乱れ、ほつれた髪と、頬の蒼あざ、血のこびりついた唇。 純粋だった瞳は大きく見開かれ、ボロボロと止め処ない涙を零し続けている。 腕を男に掴まれ、無理矢理立たされているが、両の足はがくがくと震えていた。 泣き叫び、疲れきった、青ざめた唇で、目の前の男を凝視している。 そこに映るのは絶望の文字。 榊 功は、卒倒するほど血の気を失わせていたが、頭の中は冷め切っていた。 拳銃を握る手に、汗の一滴もかかない。指は凍りついたようにトリガーにかけられたままだ。 少年は、喘ぐように震える唇を動かした。 「………タ……スケ…テ、サカキ………」 榊は無表情に引金を弾いた。 十年後。 水崎 敦、十七歳。 新宿の繁華街にあるコーヒーショップの一角で、敦は熱心に携帯に向っていた。 いまどきの子供らしく、文字を打つ指は早い。 夜七時。 敦は背は低い方で、体も細いから、かなり小さく見える。 顎の線は細く、アーモンド形の瞳はくりくりとよく動く。 短く刈りこんだ髪は、上の方だけアッシュに染めていた。 とても真面目そうには見えない風貌。しかし、不良と呼ぶにはあどけなさすぎる。 自分のその童顔は、コンプレックスでもあった。 が、同時に、教師とか、補導係員の中年女性とかにはウケがいい。 「あ……の」 サラリーマン風の中年男性が、おずおずと声をかけてくる。 ふり向いて見上げた敦は、にっこりと笑って見せた。 「クラタさん?」 「あ、はい」 敦は目の前の椅子を指示し、座るよう身振りする。 中年サラリーマンは、周囲をきょろきょろしながら浅く腰掛けた。 「先に条件を話すけど、いい? 二時間、三万円。 ご指名のトモヨちゃんはカラオケが好きだから、 ホテルの部屋はカラオケつきを選んであげると喜ぶよ。あんまり無茶はさせないでね。 アルコールは禁止。女の子に飲ませないで。 それから、帰りは必ずタクシーに乗せてあげて、自宅までのお金を出してあげてね。 わかった?」 中年サラリーマンがこくんと頷く。 敦はさっと立ち上がると、奥の席で友人とジュースを飲んでいた制服姿の女の子を手招いた。 中年男がゴクンと息を飲む。 「制服は汚さないでよね、本物だから」 男はまた頷いた。 「トモヨちゃん、クラタさん。今夜よろしく」 敦が紹介すると、女の子は恥しげに手を出した。 上着で手のひらをごしごしこすってから、男も手を出して握手をする。 「何かあったら、すぐ電話してね」 「はぁい」 女子高生は愛らしく返事をした。 「ああ、重要なこと忘れてた。クラタさん、これ」 敦が銀色の四角いものを差出す。 「ナマはダメだよ、ゼッタイ」 避妊具だ。クラタという男はそれをポケットに入れて頷いた。 サラリーマンと女子高生を見送ったあと、敦は店の奥に残されているトモヨの友人の隣に座る。 「アっちゃん、将来は水商売のオーナー?」 先ほどのトモヨより少し大人びた少女は、くすくすと笑う。 「なーんも考えていませーん」 ふざけた口調で、トモヨの飲み残したジュースをすする。と、敦の携帯がバイブする。 「ハナちゃん、ご指名〜」 面倒くさそうに、その少女も腰を上げる。 「若いの、いやよ? 元気すぎて疲れちゃう」 「ダイジョーブ、ダイジョーブ。中年デブ、しかもレストラン店長」 店の外で、敦は少女を男に引渡した。 「本日のお仕事終了〜」 軽くのびをして、携帯をジーンズのポケットにしまうと、敦はよく行く牛丼店に足を向けた。 今日び、女子高生の母親は娘の携帯をチェックしたがる。 そんな女の子のために、敦は自分の携帯をセフレ専門出会い系サイトに接続し、仲介をしている。 仲介料は一人一回五千円。いいバイトだ。 敦自身はといえば、両親は離婚、母親は若い愛人の家に入りびたり、 結局狭いアパートで半一人暮しを余儀なくされている。 