イアンは、自室の窓から屋敷の庭を眺めていた。色とりどりの薔薇が咲いている。
薔薇は母親の趣味だ。カーズウェルの屋敷。美しく彩られた、鳥篭。

 あれから、十年が過ぎた。

 イアンは去年から大学に通っている。

 顎に親指を当てる独特の仕草で、イアンは薔薇を眺めながら思いを馳せた。

 屋敷に戻った日。喜びに泣き濡れた母と再会した日、たしかに感動はあった。
しかし、それから数日もしないうちに、イアンは全てを思い出した。
何故自分があんなにジエンとの暮しを好んでいたのか。
なぜ、屋敷に帰るよりジエンと一緒にいたかったのか。

 父はその日のうちに仕事に戻り、母は庭にイアンを連れ出した。

(美しい薔薇でしょう?)

 そうだ。母でさえ、薔薇に向けるような情熱的な瞳を、イアンに向けてはくれない。
恵まれた環境の中で、イアンは孤独だった。

 あの日、執事の息子がイギリス留学から帰ってきていた。ブライアン・アッシャー。
アッシャー家は代々カーズウェル家の執事や女中長を勤めている。
ブライアンはジエンと同じくらいの年齢だったが、
趣味が乗馬とラクロスというだけあって体格がいい。濃いブラウンの髪と同じ色の瞳。
物静かで、厳格な執事としての素質を十分持っていた。
あの日から、ブライアンはイギリスには帰らず、イアンの身の回りの世話をしている。

 今日に至るまで。

 自室のドアがノックされ、そのブライアンが入ってきた。

「イアン様、お茶をお持ちしました。」

「そこに置いておいて。」

 ふり向きもせず、イアンは窓の外を眺める。

「お母さんの具合はどう?」

「奥様は、今日は気分がよろしいようです。」

 かわいそうな女。望まれて嫁いできたのに、夫は仕事に明け暮れ、愛人を作り、
孤独の中で彼女は薔薇に癒しを得た。生れつき病弱な彼女は、子供を一人生むのがやっとで、
出産の後床に伏せることも少なくなかった。

「ドクター・ロバートは、渋くていい男だものね。」

 主治医の来る日は、母は機嫌がいい。今も・・・・・自慢の薔薇園で「先生」と談笑中だ。

「めったなことを言うものではありません。」

 お茶が冷める前に、と、静かに付足す。
イアンは、形式的に紅茶を飲んではいたが、本当は好きではない。
この屋敷はイギリスかぶれだとたびたび悪態をついた。

「ブランデーを落してくれたら、飲むよ。」

「イアン様。」

 静かにたしなめられ、イアンは肩をすくめた。

 さっきまで座っていた椅子に座り、立ち上げたままのパソコンのモニターを見やる。
ティーカップを手に取り、一口だけ飲んでそれをソーサーに戻した。

「ダージリンは嫌いだ。」

「好き嫌いはよくありません。」

 モニターから目を上げて、ブライアンを見る。

 彼は物静かで、決してイアンを怒鳴ることはない。どんなにわがままを言おうと。
それは、彼がカーズウェル家に使えているからだ。

 イアンより頭がいいし、運動もできる。
遅れていた勉強を見てくれたのはブライアンだったし、乗馬も彼に教わった。尊敬できる。
きっと、立派な人間になっただろう。
きれいな恋人を見つけて結婚する事だって、事業を立てて成功する事だって。
こんな・・・こんな所で、こんな子供に馬鹿みたいにかしずいていなければ。

 こんな馬鹿でかい屋敷は、家族三人には広すぎるのだ。
もっと狭い家に住めば、女中も使用人も、大時代の執事なんかもいらないのに。

 イアンのパソコンが、メールの受信を告げる。

「待ってました。遅すぎるっての。」

 悪態をつきながらメールを開き、キーボードを叩く。

「やっぱりあそこの株は売りだな。」

 隣に置いてある携帯電話を取上げ、友人に電話をかけ、早口で売買の話をする。
電話を切ってから、イアンは無意識に紅茶を飲みながらモニターに顔を近付け、
忙しくキーボードを叩いた。

「・・・株の売買は順調なのですか?」

「まあまあ、かな。まだ遊びだよ、こんなの。金は・・・・いくらあっても邪魔にはならない。」

 真剣な目つきでパソコンと向き合うイアンに、ブライアンは口元で笑んで見せた。

「今からそれだけの取引きができるのです。旦那様も優秀なご子息を持って、
さぞ鼻がお高いでしょう。」

「そうだね。」

 一旦手を止め、椅子に沈んで紅茶を飲みながら、イアンはブライアンににやりと笑いかけた。

「お父様はさぞ鼻がお高くいらっしゃる。昔から、うそつきは鼻が伸びると決っているんだ。」

 ブライアンは肩をすくめて見せた。

「奥様も旦那様も、イアン様を愛しておられます。」

「薔薇と金と愛人の次にね。」

 ブライアンは首を横に振った。今日のイアンは機嫌が悪い。
そういう日は、何を言っても無駄だ。

「何かありましたら、お呼びください。」

 イアンはひらひらと手を振り、ブライアンは部屋を出て行った。

 顎に親指を当てながらモニター画面を見つめ、ふとイアンは溜息をついた。
暇つぶしのつもりで始めた株取引。

(・・・・・飽きてきたな。)

