ジエンがその少年と出会ったのは、バイト先である叔父の経営するキャバレーであった。

 夏の終り。

ジエンは家出をして、二年前に叔父のところに転がりこんでいた。
叔父は決して優しくはなく、また、未成年のジエンを甘やかしてもくれない。
夕方の店が始る前から、閉店後まで雑用でこき使われていた。
それでも、自立した生活を営めるようになっただけジエンは叔父に感謝していた。
雑用の中に、客への接待が含まれていたとしても。

 いつものように夕方出勤し、店の掃除をしているとひとりの男が尋ねてきた。
見たことのある顔だ。人身売買の仲介役。
たいてい連れて来るのは、親に売られたか家出をしてふらふらしていた少女だ。
ジエンは仲介者がいなかっただけで、似たようなものだ。さして気にしない。
売春を強要されたとしても、店の囲いがあれば外で立つより安全だし、
ちゃんと働いていれば給料ももらえる。

 だが今回、その男の連れてきたのは、年端の行かない少年だった。
ジエンよりずっと幼い。十代に満たないくらいか。ジエンはモップをかけながら顔をしかめた。
さすがに追い帰されるだろう。そういう店ではないのだから。

 案の定奥で怒鳴り声が聞こえ、男と少年は追い出されてきた。

「ったく・・・面倒なの押付けられちまった。」

 男が悪態をついて少年を睨む。少年はぼんやりと突っ立っていた。
鮮やかな金色の巻き毛は汚れてもつれ、サイズの合わない服は擦り切れている。
頬には青あざがあり、殴られたあとを物語っている。

 かわいそうに。

「ニック! ちゃんと仕込み済みだぞ? 客の相手はできる!」

「うるせぇ! 客層が違うんだよ! 他をあたれ!」

 子供を扱う売春宿も裏には色々あるが、ここよりずっと危険だ。
そういった輩は変質者が多い。

「あ・・・あのさ・・・・。」

 恐る恐るジエンは男に声をかけてみた。男が今度はジエンを睨む。
ジエンの年齢は、ここの最低限ぎりぎりだ。
女だったら、ホステスとして扱われるだろう。だがジエンは男で、顔に派手な傷跡がある。
鼻から頬にかけての切り傷だ。傷を除けば、それなりに端整な顔立ちになる。
黒髪は肩まで伸び、切れ長の瞳と薄い唇は、ここのホステスたちに人気がある。

「いくらなの? その子。」

 恐れも驚きもしない少年には、生気がない。

「坊や、買うのか? 五百でいいや。」

 一応聞いてはみたものの、そんな大金持っているはずがない。

「やめとけ、ジエン。かまうな!」

 奥から叔父のニックが出てきた。中年太りで、狡猾そうな男だ。

「でも叔父さん・・・・。」

「慈善事業じゃねえんだ。んなのに付き合ってたらきりがねぇ。」

 この街で、子供を売る貧困者は珍しくない。
ジエンが少年を見ると、少年はゆっくりとジエンを見上げた。きれいな青い瞳をしている。
そういう趣味の人間なら、高く買うだろう。だが、人売りの男は少年を早く処分したがっていた。
面倒なのが嫌いなのだろう。

「俺、買ってもいい?」

「ああ?」

 ニックが大げさに顔をゆがめる。

「ホステスの子だって、犬とか飼ってる子多いじゃない。俺、もっと働くし。
もっと客取ってもいいよ。だからさ。」

 今まで、基本的には雑用で、たまにそういう趣味の客がいたら相手にするくらいだった。
ここは男の子を売る店ではない。
その方が稼ぎはよかったが、あくまでジエンは雑用で娼婦ではない。
客層を変えないのが、ニックのポリシーなのか。ジエンには助かっていたが。

「迷惑はかけないよ。少しずつ仕事を教えれば、この子だって役に立つかもしれないし。」

 ニックは少年とバイヤーとジエンを交互に見ながら、肩をすくめた。

「・・・今回だけだぞ? ジエン、お前にはもっと働いてもらうからな。
子供はお前の手におえなくなったら、そっちの趣向の店に転売する。
それまでせいぜい、そのガキをきれいに磨くんだな。」

