十五万で解決したという話をすると、杉田がまず大げさに声をあげた。

「そんなに?!」

 東は何も言わず、坂本は「それで解決できたんなら、それにこした事はない」と苦笑いをした。

「高い授業料ですね」

 西口と寺田は顔を見合せ、肩をすくめる。

「そう、女の子も気をつけなきゃいけませよ。売春なんて、よくないです」

 大門はクセのように美少女フィギュアを撫でる。
大門がどんなに美少女キャラを愛でようと、
彼は現実と空想世界をきっちり分ける理性を持ち合せているので、
誰も彼のシュミに反感は示さない。

「普通に売ったって二〜三万なのに?」

「杉田、売ってたの?」

 坂本の突っ込みに、杉田は舌を出した。

「ニューハーフバーで踊子すれば、一週間で稼げるわよ。
あたしはねえ、ウリはやらないの。好きな男としかやらないのよ。ね、真ちゃん?」

「と、いうわけ。心配して待っててくれた人、ありがとう。帰っていいよ。
金は榊の給料から天引きするから安心して」

 戸村に無視されることに、杉田は慣れていて、
女の子がするように「イー」と歯をむき出して見せた。

「よかったわね、榊くん。また敦くん連れていらっしゃいよ。
あたし、ああいう子、好きよ。ちょっと危なっかしいところもね」

 杉田は隣の榊に微笑んで見せる。同性愛に対して、彼女(彼)は寛大だ。

「杉田、榊のカレにちょっかい出さないでね」

 戸村が釘を刺す。杉田は楽しそうに、フフフ、と笑った。

 榊と杉田、西口寺田カップルはすぐに退社した。
大門は翌日イベントに行くから、今日中に仕事を終らせるのだと夕方まで残り、
坂本も彼女とデートだと夜七時には会社を出た。

 八時を過ぎると、いつまでもパソコンに向っている東と、
社員のスケジュール調整をしていた戸村だけが残った。

 二人きりになってしばらくすると、戸村はノートパソコンを「ぱたり」と閉じた。
そして、東に後から抱きつく。

「東ちゃーん、ちょっとお願いがあるんだけど」

 戸村が擦寄ってくる時には、たいてい裏がある。

「杉田の言ってたとおり、やーさん絡んでるよ。ありゃ、どこぞのヤクザの資金源だね」

「確信は?」

「集金係とすれ違った。間違いないね、やばいにおいがしてたもん」

 ふう、と東が溜息をつく。

「どこの組か調べてよ。ついでに、しばらくベビードール、監視してて」

 東がふり向き、鼻先数センチのところで戸村と目が合う。

「画像消去してって言われたら、東だったらどうする?」

「コピーとっておくな。どちらにしろ、消去なんかしたって復元するのは簡単だ」

「だろう?」

 東は眉を寄せた。

「なぜ皆に言わない?」

「寺田さんと西口さんと、大門君はこっちの世界に巻き込みたくないじゃない。
坂本と杉田はすぐ榊にチクるもん」

「もともと榊さんの持ち込んだ問題だろう」

「わかってるくせに」

 東の首筋にキスをしてから、戸村は腕を解いて自分の席に戻った。

「わかんねえよ。俺はホモじゃないからな」

 椅子の背もたれに寄りかかり、戸村は頭の後で腕を組む。

「俺は坂本や杉田に賛成だな。戸村、お前、もうちょっと榊さんに頼ってもいいんじゃないか?」

「せっかくカレシできたのに?」

「そういう問題じゃなくて。それとも、そういう問題なのか?」

 天井を見上げたまま、戸村は息を吐いた。

「やー公が絡んでいるなら、あいつは手を引かせる」

「専門家なのに?」

「だからさ」

 東は腕を組んで戸村を見た。

「あいつは、被保護者に対して、過剰に反応する。東の好きなスプラッタが日常なんだよ。
それじゃあ何のために僕が今まで努力してきたのかわからないじゃないか」

 すべてが、榊のために。

 あいつを二度と極道の世界に戻さないために。

 仲間集めて会社を建てたのも、その為だ。

「お前にとっちゃ、榊さんのための会社だからな」

「わかってるじゃない」

 天井を見つめたまま、切なげに笑う。東は自分のタバコに火をつけた。

「東、禁煙」

 事務所内は禁煙だ。だから東も、他の連中がいる間は我慢をする。
他には誰もいないので、戸村のたしなめも本気じゃない。
東は美味しそうにタバコをくゆらせた。

「戸村、本当は嫉妬してんだろ? あのガキに」

 素直に甘えられる、あの敦って奴に。

 戸村は東に片手を出した。東はタバコを一本差出し、火を点けてやる。

「禁煙」

 嫌味を添えて。戸村はタバコを咥え、煙を吐き出した。

「……二度と榊には殺しはさせない。カタギになってくれれば、それでいい」

 短くなるまで吸ったタバコを、東は携帯灰皿に押付けた。その灰皿を、戸村に差出す。
戸村も、その灰皿に灰を落した。

 

 他人の恋愛ごとが大好きな杉田は、戸村と榊の関係に業を煮やす。

(榊さん、真ちゃんのこと、好きなんでしょう? わかるわよ、同類として)