 何をやってもすぐに飽きる。ブライアンに教わった乗馬も、すぐに止めてしまった。
バイオリンやピアノなども、数回のレッスンで家庭教師を追い出した。絵画も習った。
色々なスポーツも試してみた。でも、どれもイアンを夢中にはさせてくれない。
ゲーム感覚で金を動かす株売買だけ、かろうじて趣味として長続きしている。

 イアンは立ちあがり、のびをしてから自分のベッドにダイブした。

 スプリングの利いたベッド。ふかふかの羽毛布団。
天井を眺めながら、イアンはこみ上げてくるものをかみ砕いた。

(迎えに来てくれるって・・・・言ったのに)

 待っていた。目を閉じればそこにいるようだし、
ベッドの中で手を伸ばせは触れることができそうな気がしていた。

(ジエン・・・・。)

 今すぐ、そこのドアが開き、コークのビンとチョコレートバーを持ったジエンが、
笑いながら入ってくるようだ。

(ごめん、遅くなった!)

(もう! 心配したんだからね!)

(ごめん、って! ほら、チョコレートバー買ってきたよ・・・・・・)

 僕はもう、ジエンと同じ年になったのかな。

 本当は、待っていてももう来ないのだと、わかっている。

 もう、ジエンは迎えになんか来ない。

屋敷に来て三年目。めったに家族で外出することのないイアンと両親に、執事がオペラ

のチケットをくれた。後になって、それがブライアンの提案で、
演目を決めたのも彼だと聞かされた。

 まだミドルスクールに入ったばかりのイアンには、内容は難しく退屈な観劇ではあっが、

あの有名な歌だけは耳に残った。

(ある晴れた日・・・・・・)

 蝶々婦人は、朗々と歌い上げる。

 あの人は帰ってくるわ。

 なんて悲劇。なんて喜劇。愛しい恋人は、帰っては来ないのだ。
なぜなら彼は、貴女のものではないのだから。

 ベッドで目を閉じていると、パソコンがメールを告げる。
のっそりと起きあがってボックスを開くと、大学で世話になっている教授からだった。

「やった・・・・!」

 GOサインが出た!

 イアンはほくそえんだ。

 

 その日の夕食は、珍しく父も一緒だった。

「イアン、どうだね? 学校は。」

「ええ、順調ですよ。」

「成績もいいのよね。」

 母が微笑む。

「まあまあですよ。」

 当り障りのない会話。

「ところでお父さん、相談があるのですが。」

 早くその話を成立させたかった。はやる気持を押える。

「大学でお世話になっているビーン教授から、
サンフランシスコ大学で経営学の特別講習があると聞きました。
他校で学ぶチャンスですし、教授に聴講をお願いしたら先方に申込みをしてくださって・・・・
いいですよね? 来月、ひと月ばかりサンフランシスコ州立大学に行って来ても。」

 ほう、と声を出すが、父はそれほどそれに興味を示しはしない。
そんなことはわかっている。大学を辞めると言い出すならともかく、
勉強したいというのであれば反対などするはずがない。

「サンフランシスコ?!」

 母の方が驚きの声をあげる。

「隣の州ではありませんか! そんな所に行かなければならないの?」

「行かなければならないのではなくて、勉強をしに行きたいんです。
今は趣味で株を少しやっていますけど、まだまだ勉強不足を痛感するんです。
お願いですよ、お母さん。」

 母は眉を寄せて不満を示す。

「・・・心配だわ。」

「大丈夫ですよ。もう子供ではないのですから。」

 できるだけ明るく笑って見せる。

「ねえ、お父さん?」

「・・・そうだな。学ぶ機会は多い方がいい。」

 やった。父の決定なら、母は覆せない。

「わかったわ。お父様がそうおっしゃるなら。でも、ブライアンを連れて行きなさい。」

 え?とイアンの口元が引きつる。

「勉強しに行くんですよ?」

「心配だもの。一緒でなきゃ、私は認めません。」

 そんな、滅茶苦茶な・・・・。
この屋敷内だから通用するものの、世間一般で従者を引きつれている学生なんて、
笑い者以外何者でもない。

「向うの大学の寮に入れてもらうんです。部外者は・・・・。」

「ホテルに泊ればよろしいわ。お願いよ、イアン。言うことを聞いて。」

 イアンは大きく溜息をついた。やっと一人になれると思ったのに。でも、仕方がない。
彼女は自分の所有物である息子が、またどこかに行ってしまうのではないかと心配なのだ。
無碍にはできまい。

「わかりました。その代り、僕にもひとつ条件があります。」

 神妙な顔でそう告げ、それからイアンはにっこりと笑った。

「同じ部屋はいやですよ。僕も年頃なんです。」

 それには、父も母も笑ってくれた。 

 

 夕食の後、すぐに部屋に戻り教授に経過をメールする。
古風なカーズウェル家を知っている教授は、学生寮ではなくホテルに泊ることを了承してくれた。

「イアン様。」

 やっと期限付きでも屋敷から離れられる。
イアンはにこやかに友人たちにその事をメールで知らせていた。
入ってきたブライアンに、そういえばまだ彼には話していなかったと思い出す。

「サンフランシスコに行かれるって、本気ですか?」

 その表情は真剣だが、イアンは機嫌よくそれを流した。

「そうだよ。一ヶ月だけどね。ついて来なくてもいいよ。」

 よほどのことがなければ、ブライアンが怒ることはない。
だからこそ、彼に怒られるとイアンはいつも忠実に従ってきた。
たいていは、身の危険に関してだけだが。
その彼が、いつもよりずっと険しい表情をしている。イアンは笑みを消し、首をかしげた。

「なぜ、サンフランシスコ、なのですか?」

「何故って・・・? 聴講の話があったから。
それにカリフォルニアは観光地だし、聴講の合間にロングビーチでバカンスもできるかな、
とか思って。なんで?」

 なんで、だって?

