冬が過ぎ、春が終りを告げる頃、ジエンは体の中に疲れを感じるようになっていた。
ニックはあまり賛成をしなかったが、
ジエンは金を稼ぐためにホステスたちと同等に客を取るようになっていた。

 朝方仕事から帰ると、すぐ横になり、夕方近くまで眠っていた。

「ジエン、何か食べないの?」

 昼過ぎまでは一緒に横になっていたが、イアンは寝飽きて起き出し、
本を読んだりテレビを見たりして時間を過していた。
いつもならジエンが作る食事も、見よう見まねで作ってみる。
ジャガイモを茹でて、缶詰のスープを温める。

「ジエン?」

 ベッドで寝ているジエンに顔を近づけると、顔が赤い。ジエンはうっすらと目を開けた。

「・・・・イアン・・・・頭が痛いんだ・・・。」

 触ってみると、額が熱い。

「熱! 熱があるよ!」

 体温計も薬もなく、イアンはどうしていいのかうろたえる。

「ジエン、大丈夫?」

 熱で寒気がするのか、ジエンが毛布に包る。

「寒いの?」

 ジエンはがたがたと震えていた。

「どうしよう・・・・・。」

 とりあえず、ありったけの毛布や上着をかけてやり、
イアンは部屋の中をうろうろと歩き回った。

「どうしよう・・・どうしよう・・・・・。」

 ジエンが死んじゃう・・・・! お医者さんを呼ばなきゃ!

 そうは思うが、どうやって医者を呼んだらいいのかわからない。
それに、医者はお金がかかると以前ホステスがぼやいていたのを思い出す。

「ジエン、苦しいの?」

 毛布の中で丸くなったまま、ジエンは震えて答えない。

 イアンはぎゅっと唇を結んだ。

 助けを呼ばなきゃ!

「ジエン、待っててね。すぐお医者さんを呼んでくるからね!」

 イアンはアパートを飛び出した。

 知っている場所、行ける場所などひとつしか知らない。

 ジエンの職場であるキャバレーの、上の階にニックは住んでいる。
イアンはキャバレーまで来たが、当然まだ閉っている。
ジエンが裏の階段からニックの家まで行き、店の鍵をもらっていたことをイアンは覚えていた。
息を切らせて階段を駆け上がり、ニックの部屋のドアを勢いよく叩いた。

 まだ寝ていたのか、寝ぼけ顔のニックが出てくる。

「・・・なんだ? ジエンはどうした?」

 イアンがひとりで訊ねてくるのは初めてだ。ニックは不機嫌そうに顔をゆがめる。

「ジエンが! 熱があるんだ! 震えてて・・・すごく苦しそうなんだよ! 
お医者さんを呼ばなきゃ!」

 まくし立てるイアンに、ニックは頭をぼりぼりと掻き、タバコを取りに部屋の中に戻っていく。

「寝てりゃあ治る。ったく、それじゃ誰が店の掃除をするんだ。」

 ぶつぶつと文句を言いながらタバコに火を点けるニックに、イアンは泣き声を上げた。

「ボクがするよ! ジエンの仕事は、ボクがする!! だから、お医者さんを呼んで!!」

 タバコの煙を吐きだしたニックは、じろりとイアンを睨んだ。

「お前みたいなガキが、何ができるんだよ? ふざけんな。」

「ふざけてないよ! 本気だよ! 
ジエンみたいに重いものを持ったりできないけど・・・でも、客の相手はできるよ!」

 ぴくり、と、ニックの手が止る。

「客の相手・・・だと?」

「ボクだってできるよ! やってみせるよ!」

 本気、なのか? 自分で何を言っているのか、わかっているのか?