(僕にまっとうな恋愛ができればね、杉田、先ず君と付合ってたでしょう)

 笑って誤魔化す戸村に、杉田は溜息をついた。事実、大学時代、杉田と戸村はいい関係だった。
杉田の一方的な片思いから始り、交友が深まり、
しかし戸村はそこに性的なものをまったく感じることはなく、
結局「いい友人」というサヤに納まった。

 杉田との関係の中で、戸村は、自分が「性的不能」なのだということを悟った。

 出来るだけ早く独立するために全神経を注いでいた戸村には、
かえって好都合だったのかもしれない。

 今の今まで。

 

 マンションに戻った榊は、事を敦に報告した。

「十五万も?!」

 案の定、敦は派手に驚く。

「あ、俺、少しずつ、返しますから」

 慌てふためく敦に、榊は苦笑する。敦と一緒にいると、笑うことが多くなったような気がする。

「プラダのバックとブルガリの時計」

 榊の言葉に、敦はきょとんとする。

「それに、ホテルでのフルコースディナー。女は金がかかるのだと坂本さんが言っていた。
俺は何もプレゼントしてやれないから。だから、金のことは気にしなくていい」

 気にしなくていいったって。

「でも」

「でもも何もない。俺がそうしたいんだ。受け入れてもらえないか」

 緩やかに微笑む榊に、敦は腕を回した。こんな風に、頼っていいのだろうか。いいんだよね? 

「彼女に連絡してられ。それから、メシでも食いに行こう」

 どうしようもないほど嬉しくて、頬を緩ませたまま敦は頷いた。

 シズネに「解決した」事を連絡する。詳細は話さない。
話さない方がいいと榊に言われたからだ。
それから、二人はマンションを出て、小さな和食屋で食事をした。

 榊のマンションに戻り、本能のままに抱き合い、満足するまで求め合う。
力尽きてベッドでうとうとする時には、もう夜の九時を過ぎていた。

「戸村さんに、お礼を」

 突然思い出したように、敦が飛び起きる。榊は名残惜しそうに敦の髪を撫でた。

「電話、しようか?」

「うん」

 愛し合った姿のまま、榊は携帯を出して戸村の携帯を呼びだす。

『おかけになった電話番号は、電波の入らないところにあるか、電源が切られています』

 榊は肩をすくめて見せる。それから二人は起き出し、冷蔵庫から飲物を出して一服した後、
榊はリダイヤルを押した。すると、何コール目かに戸村が出た。

『え? 何? 聞えない』

 背後はかなり騒々しい。

『あー、東とメシ食いに行ってたんだよ。………今、いつものバー』

 怒鳴るような戸村の声と、背後の甲高い笑い声。

『話なら、また明日!』

 榊は取りつく島もない。すると、電話の相手が代った。

『榊さん? 戸村は、今ダメだよ。上機嫌で酔っぱらってるから』

 東だ。あまりしゃべらない東だが、榊には好意的だ。

「迎えに行った方がいいですか?」

『ダイジョーブ。俺が送るか、あ、杉田も来たから、奴に送らせるか。じゃ』

 あっさりと電話を切られる。呆然とする敦に、榊は唇をつりあげて見せた。

「あの………」

「戸村さんは、仲間と飲むのが好きなんだ。週末とか、仕事がひと段落つくとな。
あの人は友達が多いし。この分じゃ明日は二日酔いだから、また今度でいい」

「でも、………いいんですか?」

 切られた電話を、榊は楽しそうに眺めている。ふと、敦の胸がちくりと痛む。
なんだか、破天荒の奥さんに振りまわされるのが楽しい男、みたいだ。

「いい。それより、送ろうか。それとも、今夜も泊っていくか」

 そんなこと、聞かなくてもわかってるくせに。敦は榊の携帯電話をそっと取り上げ、
テーブルに置いた。

「泊ってく」

 

 日曜の午後になって再び電話をかけると、今度はちゃんと戸村が出た。
敦がお礼を言うと、戸村は何事もなかったかのようにそれを受流した。

(ちょっと、真ちゃん、テレビのリモコンは?)

(その辺に落ちてない?)

(あ、あったあった)

 電話の向うの会話に、敦は首を傾げる。あれは、杉田の声だ。
電話を切った後、敦は榊に訊ねてみる。

「戸村さんと杉田さんって、付合ってるんですか?」

 榊はおかしそうに笑う。

「杉田さんは世話を焼くのが好きなんだ。
女性に生れていたら、きっといい奥さんになれただろう」

 そうか。そういう人もいるんだ。同性の恋愛というだけではなく、
異性になりたいという願望を持つ人も。きっと、苦労はしたんだろうな。
でも少なくとも今は、活き活きして見える。

 アパートに送ってもらう車の中、敦は助手席で恥かしそうに言った。

「今度は、俺、なんか食事作りますから」

「作れるのか?」

「カレーとか、そんなんだったら」

 ハンドルを握る榊は嬉しそうに頬を緩ませた。

「ありがたい。外食ばかりだからな」

 本当の恋人同士みたいだ。敦は幸福を噛締めた。

 

 

 