 人売りの男は、にやーっと笑った。早く手放してしまいたいのがミエミエだ。

「三百だ。」

 ニックは事務所に戻り、札を掴んで出てきた。それを男に押付ける。

「待ってくれよ! いくらなんでもこれっぽっちじゃあ・・・。」

 ニックが男を一睨みすると、男は転げるように出て行った。小心者だ。

「仕事をサボるな! ガキはその辺にでも置いておけ。」

 肩と腹を怒らせてニックが奥に戻っていく。ジエンは膝を落して少年と目を合わせた。

「よかった。俺、ジエン。お前、名前は?」

 言葉がわからないのか、少年はただじっとジエンを見つめている。

「もう誰もお前を殴ったりしないよ。安心しな。っても、貧乏暮しだけどな。」

 ニッとジエンが笑って見せる。

「ヨロシクな。」

 とりあえずここに置いておくわけにもいかないので、ジエンは少年の手を引いて、
ホステスたちの控室に連れて行った。ロッカーと化粧室を兼用している。
彼女たちは慣れたもので、着替えの最中に男が入ってきても驚きもしない。
ましてやジエンは、彼女たちに可愛がられていた。
年頃のジエンも、彼女たちの豊な胸や腰に、欲望を感じたことがない。
きっと、男として不完全なのだと自分でも思う。正直、完全にエレクトした経験などないのだ。
それは、幼児期に受けてきた暴力と関係があるのだろうが、それは自分ではどうでもよかった。
性の対象とならない彼女たちと、ジエンは上手く付き合っていた。

 古株でジエンと一番仲のよいリンダが、もう来て一服していた。

「あら、どうしたの? その子?」

「叔父さんに買ってもらった。」

 え?とリンダがあからさまに驚く。

「ニックが何か買ってくれるなんて、ありえる?」

「今夜から客取るよ。」

「やだ、うちの店じゃ男の子は売ってないわよ?」

 ジエンは優しく少年の手を引き、一番奥の椅子に座らせた。
それから、ホステスたちが食べ散かした菓子の中から、
チョコレートバーを一本見つけ出して少年に手に乗せる。

「表向きはね。」

「嫌がってたじゃない。咥えるくらいなら嘔吐の詰ったトイレを掃除する方がマシだって。」

「別にいいよ。どっちも同じことだし。
それにさ、こんな子供がえげつない大人に切刻まれるの想像したら、夢見が悪いじゃないか。」

 力のない子供が、保護なしで生きてゆくのは楽じゃない。
暴力も喧嘩も殺しも麻薬も、ジエンは嫌いだった。
喧嘩に明け暮れる同世代の少年たちを思えば、まだこっちの方がマシだ。

「俺、仕事に戻るから。大丈夫だよ。女の子たちは優しいからね。
仕事が終ったら、俺のアパートに行こう。狭くて汚いけど。逃げ出しちゃだめだよ? 
また怖いおじさんに捕まったりするからね。いい? 
俺の仕事が終るまで、ここでいい子にしてて。」

 従順を強要されてきたのか、少年は小さくこくりと頷いた。

 ニッと笑って、ジエンは少年の髪をくしゃくしゃと撫でた。

「頼むよ、リンダ。」

「一応ね、皆には言っておくけど。」

 おもちゃを買ってもらった子供のように、ジエンは嬉しそうだ。リンダは両手を広げて見せた。

「・・・・・・・イアン・・・・・。」

 ぼそり、と、少年が口を開く。ふり向いたジエンは表情を輝かせた。

「イアン、いい名前だね。じゃあね、イアン。待っててね。」

 ひらひらと手を振って、ジエンはホールに戻って行った。 

 

 時折様子を見に行きながら、ジエンは嬉々として働いた。

 今まで、犬や猫を飼いたいと思ったことはないが、
小動物を可愛がる女の子たちの気持が、今ならわかる。
ひとりぼっちの世界に、暖かなストーブをひとつ、置かれたようだ。

