榊は車を所有していた。黒の旧式のベンツ。これまたヤクザっぽい。 ぽいもないも、本人が「極道だった」と言うのだからホンモノなのだけど。 しかし、今はコンピューター関連の会社社員。足を洗ったのかな? いつ? 殺しもしたなんて言っていたけど、それは本当なのだろうか? 榊の温厚な態度からは、にわかに信じにくい。 確かなのは、愛し合ったという事実。 性欲の解消とか、小遣稼ぎとか、そういうのではない。 確かに、「愛し合った」のだ。 敦は何食わぬ顔で登校し、何食わぬ顔で授業を受けた。 もっとも、頭の中ではずっとあの晩の事を反芻していたが。 昼休み、教室の隅で一人でパンをかじっていると、 「バイト仲間」である女の子が何人か尋ねてきた。いつものことだった。 次はどうする? そろそろバイトしたいんだけど。 正直、敦はもう「売春斡旋」には興味を失わせていた。もともとが暇つぶしだったのだから。 「この前も言ったけど、チンピラに目をつけられちゃったんだ。やばいから手を引くよ」 そう言い訳すると、あっけなく女の子たちは去っていった。シズネを残して。 「見つけてくれるだけでいいよ。あとは自分で交渉するからさ」 敦は肩をすくめた。そう言われても。 パンをかじりながら、携帯を開く。いくつかメールが来ている。 顧客からだ。満足した、また紹介して欲しい、など。 バカな大人だなあ、と頭の中で悪態をつく。 てきとうに見繕って、これが最後という事にしようか。 その中で、知らない相手がいた。 (こちらで女の子を紹介してくれるという噂を聞きました。当方、真面目な大学生) 自分から真面目なんて言う奴が、信用できるかっての。 「大学生?! 上手くしたら勉強も教えてもらえるかも!」 携帯を覗き込んでいたシズネが嬉しそうな声をあげる。 「これ、いく?」 「うん」 そんな簡単に決めて、いいのかな。大学生ったって、信用ならないよ? それを言ったら、女子高生を買おうなんて輩は誰も信用ならないけど。 それでも一応、敦はメールを返してみる。 (真面目なお付合いを望んでいる女の子がいます) 送信。 相手はよっぽど暇なのか、すぐに返事が返ってくる。 (真面目なお付合い、歓迎です! 自分は彼女募集中です) セフレ専門の出会い系サイトで、彼女なんか募集するなよ? 「メルアド教えて。あとはあたしがやるから」 シズネは乗り気満々だ。こんなこと、やめると決めて冷静に考えてみると、 この世界、やっぱりヤバイ。 「いいの? 大丈夫?」 「大丈夫よ!」 それじゃあ、と敦はシズネにこの男のメールを転送した。 嬉々として自分の教室に戻るシズネを見送り、敦は (やばい事にならなきゃいいけど) と口の中で呟いた。 そもそも事の発端は自分なのに。 そして放課後。シズネは敦の元にいそいそとやってきた。 「今夜、会う約束したんだ。メールでね、意気投合しちゃった。 あたしも大学生のカレシができるかも」 ニコニコ笑うシズネに、敦はちょっとだけ唇を引きつらせた。 「まあ、気をつけて」 交渉したのは彼女だし、自分は関係ないし。まあ、大丈夫だろう。 敦は能天気に心配を切り上げて、また榊のこと、あの夜のことを考え始めた。 榊は仕事が忙しく、毎晩会うというわけにはいかない。 それでも、夜ちょっとでも電話で話ができたので、敦は翌日もご機嫌だった。 敦の機嫌を損ねる知らせが来たのは、昼休みだった。 元バイト仲間の女の子から、シズネが学校に来ていないという話が舞い込む。 「アツシくん、昨日、シズネにバイト紹介した?」 シズネの友人が心配げに訪ねてくる。敦は、胸がちくりと痛んだ。 そして、昨日のことを説明する。 