 なんで?

 ブライアンは大きく息を吐いて気持を鎮めようとした。落着け。落着くんだ。

 イアンは知らないのだ。

 自分が昔、どこで保護されたのか。

 屋敷内でその話は厳禁だったし、イアン本人も何も話さず何も聞かなかった。
だから、知らないはずなのだ。

「・・・・いえ・・・・イアン様が屋敷を離れることが・・・・・私も心配なのです。」

 心配性だなぁ、とイアンは笑って見せた。

「ブライアン、キミは知っているだろう? 僕はね、少しばかり息苦しいんだ。
少しだけでも、ここから離れたいんだよ。
今の大学に入った時だって、本当は学生寮に入りたかったのに反対されてできなかった。
僕は籠の鳥だ。一人で外に出てみたいんだ。」

 イアンの癖はよく知っている。考え事をする時に顎に親指を当てたり、
嘘をつくときは視線が泳ぐ。寂しい時はうつむいて無口になる。
自分の要求をのんでもらうために、わざとらしく唇を尖らせたり。
今のイアンが、嘘をついているとは思えない。

「ブライアン?」

「・・・一緒に行くように、奥様から言われました。」

「そう、そうなんだよ!」

 イアンは唇を尖らせ、うんざりしたように部屋の中を歩き回る。

「ああ、執事見習を連れた学生なんて、どこにいる? 笑い者だよ。」

「でもイアン様は、お一人では何も・・・・。」

「一人でできるよ? キャッシュカードの使い方も、現金の使い方も心得てるよ。
一人でレストランにも入れるし、ナンパだってできる。」

 ちょっとブライアンが肩をすくめる。

「車だって運転できるし・・・。」

「イアン様。」

 歩き回るイアンの肩に、ブライアンは触れた。本当は、気安く主人の体に触れてはいけない。
執事である父からも言われていることだ。

「心配なのです。」

 昔から、小さな反抗はしつつもイアンはブライアンには逆らえなかった。

 実はブライアンとイアンがここまで密接になったのは、イアンの方に原因がある。
イアンが屋敷に戻ってきたとき、ブライアンはハイスクールを卒業し、
イギリスの大学に入学が決っていた。それまでの休みを利用して帰省していたにすぎなかった。
父の仕事の手伝いとしてイアンの世話をしているうち、
イアンがブライアンから離れなくなってしまった。
結局ブライアンは大学進学を諦め、そのまま屋敷で働き始めた。
それから十年、ブライアンはイアンから離れたことがない。休日でさえ。

「・・・・わかってるよ。」

 自分が彼の人生を巻き込んでしまった事を、イアンは自覚していない。
ブライアンはそれでもかまわなかった。
今では、自分の方がイアンから離れられなくなっていたのだから。

 

 

 

 サマーバケーションに入る前のカリフォルニア。一ヶ月の聴講が終ると、もう夏休みだ。
サンフランシスコの中心街にあるホテルに、イアンは部屋を取った。ブライアンの部屋は隣だ。
スウィートで一緒に、という母親の提案を断った。
二十四時間一緒では、屋敷にいるのとたいして変りがなくなってしまう。
旅行に出るときは、いつも一緒の部屋だったから。

 聴講生としての、最初に二週間は慌しいものだった。
何もかも目新しく、大学の構内を散策し、勉強についていけるように図書館に入浸った。
休日はブライアンとフィッシャーマンズ・ワーフやアルカトラズも見学した。
イアンが学校に行っている間、ブライアンはカリフォルニアについて色々調べているようで、
的確な観光地をイアンに案内した。

「今度の日曜は、一人で買物に行きたいんだけど。」

 ブライアンは提案しなかったが、大学でできた友人からはチャイナタウンを勧められていた。
行先を言ったら、ブライアンは反対するだろう。
イギリス育ちのブライアンにとって、「中国人」は良い印象を持っていないようだった。
口論しても話術でかなうとは思えない。

「大学の友達にね、ビジターセンター周辺を案内してもらうことになったんだ。」

 それは本当だ。ただし、午前中だけ。
一緒にランチをした後は、一人でチャイナタウンに行くつもりだった。
美味しい飲茶の店は教わっている。
ブライアンは賛成しかねる態度をとっていたが、渋々了解した。

 ブライアンがチャイナタウンに行くことを拒絶していたのは、
「中国」を卑下していたからではない。イアンが保護されたのが、チャイナタウンの外れ、
混濁した民族の集うダウンタウンのキャバレーだと聞いていたからだ。詳しくは知らない。
ただ、キャバレーのホストをしていた中国人の青年と一緒だったということだけ。
その青年、ブライアンは一度会っている。

(イアンに会わせてください!)

