翌日。 不思議なものだ。もう生きてはいられないと思えるほど闇の底に突き落されたのに、 今はこうして普通に笑っていられる。 大学で、同じように方々から集った友人たちと談笑している。 「チャイナタウン、どうだった?」 昨日一緒だった友人に聞かれ、ジエンは大げさなほど両手を広げて見せた。 「すっごいね! びっくりしたよ! もう、異国!って感じで!」 「飲茶、した?」 「それがさ、なんか圧倒されちゃって、あちこち見てて忘れちゃった。」 けらけらと友人たちが笑う。ばかだなあ、と。 「なに、チャイナタウン行ったの? 言ってくれれば案内したのに。」 チャイニーズの友人がひょっこり顔を出す。 「今度お願いするよ。もう、危く迷子だったからね。」 イアンは笑って見せた。 黒髪を短く刈りこんだ友人を見ていて、ふとまた昨夜のことが思い出される。 (ジエン・・・・・) 「ねえ、教えて欲しいんだけどさ・・・どういう意味なのかなって。」 イアンは、昨日ジエンの口から聞いた言葉を、うろ覚えのまま発音してみる。 チャイニーズの友人は首を傾げた。 「広東語?」 「たぶん。」 イアンの発音を何度かくり返し、思い当る言葉を捜す。 「・・・・・うーん、忘れない・・・かな? でも発音の感じからして、もっと情緒的かも。 忘れたことはない・・・とか。」 はっとイアンの脳裏に光が灯る。 「なに? 映画の台詞?」 「純愛映画じゃないの? ずっと離れ離れになってた恋人に囁くの。」 「そりゃ韓国映画じゃない?」 「韓国語は違うよ。」 「いいなあ。私も初恋の人に言われてみたい!」 「ムリムリ。忘れさせてってカンジ?」 「ひっどーい!」 笑い合う友人たちの輪の中に、イアンはいない。雲の上から現世を眺めているような気分だ。 「イアン、恋人にはこう返すといいよ。愛就要蘇醒。」 現実の中で友人が笑う。 「え? 何?」 友人はゆっくりと繰り返した。 「愛はすぐに息を吹き返す・・・・・そういう歌があるんだけどね。」 忘れたことはない。 一日だって、忘れたことはない。 「で、なに? 本当に恋人なの?」 ベッとイアンは舌を出した。 「チャン・ツィーに愛の告白を。」 友人たちにあわせて、一緒に笑う。 そうだ。いつも僕は待っていた。眠り姫のように、苛立ちながら。 でも、それでは想いは伝わらない。 忘れたことなんてない。ジエンがそう言ってくれたなら、 今度は僕がジエンを迎えに行けばいいのだ。 たとえ二人が変ってしまったとしても、僕はそれを受け入れる。その勇気を (僕にください) 何事もなかったかのように、イアンは残りの日々を過した。 学校に行き、友人と遊び、そして、その他の時間を一人で過した。 ブライアンには行先も告げず、一人で出歩いた。 心配するブライアンには、何事もなかったかのように接した。 「オイスターはちょっと好きになれない。」 帰ってくるなり悪態をついてみる。 「シーフードにも飽きたな。やっぱりチキンがいいや。」 「イアン様、一人で食べ歩きをなさっているのですか?」 「こり症なんだよ。知ってるだろう?」 好きにな事には熱心になるが、ある程度こなしてしまうとすぐ飽きてしまう。 ブライアンは苦笑した。 「ついて来ないでよ。どうせ、屋敷に戻ったら一人歩きなんかできないんだから。 それに、大学の友達も一緒だよ? お堅いイギリス人が一緒なんて、嫌だよ。」 「私はイギリス人ではありません。」 「流暢なキングスイングリッシュと大地震が起ってもアフタヌーンティーは欠かさない紅茶好き、 十分イギリス人だね。」 ふとブライアンが笑う。 「有名なゲイ映画の発祥でもあるね。寄宿制の男子校は。やっぱり、そうなの?」 「どうでしょう。」 「アナザー・カントリーは観たよ。」 「そういう映画は、私は観ませんので。」 イアンは笑って見せた。 「・・・・向うに、恋人はいなかったの?」 「もう十年も前の話ですから。」 「いたんだ? 置いて来ちゃったね。本当は、イギリスに帰るつもりだったんだもんね。」 曖昧に笑って、肩をすくめて見せる。 