「風邪だって話なんだけど、丈夫がとりえの彼女でしょう? なんかあったのかなって」 「メールとか電話とか、してみたの?」 「したけど、携帯は出ないし、メールは返ってこないのよ」 嫌な予感がする。 敦もシズネの携帯にメールしてみた。すぐには返信は来ない。 午後の授業が始って諦めかけていた頃、敦の携帯がバイブした。シズネからだ。 (話があるの。放課後、会いたい) 授業中、敦は隠れて了解のメールを返した。 金曜の夕方なので、街はどこも人がいっぱい。 二人きりで内緒話を、ということで、敦は自分のアパートにシズネを呼んだ。 ここなら、誰も来ない。 古いアパートの和室に座ると、シズネはわっと泣出した。 泣きながら話は前後し、わき道にそれ、やっと敦が解読した内容は、最悪のものだった。 あの自称大学生と会い、ホテルに行くと、縛られ、 無理矢理犯られた挙句写真やビデオも撮られた。 これをネット上に公開されたくなければ、自分の言うことを聞け。そう脅されたという。 敦は愕然とした。テレビでそんな話はよく聞くが、 それがまさか自分の身の上にかかってこようとは。 「どうしよう、アツシくん、あたし、どうしたらいい?」 どうしたらもなにも………。 「わ……わかんない。俺………」 「警察はダメ! 絶対ダメ!! こんなことバレたら、あたし………!!」 ダメったって、他に方法、あるのかよ? 敦は頭を抱えて部屋の中をぐるぐる歩き回った。 相談できる人………誰か、相談できる人………。 「榊さん!」 敦は急いで自分の携帯を出すと、時間も気にせず榊に電話をかけた。 『すみませんが、今仕事中なので』 会社で私用電話が迷惑なのはわかっている。立場ってものもある。 だけど、そんなことを言っている場合じゃない。 「ごめんなさい。でも、どうしても助けて欲しくて。聞いて」 敦は事の次第を手短に説明した。敦が話し終った後も、電話の向うはしばらく無言だった。 ああ、駄目だ。榊さんに見放されたら、もう誰も相談できる人はいない。 『相手の男に言われたことを、思い出せる限り詳細にメモを取りなさい。 それから、その女の子は家に返しなさい。君を迎えに行こう。 今自分の家だね? そこで待っていなさい』 「榊さん………」 『ネットに詳しい人物に相談しよう』 電話は切れ、敦はシズネに説明して家に帰るように言った。 「その、榊さん、って?」 「え? あー、知り合い。信用できる人だよ。一人で帰れる?」 シズネはこくりと頷いた。 頼れる人がいて安心したのか、シズネは落着きを取り戻した。 そこで、もう一度話を繰り返してもらい、敦はメモを取ってシズネを家に返した。 しばらくすると、榊が車で迎えに来た。まだ仕事中だったのに。恐縮して敦が謝ると、 「頭を下げるのはこれからだ」 と、榊は事も無げに言った。 榊の職場には、初めて来た。オフィス街の中でも、小さな雑居ビル。 小さな事務所の集合体のようだ。六階建の三階。エレベーターを降りると、 エレベーターホールには飲物の自動販売機があり、その奥に二つのドアがあり、 それぞれ違う会社の札がかけられている。その手前の方の札に、 『Cat Workers』 と書かれていた。 そのすりガラスのドアを榊が押し開ける。室内はそれほど広くない。 正面には窓があり、窓に背を向けてデスクがひとつ。たぶん、社長か責任者だ。 それを中心にコの字型に右に三つ、左に四つ、デスクが並び、 そのどれもにパソコンが一台から三台乗っかり、社員達がそれに向き合っている。 一番手前、ドアに近いデスクは空いていた。たぶんここが榊の席なのだ。 実によく整理整頓されている。右の奥には衝立が見える。