 汚い格好をした、顔に傷のある青年。

「危ないところには、近付かないで下さいよ?」

「大丈夫だよ。観光地にしか行かないから!」

 悪びれないイアンは、もう忘れてしまっただろう。もう、十年も経つのだ。
イアンがあそこにいたのは、半年ちょっとだったはず。

 幼かったイアンは、黒髪の青年が「中国人」であることも知らず、
そこが「チャイナタウン」の外れである事も理解していなかった。
そんなことは、イアンにはどうでもいい事であった。

「携帯電話を忘れずに。何かあったら、迎えに行きますから。」

「はいはい。」

 ブライアンはレンタカーを借りていた。イアンを安全に運べるように。
イアンはせっかくだからと公共機関を使いたがったが。

 

 約束どおり友人と待ち合せをして、土産物屋を見て回る。
観光気分を楽しんだ後、その友人は「彼女とデートだから」とイアンと別れた。

 教えてもらった通りを行くと、大きなチャイナタウンのゲート。
珍しげにイアンはそれを見上げた。中も人が多く、チャイナ服もちらちら見える。
一人で行動することがめったにないイアンは、すっかり浮足立った。
あからさまな観光客である。しかも、世間知らずの。

 突然、イアンは後から人にぶつかられ、よろめいて慌てて謝る。
その男はちらりとイアンをふり向いて悪態をつき、さっさと歩いていってしまった。

 と、正面から別の男が歩いてきて、先ほどの男にわざとらしく肩をぶつけた。
目を見開いてイアンが見ていると、肩をぶつけた若い方の男が、
イアンにぶつかった男の手首をねじ上げ、そこから財布を取上げた。

「・・・・あ」

 イアンが慌てて服のポケットを探る。あれは、自分の財布だ。

 スリの男は転げるように逃げて行き、若い男はイアンに財布を押付けた。

「ボヤボヤ歩いてんじゃねえぞ。」

 そのまま立ち止らずに過ぎて行く。

 黒髪の男。前髪は長く、サングラスをかけている。
すらりと背は高く、黒っぽいスーツを涼しげに着こなしている。

 イアンはふり向いた。

 男の背中。少し猫背で、肩が細い。

「・・・・・・・・・・・」

 言葉を出せずに立ちすくむ。

 その男は中華街から出てきて、反対の方に歩いていく。
その先に、シャネルのバックを手にした女が待っていた。

「ジエン!!」

 女は男に飛びついて腕に絡みつく。

「もう、そのカッコウ、怪しすぎ!」

「これしかないんだ。」

「もっとまともな服、買ってあげるわよ!」

 ジエン

 イアンは全身の血が下がるのを感じた。卒倒しそうなほど。

 何もかも真白になって、指一本、唇を動かすこともできない。

「あら、あの子、あなたの事見てるわよ? 知り合い?」

 女はイアンに気付き、男は振り返ってサングラスを下げた。

(ジエン・・・・・間違いない・・・・・ジエンだ!!)

 顔にはっきりと残る傷跡。切れ長の目。黒い瞳。

「・・・・・・・・」

 名前を呼びたいのに、舌が喉に張りついて声が出ない。

「さあ。観光客だろう?」

 男はサングラスを戻し、女の肩を抱いて歩き出した。

(待って・・・・待って、ジエン!)

 叫びたいのに、全身の骨がなくなったみたいに力が入らない。

 動くことができずに立ち尽していると、イアンの携帯が鳴った。
それでやっと魔法が解けたように感覚が戻った。

『イアン様、今どちらに?』

 そっと深呼吸をしてから、イアンは何事もなかったかのように声を出した。

「土産物屋。お母さんにお土産を考えてたんだ。ブランド品とかつまらないからね。
いっそカリフォルニアの名前の入った絵なんかどう? すっごいチープな奴。」

 電話の向うがくすくすと笑う。

『無駄遣いはおやめなさい。』

「・・・わかったよ。しょっちゅう電話なんかしないでよ、恥かしいからね。」

 携帯を切ってしまうと、イアンは周囲を見回した。さっきの男も女も、もう見当らない。
改めてチャイナタウンのゲートを見上げる。

(僕はここを知っている・・・・・・。)

 イアンは中に入って行った。

 奥へ。さらに奥へ。にぎやかな観光客たちの姿が、まばらになっていく。

 チャイナフードの独特のにおい。

 聞きなれない外国語。

 大学には中国国籍の人もいて、彼はちょっとなまりのある英語を話した。

 そうだ。ジエンは英語を話していたが、ニックは中国なまりが酷くて、
時折仲間と中国語で会話をしていた。

 あれは、広東語だった。

 わかる。今なら、わかる。

 あの時食べたチキンの味も。言葉も、服装も。

 あれは・・・・・

(チャイナタウンだったんだ・・・・!)

 チャイナタウンの外れからダウンタウンに抜けると、
そこはもう観光客の来るところではなくなっていた。
派手なチャイナ風の看板や軒先とは代り、寂れたアパートや落書だらけのシャッターが目に付く。

 アスファルトからの反射熱で、汗が吹き出る。

(風、吹かないかな・・・。)

 夢遊病者のようにふらふらとイアンは歩き続けた。

 ここはどこ? 表のきれいな観光地とは違う。

 ここは・・・・・・?

