは抱しめながら囁いた。

「何を、考えている?」

 しばらく黙っていたレゴラスは、つとアラゴルンからすり抜けた。
何かに憑かれているように、また窓辺に戻って空を見上げる。

 何を想っている?

 アラゴルンは隣に立ち、同じ夜空を見上げた。闇に浮ぶ星々が美しい。
かの谷の王のように。そのぬくもりを、思い出しているのか・・・?
 自分は約束を交した女性をもちながら、隣のエルフの思い人には嫉妬する。
わがままな生物だ。

「・・・ずいぶん、遠くに来てしまったね。覚悟はしていたけど、
・・・どうしようもなく心が求めてしまう」

「谷を?」

「森を」

 珍しい。レゴラスが弱音を吐くのを始めて聞いた。
彼を信じ、頼りにしすぎていたのか。統率者としては失格だな。そんなことを思う。

「帰りたいか? 止めはしない」

 レゴラスの唇が笑みをつくる。なんて儚い笑みをするんだ?
 見ている方が切なくなる。

「違うよ。違うんだ・・・。ヘルムの戦いでオークの大軍を目にしたとき、
・・・正直辛かった。戦うことがじゃない。もし指輪を消し去ることができなければ、
近いうちに僕の森も同じ大軍に攻め入られるだろう。勝ち目はない。
その時、僕は森に帰れるだろうか、間に合うだろうかと・・・それが辛い」

「今から帰ればいい。エルフの足なら・・・」

「違うんだよ、アラゴルン。どのみち指輪を葬ることができなければ、同じなんだ」

 想像していたよりもずっと困難になってしまった旅に、不安を抱くのは当然の事だ。
守るべきものを失う不安。

「すまない。誰もが同じ思いなのに」

「かまわないさ。お前が弱音を吐くところをはじめて見た。その方が守りがいがある」

 またくすくすとレゴラスが笑う。

「貴方が守るのは僕じゃない」

「手の届く安らぎを守れなくて、遠い地の愛すべきものを守れはしない。
俺を信じろ、レゴラス。必ず勝つ」

 人の王たる威厳。レゴラスは静かに頷いた。

「フロドたちは・・・大丈夫かな?」

「大丈夫さ。それこそ、信じるしかないだろう? 小さい人は思いのほか頑丈にできている。
信じるに足る価値を十分備えている。俺は俺の道を進み、全力をつくす。
エルフが一番だなんて思うなよ、他の種族だって十分強いんだ」

 そうだね、と呟く。世界で一番優れた種族がエルフであると思っていた。
だが、今回の旅でそれは覆された。それぞれの種族の、それぞれの優位を認める。
エルロンドが多種の種族を代表に選んだのは、正解だったというわけだ。
それぞれに、己に見合った役割がある。

「レゴラス」

 アラゴルンはレゴラスの身体を自分に向かせ、そっと唇を合わせた。

「信じている」

 呟く言葉は、愛の告白に似ている。いや、それよりずっと心に響く。

 この男は、人の心に響く言葉を知っている。

 敬愛すべき、王。

 そして、レゴラスがすでに抗う術がないことも。

 人を、虜にする存在。

 

 アラゴルンはレゴラスをベッドに押倒し、服の留金を外した。
あらわになった白い肌に、唇を押し当てる。

 レゴラスは、じっと天井を見つめた。彼が求めるものを与えよう。
それが何であっても。

 そのまま時間が過ぎていく。わかっていたことだが、レゴラスはほくそえんだ。
アラゴルンの乱れた髪を撫で、そっと押しのける。

 アラゴルンは眠っていた。

「気持ちよさそうに・・・」

 深い眠りの底にいる愛しい男に、そっと口づけて、レゴラスは起き上がった。

「おやすみ。愛しい人」

 しばしの眠りを堪能してくれ。

 

 

 

 物音に、ギムリは目を覚ました。

 入口のドアから、わずかな光が差込んでいる。

「レゴラス?」

 眠い目をこすって身体を起す。

「ごめん、眠っていたのに」

「いや、かまわないが・・・アラゴルンの旦那は?」

「眠ってる」

「眠ってる?」

 ギムリは飛び起きた。

「なにやってんだ、あの旦那は!」

 自分のことのように声を荒げる友人に、レゴラスは笑いながら声を落すように手振りした。

「わがままな奴だな、俺様が気を使ってやってるのに」

「疲れているんだよ」

「だから・・・」

 言いかけてため息をつく。ギムリはがっくりと肩を落した。

「ワインでも付き合おうか?」

「いや、いい。ごめん、顔を見たかっただけだから」

 ベッドから降りようとするギムリを軽く制する。

「俺じゃ沿い寝にならねえからな」

 にやりと笑うギムリに、レゴラスは笑って見せる。

「本当に大丈夫か?」

「うん。夜風にでもあたってくるよ」

 出て行こうとするレゴラスを、ギムリは呼びとめた。

「眠れよ、本当に」

「大丈夫。ありがとう。起してごめん。君の方が眠りが必要なのにね。
明日は『死者の道』だ」

「うえっ嫌なことを思い出しちまった」

「不安なら手を引いていってあげるよ」

「勘弁してくれ!」

 二人は笑い合い、おやすみ、と残してレゴラスは出て行った。

 残されたギムリはベッドに突っ伏し、すぐに眠りに落ちながらも吐き捨てるように呟いた。

「本当に困った旦那だ」

 