「今でも思い出す?」 「昔の話です。」 服を脱ぎ捨てたイアンは、ブライアンの首に腕を回した。 「しようよ。」 「・・・・いけません。」 「今更。」 求められるまま、ブライアンはイアンを抱いた。こんな関係になるとは・・・・・。 それは予想外で、望んでいたことだった。 「親にばれたら、追放じゃすまないね。」 小悪魔のようにイアンが微笑む。 「私を、追い出したいのですか?」 イアンの瞳の色は、感情を隠す。 それが背徳であっても、逆らえない自分をブライアンは感じていた。 ブライアンは後悔し続けていた。 イアンを抱けば抱くほど、後悔に苛まれる。 あの時・・・・と。あの時、七年前のあの時、あの青年を無下に追い帰していなければ。 せめてイアンに会わせていたら、イアンはここまで彼に執着しなかったかもしれない。 サンフランシスコに来ることを、 もっと反対していれば・・・彼に再会などせずに済んだかもしれない。 イアンの口車に乗せられ、一線を超えてしまわなければ・・・。 否、十年前のあの時、泣いて嫌がるイアンを置いてイギリスに帰っていたら・・・。 毎晩のようにイアンと肉体を交し、 そのたび、夢の中でイアンが彼の名を呼ぶのを聞かずに済んだかもしれない。 こんなにも、愛しさに悩まされることはなかったかもしれない。 不安に、気が狂いそうになる。 それでも日々は過ぎて行く。 もうすぐ一ヶ月。最後の休日。夜ベッドを共にし、 朝方イアンは着替えると言って部屋に戻った。 しばらくしてイアンの部屋をノックすると、返事がない。 このひと月よくあることのようにフロントでマスターキーを借り、部屋に入る。 「・・・・・」 ブライアンは、自分の不安が的中したことを悟った。 部屋はきれいに片付いていて、テーブルの上にイアンの携帯電話が置いてある。 忘れたのではない。置いて行ったのだ。 「・・・・・イアン様・・・・・。」 置いて行かれた携帯電話を手に、ブライアンはがっくりと座りこんだ。 イアンは、この二週間、ジエンの痕跡を探し続けた。 チャイナの友人にタウンを案内してもらい、目星をつけ、その後一人で訊ね回った。 今日が最後だ。これが最後。 イアンはベイエリアのマンションの前に来ていた。窓は海に面しており、景色を堪能できる。 (海の見えるところに住みたいね。) (二人で。) 週のほとんどをキャバレーの上階かチャイナタウンで過しているが、休日にはこの家に帰ってくる。 そう聞いた。そして、今日がその休日に当ることも。 いるだろうか。 いるに違いない。 イアンが探し回っていることを、噂で聞いているのだろうから。 ジエンは、今ではチャイナタウンの裏社会ではよく知られているようだったから。 変ったのだ。 自分も。ジエンも。 教えられた部屋の前まで行き、ベルを押す。返事がない。二度、三度。 「開いている。」 中からの声に、イアンはドアを開けた。 新しくも広くもないが、海側にバルコニーがあって、全面ガラス張りになっている。 眺めのいい部屋だ。 (約束だよ、海の近くに・・・・) 「こんな所まで、来るとはな。」 窓際にソファーが置いてあり、ジエンはそこでくつろいでいた。 「休みの日は、誰にも会わない主義なんだ。帰れ。」 イアンは、ジエンのいるソファーに歩み寄った。 「ジエン・・・・僕は、変った。ジエンが変ったように、僕も変ったんだ。」 何も知らない、何もできない子供じゃない。 「ジエン、キャバレーで・・・ジエンが男にセックスを売っていたことを知っている。 見ちゃったんだよ。客に犯されて苦しそうにしているジエンを。」 指を組んで足の上に置き、ジエンは海を眺めている。 「・・・・だからか。ニックがガキをキャバレーに連れてくるなと言ったのは。」 イアンは頷いた。 「僕は子供だった。あの時は、なんでジエンがあんな顔をしているのか、わからなかった。 でも、あの時のジエンの表情を忘れられない。」 海を眺めたまま、ジエンは答えない。 「僕は変った。子供じゃない。