「おいガキ、意味わかってんだろうな?」

 大きくイアンは頷いた。

 なんとなくわかっていた。ホステスたちは、体を売って男たちに奉仕している。
ジエンも、同じ事をしているのだ、と。
あの日、あの時・・・・ジエンが「客」に何をされていたのか。

 わかっている。イアンの体が、それを理解していた。

「客を取るってのか?」

 もう一度、イアンが頷く。

 タバコの炎がじりじりと指を焦し、ニックはそれを灰皿に押付けた。

 試してみたい、という感情が駆け上ってくる。

 ジエンがここまで大事にしている子供の本性を、試してみたい。

 ニックは、ニヤリと笑った。

「いいだろう。客を紹介してやる。ちゃんと相手をできたら、医者でも何でも呼んでやる。」

「急いでよ! すぐだよ!」

 ふ、と鼻で笑い、ニックは電話をかけ始めた。

 

 ニックは、優しげな奴を選んでやった。優しく気弱な男だ。
だが、年端もゆかない少年に性欲を感じる。ニックの軽蔑するタイプ。
ジエンも相手をしたことがある。まだ、この仕事に慣れない頃だ。
その男は、何度かジエンを抱き、飽きて他のもっと幼い少年を探し始めた。
初めてのとき、ジエンは、物陰で泣いていたっけ。

 まだ誰もいないキャバレーの個室で、イアンはその男を待った。
男は、すぐに駆けつけてきた。

 中年の眼鏡をかけた男。痩せていて、優しげだが、目は欲望にぎらぎらと輝いていた。

「キミ、初めて?」

 欲望の視線にさらされ、ゾッと身を震わせる。イアンはこくりと頷いた。 

「そう。大丈夫だよ。優しくするからね。」

 イアンはジエンのことだけを考えるようにして、唇をぎゅっと結んだ。

 

 ねっとりとした舌の感覚に、目を閉じて体を硬くする。気色悪い。
早く終らせて欲しい。ジエンは、いつもこんなことをしているのか。

(ボクのために・・・・?)

 いつも笑っているジエン。優しいジエン。欲望にさらされ、歯を食いしばっているのか。

(ボクだってできる。がまんできる。)

 男が何か囁きながら、イアンの下半身を撫でる。目を閉じたまま、次に来る痛みを覚悟する。

(痛いこと、されるんだ・・・。)

 知っている。・・・・・知っている?

 予想通り、激しい痛みにうめき、痛みの中に何かがフラッシュバックのように現れる。

(・・・・・?)

 イアンは、その感覚を思い出した。

 そうだ、ボクは・・・・この痛みを知っている。

 ぼんやりとした記憶が、やがてはっきりと思い出される。

 何人もの男たちに、酷く殴られて・・・それから・・・・・。

 裂けるような痛みの中で、それを思い出す。そうだ。
汚い倉庫のような部屋で、男たちに犯された。
泣いて、泣いて、助けを求めてもそれはやめられることがなく、
そして・・・ボクは心を閉じた。痛みを感じなくなるように。

 なぜそうなったのか・・・?

 記憶が遡っていく。

 あれは・・・学校の帰りだ。

 ボクは・・・・・・

(誘拐されたんだ)

 ハッとイアンは目を見開いた。イアンの小さな体の上で、
おりしも男が絶頂を迎えようとしていた。

 イアンは、もうその男を見てはいない。痛みや羞恥も。

(ああ、ボクは誘拐されたんだ! 身代金を取ることに失敗して、
ボクは卑劣な男たちに転売されていったんだ!)

 揺れる天井を眺めながら、イアンの頬を涙が伝う。

(ボクは・・・・イアン・カーズウェル・・・・・誘拐されて、売られたんだ・・・・。)

 

 放心したように天井を見つめ、静かに涙を流すイアンに、男はあれこれと話しかけた。
そんなに痛かったかい、とか、とってもよかったよ、とか。イアンはそのどれも聞いてはいない。

(なんで・・・思い出しちゃったんだろう・・・・・。)

 思い出したくなんか、なかったのに。
ジエンと、今の暮しを続けていければ、それでよかったのに。

 イアンが無言のまま服を着込むと、男はイアンの手に数枚の札を押付けた。
無意識にそれを掴み、イアンは部屋を出た。

(違う。今は、そんなことを考えている時じゃない。)

 唇を結び、金を持って事務所で待っているであろうニックに会いに行く。
案の定、ニックはそこでタバコをふかして待っていた。

「どうだった?」

 にやりと笑う店主に、札を差出す。

「約束だよ。医者を呼んで。」

「もう呼んで向わせた。約束だからな。」

 ほうとイアンが肩の力を抜く。・・・よかった。

「で、客を取った感想はどうだい? 坊や。」

「なんてことないよ。あんなの。どうってことない。」

 押し込まれる痛みなんか、思い出した心の痛みに比べたら。

「帰っていいでしょう?」

「どうぞ。」

 ニックはドアを指差し、イアンは足早に事務所を出た。
ホールの前を通ると、男性従業員がブツブツ文句を言いながら、モップをかけていた。

(いい気味だ。あいつ、ジエンの悪口ばかり言っているもの。
自分が女の子にモテないから、ジエンにヤキモチ焼いているんだ。)