 月曜は普通に登校した。シズネは何度もお礼を言い、どうやって解決したのかを聞きたがった。
が、敦はてきとうに誤魔化した。お金がかかったなんて教えたら、
きっとシズネに要らぬ心配をかけてしまう。敦はそんな金持ちではないし、
親に頼ったのでなければ、金の出所を知りたがるだろう。シズネに榊のことを話す気はない。
正真正銘、敦が同性愛者だとは、知らせる必要もない。それに、元はといえば敦の撒いた種だ。
シズネは犠牲者なのだから。

 毎晩榊に電話をし、たわいない会話を楽しむ。週末、金曜にまた泊りに行く約束をした。
敦は浮かれていたし、大きな楽しみを得ると、学校でのつまらない授業も我慢できた。

 金曜になり、学校での仲間とカラオケとか行って時間を潰し、約束の夜七時に電話をする。
と、榊は残業で遅くなると言った。

『終ったら電話するから、家で待ってろ。繁華街をうろつくんじゃないぞ』

 それは、敦にもシズネにも共通の助言だった。
一件落着したとはいえ、今後何があるかわからないのだ。
シズネはさすがに懲りたようで、もうこのバイトはしないと敦に宣言していた。 

 仲間と別れて一人になると、とたんに周囲の温度が五℃くらい下がったように思える。
もうすぐ春とはいえ、まだコートは手放せない。寒いと感じるのは、孤独のせいだ。
会いたい人に会えない、苛立ちのせいだ。

 あと一時間、それとも、二時間。そんな時間が長く感じる。
アパートに戻って、膝を抱える気にはなれない。

(誰かを好きなるって、すごくわがままになることなんだなあ)

 敦は自嘲した。早く榊の仕事が終ってくれればいいのに。

 バーガーショップか何かで、携帯ゲームでもして時間を潰そう。
同じ一人でも、周囲に騒音があった方がいい。

 ふらふらと敦は彷徨い、気がつくと榊のマンションの前まで来ていた。
携帯電話を、ポケットの中でずっと握り締めている。まだ、電話は来ない。

 マンションにはロビーがあるが、そのすぐ奥には警備員がいて、二十四時間監視している。
ロビーで待つのは、ちょっと心苦しい。

 どうしようかと迷いながら、敦はマンションの前の生垣に腰を降ろした。
空には雲がなく、星が見える。ほんの数えるくらい。都会の星空は、孤独で寂しそうだ。

 ぼんやりと空を眺めていると、遠くから聞き覚えのある声が聞えた。無意識にそちらを見る。
寒そうにコートの襟を立て、背中を丸めた青年が、携帯で話をしながら歩いてくる。

「…………いやあ、カンベンしてくださいよ。今週は徹夜続きでね。今夜は帰って寝たいんですよ。
………はは、そうですね。………休肝日ですよ、休肝日。たまには肝臓も休めなきゃ。
………ええ、よろしくお願いします。来週ね。来週、また誘ってください。
………日本酒、いいですねえ。熱燗で。………じゃ、また」

 敦には気付かない様子で、前を通り過ぎる。何メートルか歩いたところで、携帯を閉じ、
青年は閉じた携帯に忌々しそうに悪態をついた。

「ちっ! 男のケツ追っかける暇があったら、仕事しろっての! クソジジイ!」

 それからくるりと向きを変え、敦の前まで歩いてくる。敦は、その青年を見上げた。

「なにやってんの?」

 見知らぬ人に声をかけるような、つっけんどんな口調。

「え? あ………」

 敦は口ごもる。

「ああ、ごめん。気分悪くてさ。会社のお得意さんに負い回されてね」

 携帯のストラップをくるくる回し、
戸村はそれを拳銃をしまうガンマンのようにポケットに滑り込ませた。

「榊なら、まだだよ。杉田さんが営業でヘマしてね、杉田さん乗っけて車転がしてる。
今ごろ渋谷辺りかな」

「そう………なんですか」

 あの活発そうな人でも、ヘマとかするんだ。

「戸村さんは、仕事、終ったんですか?」

「二日ほど会社に泊ったから、今日はベッドに入りたくてね」

 大変なんだ。純粋に感心する。

「そんなトコで榊待ってたら、凍死するよ。あのバカ、こんなトコで待たせてんの?」

「あ、いえ……家で、待ってろって言われたんだけど」

「じゃ、そうした方がいい」

 正論。いつだって、戸村は正論なんだ。

 戸村は敦に背を向けた。やっぱ、帰らなきゃダメかな。悲しくて口を曲げる。

「早く来いよ」

 数メートル先で、戸村は振り向いた。

「え?」

「家で待つんだよ」

 そんなこともわかないの? そういう口調で、戸村は手招きをする。
敦は立ち上がってコートの汚れを叩いた。

 

 警備員と挨拶を交し、一メートル先を戸村はエレベーターに向って歩いた。
エレベーターは三基あり、左の二つは各駅停車。右の一つは高層階直通になっている。
敦は、当り前だが左のエレベーターにしか乗ったことはない。
戸村は躊躇なく一番右のエレベーターのボタンを押した。

