あたしは、自分がどこから来たのか知らない。 名前もないし、どこに行こうとしているのかも分からない。 ただ、あたしはあたしで、双子の弟がいて、 三人で今食べるものを手に入れるので、せいいっぱいだった。 たぶんあたしたちは、ニンゲンというより、 ニンゲンのマチで暮らすポケモンみたいなもの。 あたしは、ソレに出会った。一目で釘付けになった。 緑色の髪をした、男。 背が高く、品のある身なりをしていた。 こいつの財布をいただこう。 あたしはそう決め、弟たちに物陰で待っているように指示をして、 そっと男の後をついて行った。 男は、人ごみの中を歩いて行く。 ごちゃごちゃしているのに、その男の周りだけ光が差しているみたいだ。 男の足取りは優雅で、決して見失う事はない。 ああ、でも、あたしはだめだ。 人ごみは苦手だ。 たくさんの人間の声、足音、人間の波に流される。 行ってしまう。 あの男が、行ってしまう。 あたしは、無我夢中で片手を前に差し出した。 海で溺れている人みたいに。息ができなくなりそうで、涙がこぼれる。 「……………」 何かが、あたしの手を掴んだ。 そのまま、ぐいと引き上げられ、気づくとあたしは、その男の腕の中にいた。 男の胸の位置に抱き上げられ、あたしは呆然と男の顔を見た。 左右の、目の色が違う。 「大丈夫か」 あたしは、みっともないくらいに口を開けたまま、目を瞬いた。 涙が止まらない。 「どうした? わたしから、何を盗みたかったのだ?」 言葉が出ない。違う、あたしは、最初から言葉を知らないんだ。 きっと。あたしはみっともない、何の役にも立たない、ボロクズみたい。 泣き続けるあたしを抱きかかえたまま、男は人ごみを抜け、もと来た道を戻って行った。 そして、背の低い街路樹のところで腰を落した。そこには、あたしの弟たちが待っていた。 弟たちはあたしにしがみつき、あたしも弟たちを抱きしめる。 立ち上がった男は、あたしに手を差し出した。 あたしは、泥と汗と涙で汚れた手で、男の手を握った。 あたしは、男の足の間で、男の胸にもたれて、ぼんやりと窓の外を見ていた。 きれいな部屋。ふかふかのベッド。石鹸の匂い。おなかいっぱい食べたスープ。 これは、現実だろうか。 弟たちは、男の両脇で、やっと見つけた親に甘えるように、男にすがって眠っている。 男は、窓の外を眺めながら、時折そっとあたしたちの髪を撫でる。 これは、夢じゃない。 きっと、あたし、この後、酷いことをされる。 今までずっと、そうだった、大人の優しさには、裏がある。 あたしたちに優しくしてくれた大人は皆、その後酷かった。 殴られたり、売られたり、泥棒をして来いと命令されたり。 そのたび、あたしたちは死に物狂いで逃げてきた。 でも、 もう、いいや。 「なんで、あたしたちを拾ったの?」 「なぜ、ついてきた?」 あたしは、大きく息を吸った。 「………おなかが、すいてたから」 男は、あたしと弟たちの髪を、順番に撫でた。 「きれいな髪だ。こんなに見事な銀髪は、はじめて見たな」 きれいな髪、そんなことを言われたのは、初めてだ。 「名前は?」 男の質問に、あたしは首を横に振った。あたしたちに、名前なんかない。 「では、わたしが名をつけてやろう」 一呼吸置いて、男の唇が、微笑むように動く。 「トリニティ」 男の声は、甘美な響きを持って、あたしの耳にくすぶる。 「なあに、それ?」 「父と、子と、精霊」 「わかんない」 ふふ、と男が耳もとで笑う。男の息遣いは、まるで春のそよ風。 温かくて、やわらかい。 「ツェト」 そう呼んで、男があたしの髪を撫でる。 「イプス……イクス」 弟たちの髪も、同じように順番に撫でる。 あたしは振り向いて、男の顔を覗き込んだ。 男は指を立て、宙に何かを描く。 それは、後になって知ったのだが、アルファベットだった。 その時まだ、あたしは文字を知らなかった。 男は、ZYX と指で描いた後、G と指を振り、 「わたしはゲーチス」 と呟いた。 「わたしは自分を探している。自分が何者なのか。何をすべきなのか」 あたしは男、ゲーチスのわずかに色の違う瞳を交互に見る。 その瞳には、あたしが映っている。 