もう一部屋区切っているのだろう。 榊が事務所に入ると、顔を上げる人も上げない人も(ほとんどが上げなかった) 「お帰りなさい」 と言った。それが習慣なのか、決りなのか。 「すみません、戻りました」 社員達は仕事が忙しいようで、榊の連れてきた少年に気を止めない。 榊は敦を連れだって、正面のデスクに進んだ。 そこでは、デスクトップとノート型の二つのパソコンを開いてなにやら打ち込んでいる男がいた。 気恥ずかしさと居たたまれなさで、敦はずっとうつむいている。 「社長、ご相談が」 「仕事? プライベート?」 社長、と呼ばれる割に、意外と声が若いな、と敦は思う。 「……プライベートで」 「あとじゃ駄目なの?」 「今すぐ」 「じゃ、聞いてるから話して」 敦はそっと上目遣いに盗み見るが、パソコンのモニターに付きっ切りで、 その男の顔は見えない。ただ、口調は横暴だ。 榊は、さっき敦が話した内容を簡単に説明した。社長と呼ばれる男の手は止らない。 「警察に行きなさい。以上」 片手を上げて社員を呼び、何か指示をする。社員の女性は元気に返事をして、また仕事に戻る。 「警察沙汰にはできません」 「なんで? 未成年だから? 仕方がないね。自業自得」 「友人が絡んでいるので」 「身の程をわきまえなさい。榊、君は自分の立場を理解しているかね?」 「理解しています。ですから社長にお願いを」 「自分の立場を危なくしても、助けたい友人なんだ?」 「そうです」 敦は、胸がどきどきした。自分と榊の関係。 そうまで言ってもらえるのは、踊りだしたくなるくらい嬉しい。 敦が顔を上げると、社長という男と目が合った。 ごくり、と敦が息を飲む。 そこには、想像とはまったく違う青年がいた。 ほっそりとした顎の線。はっきりとした目鼻立ち。 彫は深くないが、印象深いのは、瞳が大きいからだろう。 髭なんか生えたことがないみたいな白い肌。縁なしのめがねは知的に見える。 髪は黒くて、少し長め。整髪料もつけていないのだろう、さらさらと額にかかっている。 会社社長、というより、どこぞのモデルが「社長の役」を演じているようだ。 しかし意志の強い、力強い視線をしている。その社長が、じっと敦を見ている。 「君、高校生?」 横暴な口調だが、声色は澄んでいる。 「あ、ハイ」 「自分のしたこと、わかってる?」 わかってる? わかって……いるのだろうか。敦は答えられない。 車の中で敦から受取ったメモを、榊は社長、戸村に手渡した。 それをざっと見た戸村は、男性社員の一人を指名した。 「坂本ちゃん、ベビー・ドールってアダルトサイト、知ってる?」 「アダルトサイトなんて、星の数ほどあるよ」 向って左側の方の席、敦たちの立っているすぐそばの男が答えた。タメ口だ。 「調べて」 肩をすくめ、坂本と呼ばれた男(彼もまだ若く、大学生のようだ)は、 手早くインターネットを開き始めた。そしてすぐ、 「あったよ」 と手を振る。戸村は立ちあがってそばに来て、坂本のパソコンを覗き込んだ。 意外と背が高いようだ。榊は戸村の後ろで棒立ちしている。 敦は戸村の後ろからモニターを覗き見る。坂本は画像やら文字やらを色々クリックして見せた。 「優良なサイトじゃないね」 アダルトサイトに優良とかあるのだろうか? 敦にはわからない。 坂本が色々とクリックするたび、 その半分以上で「ここから先は有料です」といった画面が現れ、料金が示される。 「ま、こんなのは無視していいんだけど」 手際よくそれらを閉じ、次々と色んな場所を試す。 「あった、入口」 わかりにくいところに、本当の入口があった。 だがやはり、そこには「有料」の文字と、会員ナンバーを入力するスペースがある。 