 どれくらい彷徨ったのだろう。イアンは足を止めた。
シャッターの閉った古いビルの一階。落書だらけで、ネオンの周囲のペンキははがれている。
まだ開店には早い。新聞紙や空缶や吸殻の散ばった道路の隅に、
みすぼらしい老人が座りこんで短くなったタバコを吸っていた。
イアンは、その前で立ち止った。

「坊や、タバコを持っていないかい?」

 店の看板を見上げたまま、イアンは首を横に振った。

「じゃあ、一ドルでもいい。」

 ポケットを漁ると、財布に入れていない硬貨が何枚か出てきた。それを掴んで老人に渡す。

「ここには見る場所なんかないよ。」

 観光客だとわかったのだろう。疲れたように老人は言った。

「お爺さん・・・・・ここ、まだやってるの?」

 老人は寂れた店を見上げた。

「夜になればな。」

「・・・・店主の・・・・ニックって人に会いたいんだけど・・・。」

 歯の抜けた口で、老人は笑った。

「ニックはおらんよ。」

 呆然とイアンは店を見上げたままでいる。

「引退してバハマかどこかで女と遊んでいるよ。」

 あれから十年も経つのだ。引退していてもおかしくはない。

「店は、売られたの?」

「いや。今は甥っ子がオーナーだ。」

 イアンは視線を老人に合わせた。

「若くてやり手だよ、ウォンの旦那は。」

 また唇が乾く。その名前を、口にするのが怖い。

「・・・・・ウォン・・・・何ていうの?」

「ウォン・ジエン。」

 唇が震えて、イアンは両手を口に当てた。

 ジエン・・・・・ここだったんだ! 

 ここに、僕は帰ってきたんだ!

「なんだい坊や? 旦那に騙されたクチかい?」

 首を横に振りながら、イアンは嗚咽を押えた。

「・・・・・あ・・・会いたいんだけど・・・。」

「昼間は女の子と街を出歩いているよ。営業だとかなんとか。」

「待ってたら、帰って来る?」

「やめときな、坊や。ここは坊やが夜までいるようなところじゃない。
ほら、もう夕方だ。狼たちが帰ってくるよ。」

 ジエン・・・・会える。会えるんだ・・・・・。

 イアンは手を口にあてたまま、じっと立っていた。

「キレイな小鳥が迷いこんでいるな。」

 顔を上げると、地元の不良らしき青年が数人ニヤニヤして立っていた。
こういう輩のスタイルというのは、どの州も共通らしい。

「ウォンの旦那に用だとよ。手を出すんじゃねえよ。」

 折れたタバコを指でなすりながら老人が言う。

「新しいホストかい? なら、まっ先にいただいちまおう。」

 一歩、イアンが後退る。昔は怖いものなどなかったように思う。
何も持たない子供だったから。今は違う。ブランドの服にナイキのスニーカー。
ポケットにはゴールドカードや現金も入っている。

 何かを得るということは、失う恐怖も得るということか。

「おい、やめて・・・・」

 言いかけた老人に、一人の若者が空缶を蹴ってぶつける。

「うるせえ!」

 イアンは慌てて老人をかばおうと足を踏みだした。

 そして、口を開けて短い驚きの声を出した。

 若者たちの肩に、ぽんと手が置かれたかと思うと、素早く足を払われて二人が転んだ。
若者たちの後に立っていたのは、あの黒髪の男。

「うちの用心棒に手を出すんじゃねえよ。」

「旦那!」

 若者たちは慌てふためいて「とんでもない」とつくろった。

 青年はまっすぐ立てた指を、若者の喉元に当てる。

「ああ、最近拳法を習っててね。試していいか?」 

若者たちは苦笑いをし、どこかに行ってしまった。

「爺さん、すまなかったな。」

 老人がニヤリと笑うと、青年は老人にタバコの箱を三つほど手渡した。

「ウォンの旦那、その坊やが旦那に会いたいとよ。」

 青年は上に続く細い階段に足をかけ、イアンを見る。

「・・・・会った。もういいだろう。一時間以内に表通りに出ないと、一生帰れなくなるぞ。」

 イアンは大きく首を振った。

「ジエン!」

 やっと、その名前が声になる。名前を呼んで欲しかった。

「僕を・・・忘れてしまったの?」

 ジエンは何か言葉を口にしたが、その意味はイアンにはわからない。
ジエンはそのまま階段を上っていった。

 呆然と立ち尽したままのイアンがとり残される。

「わしは、覚えておるよ。」

 新しいタバコの封を開けながら、老人が呟く。

「わしはもう二十年もここに座っておるからな。
血まみれで泣きながら逃げてきたジエン坊やも、売られてきた小さな金髪の子も、
昨日の事のように覚えておる。」

 ハッとイアンが老人を見る。

「・・・・・お爺さん・・・? ごめんなさい、僕はお爺さんのこと、覚えていない。」

 老人はニッと笑った。

「若いもんには、時間は矢のように流れていく。
老人には、ゆっくりと時間が積み重なっていく。
時間は子供を大人にするが、老人はあの世の扉の前で立ちすくんでるだけだ。
坊や、こんな祈りを知っているかい? 神よ、変りゆくものを受け入れる勇気をお与えください。
そして、変らないものを守る力をお与えください。」

