「その連絡を受けた時、俺はすぐに松苗組に殴りこんだ」

 榊はぽつぽつと語る。

「だがそこに、真司さんたちはいなかった。
今思えば、あそこで組長を殺しておけば良かった」

 敦が榊の手を探り、ぎゅっと握る。

「あん時は、そんなことをしている時間はなくて、
奴らに嘲笑されながら俺は教えられた場所に向った」

 言葉を止め、溜息をつく。

「やっとたどり着いて、若いのを引連れて乗りこんだ時には………もう遅かった」

 辛そうに唇を噛み、背を丸める。

「お嬢さんと旦那さんは殺されていて、真司さんは………」

 

 

 戸村は、タクシーであの雑居ビル、寂れた小さなビルの前に来た。

 辺りは静まり返っている。ゴーストタウンのようだ。

 ビルの外階段には、ガラの悪そうな男が一人、立っていた。
チンピラだな、と戸村は思った。ヤクザが絡んでいるのは間違いない。

「戸村さん、ですね?」

 ひょろりとしたその男は、一歩進み出る。戸村は頷いた。

「お待ちしてました」

 戸村が先に歩き、男が後から階段を上ってくる。
事務所のドアの前で戸村は立ち止ると、男にふり向いた。さりげなく周囲をうかがう。
他に見張りはいなそうだ。ってことは、戸村はそれほど重要視されていないということか。
甘く見られたものだな。

「あんた、どこの組?」

 チンピラは顔をしかめ、口をつぐんでいる。

「危ないモノ、持っていないか確めた方がいいんじゃないの?」

 挑発に乗る代りに、チンピラはドアベルを押した。
ドアを開けたのは、やはり見知らぬチンピラだった。

 戸村が中に入ると、すぐにドアは閉められた。さっきの男は、ドアの外だ。
ドアを開けた男は、その場で立ち止る。ドアの内と外を見張っているらしい。

「戸村さん、よく一人で来ましたね」

 長谷川の表情は怒りを押し殺して歪んでいる。

「そう言ったでしょう? 僕は約束は守る主義なんです」

 ちらりと部屋の中を見回す。以前見かけた社員らしい野暮ったい男二人は、
パソコンにかかりっきりになっている。修復するつもりなのだろう。必死な形相だ。
虎の威を借る狐は、面目を保つのに必死、ってところか。他には見当らない。

「とんでもないことをしでかしてくれましたね?」

「こっちも必死だったんですよ? 彼女の写真が掲載されちゃ、かわいそうですから」

「なぜ、掲載されるってわかったんですかね?」

「敦、脅したでしょう? あれ、僕の弟分なんですよ。あれもねえ、脅迫、困るんですよね。
お金払ってなかったことにするって、約束だったでしょう」

 約束? 何の約束だったかな?

 長谷川の醜く歪んだ表情に、無理矢理笑みが加わる。

「金を返せば、ワクチンをもらえますかな?」

「慰謝料含めて、二十万でいいですよ」

 ずずっと長谷川がにじり寄る。
戸村は後退りこそしないが、しばらく風呂に入っていないような強い体臭に眉を寄せる。

「こっちも慰謝料払ってもらわなきゃ、いけないんですよ。戸村さん」

 突然がしっと長谷川は戸村の手首を掴んだ。

「ヤクザをなめてもらっちゃ、困るんですよ」

「ヤクザだったんですか。どうりでやり方が汚いと思った」

 ぐっと顔を寄せられ、さすがに背を反らす。

「私はねえ、男になんか興味ないんですけどね。
どうしてもあんたを撮りたいってお人がいてね」

 奥のふすまが開く。そこに立っている男は、いつかすれ違ったあの男だ。
ふすまの向うは和室で、撮影機材が見える。

 戸村は目を細めて男を見た。そして、やっとその顔を思い出す。

「ねえ、金田さん?」

 顔だけうしろに向ける長谷川の、腕を振り解く。
不意をつかれた長谷川はよろめき、戸村は一歩うしろに下がる。

「覚えているかい? 坊や」

 戸村が気を取りなおす一瞬前、背後にいた男、
ドアの内側を守っていたチンピラの手にしたスタンガンが、戸村の背中に押し当てられた。

 