さすがに少しは良心が痛むのか、母親は月何万という敦の携帯料金を払ってくれている。 何をしているかも聞かずに。 金に困っているわけではない。「ギブ アンド テイク、需要と供給。人助けだもんね」 などと敦は飄々としていた。 数歩歩いたところで、ぽんと肩を叩かれ、敦は振り返った。やべ、補導員か? 「アツシってのは、お前だな?」 そこに立っていたのは、補導員とは似ても似つかないチンピラ風の男が二人、だった。 「コーコーセイのくせに、女衒の真似とは、いい度胸だ」 ばれた? 敦の頬が引きつる。こんなことをやっていれば、 多少のリスクは覚悟しなければならない、が、敦は喧嘩はからっきし自信がない。 あるのは逃げ足だけ。 ぐるり周囲を見回しても、誰もこの難癖に気を止めない。 逃げるしかない、と、方向転換すると、その肩をぐいと掴まれ、敦はしりもちをついた。 そこで腹を蹴り上げられる。 「うっ」 短くうめいて蹲る。さらにもう一発。そして三発目………は、来なかった。 恐る恐る顔を上げると、なにやらやたらと図体のでかい男が、チンピラの腕をねじ上げていた。 「ガキをフクロとは、いい趣味じゃない」 男の声は低く、耳に気持いい。 「あんだとぉ? オレたちのバックにはヤクザがついてんだぞ!」 チンピラの虚勢も、その男の一睨みでしゅるしゅるとしぼんでしまう。 「お、覚えてやがれ!」 お決りの捨て台詞。敦は腹を押えながら何とか立ち上がろうとし、その男に腕を支えられた。 大きい手だ。が、指は細くて長い。力強いその指に、敦はドクンと心臓を鳴らした。 「大丈夫か、坊主?」 「あ、はい。ありがとうございます」 笑おうとして頬が引きつる。四十代くらいだろうか。その男は若すぎず、年をとりすぎず。 頬骨の張ったその上の眼光は、細くて鋭い。 短い黒髪はきれいに後に撫で付けられ、浅黒い肌に唇が一文字に結ばれている。 黒いスーツのネクタイ姿。とてもサラリーマンには見えない。 今まで何人もの大人の男を見てきたが、この男は只者じゃないと直感する。 それこそ、昔の映画の「ヤクザ」。その男らしい風体に、敦は一目で惚れた。 言葉どおり、「一目惚れ」だ。 男も何かを感じたのか、敦の顔をじっと見つめている。 まるでラブストーリーの一場面みたいに、二人は見つめあった。 たぶん、数秒だったのだろうが、敦には何時間にも感じられた。 これが、恋?! まさか! そんな、ドラマみたいなこと。 男は敦の腕を放し、顔を背けた。 「ガキが出歩いていい時間じゃねえ。さっさと家に帰りな」 声。その声にまた胸が高まる。 「ありがとう、おじ…さん……じゃ、ないよね?」 ちらりと男は敦を見、躊躇してから 「サカキ、だ」 と名乗った。 とたん、敦の表情が輝く。 「俺、アツシ。ありがとう、本当に。サカキさん」 礼を言われることに慣れていないのか、男、榊はまた顔を背ける。 敦は強引に、大胆に、榊の腕を取って手を握った。 「あ、あの、なにかお礼をさせてください!」 「いらん。たいしたことじゃない」 「いいえ、お礼をしたいんです! その……こういうの、キモイかもしれないけど、俺……サカキさんに惚れたんです。 だから」 榊には眉根を寄せた。 「三十分、三十分だけ」 結んでいた唇をわずかに開き、榊は溜息を漏らした。 いかがわしい喫茶店の地下の個室。この新宿という街には、何でもある。 客の大半を渋谷などに取られたとしても、昔からの繁華街は存続している。 こういう怪しい店も、その一つ。 「よくこんな店、知っているな?」 跪いた敦は、顔を上げて榊を見上げた。さっきから、奉仕している。慣れた仕事のように。 「………半年前まで、この界隈で『ウリ』やってたんです。もっと二丁目の近くで、ですけど」 わるびれもなく、にっこりと笑ってみせる。 「今はもうやっていないんですけど。