 変りゆくものと、変らないもの。

「世の中に、変るものと変らないものがあるとしたら、僕のジエンへの思いは変らない!」

 老人はふっふと笑って、新しいタバコに火を点けた。吸うかい?とイアンに差出す。

「すみません。僕は喫煙はしません。」

 静かに断る。老人はまたふっふと笑った。

「あの・・・ジエンは、さっき、何て言ったんですか?」

「さあなあ。わしは広東語はわからん。」

 頭はすっかり白くなっているが、老人は中国人のように見えていた。違うのか。

「忘れるのは、若者の特権だ。わしも、若い時の苦労は忘れた。
覚えておるのは、広大な大地と神への祈り。
祈っても戻ってこないものを、慈しむのはもうやめたよ。」

「お爺さんは・・・チャイナではないのですか?」

「違う。移民ではないよ。もうずっと・・・・千年も前からこの大陸に住んでおる。
みんな変ってしまった。変ってゆくものなのだよ、坊や。」

 老人は重い腰をあげて立ち上がった。そのまま、足を引きずるように去ってゆく。
イアンはその後姿を見送った。

 夜の帳が下りてくる。この界隈も騒がしくなっていく。店の中から派手なロックが聞えてくる。
誰かが、開店の準備をしているのだ。ジジジと音がして、ネオンが悲鳴をあげながら点灯する。
誰かが内側から、店のシャッターを押し上げた。イアンはその人物を見た。
十年前、それはジエンの仕事だった。
その人物はジエンであるはずもなく、従業員の男はイアンを見ると眉を寄せた。

「あら、今夜最初のお客さん?」

 男の後から、あからさまに髪を金髪に染めた女が顔を出す。

「可愛らしいわ。」

 真赤に染めた唇で笑い、イアンの腕を引張って店の中に引きずり込む。

「お姉さんが可愛がってあげるわ。」

 化粧臭い顔を近づけてくる。イアンが身をよじると、女の後から背の高い男が現れた。

「それは俺の客だ。」

 唇にタバコが貼りついている。女は振り返り、その男の頬にキスをする。

「残念。」

「リッキー、坊やを奥に連れて来い。」

 従業員の男が肯定の返事をすると、ジエンはタバコを咥えたまま奥に戻って行った。

 イアンが慌てて後を追う。

 事務室に入ると、ジエンはティッシュペーパーで頬の口紅の跡をごしごしと拭った。

 咥えタバコのままどかりとデスクの前に座り、タバコに火を点ける。

 いつからタバコなんか吸うようになったのだろう? イアンはデスクの前に立った。

「帰れと言った。」

「帰らない。やっと、会えたんだ。」

 イアンはだらりとさげたままの手に拳を握る。

「ジエン・・・・。」

 ジエンは目を合わそうともせず、タバコをふかし、手元の書類を読んでいる。
どうやら店の備品や酒などの注文書や納品書らしい。ずいぶんとずさんなものだ。

「僕は・・・・待っていた。ずっと、待っていたんだよ。
迎えに来てくれるって、約束したじゃないか。だから・・・・・。」

 ジエンが視線を上げる。前髪が顔にかかり、傷を隠そうとしているみたいだ。
イアンは今すぐにでもその前髪を払い、首にしがみつきたかった。昔みたいに。

「迎えに?」

 イアンが頷く。ジエンはニヤリと口元をゆがめた。

「行ったさ。もう七年も前か。門前払いを喰らったがな。」

 どくん、とイアンの心臓が鳴る。胸の中で何かが暴れている。苦しくなるほど。

 迎えに・・・来てくれた・・・・?

「なんで・・・・・・・?」

 なんで、門前払いなんか・・・? そんな話、聞いていない。誰かが尋ねて来たなんて。
本当に? なら、どうして僕が知らないの? 誰がそんなことをしたの?

 質問が矢継早に出てくるが、説明することができず、ジエンもそのまま黙り込む。
イアンは震える唇を噛締めた。

 だから・・・・・僕の事、嫌いになった?

 突然イアンの携帯が鳴った。イアンは飛び上って反射的に電話に出る。

『イアン様? 今どちらなのですか? こんな時間まで・・・・。』

「ブライアン・・・。」

 名前を呼んで、目を閉じる。

 この十年間、ずっと一緒にいた存在。それが当り前になっていた存在。
なのに今は、深い海を隔てたように遠くにいる。

「僕は・・・・もう、帰らない。」

 電話の向うで、驚きと疑問の声があがる。イアンはそれを無視して電話を切った。

 目を開けると、すぐそばにジエンが立っていた。イアンをじっと凝視している。
怒っているような、視線。イアンはわずかに体を反らせた。
イアンの手から携帯電話をもぎとると、ジエンは着信記録の一番上を押した。

「・・・・ジエン・・・・?」

 呼び出し音が鳴った瞬間に、相手が出る。

『イアン様!』

 すっと息を吸いこみ、ジエンは口を開いた。

「大事なお坊ちゃまは預った。返して欲しければ、迎えに来い。急げよ。
一時間後に身包みひん剥いてステージに立たせる。」

『誰だ?! イアン様に何をした!!』

「俺はウォン・ジエン。
チャイナタウンの奥にある『ストイック』ってキャバレーのオーナーだ。
それから、身代金は一万ドル。」

 ブライアンは息を飲んだ。

 ジエン・・・・ウォン・・・?

『大金だ。すぐには用意はできない。』

「小切手でかまわんよ。」

 残虐にジエンの口元が歪む。イアンは、何がジエンを変えてしまったんだろうと思う。

「急ぎな、番犬。」

 携帯を切り、ジエンはそれをイアンに投げ渡した。

「ジエン・・・・本気? 一万で、僕を売る?」

「安いもんだろう? カーズウェル家の大切な跡取だ。」

 携帯を握り締め、イアンはよろりと後退って壁に背をぶつけた。

 どうして? ジエンは、変ってしまったの?