 

 坂本は、東の呼び出しを受けて、すぐに戸村の部屋に向った。
東と榊はこの部屋の認証プログラムに登録されている。

「東、なんか見つかったのか?」

「ああ。やばいのがね」

 靴を脱捨て、居間のローテーブルに自分のノートパソコンを広げている東に駆寄る。

「大門の拾ってきた掲示板のハンドルネーム、S&Wな、こいつを調べてみた。
けっこうあちこちに書き込みがある。っても、俺の好きな分野でだが」

 坂本は鼻の頭に皺を寄せ、嫌悪感を表した。

 東はグロテスクなものが好きだ。マニアと言っていい。
言葉では表現できないようなものを集めて楽しんでいる。
この変り者を手なずけたのは、戸村だ。誰も近寄れなかったこの男に、大学時代、
戸村だけが普通に接した。東は後になってから言った。

(もしあの時戸村に出会っていなかったら、俺は快楽殺人に走っていたかもしれない)

 東は自分の趣味が他者から受け入れられないのを知っている。
それを公表して喜ぶことはしない。
それを表面下に隠すことで、普通の生活を送れるようになった。
そうやって彼の趣味をそういうものと認めてしまえば、彼は信頼できる人間であることに気付く。
なにより頭がいい。機転も利く。顔には出さないが、他人を思いやることもできる。
酒の場で、酔った同僚を介抱してやることもよくある。責任感も強い。
戸村は東を一番に信頼し、何でも相談しているようだった。東は常に冷静だからだ。
坂本や杉田のように感情に流されない。だから一見冷たく見られるのだが、
彼本人が「仲間」と認めた者に対しては、厚い情を示す。

 東は持ち込んだ自分のノートパソコンのモニターを指示した。

「俗に言う体験告白掲示板、って奴。これは三年位前のものだ。
妄想殺人ってのがテーマだが、よくありがちな『妄想って事にしておいてくれ』ってものだな」

 妄想という言葉を隠れ蓑にして、自分の体験を自慢しあう。
ごく普通のエロサイトでは、坂本も馴染み深い代物だ。

「まあ、読んでみろ」

 坂本はモニターに顔を寄せた。「七年前」という書き出し。今でいえば、十年前になる。
この投稿者は、ヤクザの下っ端で、見張りを担当していた。
そこで行われたヤクザ同士の諍いと、それに伴う殺人。
その凄惨な様を目撃していた、といった内容だ。