 すぐにドアが開き、戸村が箱に滑り込む。敦は慌てて後を追った。

 敦が乗ってドアが閉ると、戸村は上層では真中辺りのボタンを押した。
何も言わずにドアの上にある現在の階数の表示を眺めている。なんとなく居たたまれない。
敦は俯いたまま、そっと呟いた。

「戸村さんは……俺の事、嫌いでしょうね」

 ちょっと驚いて敦を見下ろし、戸村はまたドアの上を見上げる。

「僕は、誰もきらいじゃないよ」

 でも、俺は榊さんの事………。反論しかけて口を開くと、同時にドアも開いた。
戸村が先に進み出て、

「閉じ込められちゃうよ」

 動けない敦を促した。

 そこは、明かに榊の住んでいる低層階とは違っていた。
同じ金持ちでも、ランクがあるんだと見せ付けられる。
並んだドアの数が、まったく違う。敷きつめられた、絨毯の色も。

 立ちすくむ敦に、戸村は噴出すように笑った。

「一番上なんか行ったら、卒倒するんじゃねえ? 上二つは、一つの階に一部屋だぜ?」

 そんな所に住む人って、やっぱり現実に存在するんだな。

 一番奥のドアに、戸村はカードキーをスライドさせた。
カードキーと一緒に、指紋認証システムも導入されている。すごい警備だ。
榊の部屋は、カードキーのみだったが。

 かちゃりというロックが解除される音がして、戸村はドアを開いて敦を招いた。

「どうぞ、お姫様」

 嫌味な口調も、今は気にならない。だいぶ慣れた、と言った方が正解かもしれない。

 玄関の入り口はフラットで段差がない。庶民の敦には、どこで靴を脱ぐのか迷う構造だ。
かろうじて、大理石(たぶん)の色が違う。
その色が違っているところに、戸村の普段履きだろうスニーカーが転がっている。
埃を被った皮のブーツも。戸村は転がる靴に、今履いている革靴も仲間入りさせた。
脱ぎ捨てる、といった感じに。恐縮した敦の方が、転がっている靴を揃え、
自分のスニーカーも揃えて置いた。 巨大なシューズボックスもあるが、
これは使っているのだろうか? 入りきれなくて転がしているのか、
入れる気がなくて転がしているのか。

 短い廊下の先は、これまた巨大なリビングだった。ヨーロッパ風のL字型のキッチンと、
十人掛けのダイニングテーブル。その奥には、やはり十人くらい座れるソファーセット。
巨大な羽目殺しの全面窓。壁際には、これいくらするんだろう? 
と思わず考えてしまう巨大なテレビとオーディオセット。

 セレブのお宅拝見。テレビのリポーターが来そうだ。

「………戸村さん、って、お金持ち、なんですね」

 溜息混じりに、思わず言葉が出る。コートやスーツを脱いでダイニングの椅子に放りながら、
戸村は妙に、どこか気に喰わないといった笑みを作る。

「実家がね。目ン玉飛び出るくらい金持ち。僕は庶民的な貯金しか持ってないよ。
IT企業が儲かるなんて、ほんの一握りさ」

 服は脱ぎ捨てたまま、寝室に入り、膝の抜けたジーンズを穿いて戻ってくる。
部屋をぐるりと見回し、この豪邸に不思議な違和感を感じる。
しつらえた調度品は高価だが、実際の生活感は実に庶民的なのだ。
ダイニングテーブルの上には、朝コーヒーでも飲んだのであろう丈夫そうなコーヒーカップと、
パンぐずの残った皿が置きっぱなしになっている。ソファーテーブルの方はもっと酷い。
コンビニ弁当のクズや、ビールの空缶、お菓子の空き袋が散乱。
戸村は、片付けるのが苦手らしい。榊の部屋は、きれいに片付けられていたが。なるほど

(杉田さんが世話を焼きたくなるのもわかる気がする)

 さすがの敦でも、ゴミを片付けたくてうずうずする。

「大学までは寮だったから逃げられたんだけど、実家を出て一人暮しするなら、
ぜったいここでなきゃダメだってね。じいさんに脅迫されて、仕方なく」

「………おじいさんって、怖い人なんですか?」

「怖いよ」

 意味ありげに、戸村はニッと歯をむき出して見せた。

「なんか飲む? ビールと、缶コーヒーしかないな」

「あ、いえ、おかまいなく」

 ビールも缶コーヒーも飲まない。それに何より、べつに喉も渇いていない。

 戸村は特に歓待するつもりもないらしく、自分の分のビールを冷蔵庫から出して、
ダイニングの一番隅、敦から一番遠くに座った。

「てきとうに座って、テレビでも見てれば」

 そんざいに言って、自分は新聞を開く。立っていても仕方ないので、
敦はソファーのある方へ行き、怖ず怖ずとしゃがんだ。カーペットも高価そうだが、
タバコの焼け焦げがある。ソファーテーブルの前でかしこまっていると、
ふと戸村が視線を向けた。