「よう、ジエン。」

 何人かで飲みにきていた男に、腕を捕まれる。

「今夜、どう?」

「なんで男の子が好きなら、そっちの店に行かないんだい?」

 からかうように笑ってみせる。

「俺の勝手だ。」

「まあね。」

 その男とは、もう馴染になっていた。

「でも、店が引けてからは用事があるんだ。今ここでならいいよ。」

 男が首を傾げる。客からの誘いに、ジエンはいつも躊躇しておどおどしながらついて行く。
こんな積極的な態度は初めてだ。

「待ってて。灰皿交換してきたらね。」

 やりかけの仕事を片付け、ジエンは男のところに戻ると、テーブルに潜り込んだ。

「へぇ、自分から咥えてくれるなんて、どういう風の吹き回しだ?」

「開き直ったんだよ。」

 暴力は嫌いだ。

 セックスは、暴力だ。

 力の前に屈服する前に、自ら跪いた方がいい。

 痛みは、嫌いだ。

 一通り男を満足させ、金を受取ると、
店の奥で様子をうかがっていた店主のニックにそのまま札を渡す。
それからすぐに洗面所に行って口をゆすいだ。

 こんなの、どうということはない。暴力に比べれば。

 

 明け方、大方の仕事が片付くと、ジエンは人形のようにじっと待っていた少年を連れて、
安アパートに戻った。

「お腹、空いた? とりあえずシャワー浴びようよ。」

 自分からはほとんど動かない少年の服を脱がせ、熱いシャワーをかけて石鹸で洗ってやる。
きっと、酷く殴られたんだ。正気を失うほど。ジエンは少年を洗って、
古びたタオルで拭き、とりあえず自分の服をかぶせてやる。
一寝入りしたら、この子の服を調達してやろう。
そんなことを考えながら、自分もシャワーを浴び、洗濯してある服に着替えた。

 狭いアパートの中で、少年はベッドサイドにちょこんと座り、ぼんやりジエンを眺めている。
ジエンはキッチンでスープを温めて持ってきた。

「あとでもっと買ってくるよ。とりあえずさ、これでも食べて寝ようよ。俺、疲れたし。」

 返事をしない少年に、独り言のように話しかける。
少年は、出されたスープを貪るように平らげた。

「お腹空いてたんだね。」

 嬉しそうに笑って、ジエンは自分の分も差出す。躊躇するように少年がジエンを見る。

「俺はそんなに腹減ってないんだ。だから、いいよ。」

 少年の顔が、ちょっとだけ嬉しそうになる。
ジエンの方が嬉しくなって、少年の頭をくしゃくしゃと撫で、スープを飲干す少年を見つめた。

 食事が済む頃には、窓の外は朝に光に満ちていた。

「俺、寝るけど、お前、好きにしてていいよ。何にもないけど。」

 お前、と呼んだ後から、ジエンは少年の名前を思い出した。

「イアン?」

 空腹が満たされて、少年は少し生気を取り戻していた。
ゆっくりと、珍しそうに部屋の中を見回している。乱雑で散かった部屋。
新聞や雑誌の類はなく、まともなのは型の古い小さなテレビとラジオくらいだ。

 ジエンは、文盲だった。学校なんてものに行った記憶はない。でも、べつに困らない。

「テレビ、つくよ。きれいに映らないけど。」

 見てていいよ、と言残して、ジエンは毛布の中に潜り込んでいった。

 

 いつもなら、そのまま昼過ぎまで泥のような眠りに落ちているのだが、
その日は途中でふと目が覚めた。頭を回すと、テレビは付けた形跡はなく、少年の姿もない。

「・・・・・。」

 逃げた?

 心臓をバクバクさせながらジエンは体を起した。と、足元に小さな塊がある。

「・・・・・・イアン?」

 ジエンの足元、開いたスペースに、少年は丸くなっていた。
眠ってはいなかったのか、ひょこりと顔を上げる。

「あ・・・寝るんなら、こっちにおいでよ。」

 壁に寄ってスペースを空けると、少年はもそもそと這い上がってきた。

「・・・抱いて、いい?」

 なぜかおどおどした様なジエンの問に、少年は俯き、ちょっとだけ頭を下げた。

 ぱっとジエンは笑みをつくり、少年を両手できゅっと抱き締める。

「・・・へへ・・・あったかいなぁ。」

 犬か猫にでもするようにジエンは少年を両手で包み、そのまま横になる。

 当然されるだろうことを覚悟していた少年は、ぎゅうっと閉じていた目を、うっすらと開ける。

「・・・・・これだけ?」

「なんで?」

 他に何するの? と、ジエンは純粋に思っているようだ。
少年は首を横に振って、体の力を抜いて、ジエンにもたれた。

「後でさ、服、買ってくるから。そしたらさ、ハンバーガー食べに行こうよ。
それくらいの金はあるよ。それから、もうちょっと食い物買って置かないとな。」

 ジエンの声は、また眠気に沈んでいく。

 少年は、ジエンの寝息を聞きながら、自分もまた深い眠りに落ちていった。

 