 敵対していた組の組長の娘夫婦と十代前半の息子を誘拐。
夫婦をどんな残忍な方法で殺したのか、その死体の前で息子をどんなに酷くレイプしたのか。

「……………気持ち悪い。吐いて、いい?」

 半分も読めずに、坂本は口を押えた。

「トイレでな」

 転がるように坂本はトイレに駆け込んだ。

 しばらくして戻ってきた坂本は、真青な顔をしていた。

「最後まで、読まなきゃダメか? ちょっと、耐えられない」

 仕方がないなあ、と東は肩をすくめる。

「写真の添付とかないから、大丈夫かと思ったが」

「スプラッタ、苦手なんだ」

 詳細に書かれた文章は、東を興奮させ、普通の人の吐気を呼ぶものだった。

「いいや。だいたい分ってもらえたら」

「で? このスプラッタ野郎がどうしたんだ?」

 わからないのか? と東は眉を寄せ、そうか、知らないんだったな、と肩を落す。

「これ、戸村だ」

「は?」

 正真正銘間抜けな声を出し、坂本は首をかしげる。

「戸村のことだよ」

 嫌そうに目を細めながら、坂本がもう一度モニターを見る。
正視できない内容に、すぐに視線を東に戻す。

「十年前、何があったのか、俺だけが知ってるってのも理解できるだろう? 
戸村は誰にも話せないんだよ。俺と、榊さんだけが吐かずにいられるってわけだ」

 坂本は今度は両手を口に当てた。

「ごめん。もう一回、吐いてくる」

「急げよ。時間がないんだ」

 こくりと頷き、真青な顔で坂本はまたトイレに駆け込んだ。

 出てくるとキッチンでうがいをし、顔を洗ってから戻ってくる。すこし顔色が戻っている。

「悪い。続けてくれ」

「このレイプ犯は助けに来た榊さんがミンチにしちまったが、生き残りがいたんだな。
上手いこと逃げた下っ端が。
………実際、戸村が一番ショックを受けた事象はここに書かれちゃいないが、それはいい。
ともかく、生き残りがいるってこと、戸村や榊さんは知らないかもしれない。
ともかく、いるんだ。で、こいつはこの事件で目覚めちまった。こういう世界に」

 坂本は心底嫌な顔をする。

「スプラッタマニアは、俺だけじゃない」

 唇の端を引きつらせる東に、坂本は「ごめん」と謝った。

「問題なのは、その後のこいつだ。
同じハンドルネーム使って、そういう類のサイトに色々とアクセスしている。
その中のひとつが、ここ」

 東が開いたのは、ベビードールの裏サイト。

「おいおい、ウイルスは?」

「感染させる前に保存しておいた奴だ。安心しろ。
いくつかの画像と、掲示板を再チェックしてみたんだ。
このS&Wって奴は常連で、かなりの画像を投稿している。相手は性別年齢問わない。
つまりだ、こいつは女子高生好きではなく、SM好きだったってこと。

 三年前の告白投稿を読むと、こいつが暴力団の構成員だってことがわかる。
他の記事でもぽつぽつ自慢している。ヤクザでベビードールの常連。と、いえば?」

「ベビードールはヤクザがらみで、こいつはその関係者?」

「あたり」

 東の真剣な視線が、坂本に突き刺さる。

「戸村は知らずにベビードールに顔を出している。ご丁寧に名刺まで置いて。
ほんっと馬鹿野郎だ。警戒心ってモノがない」

 文句を吐き捨てる東は、真剣に戸村を心配しているのだ。

「このサディストが戸村の存在を知ったらどうなると思う?」

「…………」

 つ、と坂本の額を汗が流れ落ちる。

 突然東の携帯が鳴り、坂本は一瞬飛びあがった。

『東ちゃん? アタリよ! この目で確認したわ』

「杉田、すぐ戻って来い。こっちも情報を掴んだ」

 携帯を閉じると、東は半ば呆然とする坂本の肩を掴んだ。

「皆を招集しろ。どうするか手筈を整えよう」

「………榊さんには?」

「必要になるだろうな。榊さんには俺から連絡する。坂本は皆を集めてくれ」

 返事をする間もなく、坂本は携帯を開いて社員達を呼び集めた。

 

 

 榊の話す内容は、ショッキングで、現実離れしすぎている。
おかげで敦はそれを実際に起った事実として捕え、視覚で想像することができない。
それよりも、榊の話す内容より、話す榊の表情の方が痛々しい。
榊は瞬きさえせず、じっと自分の手を見下ろしている。

「真司さんは………おっきな目を見開いて、俺を見た。
でっかい涙の粒を零して、『助けて』と。『榊、助けて』と言ったんだ。
俺はその瞬間ぶち切れて、真司さんを犯した連中を撃った。
弾はすぐになくなったが、予備を入れなおして、撃ち続けた。
若いのが必死の形相で俺の手を掴んで、『兄貴、もう死んでます』って止めるまで、
撃ち続けた」