「会員制だねえ。どうする?」 「開いて」 戸村が言うと、坂本はちょっと肩をすくめ、自分の左側の男、戸村の席のすぐ隣の男を呼んだ。 「東、出番だよ」 東という男は、坂本の方をちらりと見た。 坂本は大学生風のちょっとオシャレな風体だが、東は見てくれは気にしない方らしく、 服はよれよれで髪もぼさぼさだ。無精ひげがあり、火の付いていないタバコを咥えている。 東は戸村を見、戸村が頷くと、椅子を寄せて坂本のパソコンのキーボードを忙しく叩いた。 三十秒もそうしていただろうか、サイトの画面が切り変る。侵入したのだ。 敦はあっけに取られてそれを見つめた。たぶん、この東という男は、ハッカーなのだ。 侵入に成功すると、東はまた自分のパソコンに戻った。坂本もサイトをチェックする。 見ていて気持ちのいいサイトじゃない。 アダルト、は変わりないのだが、それは十代前半か、 酷くするともっと幼い女の子の写真で埋められていた。 しかも、大半の女の子は表情をゆがめ、涙を流している。 「ロリ系の強姦もの、だね。吐気がする」 坂本は顔をゆがめて見せ、画面をスクロールしていく。 「ヤバイね。ヤバイよ。ここ。デリヘルもやってる。モデルの女の子、買えるらしい」 「女子高生もある?」 平然と眺めていた戸村が尋ねる。 「あるよ。いっぱい。この…」 画像の下の文字を指差す。 「パーティーってのは、輪姦のことだろう。SMオーケイ、何でもアリ、だ」 耐え切れず、敦は片手で口を覆った。 目をそらそうとすると、戸村に顎を掴まれ、画像の前に押し出される。 「見ておきな、坊や。君の彼女が引っかかったのは、こういう連中だ」 坂本がひとつの動画を開く。中で、女子高生が強姦されて泣いている。 「………戸村さん、もう……」 居たたまれないのか、榊が間に入った。戸村は手を離し、榊をちらりと見てから坂本に囁いた。 「悪いね、もうちょっとここを調べておいて」 非常に不本意だというように、坂本は両手を広げて見せた。 「現状把握ができたところで、本題に入りますか」 体を起した戸村は、奥の衝立の向うを顎でしゃくった。返答を待たずに歩いて行く。 敦はついていくしかない。衝立の手前で戸村は振り返り、 「榊、飲物買って来て」 と外の自動販売機を指差した。一礼して榊はそちらに向う。 一人にされた心細さで敦は立ちすくむが、戸村に手招きされて仕方なく衝立の中に入った。 そこは、簡易応接室だった。安っぽいソファーとテーブルが置いてある。 その奥には背の低いキャビネットがあり、キャビネットの上には電気ポットが置いてある。 キャビネットに立てかけてあるナイロンの筒のようなものは、寝袋か何かだろう。 泊り込んで仕事をすることもあるのか。 戸村は敦に座るよう指示し、自分はスチールのキャビネットの引戸を開けた。 そこには、もらい物だろうお菓子の箱や缶、カップラーメンが山積みされていた。 食料庫というところか。 「甘いのとしょっぱいの、どっちがいい?」 キャビネットの中を見ながら戸村が言う。 「え? あ、……しょっぱいの」 どぎまぎと答えると、戸村は「草加せんべい」と書かれた包みをひとつ、投げてよこした。 それを受取って敦はソファーに座る。戸村はチョコレートのビスケットを一箱出してきた。 テーブルをはさんだ敦の正面に座る。 「しけてたらごめんね。いつもらったのかわかんないから」 ちょっと苦笑いして、敦は袋を開けた。 食欲などまったくなかったが、口をつけるのが礼儀だろうと思ったからだ。 「売春の斡旋してたったことは、女の子が何をしてたのか知ってたんだろうね?」 ぎくり、と表情を強張らせ、わずかに頷く。