「リモコン、その辺にない?」

 リモコン。先週、電話の向うで杉田が探していなかったっけ。
テーブルの上や下を探し、コンビニ袋の下でそれを発見した。
なんだか偉そうなリモコンだが………。

「………これ、ビールか何か、こぼしました?」

 やたらとべとべとする。

「こぼしたかなあ? 覚えてないなあ。あんまりテレビ見ないから。
デカ過ぎて鬱陶しいんだよね」

 確かに、鬱陶しくもなる大きさだ。敦は溜息をついて、拭くものを探した。
部屋の隅に、ボックスティッシュが転がっている。
これも、コンビニで買ったようなものだ。ティッシュを何枚か取り、
キッチンで少し濡らして、ソファーテーブルの前で座ってリモコンを拭く。
何かをしている方が、気が楽だというのもある。

 リモコンを拭きながら、戸村の方を見る。キッチンの明りは点けず、
リビングの明りだけで、薄暗い場所で新聞を読んでいる。
片膝を抱え、頬杖をつき、缶ビールと、右手の先には火の点いたタバコ。

「…………」

 ふと、敦は自分のアパートを思い出した。こんな豪邸とは雲泥の差の安アパート。
なのに、膝を抱える戸村は、どこか寂しそうで、自分がアパートで膝を抱えている姿とダブる。

 榊は、戸村はよく酒を飲むと言っていた。仲間と飲みに行く、と。
繁華街を放浪していた自分と、たいして変らないのではないかと思える。

(似ている)

 その言葉が、意識という薄暗い沼の底から突然浮びあがってくる。
顔とか、そういうのじゃなくて、雰囲気。

 両親が殺されたって、言ってた。

 いくら金持ちの親戚がいるとしても、やっぱり独りなのだ。

 この人は、どんな人なのだろう。

 嫌味なほど良識的で、常識的で、冷めた意見を正確に述べる。
物言いは横柄で、横暴で、見下したしゃべり方をし、
意外なところで友人達(社員達)の世話を焼かせている。
彼らも、好んで世話を焼いているように思える。
酔っぱらって送ってもらったりとか。何より、榊が、あの榊が、絶対な信頼を置いている。

 孤独の闇をまとわりつかせて、膝を抱えてビールを飲んでいる彼に。

 どんな苦労をしてきたのだろう。

「なに?」

 敦の視線に気付いて、戸村が振り返る。じっと見つめていた敦は、慌てて視線を落した。

「あの………戸村さんは、恋人とか、いないんですか?」

 突然の質問に、戸村はきょとんとした視線を敦に向け、噴出すようにくすくすと笑った。
それから立ち上がり、冷蔵庫から新しいビールを出してきて敦の正面に座った。
プルタブを押上げ、何口か飲んでからテーブルに身を乗りだす。

「榊から、どこまで聞いた?」

 どこまで? って。聞いたことを話していいのだろうか。

「…………あの…ご両親が、殺されて……それで、榊さんがその犯人を殺したって」

 普通の日常ではない。現実味のない、ドラマのような話。

「そう、そうなんだ。僕が十三の時にね」

 まるで「昨日見たドラマがね」と言うような軽い口調で戸村は言った。
ビールで酔っぱらっているのかもしれない。

「そん時にね、ちょっとばかり輪姦されちゃって。それ以来、勃たないんだ。
まったくの役立たず。それじゃ、カノジョもできないってわけ。
まあ、レンアイしようとも思わないし、興味ないし」

 どくん、と心臓が鳴る。

 それって、本当? 俺のこと、からかってるだけ?

「いやあ、榊がカレシ連れて来たときには驚いたよ。
べつにね、未成年の男だってのは問題外なんだけど。
ほら、うちの連中、色んなシュミ持ってるだろ? 
だから、たいがいのシュミは容認できるんだ。それはいいんだ。
あいつがさ、真っ当な恋愛感情を持ってるってのが驚きでさ」

 さもおかしそうに笑う戸村を、敦は驚いて見る。

「あいつも、人間だったんだなあ」

 両手を広げて笑う戸村が、不思議だ。そんな風に、受け入れられるものなのだろうか。

「俺………戸村さんに嫌われてると、思ってました。榊さんを、………榊さんが、
俺みたいなのに同情してくれて、世話してくれて、迷惑かけちゃって」

「あいつはねえ、同情なんかしないよ。冷酷だからね。よっぽど気に入ったんだろうね」

「でも俺、戸村さんにまで」

「ダイジョーブ、ダイジョーブ。こんなの迷惑のうちに入らないから。
まあさ、あの榊が惚れ込んでるんなら、ちょっとぐらい手を貸しても罰はあたらないでしょう」

 でも、初対面のとき………。敦が口ごもる。

「最初ン時ね? ちょっと脅してみたのよ。逃げ帰るようなら放っておいていいし。
本気なら、それでいい」

 笑う戸村の瞳が、かすかに陰る。本当に、そう思っているのだろうか。

 戸村はビールの缶を傾けた。美味しそうに喉を鳴らす。お酒、好きなんだな。
敦はぼんやりと思った。他に趣味が、ないのかな。

 きれいになったテレビのリモコンをローテーブルに置く。
と、その上の汚さが気にかかる。戸村には色々聞いてみたいが、
あんまり根掘り葉掘り聞くのも失礼だ。巨大なテレビをつける気にもなれず、
敦はテーブルの上のゴミをそばにあったコンビニ袋に入れ始めた。
燃えるゴミと、燃えないゴミ。ペットボトルと缶は別。