飽きちゃって」 言い終ってから、また榊のそれを口に含む。中々立派な大きさで、敦は苦戦していた。 口でするのには、自信があったんだけど。榊は敏感には反応してくれない。 本当は、飽きたからやめたんじゃない。誰かに抱かれたら気分が晴れるかと思っていたのだ。 なのに、結局男とやっても女とやっても、満足することはなかった。 それを、孤独とは呼びたくなかった。 半ば目を閉じて一生懸命奉仕する敦に、榊はその頬を両手で包んで体を起させた。 「もう、いい」 「………でも」 「いい。十分だ」 がっくりと敦が肩を落す。 「………ごめんなさい」 意気消沈した敦に、榊は顎に指をかけ、自分の方を向かせる。そして、軽く唇を重ねた。 「!」 突然のキスに、敦の顔がカッと熱くなる。 その敦の反応に、榊は唇をつりあげるように微笑んだ。 「仕事の途中でね。会社に戻らなければならないんだ」 「し…仕事中、だったんですか!」 今度は榊が肩をすくめる。その仕草は、最初の厳ついイメージから離れていた。 敦はクラスでは目立たない存在だった。成績は中くらい。運動は中の上。 これといって学校に反抗もしないし、かといって友達いっぱい楽しい学園生活、でもない。 休み時間は、たいてい一人で携帯をいじっている。 「アツシくーん」 敦がバイトの斡旋をしている女の子の一人が、友人を連れて寄ってくる。 敦は顔を上げて愛想笑いをして見せた。 「ね、次のバイトだけど」 「あーあれさ、しばらく自粛」 女の子は無邪気に首をひねった。 こういう子は、ファミレスのウエイトレスも売春も、同じ意味しかないのだろう。 敦は声を落して女の子の耳に口を近づけた。 「昨日、チンピラにインネンつけられちゃってさ。ちょっとヤバめ」 「えー? 大丈夫だったの?」 「なんとかね。昨日の今日だろ? しばらくは隠れておとなしくしておきたいんだ」 そうか、残念、と女の子は肩をすくめた。 「もうやんないの?」 隣の、ちょっと気の強そうな女友達が囁く。 「未定」 「ほとぼり冷めたら、また紹介してよ。こづかい欲しいし。頼りにしているからさ」 気の強そうな子はシズネ。家庭はあまり裕福ではなく、敦の紹介してくれるバイトに頼っていた。 彼女も携帯電話は持っているが、上限がかなり厳しく、友達同士のメールでいぱいいっぱいだった。 「そのうちね」 敦も、シズネには同情してはいた。 彼女は、大学に行く金を、このバイトでちまちま溜めているのだ。 女の子が去って授業が始ると、敦はポケットから名刺を出して、こっそりと眺めた。 昨夜、サカキというあの男がくれたものだった。 名刺には、「キャット・ワーカーズ 経理部長 榊 功」と書かれている。 (何の会社なんですか?) (コンピューターでホームページを作成したり、いろいろやっている) (うわ、IT?! 経理部長なんて、エリートなんだ?!) (いや。社長入れて社員は八人。経理は俺一人で、電話番と運転手も兼用している。 今は残業している社員への夜食の調達の途中なんだ) 強面の面構えとは反対に、物腰はやわらかく、口調は優しい。 人は顔では判断できないものだと敦は感心した。 (また、会ってもらえますか?) 榊は戸惑いながらも、小さく肯定の返事をした。 昨夜のやりとりを思い出すと、口元が緩む。 こんな出会いもあるんだなあ。敦は名刺を指で弄びながら、ニヤケ顔をうつむいて隠した。 別に、自分がゲイだって自覚しているわけではない。 だがしかし、女にはあまり感心がもてない。 きっと、一番近い異性の母親が、親である以前に女であることを選んでしまったからだろう。 きっと、心の端っこで幻滅しているんだ。売春したがる女子高生もそう。 金のためなら平気で足を開く。だから、彼女たちに売春の斡旋をしても、良心がとがめないのだ。 