知っていた。それは、知っているつもりだった。 自分だって、一時は体を売っていた事もあるのだから。それが、危険なことだとは思わなかった。 胸がむかつくような動画を見た後で、敦はただ混乱し、うなだれる。 「………俺、も、エンコーしてたこと、あったから」 消え入りそうな声で呟く。戸村はチョコレートのビスケットを口に入れた。 視線は敦から外さない。 「無事に済んだんだ? それはラッキーだったね」 男がエンコーするなんてことに、驚きもしないで戸村が応える。 「なに? アレも君の客だったんだ?」 ジュースのボトルを持って帰ってきた榊を、戸村は顎で指し示した。 敦は振り返り、榊を見、それから戸村に向き直った。 「違います!」 はっきりと、それだけははっきりと言う。さすがに戸村は驚いたのか目を見張った。 榊も驚いているようだ。話の流れは見えないが。 「もうそれはやめてて……榊さんは、俺、本気で……」 本気で、何だというのだろう。自分でも何を言っていいのか口ごもる。 男相手に、「愛している」とでも? 榊の上司相手に? 榊はコーラのボトルを敦の前に置き、戸村の前には缶コーヒーを置いた。 そして、当り前のように自分は敦の後に立つ。座る気はないようで、 座ることを戸村も勧めなかった。そこには、絶対的な力関係が存在しているようだ。 「本気で、なに?」 敦はまたうつむいた。そんなことまで、言わなきゃいけないのか。 反発の言葉が喉まで出かかる。 「そんなことまで言う必要はない、そう思ってるね?」 見透かしたような戸村の言葉に、敦が唇を噛む。 「社員の私生活に口をはさむ権利はないよ。でもね、君、これは犯罪なんだよ。 わかってる? 売春は犯罪。売春の斡旋も犯罪。しかも未成年」 戸村は、視線を榊に向けた。 「十八歳未満の少年との性交渉は、本人承諾の上であっても条例違反、なんだよ? わかってる?」 敦は、恐る恐る榊を振り返って見た。 戸村のキツイ視線に、榊は揺ぎ無くまっすぐに見返している。 「榊」 戸村の声色は、苛立ちと、怒りが込められているように思えた。 敦なら、すくみあがって泣きたくなるような口調だ。 「承知しております」 数分間、あるいは、数秒間、二人は見詰め合っていた。 敦は胸が苦しくなって、もぞもぞと足を動かした。 永遠とも思えるにらみ合いのあと、戸村は大きく溜息をついて肩をすくめた。 「君、えーっと」 和らいだ視線を戸村に向けられ、敦は教師に指名されたかのように背筋を伸ばした。 「アツシ、水崎 敦、です」 「敦君、ね。あのねぇ、こいつ、極道で去年まで刑務所いたの、知ってた?」 聞いた、確かに、聞いた。心底信じてはいなかったが。 「殺人でね、実刑。今、仮出所でここにいるの。 何か問題起したら、すぐ檻の中に逆戻りなの。わかってる?」 敦はぽかんと顎を落した。我ながらみっともない表情だ。 「で、今君の選択肢はふたつ。犯罪者と付き合うのはやめて、ここから出て別の奴に助けを求める。 もうひとつは、肝を据えて最後まで行く」 落ちた顎を戻し、目を見開いて戸村を凝視する。 この若い社長は、決してふざけているわけではなく、真剣に敦を見つめている。 「ぼ………」 口を開きかけた榊を、それまで以上にきつい視線で戸村は睨んだ。 榊は一度口を閉じ、もう一度 「戸村さん」 と言い直す。 「お前には聞いていない」 戸村の言葉に、また榊は口を閉じる。 「敦君、どうなんだ? これは君の問題だからね」 どういうこと? 何を聞きたい? 何を答えればいい? 敦の頭の中がスライム状になって渦巻く。この人は、俺に何を聞きたい? 何を言わせたいんだ? ちょっとしたはずみ、だった。