 優しかったジエン。臆病で、暴力に怯えていたジエン。
あのジエンに、ずっと・・・・ずっと会いたかったのに!!

 しばらくして心臓の鼓動が落着くと、イアンは部屋を見回して木の椅子を見つけ、
そこに腰掛けた。うなだれて、デスクに座ってタバコを吸うジエンを見つめる。

 昔のことが、後から後から思い出される。優しかった思い出。
僕は、記憶にしがみついていただけなのだろうか。
変ってしまった現実を、受けいれなきゃいけないのだろうか。

 店の者が、事務所に忙しく出入りしている。そのたびジエンは丁寧に対応した。
暴れている客がいると言われれば、「二・三発殴って放り出せ」と助言し、
客に罵倒されたと泣きにくるホステスには肩を抱いて優しく囁く。

 どうして・・・女の子にするように僕を抱いてはくれないの? 
優しく囁いてはくれないの? 微笑んではくれないの?

 イアンはそのたび唇を噛んだ。

 何人目かに入ってきた従業員は、困惑した様子でジエンに何か耳打をした。

「通せ。」

 ジエンが指示をすると、従業員に連れられてその男が入ってきた。

 青ざめた顔のブライアン。肩で息をし、煙が立つほど怒りに震えている。

 イアンは反射的に立ちあがったが、決してブライアンに近付こうとはせず、
むしろジエンの方に一歩寄った。

「イアン様!!」

 ブライアンが叫ぶが、イアンは怯えたように身をすくませるだけで応えない。
デスクの向うで、ジエンが立ちあがった。

「早かったな。」

 ぞっとするような笑み。

「あなた・・・・覚えていますよ。出世したようですね。」

 ブライアンも氷のような瞳をジエンに向けていた。

 どういうこと? イアンは二人を交互に見る。

「金が目的なら、最初からそう言えば良い。」

 内ポケットからブライアンは小切手を出した。
こんなに早急に、そんな大金を父親が、確認もせずに出すはずがない。

「どこからそんなお金・・・?」

 思わず質問が口をつく。イアンにふり向いたブライアンは、わずかな笑みを見せた。

「私にだって、それくらいの蓄えはあります。」

 ブライアン本人のポケットマネーから出したというのか・・・?

「金持は気前がいい。それからな、そのガキを人買から買ったのは三百ドルだった。
あと二百足りねえな。」

 どういうこと? 

 イアンはジエンに歩み寄った。

「ジエン・・・何の話?」

「迎えに行ったと、言ったろう? 
そこの番犬が出てきてな、俺に百ドルやるから帰れと言ってきた。」

(あなたのような者をイアン様に会わせるわけにはいきません。
いくら欲しいのですか? これをあげるので、帰りなさい。)

(お金が欲しいわけじゃないんです! 俺、イアンに・・・・。)

(何度来ても無駄です。いいですか、今度あなたを見かけたら、警察に通報しますからね。)

 何の力もない、みすぼらしい少年だったジエンには、何もできなかった。

(お願いです・・・・教えてください。イアンは・・・・今、幸せですか?)

(もちろんです。貧民街で暮したことなど、もう忘れています。
苦痛を、思い出させないで下さい。)

 幸せなら、それでいい。ジエンは自分に言い聞かせた。それでいいのだ、と。

 イアンはショックのあまり目の前が真暗になった。

 なんてことだ。ジエンを・・・あんなに待っていたジエンを、
追い帰してしまったのはブライアンだったなんて・・・。
そのブライアンを、イギリスに帰さなかったのは、イアン自身だ。

 イアンは両手で顔を覆った。くやしくて、悲しくて・・・・。

 ブライアンが小切手に二百ドル札を加えてジエンに差出す。
ジエンはそれを受取った。

「さあ、イアン様、帰りましょう。」

 イアンは拳を口に当てたまま首を横に振った。

「帰らない・・・・ジエンを・・・・愛してる。一緒に、いたい!」

 たとえ、ジエンが変ってしまったとしても。

 デスクから回り込んできたジエンが、そっとイアンの肩を抱く。イアンは顔を上げた。

「ジエン・・・・。」

「帰りな。お前の世界へ。」

 ドル札と小切手を分けて持ち、ジエンは小切手の方を破り捨てた。イアンが息を飲む。

「俺は変った。ここは、お前の居場所じゃない。」

 ジエンがイアンの肩を軽く押すと、イアンはよろけてブライアンによりかかった。
慣れ親しんだブライアンの手が、イアンの肩を抱く。

「早く帰らないと、外のレンタカーをボコボコにされるぞ。ここは短気な連中が多いからな。」

 ブライアンはイアンの肩を抱き、引きずるように出て行った。
イアンはジエンを見つめたまま、何か言いた気に口を開いている。
ジエンはそんな二人に背を向け、事務所のドアを閉めた。

 

 レンタカーの助手席で、イアンは流れる夜景をぼんやりと眺めた。

 頭の中で、思考がストップしている。考えることを拒否している。
何も、考えたくない。そんな中で、女性の歌声だけが耳の奥で響いていた。

(ある晴れた日・・・・・)