だからといって男が好きなわけでもない。 両親が離婚して、母親が敦を置いて出かけてしまい、一人でいることに耐えられなくて、 夜の繁華街を放浪した。中学まで熱中していた少年野球も、まったく興味を持てなくなった。 自分が何をしたいのか、どうすればいいのか、まったくわからなくなっていた。 敦はよほど童顔で頼りなく見えたのだろうか、たむろする不良グループより先に、 少年少女を買いたがる大人に声をかけられた。人恋しい表情をしていたのかもしれない。 男相手はちょっと痛いが、薄暗いアパートで一人で膝を抱えているよりよっぽどマシだった。 それに、金ももらえる。味をしめて、数ヶ月そんな生活を続けた。 でも結局、むなしさは増すばかりで、そうすることをやめた。 引きこもりのオタクみたいに携帯サイトに今度はハマった。 冗談半分で、クラスの女の子に話を持ちかけてみたら、なんとすぐに乗ってきた。 携帯でのやりとりが面白くて、色々女の子に打診してみる。 女の子も、口コミで十人近くが敦の斡旋に乗ってきた。 犯罪という意識はない。 あくまで暇つぶし、なのだから。 でもこれも、ちょっと飽きてきたかな。チンピラに目をつけられるのは、やっぱり嫌だし。 榊との出会いは衝撃的だった。 なんで? ただの強面のオヤジじゃないか。 なんで? 何度か自問してみて、きっとああいう男が理想なんだと思いあたった。男らしい男。 父親に、そうであって欲しいと願っていたのかもしれない。 自分がそうなりたいと思っているのかもしれない。こんな、ひょろひょろではなくて。 敦は、不器用だった。物事の表面をさらさらと流れていくのは得意だ。人付き合いも。 誰とでも話題をあわせて、愛想よくできる。が、一歩奥に入ると、何をしていいのか、 どう話していいのか、わからなくなる。 榊という男は、よく嫌がらなかったものだ。 もしかしたら、いやたぶん、あの男は根っからの同性愛者なのだろう。 だから、敦の誘いも受けたのだ。 それって、偶然。 最初、敦を観た時の榊の表情。引き込まれるように敦を見つめていた。 それって、偶然。 笑いがもれそうになり、敦は慌てて口を手で覆った。 偶然の重なり。こんなこともあるんだ。人生、捨てたもんじゃない。 名刺には榊の携帯番号も記されていて、敦は夜な夜な電話した。 まだ会社にいるときも多く、そんな時はすぐに電話を切った。 これといって話す内容はない。なんとなく世間話とか、学校のこととか、 ほとんど一方的に敦がしゃべり、榊は辛抱強くそれを聞いてくれた。 めずらしく榊は仕事が速く終ったというので、 (それでも夜の八時だ)飛びつくように敦は会う約束をした。 繁華街のコーヒーショップで待ち合せる。 榊は、初めて会ったときと同じようなスーツ姿だった。敦はジーンズにシャツ。 向い合って座る姿は、少し異様だ。親子や兄弟には見えない。 友達と呼ぶには年が離れすぎている。 榊は身の上は話さないが、会社の個性的な社員のことは少し話してくれた。 やはり、ほとんどが敦の一方的な世間話。それでも楽しかったし、なにより一緒にいると安心する。 そんなふうに感じる相手は、敦は初めてだった。 「もう遅いから、送ろう」 一時間くらいして、榊が切り出す。え? と、敦は正真正銘驚いた。もうそんな時間? 「………俺、榊さんと、もっといっしょにいたい」 榊は困ったような顔をする。 「さっきも話したように、俺、アパートには誰もいなくて一人なんだ。だから………」 懇願するように榊を見つめる。榊は視線を落して、考え込んでいるようだ。 「あ、でも、榊さんには家族、いるんでしょうね。俺なんかが引止めちゃ、迷惑ですよね」 その問いには、すぐに榊は首を横に振った。 「俺は、結婚はしていないし、同居している家族もいない」 「だったら」 敦は真剣だった。