 イアンは走ってアパートに戻った。

 

 アパートには、医者と思しき男とリンダがいた。

「イアン、帰ったの? 大丈夫? 酷いこと、されなかった?」

「大丈夫だよ。」

 ジエンがいつもそうするように、イアンは笑って見せた。

「それより、ジエンは?」

 注射器を片付けながら、年寄の医者はふり向いた。

「風邪だよ。疲れてたんだな。若いからって無茶をしちゃいかん。
栄養をとって寝ていれば治る。・・・・坊やは、近所の子かい?」

 一瞬、ぎくり、と身を硬くし、イアンは肯定して見せた。

「ありがとう、先生。」

 にこやかなリンダに、医者は錠剤の入ったビンを手渡した。

「本当は処方箋もなしに出してはいけないんだ。特別だぞ、お嬢さん?」

「うれしいわ、先生。お店に来てくれたらサービスするわ。」

 わざとらしく胸を強調して見せる。医者は苦笑した。

「わしがもう少し若かったらな。抗生物質と解熱剤、それと栄養剤だよ。食後に・・・・」

 言いかけて、ラベルが読めるかね?と訊ねる。リンダは首を横に振った。

「じゃあ、それぞれ何粒飲めばいいか、ビンに書いておくからな。
たくさん入っているのが栄養剤だから。
この赤いビンは解熱剤だからな、熱が下がったら飲まなくていい。わかったかね?」

 イアンは雑誌の裏に言われたことをメモした。

「わかりました。ありがとうございます。」

 丁寧に頭を下げる。行儀のいい子だ、と、医者はイアンの頭を撫でた。

 医者が帰ると、リンダも店に戻って行った。

 イアンは薬のビンをテーブルに並べ、ジエンのベッドに腰掛けた。
注射が効いたのか、ぐっすり眠っている。

(よかった。)

 よかった・・・・。また涙が溢れて、イアンは顔をごしごしとこすった。

(ジエン・・・・ボクはここにいたいよ。ここがボクの家だよ。ジエン・・・・。)

 ベッドにもぐり込み、眠るジエンの胸に顔を押付ける。

(一緒に、いたいよ。)

 