女の子に売春をさせたのも。 榊と出会ったのも、関係を持ったのも。こんな、大問題になるはずじゃなかった。 逃げたい。 逃げ出したい。今すぐ、ここから。アパートに帰って、布団に潜り込んで、眠って起きたら、 何もかも解決しているかもしれない。夢だったと気付くかもしれない。 戸村の溜息が聞える。呆れられてる。 「わかった。タクシー代を出してあげるから、帰りなさい。 悪い男に引っかかったことは忘れて。とにかく、警察に相談するのが一番だよ」 戸村が立ちあがりかけると、敦は飛跳ねるように立ち上がって、戸村をしっかりと見据えた。 「俺、榊さんのこと、好きです。極道だろうと殺人犯だろうと。 だから、迷惑かけられません。ありがとうございました。警察行きます。 このこと、榊さんは関係なかったって、証明してあげてください」 我ながら、すごい勇気。目の端から、涙がにじむ。 自分がこんなバカなことをしなければ、あの人ともっとずっと一緒にいられたかもしれないのに。 自分で自分の首をしめたんだ。こんなに人を好きになるのは初めて。 だから、だから……… 唇を噛んで出て行こうとする敦に、榊が立ちはだかる。 「ごめんなさい、榊さん。俺、榊さんに会えてよかった。 でも、迷惑かけて、ごめんなさい!」 巨体を回り込もうとすると、また榊は邪魔をする。敦は榊を見上げた。 榊は敦を見下ろし、また戸村を見る。戸村は座りなおして缶コーヒーを開けていた。 まるで、今から商談が始るかのように。 「よかったね、愛されて。ハイ、座って。じゃ、どうするか相談しようか」 呆気に取られる敦を、榊は優しく抱かかえるようにソファーに座らせ、 自分はその隣に腰を降ろす。 「戸村ちゃん、あんまり苛めんなよ。かわいそうだろう?」 衝立の向うから、ニヤニヤ笑った坂本が顔を出す。衝立ひとつだ。 話は事務所全部に筒抜け。他にもくすくす笑う女性が二人と、 オタクっぽい青年が一人覗き込んでいて、 戸村が「シッシッ」と手を振るとそれぞれが戻っていった。 涙をにじませた敦が、きょとんとして目を瞬く。 「ベビードール、個人営業じゃなさそうだね、事務所があるみたいだよ。 これ、電話番号。さっきかけたらデリヘルの受付だった。でも、手がかりにはなるでしょう」 戸村は坂本からメモを受取った。 「もっと探る?」 「他の仕事に影響が出ない程度にね」 ニッと戸村は笑った。笑うと、高校生でも通りそうだ。 「君、戸村の悪態は通過儀礼みたいなもんだから。 ま、戸村と榊さんにはさまれて啖呵切れたんだから、君もたいしたもんだね」 坂本はウインクをして出て行った。これは、どういうことかと敦が榊を見る。 榊は、わずかに微笑んで見せた。 「極道に引っかかるなんて、シュミ悪いね、君。榊なんて公衆浴場入れないんだよ?」 缶コーヒーを飲みながら、坂本から受取ったメモを読み、戸村はさらっと言った。 「昇り竜、カッコイイと思いましたけど」 真面目に答える敦に、「見たんだ?」と戸村が口元をつり上げる。 ハッと敦は口をつぐんだ。ハダカを見る関係だと豪語してしまったようなものだ。 「榊ぃ」 榊もばつが悪そうに頬を引きつらせる。 「ま、僕んトコ話持ってくるだけマトモになったってことだね」 小首をひねる敦に、戸村は盛大なニヤニヤ笑いを見せた。 「組にいた頃だったら、若いの使ってその大学生って奴探し出して、フクロにしてんだろう?」 とぼけた風に榊は肩をすくめて見せる。敦は今更になってゾッと身を震わせた。 「とりあえず、ベビードールさんに聞いてみますか」 戸村は名刺をくれた。榊の名刺とデザインは同じで、役職は「代表」になっている。 