 

 

 夕方、ジエンが出勤するとイアンも付いて行き、
ホステスたちの控室で時間を過し、明け方一緒に帰宅した。
ジエンは無邪気でよく笑う。イアンも少しずつ話をするようになっていった。

「あんた、どこの子?」

 真赤な口紅をつけたホステスに聞かれることはよくあったけど、イアンは首を横に振った。

「わかんない。」

 気が付いたらこの店にいて、ジエンが笑いかけてくれていた。
それ以前の記憶を、思い出すことが怖い。
ジエンは、「きっとすごく殴られたんだろうね。
かわいそうに。嫌なことは思い出さなくていいよ。」そう言った。
だから、思い出さないように記憶を封印した。思い出す必要はない。
今は、幸福だった。

 

 ニックは仕事の合間にジエンを事務所に呼びだした。

「あのガキはどうしてる?」

 照れたようにジエンは笑い、「別に」と答えた。特に報告すべきことはない。
イアンは、名前以外何も思い出すことはなく、今の生活に慣れ親しんでいた。

「女の子たちとも仲良くやってるよ。控室の掃除とかやってくれてる。」

 あとは、女の子たちの愚痴を聞いてやったり。ホステスたちのペットのような存在だ。
仕事が休みのときは、ジエンと散歩をしたり、文字の読めるイアンは、
幼い子供向けの絵本をジエンに読んで聞かせたり、時折文字を教えてくれたりもする。
仲の良い兄弟のように。

 ニックは溜息をついた。まさか、こんな展開になるとは思ってもいなかった。
ジエンが子供の世話などできるはずもないとたかをくくっていたし、
子供がジエンになつくとも思っていなかった。すぐ手におえなくなるだろうから、
そうしたらそっち系の店に売飛ばせばいいと。

 ジエンの変化にも驚かされる。

 ジエンは、ニックの兄の息子である。兄のロンはどうしようもない荒くれで、
女を孕ませて結婚したはいいが、酒に酔っては女房子供を殴り、妻はたまらず出て行った。
父親に酷く殴られたジエンは、泣きながらニックのところに逃げてきたのだ。
店で働くことを条件に、引取った。

 ジエンは、よく働く子だ。大人に怯えているせいもある。
だが、その勤労が報われ、金を稼ぐことを覚えてしまえばニックの片腕にもなりうるだろう。
そう考えていた。周囲に対する怒りや孤独を、金が解決してくれることを覚えてしまえば。
大人に怯えなくなってしまえば。

 そんなジエンを癒してくれるのが、金の力ではなく、あんなちっぽけな子供の存在になるとは。

 無条件で愛情を注ぐことのできる存在。

 ジエンは、子供を養うために、
「言われたとおり」にしていた仕事も「自ら進んで」やるようになっていた。
金が稼げるのなら、と、娼婦になることさえ厭わずに。

 ジエンが不能なのは知っていた。だから、それを専門に商売することは無理がある。
快楽のふりさえできないのだから。
それでも、それなりに顔もスタイルもいいジエンとやってみたいという男はいるものだ。
そういう変り者も。

 さて、どうしたものか。

 ニックは、長年の経験から、あの少年がこちら側の世界の人間でないこことは薄々感づいていた。
厄介ごとに巻き込まれなければいいが。

 だが今、ジエンからあの子供を取上げることは、あまりに酷いことのように思えた。

「店の掃除を手伝わせるといい。」

 タバコをふかしながらそう呟く。

「開店したら、ホールに出すなよ。あんな子供を雇っていると思われたら、こっちの身がヤバイ。」

「わかってる。」

 こういう風俗店は、警察との駆引きが大事なのだ。経営について、少しは教えてきたつもりだ。
ジエンは、わかってる、と繰り返した。

 

 決して裕福ではないが、イアンはジエンのことが好きになっていた。

 昼まで寝て、買っておいた缶詰のスープを温めて食べ、
その日はゆっくりとアパートの部屋で過していた。出勤までの時間、二人は寄添って過す。
名前以外、何も持たない二人。何もなくても、それで十分だ。