何人もの女の子とセックスをしたし、 ・・・・・ブライアンとも寝た。でも、僕は満足できない。 ジエン・・・・今の僕を愛してくれなんて、無理なのはわかってる。 愛してくれなくていい。それでも僕は・・・ジエンが欲しい。ジエンが欲しい。 だから、金で買う。」 ちらり、とジエンがイアンを見やる。 「残念だが、そっちは店じまいだ。もう売ってない。」 「なら、あのキャバレーを買うよ。無理だと思う? 僕はこの一年、株で儲けた。 それに、カーズウェルの名前は銀行にごり押しが利く。なんとでもなるよ。 それも無理なら・・・僕は殺し屋を雇ってあなたを殺す。」 殺す、だと? 噴出してジエンは笑い出した。おかしくておかしくて、腹を抱えて笑う。 「僕は本気だ!」 冗談ではない。そういう無茶苦茶な奴なのだ。わかっている。 イアンは、自分は何でもできると思い込んでいる。 変っただと? 何も変っていないじゃないか。あの頃と。 ジエンは唇を吊り上げたままソファーから起き上がった。 「俺はまだ、殺されたくはない。いいよ。特別に売ってやる。」 イアンの前に立つ。ジエンは、痩せて背の高い少年だった。イアンはいつも見上げていた。 イアンの身長が伸びても、まだジエンの方が高かった。昔と違って、筋肉がついている。 (それでもブライアンよりは細いけど)ジエンの体つきは・・・・艶っぽい。 この世界で成功した男。ホステスたちは、ジエンに抱かれることを望んでいる。 店が不振に陥れば、どこからかパトロンを探し出してきて金を出させていると聞いた。 噂では、この海辺のマンションも女に買わせたとか。昔から、女性の扱いは上手かった。 優しかったから。今でもきっと、女に優しいのだろう。 ジエンは膝をつくと、慣れた手つきでイアンのジーンズのファスナーを下した。 「・・・・・こんな・・・・・」 こんな所でするの? 抗議の声は、舌で撫上げられて飲み込まれる。 驚くほど、ジエンはその行為に慣れていた。キャバレーでも、唯一娼婦だった男だ。 いったい、何人の男をそうやって舐めてきたのだろう? どれだけの男が、ジエンの体を楽しんだのだろう・・・。 巧みな舌使いに、すぐに頭に血が上って何も考えられなくなる。 「ん・・・・・。」 口の動きにあわせて喘ぎながら、イアンはジエンの髪を掴んだ。 かたくてまっすぐな髪。頬に触れるとくすぐったいんだ。 目を閉じ、吐息を吐きだす。 「・・・ジエ・・・ン・・・・」 もう・・・出る・・・でちゃ・・う 途切れ途切れに訴えると、ジエンの唇の動きは早まり、イアンはあっという間に果てた。 ずるりとわざと音を立ててジエンは口を離し、見えるように飲みこんでみせる。 舌舐めずりをして、挑発するようにイアンを見上げる。 「満足したかい、坊や?」 目がかすむほど紅潮して、イアンは力の抜けかける足をなんとか踏ん張る。 「まだ・・・だよ。僕は、あなたが欲しいと言ったはずだ。」 手の甲で唇を拭いながら、ジエンは立ち上がった。 「で? 俺に入れたいのかい? 入れてもらいたいのかい?」 頬を染めながら、イアンは一瞬息を飲み、 「両方だ!」 と答えた。 「欲張りだな。値が張るぞ?」 ニヤリ、とジエンが笑う。 「一週間の愛人契約で、女にこのマンションを買わせた。坊やは、いくら出す?」 坊やなんて、呼ぶな。 金で体を買うような奴には、名前を呼んでもらう資格もないか。 「・・・言い値でいい。チャイナタウンで名の売れたジエン・ウォンを買うんだ。 僕の全財産を出す!」 見下すように、ジエンがイアンを眺める。 (軽蔑すればいい。それでも僕は、ジエンが欲しいんだ。) 「そうかい? じゃあまず、自信家の坊やに満足させてもらおうか。 音をあげたら売飛ばすことにしよう。俺は女衒でホストで娼婦だ。 温室育ちのお坊ちゃんの手には負えないだろうよ。」 「僕はカーズウェル家の跡取だ。女も権力も金で買う。純情なんか持ち合せていない!」 イアンが意地を張ることくらいわかっていたのに。 ジエンの感情が複雑に絡む。ここを教えるよう仕向けたのは、自分だ。 