戸村 真司。まるでそこにそれ以上のことが書かれているかのように、敦は名刺に見入った。 敦が名刺を眺めている間に、戸村は自分の席に戻り、 そこの電話を使って問題のホストに電話をかける。 戸村の声は舞台俳優のように澄んでよく通る。言葉は丁寧でしゃべり方もやわらかい。 じつに好青年的な印象。 「いえいえ、ウチなどホームページ作成会社などと言いましても、まだまだ駆出しでして。 ………ええ、本当に。アクセス数の多いサイトの管理者の方に、 秘訣のようなものを教えていただけたらと。………本当、お恥かしながら」 にこやかな明るい口調。さっきまでとは大違い。 表裏のはっきりしている人なんだな、と敦は思った。小さくても会社を運営しているのだ、 それくらいはするか。 「…………本当に? よろしいですか? では明日。………はい。その時間でけっこうです」 電話を切った戸村が、にこやかに簡易応接室に戻ってくる。 「明日、アポ取ったから、出向いて聞いてみるよ」 「俺は……?」 「あー、子供が行ったら、話がややこしくなるからね。 とにかく、君は当分おとなしくしていること。逃げ隠れする必要はないけど、 繁華街には行かない方がいいかな。さっきまでの話だと、君はチンピラに目をつけられてる。 ということは、君の存在はバレてるってことだから。進展があったら連絡するよ」 じゃあ連絡先を、と自分の携帯電話を取りだしかけると、戸村は片手を上げてそれを制した。 「榊が知ってるんだろう? それでいい。奴に連絡させるから」 敦が榊を見る。榊は肯定するように頷いた。 「榊、もう夜だから送ってやりな。今日はアガリでいいよ。明日は定時出社。車持って来いよ」 「わかりました」 榊は立ち上がり、敦を促す。 「あ、それから、坊やをマンションに泊めるつもりなら、ご両親に挨拶ぐらいしておけよ。 それがシャバの礼儀ってもんだ」 戸村の言葉に、敦は悲しげに微笑みを作る。 「ご両親」なんて言葉、こんなに悲しかったっけ? 「俺、親離婚してて、母親は男んトコ行きっぱなしなんです。だから、一人なんです」 戸村はちょっと首をかしげ、「そうなんだ」と呟いた。そこに同情の声色はない。 「そんじゃ、不安だろうから、しばらくこいつのマンション行ってればいい。 週末だしな。でも、親に連絡つくんだろう? 一応友達んトコに泊るとでも連絡しとけ。 あとが厄介だからな」 とても冷静で常識的な助言。 「でも、週末でも榊は仕事だから」 ニッと戸村は笑った。 この人、掴み所がない。理解しにくい。敦は戸惑う。 豪胆で横暴な口調かと思えば、常識的で犯罪に対して厳しい。 生真面目なのだろうが、他人事に同情する偽善的な態度は見せない。 一見、わがままで部下をこき使うワンマン社長のようで、実は他の社員からは慕われているようだ。 アレだけ歯に衣着せぬ糾弾をしておきながら、あっさりと助力をしてくれる。助言ではなく。 「あの……俺、頼っちゃっていいんですか」 恐る恐る敦は聞いてみる。こんなに、物事が簡単に進んでいいのだろうか。 「君が頼るのは、そこのおっさん。理由は付き合っているから。 で、おっさんが頼るのが僕。 理由は、上司だから。わかった?」 上司。そんな単純な言葉で片付けられるような関係には見えないが。 そう、絶対的な力関係。それを感じる。 それほどまでのものが、この戸村という青年にあるのだろうか。 「つうか、勝手に行動するな。必ず僕を頼れ」 ふざけた表情の中でも、戸村の目は笑っていない。榊は頭を下げた。 応接室から出ると、あの東というハッカーの青年以外、みんな興味を持ってこちらを見ていた。 そりゃあそうだろう。 