 いつの間に眠ってしまったのか。イアンは目を覚ました。髪に触れる優しい指。

「ジエン・・・・。」

 先に目を覚ましたジエンが、イアンの髪を撫でていた。

「ジエン、起きたの? まだ頭痛い?」

 真剣なイアンに、ジエンが苦笑する。

「寝ていたのはイアンだよ。」

 イアンはむすっと頬を膨らませ、ベッドを降りた。

「何か食べて、薬を飲まなきゃ。」

「クスリ?」

「そうだよ。スープ、温めるね。」

 缶詰の中身を鍋に開けてると、ジエンは体を起した。

「薬、って、どうしたんだ?」

 イアンは答えず、食事の支度をする。スープとパンとコンビーフ。

「イアン?」

 コップに水を注いでいると、アパートのドアが開いた。

「大丈夫そうだな、ジエン。」

 ニックだ。イアンは一瞬唇を結び、何も言わないで、とニックに無言で訴える。
ニックはイアンを無視してテーブルに紙袋を置いた。

「やっぱりろくなもん食ってねえ。差入れだ。」

 紙袋からりんごやバナナが出てくる。ジエンは複雑そうだ。

「叔父さん・・・・?」

「お前が倒れたって、ガキが俺ん所に来たんだ。
リンダに薬を持って来させたが、あの女ちゃんと使いはできたか?」

 そうなんだ、とジエンはちょっと笑って見せ、イアンはほっと息を吐いた。

「ごめん、叔父さん。もう大丈夫みたい。明日から仕事に出るよ。」

「馬鹿言ってんじゃない。店で倒れられたら困る。一週間休みをやるから寝てろ。いいな?」

 こくりとジエンが頷く。

「それから、もうガキを俺の店に来させるな。あんなのがうろちょろしてたら営業妨害だ。」

 ごめんなさい、とイアンは呟いた。

 ニックはそれだけ言って、じゃあ、と出て行く。イアンは慌てて後を追った。

 アパートの階段を下りるまでは黙って後を歩き、外に出てから呼び止める。
もう真夜中だ。酔っぱらいや何かにラリった連中が、数人道端でたむろしている。

「店長さん・・・・あの・・・・ありがとう。」

 ニックが立ち止って振り返る。

「ああ?」

「あの・・・ジエンに黙っててくれて。」

「ああ。ガキ売ったこと知れたら、ジエンは怒るだろうからな。」

 イアンは頷いた。

「ボク・・・本当に、アレ、たいしたことなかったよ。ボクにもできるよ。だからまた・・・・。」

 やってもいい。そう言いかけると、ニックはイアンの髪の毛をつまんで引張った。

「ふざけんな。客取りたきゃ、別の店に行きな。
これ以上俺の店にゲイが増えたんじゃ、商売の迷惑だ。」

 しゅん、とイアンが肩を落す。ニックはタバコを一本取出し、口にくわえて火を点けた。

「物事にはなあ、潮時ってのがあるんだ。お前が泣いて帰って来りゃ、俺も考えたさ。
望んだのはお前だし、平気だって言う。やっぱり、お前はここにいるべきじゃない。」

 俯いていたイアンは、驚いて顔を上げた。

「・・・・・どうして・・・?」

「うちにはたまに行方不明の子供のリストが回って来るんだ。
その点では、うちは警察に協力している。さっきも、別の州のリストが送られてきた。」

 イアンはあんぐりと口を開けた。

「その顔じゃ、思い出したんだな?」

 ゆるゆると、次第に激しくイアンは首を横に振る。

 思い出してなんかいない。何も、思い出してなんかいない!

「お前がいると、ジエンは無理をする。お前と違って、あいつは娼婦向きじゃねえんだ。
そのうちやめさせようと思っている。お前がいれば、あいつはお前のためにやめないだろう。
わかるな? お前には、心配している家族がいる。帰る家がある。ジエンにはねえんだ。」

 首を振りながら、イアンは泣出した。

「ジエンと一緒にいたい!」

「俺はなあ、お前なんかどうなってもいい。買っちまったことを後悔しているくらいだ。
だが、ジエンは潰したくない。」

 両手で顔を覆って、首を振り続ける。

「・・・・いやだ・・・・ジエンと一緒にいさせて・・・・お願いだから。」

 吸いあげたタバコを落し、ニックは靴でそれを踏みつける。

「・・・ニック!」

 ニックはそのまま、振り返らずに店に戻っていった。

 その場でしばらく泣いていたイアンは、顔を袖口でごしごしこすって部屋に戻った。

 泣きはらしたイアンの顔を見て、ジエンが驚きの声をあげる。

「イアン! どうしたんだ? 叔父さんに、何か言われた?」 

 イアンは首を横に振った。

「違う。ちがうよ。・・・・ニックって、本当はいい人なんだね。知らなかった。」

 ベッドに座るジエンのそばまで行き、その首にしがみつく。

「ジエン、心配したんだよ。ボク、ジエンと離れたくない。一緒にいたいよ。」

 ジエンは優しく抱擁を返し、イアンのやわらかな巻き毛を撫でた。

「うん。俺も、ずっと一緒にいたい。ありがとう、イアン。」

 ずっとこうして抱合っていたい。ただそれだけなのに・・・・・いけないことなのだろうか?

「ね、イアン、スープ冷めちゃうよ。おなかがすいた。」

 名残を惜しみながら手を離し、イアンは涙を溜めて笑って見せた。

 

 それからの一週間、それまで以上に二人は寄添って過した。
昼夜問わず一緒にいられるのは、嬉しかった。

 いつか約束したギリシャの写真は、破いて壁に貼り付けておいた。

「でもさ、ギリシャって外国だろう? ムリそうだよね。」

 楽しそうに写真を眺めるジエンに、イアンが眉を寄せる。

「・・・・一緒に住もうって、言ったじゃない。」

「そうだけど・・・国内にしようよ。俺、外国語なんてできないもん。
きっとさ、国内でもきれいなところがいっぱいあると思うんだ。」

 クスリ、とイアンが笑いをもらす。

「だめだなあ。ジエン、勉強すればいいじゃない。」

「勉強なんて、したことないもん。」

 勉強・・・。ふとイアンの笑みが消える。

(ボクは・・・学校に通ってた。カーズウェルの家は大きくて、
使用人が何人もいて、お父さんの運転手が、いつもボクを学校まで送り迎えしていた。
あの日も・・・・学校の前で車を待っていたんだ・・・・。)