 敦の触れる榊の手は、震えている。

「それでやっと俺は我に返った。連中はもう、人間の姿を留めていなかった。
その中でぽつんと、真司さんは座りこんでいた。
さっきまで泣いていたのに………壊れた人形みたいに、見開いた目は何も見えていなくて、
俺は慌てて駆け寄って抱しめたが、真司さんはもう、何にも分らなくなってた。
俺は………ほんの少し残ってた真司さんの『心』まで、壊しちまったんだ」

 言葉を止め、苦しそうに呻く。敦には、なす術もない。ただ呆然と、榊の手を握る。

「その頃にはもう、銃声を聞きつけた奴の通報で、その場所は警察にとり囲まれてた。
俺は動かなくなった真司さんを抱き上げて、外に連れ出して、そこにいた救急車に入れた。
そのまま俺は、現行犯で捕まった。それでよかった。人を殺したからじゃない。
真司さんの心を壊しちまった罪を、俺は償わなきゃならない。
自分は死刑になるんだと、救急車を見送りながら、思った」 

「それで、戸村さんは…………? 榊さんを、赦したの?」

 赦していなければ、今ここでこうして二人でいるわけがない。
なのに、敦は聞かずにはいられなかった。

「俺は裁判を待つムショの中で、何度も自殺を考えていた。
真司さんのことを考えると、自分が息をしていることさえ許せない。
でもな、面会に来た弁護士に言われた」

(戸村 真司くんは生きています。今、病院で自分の受けた体と心の傷と戦っています。
あなたは、死んで逃げる気ですか? 生きて償いなさい)

「自殺を思い留まって、裁判を待った。しばらくして、組長が面会に来てくれた。
組長は、真司さんが意識を取り戻したことを教えてくれた。
意識がもどって、真司さんがまっ先に尋ねたのは、俺のことだったと。
両親は死んだ。目の前で殺された。でも、榊は生きている。
自分の最後の家族だから、絶対に死なせないでくれと、そう頼まれたと言っていた。
両親と自分の復讐はしない。その代り、松苗組と交渉して、示談にしてもらえないかと。
それで俺は、死刑の代りに懲役刑を受け、模範囚として仮出所することができた」

 ゾクリ、と背中が寒くなる。戸村は、いったいどんな傷を抱えているのだろう? 
何を決意し、何がそこまで彼を動かしたのだろう? 
敦の目に浮ぶ戸村は、偉そうにふんぞり返って、笑って、寂しそうに酒を飲んでいる。

「一年くらい入院していたらしい。退院すると、何度も俺に会いに来てくれた。
出所したら、もうヤクザなんかやめろって。ちゃんと働ける場所を、作っておくから。
だから、早く出て来いって。真司さんは、そう言ってくれた。
俺は、真司さんのためだけに、生きようと決めた」

 榊を見つめる敦の瞳から、涙が零れる。

 かなわない。天地がひっくり返ったって、自分は戸村にはかなわない。
戸村が榊を思う気持には、榊が戸村を慕う気持には、かなわない。

「………すまない、敦」

 ぼろぼろと涙を零す敦に、榊は頭を下げた。 

 

 

 戸村は、痛みで目が覚めた。

 頭が痛い。ガンガンする。胃の中はひっくり返りそうだし、
目玉はぐるぐる回っているようだ。二日酔いにも似ているが、まったく違う気もする。
体中が痛い。特に、肩から腕にかけて。

 努力して目を開ける。視界には靄がかかり、ぼんやりして何も見えない。
何度もまばたきをして、身じろぎをして、やっと現状を理解できた。
酷い頭痛は、倒れた時に頭を打ったせいだろう。
冷静に、少しばかり頭を動かして自分を見下ろす。

 まず、眼鏡をかけていない。致命的だ。裸眼で車の運転はできないほどの視力なのだ。
それから、両腕をうしろに回され、ガムテープか何かで手首を拘束されている。
足は自由だ。動かせる。コートとジャケットは脱がされ、今はワイシャツとネクタイ、
それとスラックス姿。革靴も履いていない。寝かされているのは、汚い毛羽立った畳の上。