本当は・・・会いたかった。でも、会いたくはなかった。 もう二度と、この世界に来てはいけないのだ。たとえ傷ついても、追い帰さなきゃいけないのだ。 イアンを、愛しているから。 ジエンは、キャバレーの元締めをしているし、実際自分も必要なら金持に奉仕する。 抱合うだけで満足できた、あの幼い愛情は胸の奥にしまって鍵をかけた。 イアンがもう、あの頃のような小さな子供でないことは、わかっている。 それで満足できるなら・・・・・・イアンに食われてやってもいい。 それで満足できるなら。あの愛しき日々はもう戻らないのだと納得してもらえるのなら。 「就算涙水滝没天地 我不会放手・・・・。」 イアンの言葉に、ジエンの目がわずかに見開かれる。 (たとえ涙が世界を飲み込んでも、決してこの手は離さない) この一週間で調べた、つたない広東語。 「只因我曽許下承諾」 (かつて交した、約束だけのために) 「黄 健・・・」(ウォン・ジエン) 驚いたようにイアンを見つめていたジエンが、歪んだ笑みをつくる。 閉じ込めていた想いが、溢れ出す。 愛していた。 愛している。 「等待花開春去春又来」 (過ぎ去った春が、再び訪れるのを待ち望んでいた) 呟いたジエンの言葉は、イアンには理解できない。 「俺が・・・満足できなかったら、お前を殺そう。」 ジエンは、イアンの手を引いてベッドに連れて行った。 セックスが「愛し合う行為」だとは、今まで知らなかった。一時の快楽に過ぎなかった。 貪るように唇を求め合い、舌を絡める。それだけで、満たされていく。 どろどろに溶合っていく。それが自分の体なのか、ジエンの体なのか、わからなくなるくらい。 ジエンを体の奥に感じながら、深く深く身を沈める。 もっと、もっと奥深いところで感じていたい。 「・・・・・ジエン・・・・不能だって、言ってたのに・・・。」 昔みたいに意地悪っぽい笑みを作る。自分にまたがるイアンの頬を掴み、 ニッとジエンは笑って見せた。 「拳法を習った。今じゃ、あの暴力親父にだって負けない。 もっとも、もう死んじまっていないがな。拳法を教えてくれた師匠が根っからの中国人で、 毎日山ほど漢方を飲まされた。何が効いたのかわからない。」 恐怖というトラウマを克服することで、正常な肉体を取り戻せるのだと師匠は言っていた。 たぶん、そういうことなのだろう。 「・・・・ああ、すごいよ・・・すごい、ジエン! 気持いい!」 何度達したのかわからない。どちらのともつかない精液の海に溺れる。 永遠に続く時間を、共有する。 いつまでも、そうしていたかった。ずっと、繋がっていたかった。 体の中が空っぽになるくらい欲望を吐き出して、ジエンの腕の中に崩れ落ちる。 体の中から彼が引き抜かれたとき、どろりとした液体が溢れ流れるのを感じた。 それは、彼に愛された証拠だった。 ジエンの鼓動に耳を当て、その胸で安らぐ。 満たされる想い。 温かさに包まれる。 ジエンの腕の中で、イアンはまどろんでいた。髪を撫でるジエンの指は、昔と少しも変らない。 「・・・・この十年で、俺はあらゆることを克服してきた。暴力も、セックスも。 もう、怯えはしない。」 耳元で囁かれるジエンの声に、イアンは、自分はどうなのかと自問する。 眠り姫のように、ジエンを待っていた。時間に流され、その時々を漂ってきた。 ジエンのいない世界を、否定して。・・・逃げていた。 「ジエン・・・。」 離れたくない。もう二度と、離れたくない。 「イアンは、温かいなぁ・・・。」 懐かしい言葉に、涙が零れる。 その一言が、聞きたかったんだ。 ジエン、ジエン、大好き。ずっと一緒だよ? 約束したでしょう? ジエンは、窓辺でタバコをふかしている。イアンはベッドの中でそれを眺めた。 「お互いの人生を駄目にするような愛し方を、俺はしたくない。」 愛が、お互いを駄目にしてしまう。 僕は、いったい何をしたいのだろう? このまま、親を裏切って、約束された将来をふいにしたブライアンの信頼を裏切って、 感情に流されて、・・・・これでは、幼い子供の頃と何も変らない。 