「イアン?」

 鼻先までジエンの顔が近付いて、イアンは「わ」と声をあげた。

「どうした? 考え事? 最近、時々ぼーっとしてるよ?」

 唇を引き上げて無理に笑おうとし、上手にできなくてジエンに抱きつく。

「考えてたんだ。きっと、国内でもきれいなところ、見つかるよ。海のそばがいいよね。」

 そうそう。ジエンは笑いながらイアンを抱しめた。

 

 イアンの中で、記憶がどんどん鮮明になっていく。

 学校の事。学校の友達。買ってもらったオモチャ。
厳しいお父さん。優しいお母さん。無口な運転手。住込みの執事。
その奥さんの料理は美味しく、たしか息子がいて、
どこかの寄宿制の学校に入っていると言っていた。テーブルマナー。銀の食器。

 お母さん・・・・病気がちだった。どうしているかな。心配しているかな。

 ふかふかの羽毛のベッド。

 毛足の長いカーペット。

(お母さん・・・・・)

 窓からごみごみとした汚れた街を眺めながら、イアンは屋敷の庭を思い出していた。

「イアン! ホットケーキ焼けたよ! ちょっと焦げちゃったけど。」

 振向くとジエンが笑っている。

「ジエンはいつも笑ってるね。」

「だって、泣いたってしょうがないだろう?」

 ジエンの顔の傷。帰る家がない。優しい家族もいない。

(わかるな?)

 ニックの言葉は、重く胸に響く。

「笑っていれば、いいことあるよ。だから、この焦げも笑って許して。」

 ちょっとじゃない。ホットケーキの裏は真黒だった。イアンは噴出し。笑い転げた。  

「明日から、また仕事だね。」

「うん。一週間も休んだからね。また頑張らなきゃ。」

 満面に笑うジエンに、イアンは切なくなった。

(ジエンを、潰したくない。)

「寂しいとか、言っちゃダメだよ? そういうのは、我慢するんだ。
口にすると本当になるけど、押しこめて笑っていたら、どこか行っちゃうよ。」

 笑っていたら。

「そうだね。我慢するよ。それにさ、ボク思ったんだ。
もう少し、この部屋片付けて掃除しようって。
掃除してたら、きっと時間なんかすぐに過ぎるよね。」

 そうだね、と、ジエンはまた笑った。

 

 ずっとずっとこのままでいたかったけど、
思い出してしまった望郷の思いは、どうしようもなく強くなっていった。

 

 夏のムシ暑い夕方。アパートの外までジエンを見送りに出たイアンは、「
風が吹いてくれないかなぁ」と空を見上げた。

「帰り、アイスでも買ってくるよ。」

 ジエンは笑い、イアンは「うん」と頷いた。

「チョコレートバーも。」

 ジエンが初めて会ったときくれた、あのチョコレートバー。
イアンはあれが大好きになっていた。

「わかった。」

 ハグし、頬にキスをして、ジエンは手を振って出勤していった。

 

 いつものように、ホールとトイレの掃除をしていると、
ニックから事務所に来るように呼び出しがかかった。
モップを壁に立てかけたまま、ジエンは事務所に行った。

 そこには、はじめて見る中年の女性と、若い男がいた。
二人ともこんな場所には似つかわしくないきっちりとしたスーツを着込み、
男の方は興味深げにきょろきょろし、女の方は落着いてニックと話をしていた。