(掃除してるのかね? 僕の言えたギリじゃないが)

 なんとか頭痛を折合いをつけ、上体を起す。と、和室の蛍光灯とは別に、
何かのライトに照らされてまぶしくて目を閉じる。

「お目覚めかい?」

 手をかざすことができないので、目を細めて、なんとか声のする方を見る。

「俺は、メガネっ子は好きだ」

 何言ってんだ? こいつ? 目を細めたままでいる戸村に、眼鏡がかけられる。
ライトも出力を少し落したようだ。

 その男は、三十代から四十代前半といったところで、すらりとして、優しげに見えなくもない。
見えなくもないというのは、戸村にはその笑顔の裏が透けて見えるからだ。
そん所そこらの女子高生とは違う。こういう奴の笑みには、騙されない。

「俺を、覚えているかな?」

「…………前に、ここの事務所ですれ違ったよね?」

 自分の出した声に咽る戸村を、その男は優しげに支える。その指先には、悪寒が走る。
身をよじって畳に倒れこみ、戸村は顔をしかめた。

「無理はしない方がいいよ、真司君」

「名前で呼ばれるほど、親しくないはずだけど?」

 男の笑みが広がる。残忍な笑みだ。

「十年前のプレイ、忘れちゃったのかな?」

 十年前、その言葉がキーポイントのように、男はゆっくりと発音する。
それが戸村にはおかしかった。

(ああ、それね? それならもう、攻略しちゃったよ。あそこのボスは手ごわかったね。
でもね、もう倒しちゃったんだ。あのゲームは、もう終ったんだよ)

「何がおかしい?」

 どうやら笑っていたらしい。それに気付いて、戸村はよけいに笑い出した。

「覚えてるよ、うん。忘れてたけど、思い出した。いたねぇ、下っ端が。
見張りか運転手、だったかな? うちの組の連中が殴りこんでくる前に、
尻尾巻いて逃げちゃった奴だろう? おかげで命拾いしたわけだけど。
人間、臆病なくらいがちょうどいい」

 嘲笑するような戸村の口調に、男の平手が飛ぶ。
支えるもののない戸村は、横に倒れ込んだ。
もっとも、飛んでくる手のひらが見えていたので、
わざとそちらに体を倒して受ける力を弱めたのだが。
それでも相手は、戸村を引っ叩いたことに満足している。

「今の発言は許そう。なんと言っても、君は俺を目覚めさせてくれた本人だからね。
あれは実にいいプレイだった。思い出しただけで興奮する。
是非俺もプレイに入れて欲しかったよ」

「参加してたら、今ごろここにはいないだろうけど」

「年端もいかない少年を思い通りに痛めつけられたら」

 戸村の言葉なんか、まったく聞いちゃいない。男は一人悦に浸っている。
タチが悪いな。戸村は小さく舌打をした。東はスプラッタマニアだが、サディストではない。
この男は反対だ。

「十年経っても、君はかわいいね」

「ありがとう。童顔だってよく言われる」

 男、金田はバタフライナイフを抜いて、刃先を戸村の頬に触れさせた。
冷たい金属の感触が、痛む頭には心地よい。

「あの時、顔は傷つけなかったよね? 体の傷はどうなったのかな?」

 シャツが捲り上げられ、胸まで露になる。そこには、うっすらとした無数の傷跡。
金田の顔は、喜びに満ちている。傷跡のひとつにナイフを滑らせ、肌の表面を傷つける。
そこから、鮮やかな血が玉になる。