僕がこのままここにいたら、ジエンが必死に築きあげてきた彼の人生までも壊してしまう。 僕は、本当にそれを望んでいるのだろうか。 愛する者の涙を、望んでいるのだろうか。 イアンはベッドを降り、ジエンの背中にもたれる。 「ジエン・・・・・。」 ふり向いたジエンの、頬に触れる。 愛してる。 こんなにも。 愛しているから、離れられる。 離れていても、心は繋がっていると信じられるから。 抱合った温もりを、繋がりあう満ち足りた想いを、胸に留めておける。 「イアン、お前の人生を、しっかり歩いていけ。」 唇に触れ、こくりと頷く。 「用情最深的人 」 (愛してる・・・。) 深い深い愛を・・・。 ジエンの囁きに、言葉の意味はわからなくても心情は伝わってくる。 信じられる。僕の人生は、きっとあなたと重なり合う。 「愛してる。ジエン。」 体を離したイアンは、ここに来た時のような焦りや苛立ちは、もう感じなくなっていた。 「再見、健。」 帰るよ。 僕の帰るべき場所へ。 イアンは帰っていった。 これで、よかったのだ。 一人残されたジエンは、窓辺のソファーに座り、海を眺めながらタバコを吸った。 (お前は、何がしたいんだ?) イアンと会うことが叶わず、すごすごと戻ってきたジエンに、ニックが訊ねた。 (二人で逃避行でもしたかったのか?) 違う。ただ、会いたかっただけ。なぜ・・・? ジエンにとって、イアンは唯一の「家族」であったから。 「家族」と言う幻想を、手の中に収めておきたかっただけ。 こんなに離れていても、俺のことを覚えているだろうか? まだ「好き」だと言ってくれるだろうか。 そんな感情を押し殺して生きてきた。 イアンが本来あるべき環境に戻り、その中で成長していくように、 自分も、そうあるべき生き方を歩いてきた。 拭っても拭っても拭いきれない切ない感情。自分ではない、別の人間がイアンを守っている。 その激情を目の当りにして、ジエンは自嘲した。 イアンを、再び自分に留めてはいけないのだ。 ぬくもりだけを求め合う純粋な愛情に終止符を打つ。これが今の自分なのだと曝け出してみる。 なのにそれさえも・・・・。 「これが運命ならば、神様も捨てたものじゃない。」 タバコを灰皿に押し付け、ジエンはガラス窓の向うの海を眺めた。 十年という歳月も、二人の距離も、環境の違いも、 心のつながりを断ち切ることができないのであれば、それを信じてまた生きていられる。 不意に電子音が鳴り、ジエンは携帯電話を取った。 『あたしのマンションで、浮気なんかしていないでしょうね?』 「束縛したいのなら、別の男を捜しな。」 電話の向うで女が笑う。 『食事につきあって。』 「今日は休みだ。」 『店の借金、返せなくなるわよ?』 ジエンは溜息をついた。店はいつだって火の車だ。 いっそ潰して転職してしまった方が経済的に楽になる。 それでも、あそこを守っていかなければならないのは、 それに依存して生活しているホステスや従業員がいることと、 ジエンにとってキャバレーが「我家」であるという事。 店を守り続けるということは、苦痛ではない。 「疲れているんだ。食事だけだぞ?」 『やっぱり浮気してたわね? あなた、この半月おかしいもの。でもいいわ。一時間後にね。』 強引だと笑って電話を切り、シャワーを浴びる。 自分で確立してきた自分の生き方だ。選択は、間違っていなかったはずだ。 愛しているからこそ、俺たちは自分の道を歩いて行く。 泊っているホテルの部屋を開けると、中央に置かれた椅子にブライアンは腰掛け、 うなだれていた。 「ブライアン・・・・ただいま。」 顔を上げたブライアンの表情は、痛々しくやつれている。 「・・・イアン様! もう、お帰りにならないかと・・・・!」 イアンはブライアンの足元に跪いた。 「ごめんなさい。心配をかけて。僕は・・・キミにどれだけ依存していたのか、気付かなかった。 どれだけ甘えていたのか。どれだけ心配をかけて、 迷惑をかけて・・・キミの人生を奪ってしまった。 