 事務所に入り、一応の挨拶をすると、女の方は慣れた作り笑いをした。

「ジエン・ウォン君、ね?」

 ニックは神妙な面持で様子をうかがっている。いつもと違う雰囲気に、ジエンは眉を寄せた。

「私は州の児童家庭局から来たジマイマ・ウェスト。彼はラリー・フォードです。」

 何局だって? ジエンは小首をかしげながらも差出された握手に応じた。

「早速だけど、悲しいお知らせを持ってきたの。
あなたのお父さん、ロン・ウォン氏が亡くなられました。」

 お父さん・・・が、亡くなった? ジエンは驚きの表情のままニックを見る。

「先月、警官に暴力をふるった罪で投獄されていたの、ご存じなかったかしら?」

 知らない。ここに逃げ込んでから、父とは会っていない。

「・・・叔父さん・・・?」

「ジエン、お前には教えなかった。親父とはもう関りあいたくないだろうと思ってな。」

 たしかに、そのとおりだ。教えられたとしても、面会にいく気も何も起きない。
父は、いまだに恐怖の対象でしかないのだ。

「そう、知らなかったのね。いいわ。ウォン氏は獄中でも喧嘩をして、
そして・・・不慮の事故ね、亡くなられたの。」

 死んだ・・・そうか、あの男、死んだのか・・・。ジエンは複雑だった。
悲しくはない。かといって、嬉しくもない。

「それで、未成年であるあなたは保護者がいないので、
州の児童支援施設に措置することになりました。」

 何を言っているのか、ジエンにはよくわからない。
難しい言葉もわからないし、父が死んだことも、
それで自分がどうこうされる事も、理解できない。

「あの・・・でも、俺、叔父さんの所で働いているんですけど・・・?」

「あなたの叔父さん、ソニック・ウォン氏は保護者として適切ではありません。
未婚ですし、風俗店の経営者でもあります。
未成年のあなたが風俗店で働くことも、望ましくありません。」

 どういうこと?

「もっと言えば、未成年を風俗店で働かせることは、児童保護法に違反します。」

「でも・・・えっと・・・ウェストさん? 俺はただの掃除係です。」

 ジマイマ女子はニックをちらりと見やり、ニックは肩をすくめて見せた。

「記録によれば、あなたは学校にも行っていないのではありませんか?」

「行ってないけど・・・いけないんですか?」

 まったく話が通じない、と、ジマイマは溜息をついた。

「俺、そのナントカって施設だかに行かなきゃいけないんですか?」

 ジマイマはジエンを凝視し、ニックを見やり、またジエンに視線を戻す。

「ジエン君、よく聞いて。本当なら、そう。
ソニック・ウォン氏は警察で事情聴取、あなたは施設行きです。」

 やっと話が見えてきて、ジエンは血の気を失せさせた。

「だけど・・・あなたもソニック氏もチャイナ・タウンの出身で、
ソニック氏はチャイナ・タウンの有力者にも顔が利きます。
だから、私はあなたを見つけられなかったことにすることができるの。
ロン氏の息子が行方不明でも、それ以上誰も探そうとしないし、問題はないのだから。」

 ほっとジエンは胸を撫で下ろした。

「その代り、私たちに協力してもらいたいの。ソニック氏が警察に協力的であるように。」

「協力って・・・何ですか?」

 ジマイマは、小さなバックから一枚の写真を取り出した。

 そこには、小さな男の子が映っている。
きれいな金髪は乱れなく整えられ、高価そうなスーツに窮屈そうなネクタイ、
カメラに緊張した笑みを向けている。

 写真を見た瞬間、ジエンは

「・・・・イアン・・・・・」

 思わず名前を呟いた。

 ジマイマはその呟きを聞き逃さず、きらりと目を輝かせた。

「イアン・カーズウェル君、当時七歳。自宅のあるワシントン州で誘拐され、
その後行方不明になっています。ご両親は必死に息子を探しておられるの。
・・・・イアン君を、知っているわね?」

 じっと写真を見つめていたジエンは、目を見開いたままジマイマを見た。

 イアンだ。間違いない。

「ジエン君、イアン君を知っているのね?」

 どう答えてよいかわからず、ジエンは開いたままの唇を震わせる。

 イアンを、探している人がいる。

 心臓がバクバクと高鳴り、ジエンは写真を握ったままふるふると震えた。
まばたきをするのも忘れる。頭の中が真白になって、自分が起きているのか寝ているのか、
立っているのか座っているのかもわからない。