「君の白い肌には、血が似合う」

「そりゃどうも」

 うんざりとしたように戸村は応えた。

 痛みも恐怖も感じないのは、十年前の事件のせいだ。
戸村は、性的に不能というだけでなく、痛みに対してもかなり不感症であった。
体の感覚が、かなり鈍くなっている。
以前仕事中、カッターでざっくり指を切ってしまった時も、
血で書類が汚れることに慌てただけだ。
杉田が蒼白な顔で止血してくれたが、痛いとはこれっぽっちも感じなかった。
血のだらだら流れる指先を東に向けて、「欲しい?」と冗談めかして聞くと、
東は興奮を必死で押隠して「いらない」と否定し、他の社員達の反感をかった。
痛みに鈍感でることも、公にしてはならないことのひとつだ。恐怖を感じないこともそう。
東の秘蔵スプラッタ画像倉庫を見ても何も感じないし、
ジェットコースターもバンジーも観覧車と同じにしか感じない。
十年前のあの時、自分で自分の中のいくつかのスイッチを切ってしまったのか、
ショートして壊れてしまったのだろう。

 まったく怯える素振も見せない戸村に、金田は拍子抜けしたようだ。残念でした。
戸村は胸の中で舌を出した。

 それでも、そいつは一人悦に浸り、自分の世界を作り出していた。

「無駄な抵抗はしない方がいいよ」

 だから、してないじゃないか。戸村はさらにうんざりしたが、
あまり相手を馬鹿にするのもかわいそうな気もする。

「しないよ。どうせ、ふすまの外はヤクザもんが見張ってて、暴れて叫んだって無駄だろう? 
だったら、無駄な体力は使わないで温存しておいた方がいい」

 ゴタクはいいから、犯りたいならさっさと犯っちゃってくれないかなぁ。
現状が動かないと、どうしようもない。

 金田は固定カメラを調整し、ハンディカメラを左手に持って戻ってきた。

「いい映像を撮らせてもらうよ」

 カメラのレンズと、しばらく戸村は睨み合った。

 

 

 この胸の痛みを、どう表現すればいいのだろう。

 榊は戸村を愛している。

 戸村は、榊のために、仲間を集めて会社を建てた。榊のためだけに。
必死で勉強して、受け入れる場所を作った。

 俺は………俺は、いったい何をしたのだろう?

 榊は、俺の中に痛みを知らない頃の戸村を見ていた。

 戸村に対する性欲を、他に向けるためだけに。

 頭を下げる榊を見下ろしながら、敦は涙が溢れ、拭うこともできない。

「俺は………榊さんにとって、なんなの?」

 顔を上げた榊の表情は、驚愕していた。自分でも気付かなかったのか。
結局は、それが『代り』でしかなかったことに。

「敦………」

「戸村さんの代りに、俺のこと、抱いたんでしょう? 
戸村さんには、そういう感情を持っちゃいけないから。自分の感情を誤魔化すために」

「違う!」

 榊は敦の肩を掴んで揺さぶった。

「違う! そんなんじゃない! 俺はお前を」

 がくがくと頭が揺れ、敦は榊を押しのけた。

「愛してる? 俺のこと、愛している? 榊さんの愛って、何? 
俺のために命かけられる? 榊さんに、ただ迷惑しかかけられない俺に」

「お前は………こんな俺にぬくもりをくれた。ごく普通の優しさを。
だから俺は、お前のために………」

「でも、戸村さんには、逆らわないでしょう? 
あの人の手の中から抜け出ないでしょう?!」

 抱く相手を失った榊の両手が、宙を漂う。それは、あまりにも哀れだ。

 言葉を失った榊は、ただじっと敦を見つめている。
敦は、それでも榊のそばを離れたくはなかった。

 代りでもいい。誤魔化しでもいい。そばに置いて欲しい。

 突然、榊の携帯が鳴った。気まずい沈黙の中、榊は携帯を開いて立ち上がった。

「東さん?」

 ぎくり、と敦の心臓が縮みあがる。それは榊も同じことだった。
敦から受けた言葉の衝撃に肩を落していた榊の、背筋がしゃんと伸びる。
敦に背を向け、電話の言葉に聞き言っている。