 ビールを飲んでる戸村の周りで、だんだんと片付けに熱が入っていく。
そうしていることは、敦の気を休める。

 敦の家庭は、共働きだった。出来ちゃった婚だとも聞いた。
母親は家庭より仕事で、保育園ではお帰りはいつも最後。
小学校に入ってからは、完全な鍵っ子。学校から帰ると、いつも独りで家で遊んでいた。
中学では野球部に入り、時折レギュラーにも抜擢された。
が、心の許せる友人は、ついにできなかった。部活が終ると、すぐに家に帰った。
忙しい両親に代り、部屋の片付けやゴミ出し、洗濯などもやった。
それでも、両親が大好きだったから。両親の仲が冷えたのが、いつ頃からなのかはわからない。
父親は日曜にも帰らなくなり、平日もよそに泊り、気がつくと、姿を見なくなっていた。
「離婚」したと聞かされたのは、中三のときだ。
高校に入り、だんだんと母親も家に帰らなくなっていった。
一学期だけ野球部に入ったが、なんとなくやめてしまった。楽しくなくなったから。
結局、遊び友達もなく、すぐに家に帰った。『今日は帰ってくるかな』と、儚い期待をもって。
しかし、期待はいつも裏切られた。一人残された部屋では、片付けるものもなくなり、
手持ち無沙汰になり、夜の街を徘徊するようになった。

 家の仕事をするのは、
そうすることで「家族」というものが維持できると漠然と考えていたからだ。
ここが、父親と母親と自分とが、「帰る場所」であったから。そうあって欲しかったから。

「案外とマメなんだね」

 ビールを飲みながら呟く戸村の言葉に、ハッと我に返る。
あらかたゴミを片付け終ると、テーブルを拭き、
キッチンに放置されているコップや皿も洗い始めていた。

「家事、好きなんだ?」

 好き、かと聞かれれば、別に好きではない。

「あ、いえ、なんとなく。迷惑でしたか?」

 両手を水で濡らしながら振り返ると、口元で微笑みながら見つめている戸村と目が合う。

「いや、助かる」

 よかった。余計な事をして、また気分を害したかと思った。

「榊んトコだと、やることないだろう? あいつ、そういうところはしっかりしているから」

 確かに、榊の部屋はゴミなんか散かっていないし、流しに洗い物が溜まっていることもない。

「きれいにしてたら、いつかは両親が帰ってきてくれるかな、って。
たぶん、そう思ってたんです」

 片付けておけば、母さんは助かるかな。
夕飯を作っておけば、父さんや母さんがおいしいと言ってくれるかな。
「家族」でいられるかな。

 しかしそれは幻想でしかなかった。「帰る家」を取繕っても、
「帰る人」は戻っては来てくれなかった。

「でももう、家事をする必要はないですから」

 洗い終った食器を伏せて置き、そばにあったタオルで手を拭いてリビングに戻る。

「必要があれば、もう悪さをすることもないわけだ」

 戸村の正面にすとんと座り、目を伏せる。

 居場所が欲しい。誰かに、必要とされたい。

 榊は愛してくれる。愛していると言ってくれる。

 戸村は、もう一本飲み干し、ビールを振ってテーブルに置いた。
反射的に敦はまた立ち上がって、カラのビールを受取り、キッチンのゴミ袋に持って行った。

「あ、ついでにもう一本、持ってきて」

「飲みすぎですよ」

 言い返してから、ハッと口を閉じる。戸村はニヤニヤ笑っている。

「すみません」

「いいよ。僕は、世話を焼かれるの、好きなんだ」

 へえ、意外。敦は新しいビールを冷蔵庫から出して来た。

「僕の父親はねぇ、そりゃあ僕の母親にべたべたに惚れ込んでてね。
あの怖いじいさんに土下座して結婚させてもらったんだって。
母親もそんな父親にベタ惚れ。料理は下手だったけど、必死で主婦してた。
夫に尽して子供に尽して。見てて呆れるほどのバカ夫婦。じいさんも初孫には甘くてね。
とにかくいつも至れり尽せり。寝転がって甘えてればいいだけ」