 わからない。

 どこか遠くの方で、ニックの声がする。

「ここからワンブロック先のアパートだ。三階の真中、302・・・・・」

 突然、閃光が走るようにジエンは我に返った。

「待って! 叔父さん・・・・俺とイアンを引換えにしたの?! イアンを売ったの?!」

 もう男と女は事務所を出ようとしていて、
追いかけようとするジエンの腕をニックは強く握った。

「イアンを連れて行かないで! 何でもするから・・・・お願い、イアンを・・・・!!」

 その瞬間、ニックの平手がジエンの頬を叩き、ジエンは床にしゃがみ込んだ。
ニックがジエンを殴ったのは、これが初めてだった。

「いい加減にしろ!! あのガキはお前のオモチャでもペットでもない!」

 床にしゃがみ込んだまま、恐怖に嗚咽を漏らす。打たれるのが怖くて、頭を抱える。

「俺はなあ、後悔しているんだよ。あんなガキを買っちまったことを。
心を閉じて表面だけつくろうお前の、少しは慰めになるかと思った。
だが間違っていた。お前の愛情は、お前の親父と同じだ。
自分のオモチャを好きなように扱っているだけ。本当にあのガキが好きなら、
どうするべきかわかるだろう?!」

 震える手を頭から下し、ジエンはニックを見上げる。

「・・・・・俺・・・・そんな・・・・・。」

「いいかジエン、お前には親はいないが、あのガキにはいるんだ。
あのガキに必要なのはちゃんとした家庭で、お前に必要なのは一人で生きていく力だ。」

 ぼろぼろと涙が溢れる。

 間違っている・・・・間違っていたのか・・・? 愛しているのに。
ただ、一緒にいたかっただけなのに・・・?

 どうして? それは、そんなにいけないことなの?

「今のままじゃ、お前も、あのガキも、ダメになる。」

 ジエンは叫び声をあげた。切なくて、悲しくて、ただ声を張りあげる。

 一緒にいたいよ。抱しめていたいよ。

 笑って欲しいよ。幸せになって欲しいよ。

 好きなんだ。愛しているんだ。

 守ってやりたいんだ!

「・・・・・」

 あらん限りの声で叫んだ後、ジエンは立ち上がった。

「ジエン・・・・。」

 ニックの声を無視し、ジエンはアパートに向った。

 

 アパートから、あの女が出てくる。後から付いてきた若い男は、イアンを両手で抱えていた。

「放して! 放してよ! 行かないよ! ボクはどこにも行かないってば!!」

「ご両親が待っているのよ。」

 優しげにジマイマが微笑みかけるが、イアンは暴れ続けた。

「ジエン!!」

 通りの向うに、息を切らせたジエンを見つける。

「ジエン、助けて!! ジエン!!」

 肩で息をしながら、ジエンは拳を握って唇を噛んだ。

「ジエン!!」

 ジエンの瞳から涙が溢れ、すすり泣く声が聞える。

「ジエン!!」

 何度呼んでも、ジエンはそこから動かず、泣きながら笑みを作った。

 イアンは車の後に押し込まれる。ドアが閉められ、イアンは後の窓に張りついた。

 車がエンジンをかけると、ジエンは走ってきて窓ガラス越しにイアンに手をのばす。

「イアン・・・・愛しているよ。きっと、迎えに行くから・・・・!」

 約束だよ、一緒に住むって。

 イアンは悲鳴のようにジエンを呼ぶが、もうエンジンの音でかき消される。

 車が走り去った後、ジエンはいつまでもそこに立ち尽した。

(大好きだよ、イアン。幸せになってね・・・・。)

 熱い風が道路の埃をまき上げる。

 様子を見ていたニックは、立ちすくんでいるジエンの肩に手を置いた。

「ごめんなさい、叔父さん・・・・。」

 あんなに後から後から溢れていた涙は、もう枯れた。

「ありがとう・・・これで、よかったんだよね?」

「ああ。」

 涙も叫びも、枯れ果てた。きっと、一生分。たぶん、死んだ父親の分も泣いた。

「叔父さん・・・・仕事を教えて。俺、一人で生きていくには、どうしたらいい?」

 もう泣かない。大丈夫。

 ニックはジエンの肩をぽんぽんと叩き、店に戻ろうと言った。

「先ずは恐怖を克服することだ。」

 こくり、とジエンは頷いた。

 大丈夫だよ。

 俺はきっと、一人で立ってみせる。

 ジエンは唇を結び、叔父の後をついて行った。