ブライアン・・・・ごめんなさい。僕を許して。」 ブライアンは滑るように椅子から降り、イアンの前に身をかがめる。 「イアン様・・・・あなたを拘束していたのは、私の方です。私は・・・・・。」 肩を震わせるブライアンに、イアンはそっと腕を回した。 「これからも、僕を導いて欲しい。僕はあまりに世間知らずで、何もわからない。」 ブライアンは顔を上げた。 「イアン様。」 イアンは笑って見せた。 「シャワーを浴びて、着替えよう。カリフォルニアの、最後の休日だもの。 美味しいシーフードレストランを教えてもらったんだ。一緒に行ってくれるでしょう?」 疲れた笑みを、ブライアンはつくった。 ブライアンと、大通りを並んで歩く。 イアンは時々ふざけて見せ、ブライアンは静かにたしなめた。 「車の方がよかったのではありませんか?」 「歩きたいんだよ。僕と一緒に歩くのは、いや?」 ブライアンが首を横に振る。 「でも、帰りはタクシーだね。遠いから。」 ブライアンは失笑する。イアンらしい。ワンブロック先にチャイナタウンが見える。 すれ違った人物に、ブライアンは足を止めた。 「・・・!」 黒髪の中国人。端整な顔立ちに、派手な傷跡。まっすぐ前を見て歩いている。 はるか向うで女が手を振る。 「ジエン! その服、趣味悪いわ。この前買ってあげたギャルソンはどうしたの?」 「店の若いのにやっちまった。」 「ひどいわ。じゃ、今日はマックスマーラを見に行きましょう?」 女がその男の腕に絡みつく。 ブライアンはイアンを見た。イアンは、そちらに目もくれない。 もう一度、ブライアンは黒髪の男を見た。女と談笑している。 「イアン様・・・。」 「なに? 疲れた? もうちょっと先だよ。」 イアンはブライアンの腕を引張った。 もう、諦めたというわけか。いや、違うな。 子供じみた固執を超越するほどの絆を、掴んだのだろう。 「はしゃぐのはおやめください。子供ではないのですから。」 「観光客ははしゃいでいいことになってるの!」 イアンは、屈託なく笑った。 屋敷に戻り、イアンは大学に戻った。 それまでと、変らないように見える日々が再開する。 屋敷に戻ってから、イアンはブライアンを必要以上に求めることはしなくなった。 体の関係は、あのカリフォルニアでのバカンスのひとつでしかなかったかのように。 本来あるべき関係に、戻った。 「イアン様、お茶を。」 部屋でパソコンに向っているイアンに、紅茶を持っていく。 イアンの株の趣味は続いていた。かなり儲けているはずだ。 「学校での専攻は、お決りになったのですか?」 「うん、それなんだけどね。」 顎に親指を当ててじっとモニターを見つめている。 「会計士を目指そうかと思ってる。」 「会計士、ですか?」 「地味だと思っているでしょう?」 モニターから顔を上げて、イアンがニッと笑う。 「人気のある資格だし、お金関係の仕事は潰しが利くからね。 ファイナンシャル・プランナーという手もあるけど。 まあそっちは趣味でいいとして、金勘定を学んでおいた方が就職に有利だと思うんだ。 最悪、カーズウェル家の財産管理を自分でできるってのは悪くないと思うし。 お父さんは執事に任せっきりでしょう? 信用していないわけではないけど、 時代的にそういうのはどうかなと思うんだ。 むしろ後々家を守る身としては、そういうのもちゃんと理解しておいた方がいいと思うし。 何年か先にはブライアンがこの屋敷の執事になるんだろうから、それにおんぶに抱っこじゃね。」 先のことを、考えるようになったのですね。それは、ブライアンにとっても喜ばしいことだ。 「とりあえず、資格とったら外で働くつもり。井の中の蛙じゃねぇ。 名前だけのお坊ちゃんだなんて思われたくないから。」 「そうですか。」 紅茶を一口飲んでから、イアンは 「ダージリンは好きじゃない。香が強すぎるから。今度はセイロンにして。」 そう言って笑って見せた。 変りゆくものを受け入れる。しっかりと自分の足で立つ。イアンは精神面で成長していった。 