離れたくない、と、思った。 「………君は明日も学校だろう? 俺も仕事がある」 「終電で帰るから。だから、もう少しだけ一緒にいさせて」 強引な敦の誘いに、榊は溜息混じりに頷いた。 会社は新宿のオフィス街で、マンションもその近くらしい。歩いて行ける距離だとか。 榊はタクシーで自宅マンションに乗り着けた。 さすがコンピューター関連の社員らしい、高級マンション。 ガードマンは二十四時間常駐していて、セキュリティーは万全。敦のアパートとは雲泥の差だ。 「………すごい所に住んでいるんですね」 思わず溜息が出る。榊は苦笑いをした。 実は榊の会社の社長の祖父の持物で、格安で入居している。 社宅扱いで、社員のほとんどが(社長も含めて)ここに住んでいる。 榊としては、敦をマンションに連れて来たくはなかった。 誰かに見られたら、ちょっとした騒ぎになるだろう。 しかし、未成年と繁華街で過すのは危険だし、ホテルなどを使いたくもなかった。 意を決し、敦を引連れて管理人室の前を通る。 軽く頭を下げると、定年間近という感じの初老のガードマンもぺこりと頭を下げた。 あまり勤勉なタイプではないようで、榊の後ろの敦を気に止めた様子はなかった。 だだっ広いワンルームで、こざっぱりしていて、装飾品はまったくなく、 家具さえ必要最低限という感じだ。目立つのは、大き目のベッドと、仕事用だろう机。 その上のパソコン。隣の本棚には、コンピューター関係の本や雑誌がぎっしり詰っている。 よほどの勉強家なのだろうか。 キッチンもあまり使われている形跡はない。 「日本酒とお茶くらいしかないが」 「なんにもいらないです」 きょろきょろしていた敦は、慌てて手を振った。 べつに、くつろぎに来たんじゃない。 どう接客していいか戸惑う榊に、敦は抱きついて唇を重ねた。 「………」 榊の両腕が、敦を抱こうか離そうか、まごつく。 「この前、失敗しちゃったけど」 ニッと歯を見せると、榊は敦の肩を掴んで、優しく引き剥がした。 「………すまない。この前は、どうかしていた」 うつむいて謝罪する榊に、敦の胸が痛む。 「だめ? 俺じゃ……起たない?」 真剣にそんなことを聞くものじゃない。榊の方がドキリとする。 「君は………未成年で、俺は君の父親ほどの年だ。そういうのは、よくない」 「年は関係ないよ。俺は、本気なんだ。やっと出会えたんだ。本当に好きになれる人に」 ゆるゆると榊は首を横に振る。 「まだ出会ったばかりだ。お互いのことを知らない」 「じゃあ、教えて。話したくないなら、俺は知らなくてもかまわない。 榊さん、俺は………榊さんがヤクザだってかまわないよ」 本気でそんなことを言っているのか。榊の口元が引きつる。 「俺が、ヤクザ、だと?」 「なんとなく、雰囲気で。でも、違うんでしょう? 失礼なこと言っちゃったよね、ごめんなさい。例えばの話」 笑みを消し、唇を結ぶと、榊の表情はおだやかさがなくなる。 榊はおもむろに背を向け、スーツを脱ぎ始めた。敦はただ黙ってそれを見つめる。 ジャケットを脱ぎ、ネクタイを取り、ワイシャツをずり降ろす。 「あ」 敦は思わず声を出した。その広い背中には、昇り龍が横切っていた。 脱いだワイシャツをベッドに投げすて、榊は唇をつりあげた。 「アタリ、だ。ヒトも殺してる。………マンションの下でタクシーを拾ってやるから、家に帰れ」 呆然と口を開けたまま、敦は榊を見つめる。 「アツシ………」 自虐的な榊の笑みに、敦は複雑な笑みを作った。 「やっと、名前を呼んでくれた。よかった。忘れられてたかと思った」 それから榊に歩み寄り、厚い胸板に両腕を回し、頬をぴったりとくっつける。 「だから、そんなの俺には関係ないって。奥さんとか子供とかいたら、ちょっと考えちゃうけど」 なんか、しっくりする。