「そう、右目だけではない。腕も、足も、時折感覚が鈍る。 いつかわたしは、右半身を失うかもしれない。その前に…………」 あたしはゲーチスの右手を握って、自分の顔に持っていった。 温かくて、大きな手。 「手伝う」 そう言って、あたしはゲーチスにしがみつく。 あたしの動きに反応して、弟たちもしがみつく手に力を入れる。 捨てないで あたしたちを 捨てないで 何でもするから お願い *** あたしたちは、ゲーチスと旅をした。 もともと、あたしたちはすばしっこかったし、器用な方だったんだ。 「トリニティ」 ゲーチスがあたしたちを呼んで、崖の上にある洞窟らしき穴を指差す。 あたしたちは一つ頷いて、ひょいひょいと崖を上って行き、穴に潜り込む。 「何かあるよ」 弟が、古くて汚れた何かを拾ってくる。あたしはそれを握って、崖を駆け下りる。 「…古い金貨だ。よく見つけたな」 そう言って、ゲーチスはあたしたちの頭を撫でる。 あたしたちは、それが嬉しくて、嬉しくて………。 ゲーチスは、何かを探していた。それも、とても古い何か。 ゲーチス自身と関係のあるものなのだろう。 世界中を旅をして、ここ、イッシュにやって来た。 ゲーチスは多くのことは語らなかったが、ここに何かがあることは、 あたしたちにも、なんとなく分かった。 その頃には、ゲーチスはあたしたちに言葉や文字を教えてくれた。 数学、物理学、哲学。ゲーチスが時折語ってくれるそれらの難しい話を、 あたしたちは真剣に聞き入った。 いつも空腹で、不安で、寂しくて、哀しかった、あの幼い日々。 今のあたしたちは、ゲーチスという存在に満たされていた。 「トリニティ」 ゲーチスはあたしたちをそう呼ぶ。 そしてあたしたちは、ゲーチスに呼ばれるたび、 胸の中が芳醇なワインで満たされていくのを感じるのだ。 光に満たされていたあたしに、ほんのわずか、水滴より小さな、 小さな小さな、黒い点が降ってきたのは、その遺跡に突き当たった時だった。 「扉が、閉じている」 重厚な石の扉に触れ、弟が呟く。 「何か書いてあるよ。読めない」 弟は一歩身を引き、入れ替わりゲーチスが扉の前に立つ。 「……古代の文字だ。………ここ…は、王の城…。 資格を…持つ者……………扉は…開かれん」 弟たちもあたしも、首をひねる。ゲーチスは、何かぶつぶつと呟いている。 遺跡の石の扉に両手で触れ、あたしたちの知らない言葉を紡いでいた。 しばらく石の扉に触れていた後、不意にゲーチスは一歩下がった。 「我は古の王の守護者なり!」 その瞬間、あたしは自分の目を疑った。声を出すことも忘れて、呆然とする。 石の扉が、開いたのだ。 あたしが驚いたのは、扉が開いた事じゃない。 ゲーチスが、自分を「古の王の守護者」と呼んだことだ。 ぽつん 何かがあたしの胸に落ちた。小さな、小さな小さな、ほんの小さな、黒いシミ。 「トリニティ、明かりを」 ゲーチスが差し出す手に、弟はランタンを乗せた。 まるで、中を知っているかのように、ゲーチスはどんどんと進んでいく。 あたしたちは、無言でついて行く。 いくつもの角を曲がり、階段を上り、下り、扉を抜け、あたしたちは遺跡の反対側に出た。 地底遺跡は、正確には地底ではなく、山の中腹をくりぬいて作ってあるようだった。 入り口は地の底だったが、遺跡の最深部は切り立った山の崖に突き抜けていた。 空を飛べる者しか、出入りのできない崖だ。 ランタンのわずかな明かりに慣れていたあたしたちの目は、 突然ひらかれた窓からの光に、眩しさにくらんで瞼を閉じる。 数秒そうした後、ゆっくりと目を開けると、まばゆい光を背に、ゲーチスが立っていた。 後光のように、ゲーチスを照らす。 「ここを、我が居城とする」 逆光で、ゲーチスの表情は伺えない。 「探すのだ。我が存在意義を。手伝ってくれるな? わたしのトリニティ」 わたしのトリニティ。 ゲーチスの言葉に、あたしは包み込まれ、飲み込まれ、 全身を言葉にはできないほどの快楽が走り抜ける。 わたしのトリニティ…… あなたは、あたしの支配者 「もちろんです、ゲーチス様」 ゆっくりとあたしに近付いてきたゲーチスは、あたしに、そして弟たちにくちづけをし、微笑んだ。