大学の卒業式の翌日、イアンは母の薔薇園でつぼみを愛でていた。 「薔薇の愛好者は昔から多いの。どんどん交配していって、次々と新しい品種を産出せるから。 それは、とても楽しいことだわ。」 今年植えた薔薇のつぼみは、今にも咲き出しそうにほころんでいる。 「イアン、あなたには、この庭は狭すぎたようね。」 会計事務所への就職が決っていた。違う州で働くことを、両親は複雑な気持で了承した。 「お母さん・・・・。」 「私は不幸ではないのよ。望まれて嫁いで来たの。可愛い子供にも恵まれたわ。 私はね、あなたがいなくなった日々、泣いて暮したわ。 犯人は射殺したけど人質は見つからない、諦めた方がいいって言われた時、離婚も考えた。 でも、私はこの庭を守ることを選んだの。お父さんは、酷い人ではないのよ。 私を女として見てくれないかもしれない。でもいいの。 私は、この庭を、カーズウェル家を守ることを決めたの。 なにかを守ることは、大変だけどすばらしいことだわ。あなたも帰ってきてくれた。 そして、私の庭から巣立とうとしている。母親として、これほどの幸福はないのよ。」 「お母さん。」 「大丈夫よ。私は、ブライアンとこの家を守るわ。」 ブライアン。カーズウェル家に仕えることだけを生業にしてきた。今までも。これからも。 「ああ、そうだわ。来週ね、イギリスからお嬢さんがみえるの。もうあなたはいないわね。 ブライアンが留学していた頃、付き合っていたらしいのよ。すごいわ。 十何年も遠距離恋愛するなんて! きっと、すばらしいお嬢さんなのでしょうね。 お嫁さんになってくれたら嬉しいわ。私、ブライアンのことも息子のように思っているのよ。」 イアンは驚いたように母親の顔をじっと見る。 「お兄さんが取られるみたいで、さみしい?」 ふと笑いがこみ上げる。 やっぱり、置いてきちゃったんだ。僕のために・・・。 「いいえ、お母さん。嬉しいです。本当に、僕もブライアンを兄のように思っていますから。 幸せになって欲しいと、心から願っています。」 心地よい風が吹いて、空を見上げる。真青な空の向うから、噂の人物がやってくる。 「奥様、お茶を入れました。スコーンにクリームをいかがですか?」 優雅な身のこなし。母は微笑んで「いただくわ」と答えた。 「可愛い恋人が来るって噂だけど?」 並んで薔薇の間を歩きながら、からかうように問う。ブライアンは、わずかに頬を染めた。 そんな表情、するんだ? 新鮮な驚き。 僕は、キミとずっと一緒にいてはいけないんだね。 「・・・あなたのお嫌いな、堅苦しいイギリス人ですよ。」 「イギリス人が嫌いなんじゃないよ。伝統を守ることはいいことだもの。 きっと、この庭に似合うね。」 くすくすと笑う。 「お母さんはね、娘が欲しかったんだよ。一緒に薔薇を愛でながらお茶を飲める娘。 僕には、かわいいお嫁さんを連れてくることなんかできそうもないから。」 つとブライアンの袖口を引張る。 「・・・・お母さんのこと、お願い。」 真顔のイアンに、ブライアンは微笑んで見せた。 「承知しております。でも、時々は顔をお見せになってください。ご子息なのですから。」 「わかってるよ。」 薔薇の花に触れ、イアンは屋敷を眺めた。 「ここは、僕の家だもの。」 カリフォルニアに向う列車の中。イアンは車窓を眺めた。 この四年で、とりあえずの生活資金は貯めた。 (まずは、家を買わなきゃ。) ベイエリアに一軒家を。 それから・・・・・ (あの事務室、ぜったい無駄なものが多いよ。片付けなきゃ。パソコンは必需品だよな。 ジエンは扱えないんだろうなぁ。女口説くのもいい加減にして、ちゃんとした経営を教えなきゃ。 キャバレーだって立派な産業だぞ? 風俗だけど。) そういう自分も、広東語とか北京語とか覚えなきゃいけないんだろうな。語学は苦手だな。 ベッドでスラングならすぐ覚えそうだけど。 自分の考えに失笑する。 ジエン・・・・・。 (一緒に暮そう。海辺の家で。) 約束したもの。 僕は僕の人生を歩く。でもそれは、あなたの人生の隣だ。