榊は、エリートサラリーマンというより、 「ヤクザ」の方が似合ってる。危険な匂いがする。 「………別に、極道関係のヒトが好きってわけじゃないんですよ。ホントは、怖いです。 でも、榊さんは、怖くないです」 顔を上げて、唇を重ねる。榊の唇は、がさがさした感じがする。存在感がある。 一度唇を離し、視線を合わせ、敦は恥しげに榊の胸に額を押し当てた。 「抱いてください。そしたら、帰ります」 男とのセックスの経験は、何度かあり、「慣れ」た。それが快感なんじゃない。 単なる「慣れ」。ちっとも気持ちよくないのに、何でみんな「セックス」が好きなんだろう? と、いつも思っていた。売春している女の子の一人は「寂しいから」と、悲しげに呟いた。 なるほど、それなら納得できる。 寂しいから。それは、セックスをする理由になるのだろうか。 敦は、榊の唇を首筋に感じながら、ぼんやり考えた。 空っぽで孤独な体の中を、この人なら乱暴に埋めてくれるのだろうか? だから、誘った? 恋愛が、どういうものかも敦は知らない。 榊は敦と唇を重ねる。こんな「キス」は初めてだ。 場当り的にセックスを重ねたが、こんなのは、初めて。 全裸で抱合い、何度も何度もキスをする。愛しむように。 榊の無骨な手は敦の背中を撫で、腰を引き寄せる。密着した肌が熱い。 直接扱いたりしゃぶったり、早急な興奮を求めなくとも、ゆっくりと下半身が熱を帯びてくる。 榊は何も言わない。興奮させるような卑猥な言葉も、わざとらしい愛の告白も。 ただ、唇を重ね、舌を絡めあう。 恋人同士のセックスって、こういうのだろうか? 気持ち、いい。 飲み込めない唾液が唇の端から滴る。榊はそれを舐め取る。 榊の手は、ゆっくりと下に降りていき、敦の尻を撫でる。 敦はもう十分にそこを充血させていた。もぞもぞと腰を動かし、次のステップを求める。 唇が離れ、榊の顔を見上げた時、敦はそこに憂いを見た。愛しさに溢れている。 そんなに愛されるほど、時間を共にしていないのに。 やはり榊は何も言わず、今度はゆっくりと唇を顎へ、首筋、胸にと落していく。 胸の突起をたっぷりと刺激した後、さらに唇は下がり、充血し、硬くなったものへと。 「ん………」 思わず目を閉じ、喘ぐ。唇に包まれ、敦はすぐにでも爆発しそうだった。 それなのに、唇の動きはゆっくりで、その周囲を舐める。 なんでこんなことをしているのか、とか、なんで彼なのか、とか、 そんな考えを温かな波が押し流す。もっともっと刺激が欲しくて、敦は腰をくねらせた。 早く挿れて欲しいのに! 秘部をほぐすように舌で弄られ、敦は熱い吐息を吐き出す。 丁寧に丁寧に愛撫を重ね、敦はうつ伏せにされた。 腰を持ち上げられ、そこに熱く硬いものが押し当てられる。 (そう、それ、欲しい、早く) 頭の中で誰かが懇願する。そんなふうに思うのは、初めて。 今まで、それは厄介ごとでしかなかったのに。 やわらかくほぐされた部分が押し開かれ、ゆっくりと榊が侵入してくる。 痛みがないといえば、嘘になる。 だってそれは、今まで経験したことがないくらい容量があるのだ。 なのに、敦の心も体もそれを欲しがっている。もったいぶるようなスローな動きに、 必要以上に神経が高ぶる。 やがて先端部分がもぐり込み、動きが止る。榊はかがみこんで 「痛いか?」 と囁いた。痛い? 痛いよ。でも、気持いい! 敦は激しく首を横に振った。もっと欲しい。もっと奥まで。 再び硬いものがずぶずぶと入っていく。ゆっくりと、奥まで侵入を果す。 そこでまた榊は動きを止め、敦の内部が榊の容量に慣れるまで待った。 緊張した内壁が、弛緩していく。と、またゆっくりと動き出す。 ゆっくりと、大きく。それを何度か繰り返すと、今度は小刻みに動かす。 敦はそのたびに歓喜の声をあげた。 