「だから、家事とか出来ないんですね」

「そう。やる気もないし。そうだな、敦の言葉を借りるなら、部屋を散かしておけば、
母親が飛んできて片付けてくれるかなってトコ」

 ちくり、と胸が痛む。甘やかしてくれた両親が、戸村にはもういない。
それは、自分も同じこと。

「ちょうどいいね。敦、僕んトコの家事やってよ」

「それは、………俺に甘えてるってことですか?」

「そういうこと」

 酔ってる。やっぱり、酔ってるんだ。そうやって他の人を口説くんだな? 
敦は、ここに来てはじめて口元を笑みの形に広げた。

「俺には榊さんがいますから」

「まとめて面倒見るよ」

 新しいビールを、もう飲み始めている。

「なんで榊さんに家事とか頼まないんですか?」

「僕はねえ、榊に命令はするけど、頼み事はしないんだ」

「何でです?」

 さりげないふざけた会話、のつもりだった。が、戸村の目が、一瞬鈍く光る。
その眼光に、敦は寒気を感じた。

「奴の前で、助けては禁句なんだ」

 なぜ? 次の言葉が喉まで出かかり、敦は息を飲んだ。

「僕は榊を頼らない。僕が頼りにすることなんか二度とない。
だから、僕は榊をそれ以上僕の生活に踏みこませない」

 真面目な声色で言ってから、「酔ってる時は別だけどね」と戸村は笑った。

 なぜそこまでこだわるのか。敦には理解できない。
ただ、戸村の気丈さの原因がそこにあるのだろうというのだけは、漠然と理解できた。

 戸村の携帯が鳴り、戸村は面倒くさそうに投げすてたコートから携帯電話を探り出した。

「ああ、榊。終った? どう? ………そう、よかった。で、杉田は? ………ああ」

 榊さんだ。敦の顔に血液が昇る。戸村は敦の方を向いて、人差指を立てた。

「ちょっと子犬を拾ってさ。マンションの外で震えていたから。
誰だよ、あんなトコに捨てたの?」

 子犬? 敦が首をひねる。

「そんなわけだから。ウチに直接来いよ。早く来ないと、刺身にして喰っちまうぞ」

 電話を切ってから、ニヤニヤ笑いながら戻ってくる。

「焦ってた、焦ってた」

 榊をからかうのがそんなに楽しいのか。

「榊がお前を気に入った理由、なんとなくわかったな」

「なんですか?」

「捨て犬みたいだからさ。震えてじっとこっちを見てるの。
で、ちょっと餌やると、スゲー喜んで尻尾振ってくる。
怯えてるくせに、気に入られようと必死になって。
じゃ、ちょっと飼ってやろうかなって優しくしてやると、そりゃあ嬉しそうにする。
可愛がりたくもなるよな。わかるわかる。僕とは正反対だね」

 そんなことない。敦は思う。戸村だって、一人でいるときの寂しげな表情は、
敦であっても何かしてやりたくなる。部屋の片づけくらいで喜んでもらえるなら。
気丈な戸村の力になれるのなら。

「それにさ、お前、笑うと可愛いしな」

 かわいい………。敦は唇を引きつらせた。戸村には、言われたくない。

「戸村さん、きれいじゃないですか」

「知ってる」

 すぐに肯定されて、面を食らう。

「知ってるってのは、大事だぞ? 敦、お前も気をつけた方がいい。
顔がいいってのは、利点ばかりじゃないからな。
僕だってこういう面構えじゃなかったら、レイプされることもなかったしな。
そういう人種もいるんだ。榊だって紙一重だからな」

 戸村の顔が、すっと寄ってくる。敦は思わず身を引いた。

「榊が惚れてるんなら、まとめて面倒見てやる。必ず僕が、守ってやる」

 なんで? なんでそこまで?

 間近に迫る戸村の黒い瞳に、敦は恐怖さえ感じる。
この人の強さって、いったいどこから来るのだろうか。

「忘れるな。助けを求めるなら、榊にではなく、僕にだ。僕はお前を守る。榊のために」

 唇が、触れる。敦は目を見開いた。冷たく湿った唇は、
アルコールの匂いがして、頭の中を麻痺させる。榊のそれとはまったく違う。
もっと………官能的。心臓が飛び出すほどバクバクと唸り、敦は仰向けに倒れた。
強かに後頭部を打って、顔をしかめる。覆い被さる戸村は力が強く、身動きが取れない。
細いのに、この人、なんでこんなに力があるのだろう? 重ねられた唇に酔いながら、
そんなことを思う。セックスに興味ないと言いながら、戸村のキスは上手い。
唾液を吸う淫らな音がして、敦は背中を震わせた。下半身が重くなる。
ほんの少し触れ合う程度に唇を離した戸村は、まっすぐに敦を見下ろした。
熱のある唇が、何か呟く。

「え?」

 思わず聞き返すと、今度ははっきりと、

「眠い」

 と戸村は言った。

 眠い? 驚く敦の唇をぺろりと舐め、戸村はそのまま敦の首筋に顔を埋めた。

「戸村さん!」

 突然の声に、敦が体をよじってそちらを向く。リビングの入口に、榊が立っていた。
敦は、顔を真赤にさせ、言分けしようと口をパクパクさせる。
慌てて駆寄る榊は、敦が思ったように怒ってはいなかった。
ただ、敦にのしかかっている戸村を抱き起す。

「あ、さ、榊さん」

 うろたえる敦の髪をひと撫でし、榊は戸村を抱きかかえた。

「こんなところで寝ちゃだめです」

 榊の腕の中で、戸村が身じろぎをする。

 寝ちゃったんだ? 敦はなんだかホッとしたような居たたまれないような気分になる。
そういえば、戸村は疲れているから寝に帰って来たのだと言っていた。
それを敦が邪魔をしてしまったわけだ。