中年の男が「恋人」らしき少年の犯罪の尻拭いを頼みにやって来たのだから。 「一応紹介しとかないと、あとがうるさそうだから紹介しておくよ」 戸村は事務所を見渡した。 「手前の二人は西口さんと寺田さん。ウチのwebデザイナーね。ぶっちゃけ、レズ」 ひくり、と敦の頬が引きつる。 そりゃ、自分もホモだってんだから他人のことはどうのこうの言えないが。 しかし、同性愛者とこうして知合うのは初めてだ。だから自分がここに来た時も、 榊との関係を告白した時も、ヘンタイ扱いされなかったわけか。 「その隣、大門君。今でいうアキバ系。ネトゲー詳しいよ。 興味があったらメイド喫茶に連れて行ってもらうといい」 うわ。敦が見ると、その大門という青年は愛想よく笑った。 パソコンの上に、美少女フィギアと、名前のわからないロボットフィギアが並んでいる。 「反対側の席。東はハッカー。シュミはグロ画像収集」 来客に興味なさ気にパソコン画面を見ていた青年は、ふと顔を上げて、 「それは終った。今はもっぱら公的機関のサイトに侵入を試み中」 と、投遣りに言い、またモニターに視線を戻す。 戸村はおかしそうに口元にニヤニヤ笑いを残す。 「そういうわけ。あれも犯罪一歩手前ね。で、その隣の坂本。 アダルトサイトの専門家。大門と正反対。三次元の女しか興味ない」 坂本は愛想がよく、ニコニコと手を振る。 「その隣、杉田さん。唯一営業をこなせる常識人。流行りモノに詳しいし」 髪の長い、ばっちり化粧をした女性が微笑む。敦はちょっと安心したように微笑みを返した。 「気をつけないとケツ狙われるよ」 え? と、敦の笑みが固まる。 「杉田さん、ニューハーフだから」 「タチのシュミ、ないわよ」 とても男とは思えない顔、表情。 「お前、僕のケツ狙ってただろう?」 「昔の話よ。今そんなことしたら、榊くんに殺されちゃうもの」 おかしそうに戸村は笑う。とんでもない連中だ。 「やーさんで仮出所中の榊は、経理。及び電話番と受け付け、運転手」 「飲み会での用心棒」 向うの席で西口という女性が笑う。 「夜食の買付け、だろ?」 無愛想な東も口をはさむ。 「真ちゃんのペットじゃないの?」 杉田は髪をかき上げながら言う。みんな言いたい放題だ。 敦が榊を見上げると、榊は大人らしい仕方ないと言う風な笑みを作った。 「口は悪いが、いい連中だ。信用できる。安心していい」 特に杉田は、敦に興味津々のようだ。敦に近寄り、ニヤニヤしながら顔を覗き込む。 「あ、あの?」 「ふうん。そう、あなたが榊君の、ねえ」 敦は眉を寄せ、身を引いた。 「杉田、言いたいことがあるならはっきり言えよ」 自分の席に戻った戸村が、助け舟を出す。 「別に。そうね、榊君が気に入った理由がわかるなあ、って」 杉田は坂本に何か耳打をし、二人でくすくす笑う。それには戸村も気分を害したようだ。 ムッとした表情をすると、相変らずモニターから目を離さない東がぼそりと言った。 「そのガキ、お前に似てんだよ」 はあ? と戸村は東を見、杉田と坂本を睨む。 「僕はそんなにチビじゃない」 他の連中もくすくすと笑い、戸村は榊と敦に早く出て行けと手を振った。 榊は敦を促し、退社の挨拶をして事務所を出た。 敦は、複雑だった。 嫌なものを胸の奥で感じた。 似ている? あの、戸村って人に? 榊さんの、ボスに? 「似ていない」 俯きながら、榊は言った。 「みんなでからかっているだけだ」 すっと榊の手が伸びてきて、敦の手に触れる。エレベーターに乗る頃、 二人は人差指を一本、絡めていた。 「うちに来るといい」 敦は榊を見上げ、繋がった指を見下ろし、口元をほころばせて、 「うん」 と頷いた。