後ろから大きな腕に抱かれ、揺り動かされ、敦は夢を見た。 あれは……まだ小さな子供だった頃。両親と海に行った。 浮き輪にはまった敦を、父親が沖へと連れて行ってくれた。 小さな敦は、足のつかない海の中でぽっかりと浮んでいた。 冷たかった海の水は温かく感じられ、足のつかない不安は消え去り、 波のうねりに心地よさを感じる。ただなすがままに、上へ、下へ、左へ、右へ。 ふわふわと、くらげにでもなったみたいに。 やがてさーっと潮が引いていき、大きなうねりがやってくる。 「あぁ」 何の抵抗もなく、身を任す。 「サカキ…さん」 押し流される快楽のうねりの中で、敦はその男の名を呼んだ。 うねりに包まれると、今度は体が収縮するみたいに緊張し、そして、敦は欲望の証拠を吐き出した。 敦の緊張が和らぐのを、榊は動きを止めて待った。しばらくしてから 「抜こうか」 と、耳元で囁く。敦は首を横に振った。榊は、まだイってない。 「ナカで、イって」 熱っぽい声で囁き返すと、榊は敦の腰を掴んで再び動き出した。 今度は、遠慮なく、激しく。敦は食いしばった歯の間から、うめきを漏らす。 榊は最後に大きく打ち込むと、敦の中に己を開放した。 そのまましばらく抱き合い、落着いてからそっと抜き取ると、 敦のその部分から榊の放出したものが流れ出た。 気恥ずかしさと、愛し合った証拠の喜びに、敦は頬を緩ませて榊に抱きついた。 榊は汚れを丁寧に拭いてくれ、脱力する敦に毛布をかけてくれた。 幸福感に酔い、目を閉じる敦の髪を、撫でてくれる。 しばらくすると、敦は安心感から意識を手放した。 敦が眠ってしまった後も、榊はしばらくベッドサイドに座り、敦の髪を撫でていた。 飽きる事無く。 ふと、上着のポケットに入れたままの携帯電話が呼び出し音を告げているのに気がついた。 慌てて弄り出し、敦を起さないようにそちらを見ながら通話ボタンを押す。 敦は小さくうめいて寝返りをうっただけで、起きる気配はなかった。安心してベッドから離れる。 『…………今どこ? 聞いてる?』 苛立たしげな相手の声に、何か感づかれたかと一瞬口元が引きつる。 「すみません、家です。うとうとしていたもので」 『そう』 さらりとしたもので、電話の相手は疑ってはないないようだ。 「飲みに行かれたのでしょう? 迎えが必要ですか?」 『いや、今マンションに帰ってきたところ。飲みすぎちゃったよ。榊、水持ってきて』 水? 一瞬の後、榊は笑いをこらえた。 電話の主は、榊の上司。社長の戸村だ。同じマンションの、上階に住んでいる。 こんなワンルームではない。 本人は嫌がっていたが、戸村の祖父が「社長ならそのくらいの広さは必要だ」と、 強制的にリビング二十畳の3LDKに入居させられている。寝室はふたつもある。 まあ確かに、何かと戸村の部屋には社員が集り、会議や宴会を開き、 たまに何人かそのまま泊ってしまうこともあるので、 あながち無駄とも言いきれないのだが。しかし普段は一人暮し。 ベッドに入ってしまうと、キッチンに水を飲みに行くのも一苦労、ということになる。 「わかりました。他にはなにか?」 『いい。喉かわいた。干からびちまう』 電話を切ると、榊は一度敦の元に戻り、寝息を確認してから、 急いで服を身につけ、起さないようにそっと部屋を出た。 再び部屋に戻ってきたのは、三十分後だった。 敦はぐっすりと眠っている。起すのは気が引けるが、今日はまだ平日、 このまま朝を迎えるわけにはいかない。 そっと揺り起こすと、敦は眠たげに瞼を上げた。 「今、何時?」 「一時半だ」 「眠っちゃったんだ」 伸びをしながら体を起す。 「家まで送ろう」 うん、と頷いてから、敦は恥しげに微笑んだ。 「その前に、シャワー、借りていい?」 敦の体には、愛し合った痕跡がしっかりと残っていた。