 あの人の船が来る。あの人が見える。笑えば良いわ。信じなくてけっこうよ。
でも本当よ。あの人が、きっと迎えに来るの。

「マダム・バタフライ・・・。」

 イアンが呟く。

「あのオペラを僕に見せたのは、来ない人を諦めさせるため?」

 なんて悲劇。なんて喜劇。そうだよ、本当に、あの人は来た。
でも、その現実は見ない方が良かった。
憧れの夢の中に、埋没している方が良かった。
だって・・・・その人はもう、あなたを愛してはくれないもの。

 ブライアンは答えない。

「あの演目を選んだのは、キミだったんでしょう? ブライアン・・・。」

 運転席でじっと前を見ていたブライアンは、「そうです」と短く答えた。

 変ってしまった。何もかも。僕の愛したジエンは、もういない。
ジエンの愛した幼い少年も、もういない。

 イアンはもうそれ以上何も言わず、口を閉じた。

 

 ホテルの部屋に着くと、ブライアンはいつものようにイアンの着替えを用意した。

「お休みください。何か食べるものを用意させましょうか?」

 イアンは、ブライアンの腕を掴んで体を寄せた。

「ブライアン・・・・抱いて。」

 幼い頃のように、ブライアンの背中に手を回す。厚い胸板に頬を寄せる。

「抱いて。僕を、愛して。」

「イアン様・・・・・。」

「ジエンが僕を愛してくれたように・・・・・僕を、キミのものにして。」

 ブライアンの手が、イアンの頬を包む。イアンは目を閉じた。
そっと降ってくる、キス。イアンの頬を、涙が零れ落ちる。

「よろしいのですか?」

 こくり、と、イアンは頷いた。

 

 女の子とデートしたこともある。そのまま、ベッドインしたことも。
両親には言わなかったが、ブライアンは知っていたはずだ。
乗馬や株取引や、その他の趣味のひとつのように、女の子とセックスしていたことを。
何人かの女の子と付き合ったが、どれも本気にはなれなかった。
ベッドでは興ざめし、最後までいけなかったこともあった。
結局、何も、誰も、イアンを満たしてはくれなかった。

 今、ブライアンがイアンの素肌に指を滑らせ、口づけを降らせている。

 一番近いところにいた存在。

 何もかも投げ出して、そばにいてくれた人。

 イアンは気付いていた。ブライアンが、イアンに持っていた感情を。

 けっして抱いてはいけない感情を、彼は隠し持っていた。

 その彼の欲望に、今は応えている。

 目を閉じたまま、愛撫を受ける。

 ずっと、こうしたかったんだね。彼の興奮が伝わってくる。

 熱いものを押しこまれた時、イアンは小さな声をあげた。内側から伝わってくる、欲望の波。
僕は、変ってしまった。

 いや、何も変っていないのか。

 ジエン・・・・僕はね、あなたとこうしたかった。

 ニックの言っていたことは、正しかった。ジエンは純粋だった。
でも僕は・・・・汚れているんだよ。僕がジエンをダメにすると・・・。
それは、本当だ。

「イアン様・・・また、あの男のことを考えていますね?」

 動きを止めたブライアンが、イアンを覗き込む。
薄目を開けたイアンは、ブライアンを見つめ、

「なら、忘れさせてよ。」

 そう答えた。

 

 ベッドでまどろむ。疲れた。疲れ果てていた。
肩を落し、服を着込むブライアンをぼんやりと眺める。

 後悔、しているの?

 カーズウェル家に使える身でありながら、己の主人に欲望を突き立てたことを。

「・・・僕はね、ジエンとセックスしたことなんて、ないんだよ。」

 シャツのボタンをかけながら、驚いたような目をブライアンが向ける。

「一緒に暮していたとき、ジエンが僕に、抱いていいかって尋ねた。僕は、頷いた。
ジエンは、僕を抱きしめて眠ったんだ。いつも・・・・ただ抱きしめてくれた。
それだけで、僕たちは満足していたんだよ。」

 ショックを受けたブライアンの表情。

「私を・・・・試したのですね・・・。」

 イアンは肯定も否定もしない。試したのかな。自分を。・・・・あの時と同じだ。

「一度・・・・ジエンが熱を出して倒れたことがあったんだ。
僕は、ジエンに医者を呼ぶために、ニック・・・・キャバレーの店主に頼んで客を取ってもらった。
ジエンのために、僕は自ら体を売ったんだ。
きっとニックは、本気で僕を売るつもりはなかったんだと思う。
でも僕は、嫌がりもせずに客の男を平気で受けいれた。
そんな僕に、ニックは言ったんだ。僕がジエンをダメにするって。
ジエンは純粋だった。幼い頃から暴力を受けて育ち、
場末のキャバレーで床をはいつくばって生きていたジエン。
ジエンの愛情は、純粋だった。でも、僕は違う。
きっと、あのままでいたら、いつかジエンの体を求めていただろう。
そうなった時、きっとジエンはすごく傷つく。
だから、ニックは通報して僕をジエンから離したんだ。」

 ベッドから体をもち上げる。だるい。

「ブライアン、僕は汚れている。卑怯者だ。駄目な人間なんだよ。
キミに守ってもらう資格なんか、ない。」

 シャツのボタンを全部はめないまま、ブライアンはイアンに歩み寄って抱きしめた。

「イアン様・・・・私はあなたを愛しています。私の一生をかけて・・・。」

 だから、どこにも行かないでください・・・。

 ブライアンの首筋に顔を埋めながら、イアンは思った。

(僕は、キミをダメにする・・・・・。)