「すみません、戸村さん。俺………」

 眉を寄せて謝る敦に、戸村は眠たげな目を開けた。

「あー、ごめん、スイッチ切れちゃった。またいつでも遊びに来いよ。
そんで、掃除とかしてくれると助かる」

 語尾が消えかかり、また目を閉じる。かくりと力なく眠り込む戸村を、
見下ろす榊の表情は優しい。

「寝かせてくるから、ちょっと待っててくれ」

 敦には重く感じた戸村を、榊は軽々と抱き上げた。それは、とても大事なものを抱えるように。
ああ、そうだ。赤ん坊を抱く母親のようだ、と敦は思った。
今にも壊れそうな大切な命を、慈しむように両腕で包み込む。
寝室に消えていく二人を見送りながら、敦は唇を結んだ。

 榊は、戸村を愛している。

 それは、全身が物語っている。

 榊は、そうやって戸村を抱きたいのだ。自分は、戸村の代りに抱かれているのだ。
その考えは、敦の胸を締めつけた。

 嫉妬、だ。

(ちゃんと布団に入ってください)

 寝室の方から榊の声が聞える。敦も、戸村が愛されるべき存在であることを理解している。
ほんの一時間ほど、一緒にいただけで、戸村の愛されるべき魅力を肌で実感した。
気丈に振舞う昼間の彼とは裏腹に、一人寂しく酒を飲む姿だとか、甘えた表情とか。
榊は、戸村に優しくしたいのだ。ちゃんと起きている時の彼に突っぱねられても、
本当は優しく抱きしめたいのだ。

 じゃあ、俺は何? 自分の両手を見下ろし、敦は思う。
榊の心は、どこにあるのだろうか、と。過去に何があったにせよ、
それがあの二人を縛り付けている。

(それでも俺、榊さんと一緒にいたい。帰る場所が欲しい。居場所が欲しい)

 しばらくすると、榊は戻ってきた。

「遅くなってすまなかった。帰ろうか」

 榊は片手を差出す。その手を握ることを、一瞬躊躇する。

「敦? 怒っているのか?」

 困ったような表情をする榊に、敦は首を横に振って、その手を取った。

 榊は、自覚しているのだろうか。敦が、戸村の代りでしかないことに。

「………戸村さん、いい人ですよね。疲れているのに、俺なんかの面倒見て」

 ふ、と榊が笑う。そんな顔で笑わないでよ。悲しくなるじゃない。
敦の心境を察したのか、榊は敦を抱き寄せて瞼にキスをした。

「そういう人なんだ。だから、仲間が集る。……何か、言われたのか?」

 ふるふると敦は首を横に振った。言わない方がいいと思った。

(僕はお前を守る。榊のために)

 口に出したくなかった。戸村がどれだけ榊のことを思っているのか、知らせたくなかった。

 玄関を出る。鍵はオートロックで、部屋を出るとガチャリと施鍵された。
そこで、敦は気がついた。榊は、どうやって部屋に入ったのだろうか。

「榊さん、鍵、持ってるんですか?」

 ん? と敦を見下ろし、まるで事務所の鍵を持っているのかと聞かれたように、
持っていると普通に答える。個人の部屋の鍵だ。普通じゃない。

「カードキーって、そんなに簡単にスペア作れないって、聞いたことがあるんですけど」

「たぶん、簡単にはな。だが、俺と東さんは持っている」

 東? あの、ちょっとやぼったい、とっつきにくい人? 
つい思っていることを口に出してしまう。榊は苦笑した。

「東さんは会社の副責任者で、戸村さんが一番信用している人だ。
別に俺だけが特別扱いではない。むしろ、東さんの方が戸村さんと仲がいいくらいだ」

 妙な組合わせだ。無口で無愛想な人なのに。
どちらかといえば、杉田というニューハーフの人と仲がいいと言った方がしっくりくる。

「杉田さんと仲がいいのかと思っていました」

「仲はいい。だが、杉田さんは戸村さんに惚れているから。
東さんは戸村さんと同じで、まっとうな性欲を持っていないんだ。
それに、戸村さんの『影』を知っている唯一の人だし」

 エレベーターの前で、敦は榊を見上げたまま、たくさんの質問を抱え込んだ。

 戸村が「性欲がない」と告白してくれたことを、榊は知っていたんだ。
当然と言えば当然かもしれないが。そうか、だから榊は戸村を「抱かない」んだ。
榊にその気があっても、戸村にはまったくないから。

 戸村の『影』って、何だろう? 十年前の事件の話だろうか。
それなら、敦も榊から聞いた。それ以上のことが、あったのだろうか?

「影?」

 余計な事を言ってしまった、と、榊は口元を歪めた。

「敦は、知らない方がいい。事件のことは社員の人はあらかた知っているが、そ
の詳細までは知らない。戸村さんは言わないし、誰も聞かない。
聞いちゃいけないことをわかっているからな。東さんと……俺だけが知っている」

 何故知らない方がいいのだろうか? 
だが、知らない方がいいと榊が言うのだから、聞かない方がいいのだろう。

「でも、……榊さんはわかるけど、なんで東さんは知っているんですか?」

「そういうのが理解できる人だからだ。もういいだろう? これ以上は話したくない」

 ドアが開き、並んで入る。榊は自分の階を押し、そっと敦の手を握った。

「………嫌われたくないんだ………」

 視線も合わせず呟く榊の言葉に、ふっと敦は救われる。

 それって、俺の事、好きって意味ですよね?

 そうでしょう?

 敦は榊の手をぎゅっと握った。