 東から電話、ということは、戸村に何かあったのだ。

 敦は手のひらにじっとりと汗をかくのを感じた。

「わかりました。そちらに向います」

 電話を閉じた榊は、携帯電話をぎゅっと握り締め、一度大きく息を吸った。

「………榊さん? 戸村さんに何か………?」

 榊は、敦の方をちらりとも見ようとはしない。
無言で脱いであったスーツのジャケットに手を通し、キッチンに向う。
包丁の納められている戸を開けると、そこから一本の刃物を抜き出した。

 包丁? 果物ナイフ? 違う。ドス、だ。ヤクザの使う、刃渡りの長くない短刀。
持ち手は白木でできている。それを榊はズボンのベルトにはさみ込んだ。

「榊さん!」

 無言のまま玄関に向う榊の正面に、敦は回りこむ。

「戸村さんに、何かあったんでしょう? そうでしょう?」

 じろり、と敦を見下ろした榊の表情に、敦はぞっとした。
敦の知っている温厚な榊の表情ではない。冷徹な暴力団の、幹部。
息を詰らせ、後退る敦に、榊は冷やかな声で言った。

「ここにいろ」

 その瞬間、敦の頭の中に戸村の顔が浮んだ。

(お前は、榊を見張ってろ)

 こういうことだったのだ。あの戸村の言葉は。

「戸村さんに何かあって、それで、助けに行くつもりなんでしょう?」

 玄関に立ふさがる敦を押しのけようと、榊が敦の肩に手をかける。
大きくて、力強い手。恐怖さえ感じる。だが敦は、その恐怖を掴んで踏みつけた。

「行かないで。俺とここにいて。俺のこと、愛してるって、言ったじゃないか」

 敦の肩にかかる榊の手に、力がこもる。握られた痛みに、敦は眉を寄せた。

「どうしても行くって言うなら、俺を殺してよ。俺は、戸村さんに榊さんを取られたくない」

 歯を食いしばって、うめくように言葉を出す。数秒、榊は敦を見下ろしていた。
その目は、血の匂いを嗅ぎつけたサメのようだった。

 怖い。ヤクザに睨まれるってのは、こんなに怖いものだったなんて。

 榊は無言で強引に敦を押しのけた。子供の戯言など、聞く耳をもたない、というように。
それでも敦は榊の腕を掴んだ。

「なら、俺も行く」

 もう一度ふり向いた榊は、怒った様に敦の胸倉を掴んだ。

「ガキがこっちの世界に足を突っ込むんじゃねえ。自分の身も守れねえクセに」

「榊さんに置いて行かれたら、俺は死ぬ。
どうせ死ぬんなら、一ミリでも榊さんのそばにいたい」

 負けじと敦も睨み返す。その決意に、榊は手を離した。

「車ン中で待ってると約束しろ」

「するよ」

 榊は早足で一度部屋に戻り、クロゼットからフリースのパーカーを持ってきて敦に投げた。

「外は寒い」

 敦はパーカーを頭からかぶった。
大きいことは大きいが、榊のにしてはサイズが小さいようだ。
無言で前を歩く榊を足早に追いかける。パーカーは、タバコとビールの匂いがする。
………戸村のだ。敦は、三行半を突きつけられた気がした。

 

 

 さて、どうしたものか。

 しばらくカメラのレンズを見つめていた戸村は、視線を天井に向けた。
すぐに殺すつもりはないようだし、ナイフで切刻むつもりでもないようだ。
まるで観察するようにハンディカメラで戸村の隅々を睨めつけている。
シャツのボタンをナイフで切り落し、スラックスを半分ずり下すという非常にみっともない格好。
恥しがったり嫌がったりすれば、相手を喜ばすだけだということはわかっている。
胸や腹の古い傷跡を嘗め回しながら、金田は陶酔していた。

 気を緩めると、怒りや羞恥心が溢れてくるので、戸村は他の事を考えるようにした。
天井をぼんやり見上げながら、こんなの怖くないし、多少切りつけられても痛くもない、
そんなことを考えた。十年前は、この一万倍も酷かった。それでも、あの酷い状況でも、
戸村は細い一本の糸で自分を保っていた。きっと、助けに来てくれる。
そうすがるように信じていた。そして、榊が現れた時、助かるんだ、という安堵感に包まれた。