 

 

 夜が明ける。

 濃紺の空に、銀色の光が差込み始める。

 起き出したアラゴルンは、水で顔を洗った。ギムリはもう仕度を終えており、
レゴラスの姿はなかった。一番に起きた彼は、日の光を浴びに行っていた。

「おはよう、旦那」

 毒を含んだ声色。一瞬アラゴルンは眉をひそめたが、
すぐに思い当って忙しいふりをはじめた。

「仕度はできているのか?」

「ああ、もうすっかりね」

 背中にとげを感じる。

「旦那よ、二人の関係に俺が口をはさむのはおこがましいかもしれないが、
・・・全てが終ったら、一発殴らせろよ」

 荷物を整える手を止め、アラゴルンは振り向いた。一息置いて、ギムリを直視する。

「わかってる。好きなだけ殴ればいい」

 全てが終ったら。

「自分がひどいことをしているのはわかっているつもりだ。謝る術もない。
これは俺の甘えだ。認めるさ、レゴラスに甘えていることを。
だが、これだけは言わせてくれ。魔王を倒して世界を救うこと以外に、
俺はレゴラスの気持に報いる事はできない。所詮、俺は去り行く者だ。
一緒には歩けない」

 たとえ、アルウェンの事がなかっとしても。純粋なエルフであるレゴラスは、
有限の命を選ぶことはできないのだから。

「俺だって不死じゃいさ」

「それでもドワーフの方がずっと長生きだ」

 ギムリは首を振った。自分は恋人ではないのだから。

「君と一緒なら、レゴラスはずっとエルフらしく生きられるだろう。
いらぬ苦しみを味わう心配がない」

「・・・傲慢だな」

「人間とは、傲慢な生物だ」

 その時、ドアが開いてレゴラスが入ってきた。いつもの悪戯っぽい笑みを浮べている。

「やっと起きましたか? 指揮官が朝寝坊とはね。皆外で待ってますよ」

「起してくれればよかったのに」

「屈強な指揮官殿は、朝一人で起きることもできないんですか?」

 いつもの軽口に、お手上げという身振りをする。

 そして、安堵する。

 レゴラスは、不安を和らげる術を知っている。子守唄をたくさん知っている母親のように。

「ああ、行こう」

 アラゴルンは、装備を担ぎ、ドアを抜けた。レゴラスとすれ違う瞬間

「愛してる」

 とエルフ語で囁いた。

 

 

 続いてギムリも己の重い装備を担ぎ上げる。それに比べて、レゴラスのなんて軽装な事か。

「羨ましいかぎりだ。本当は俺より力もちのくせに」

「重い鎖帷子より軽いこの足の方が僕を守ってくれるんでね」

 置いてあった自分の矢筒を取り上げる。

「ギムリ」

「なんだ?」

 いっぱいの笑みのまま、レゴラスは言った。

「アラゴルンを殴ってはいけないよ」

 ギムリが口元をつり上げる。

「聞いてたのか」

「聞えるよ、あんな大きな声でしゃべっていたら」

「不便な耳だな」

 ふふ・・・っとレゴラスは鼻で笑う。

「殴るときは僕が自分でやるから」

「エルフの一発は、ドワーフよりキツイだろう?」 

 意味ありげに微笑むレゴラスの、瞳からだけ笑みが消える。

・・・・どうして僕は、彼を好きになんてなってしまったのだろう?

 共に生きることさえできぬと言うのに。

 いつから好きになってしまったのだろう・・・?

あの傲慢な瞳の奥に。

 ほんの少しまで、小さな子供だった彼に・・・。

 こんなときに「愛してる」なんて言葉を言う、酷い男に・・・。

「レゴラス」

 ギムリの声に、はっと我に返る。

「約束、忘れるなよ。全部終ったら洞窟を見に行くんだ」

「フォルンの森もね」

「げっ覚えてやがったか。仕方ねえ、付き合ってやる」

 二人は笑い合い、小屋を後にした。

「・・・ありがとう」

「貸しは高くつくぞ」

「覚悟しておくよ」

 東の空は、太陽を今かと待ちわびるように明るく照らされていた。