 本当の恐怖は、それからだった。
助けを求める言葉を口にした瞬間、あの優しかった榊の表情が変った。

 戸村は、ヤクザなんて存在はあまりに身近すぎて実感をもっていなかった。
母親はカタギの男と恋に落ちて、その世界から抜けた女だった。
ちょっと短気だが、そんな素性を見せない母親だった。
じいさんも、孫には甘く、優しかった。
もともとの大地主のじいさんの屋敷に遊びに行くと、ガラの悪そうなチンピラたちは皆、
戸村少年をかわいがってくれたし、笑いを取ろうとふざけてもくれた。

(榊と出会ったのは、いつだっけ)

 今も変らない屋敷の庭を思い起す。あそこには、鯉を飼ってる池があった。
もちろん、今でもある。あれは、小学校に入って間もないくらいだったか。
戸村少年は、池を覗き込んでいた。アマガエルがいたのだ。
捕まえようと手を伸ばして、見事に転落した。子供でも足がつくほどの浅い池だったが、
たまたま通りかかった榊が、慌てて飛びこんで戸村少年を救い上げたのだ。

(お姫様抱っこだった)

 思い出してはよく笑ったものだ。全身池の汚い水でずぶ濡れになって、
そのまま抱っこされて風呂に直行したのだった。

 若い連中や組の幹部にさえ、榊が恐れられていることは、なんとなく感づいていたが、
その理由を知ることはなかった。あの瞬間まで。
戸村少年にとって、榊はちょっと不器用な年の離れた優しい兄、だったから。

 何でも言うことを聞いてくれたし、肩車もしてくれたし、
木に登って下りられなくなると決って榊が助けに来てくれた。
屋根に登って落ちそうになった時も。いつでも、すぐに助けに来てくれた。

 そんな榊が、戸村の目の前で豹変したのだ。組の誰もが恐れる、非道なヤクザに。

(あ、涙、出てきちゃった)

 目頭がじんわりと熱くなる。

 大好きだった榊が、銃で人を殺す姿なんか、見たくなかった。
銃を撃つ時、あいつ、ぜったい自分じゃ気付いていないが、口元で微笑んでいるんだ。
血に餓えた狂犬のように。

「痛かったかい?」

 金田の興奮した鼻息が耳にかかり、やれやれ、と戸村は溜息を押し殺した。

(痛くも痒くもないっての)

 何も感じない。こんな男に犯されたところで、道でつまずくくらいのダメージしか感じない。

(あー、こんなことになるなら、敦の事、もっとイジメておけばよかったな)

 悔しいが、時間は元に戻せない。自分では、榊の優しさを取り戻せない。
自分は変ってしまったのだ。アマガエルを追い掛けて池に落ちるような、
簡単に他人に助けを求められるような、子供には戻れないのだから。

 敦のように、榊を頼ることなんて。榊は、頼られたいのだ。
求められて、優しくなれるのだ。優しくしたいのだ。

 池から抱き上げてくれた時みたいに。

(ちくしょう。帰ったら、あの二人、イジメてやる)

 大好きだった榊。そうか、真っ当な性欲があるんだな。
もし………あんな事件がなかったら…………いつか自分は榊に抱かれていたのだろうか。

 あの腕に。

「……!」

 股間を強く握られ、さすがに戸村は顔をしかめた。

「怖くて勃たないのかな?」

 ふざけたこと言ってるんじゃない!

 我慢の限界に、ピシリ、と青筋が立つ。

「あんたが、ヘタなんだよ」

 つい言い返してしまい、金田は怒りと喜びで歯をむき出した。

「もっと激しい方がよかったか」

 部屋の隅から男が持ち出したものは、SM愛好者ご用達の攻め具だった。

(あ、やっぱ大門の言ってた店でアタリだったんだ)