「・・・これ?」

 イアンがじっとジエンの顔を見つめていると、ジエンは顔の傷跡を指差した。
こくり、とイアンが頷く。ジエンは傷跡に触り、顔をゆがめる。

「俺の父ちゃん、年中酔っぱらっててさ。いっつも殴られたんだ。
学校とかも行かせてもらえなかったし。母ちゃんは逃げちゃうし。
金盗んで来いとか、酒持って来いとか俺のこと殴るの。
思い切っていやだって言ったら、父ちゃん、ナイフ持ってきてさ、切りつけられて。
そんで、これはぜったい殺されるって思って逃げ出したんだ。」

 笑おうとする口元が、記憶の苦痛に歪む。

「叔父さんに助けてもらったんだ。だから感謝してるし、頑張って働いてんの。」

 イアンは、ジエンに抱きついた。そんな少年を、ジエンも嬉しそうに抱しめる。

「・・・痛い?」

「もう痛くないよ。・・・イアンは、温かいなあ。」

 何も思い出さなくていいというジエンは、自分が昔を思い出したくないのだ。
イアンはなんとなくそう思った。だから、優しいのだと。

 自分が誰なのかわからない。何もわからない混沌とした世界の中で、
ジエンだけが優しくしてくれた。イアンにとって、それが全てになっていた。

 ジエンのことが、好きだった。

 古びたアパートの一室で、温めたスープを二人で飲むのが好き。
パンぐずを投げあいながら、笑いながらパンを食べるのが好き。
狭いベッドで、抱合って眠るのが好き。

「ボク、ジエンのこと、大好きだ。」

 ジエンのシャツに額をこすりつけながら言うと、ジエンは嬉しそうに笑った。

「うれしいなぁ。俺も、イアンのこと、大好き。」

「じゃあさ、仕事が終ったらアニーの店でチキン買って。」

 笑いながら、ジエンは「仕方ないなぁ」と呟く。そんなジエンの姿が、イアンは大好きだった。
ちょっとわがままを言った時の、ちょっと困った顔。本当に困らせたいわけじゃない。
時々、ジエンが辛そうにしていると、イアンも胸の中がむずむずしてたまらなくなる。
そんな時はただ、ジエンに抱きつくしかない。

「もう行かなきゃ。掃除、手伝ってくれるんだろう?」

「うん、いいよ。」

 イアンは、店の女子達も好きになっていた。

 

 イアンにとって、ニックは怖い店長だった。
ニコリともしないし、いつもタバコをくわえているし、従業員を怒鳴り散らしている。
なにより、イアンの存在を無視している感じがする。
ジエンがいつも連れて来る少年を、ちらりと見るだけで挨拶もしない。
イアンは、いつもジエンの後に隠れて、こっそり女の子たちの控室に逃げ込むのだ。

「冗談じゃないわよ! いつまでもこんな場末のキャバレーで大股広げていられますかっての!」

 ダンサーのナオミがハイヒールをドアに投げつけている。
部屋のゴミを拾い集めていたイアンは、そのハイヒールを拾ってナオミのところに持っていく。

「あたしはね、スターになりたいの! 舞台でミュージカルを踊りたいのよ!!」

 彼女は気分屋で、他の女の子いわく
「一年の半分を泣いて、残りの半分を怒るのと笑うのに費やしている」のだそうだ。
イアンは、ナオミの隣にちょこんと座った。

「イアン、どう思う? あたし、そんなに素質ない?」

 イアンはふるふると首を横に振った。本当のところは知らない。
彼女が踊っているところは見たことがない。
店が開いている間は、ホールに行ってはいけない事になっているのだ。
もしその場を見たら、驚くだろう。
ダンサーがきわどい布切れを身につけていることは知っているが、
彼女たちがどんな踊りをするのか。ホステスたちがどんな仕事をしているのか。
イアンが目にするのは、まだ早すぎる。

 イアンは女の子たちの愚痴を聞くのが仕事になっているが、
実際彼女たちの実情を理解しているわけではないし、愚痴のほとんども理解していない。
それでもいいのだ。誰かが聞いてて、

「そんなことないよ。」

「大丈夫だよ。」

そう声をかけてもらえれば、彼女らは満足するのだ。

「ナオミはキレイだね。だから、きっと大丈夫だよ。」

 笑いながらそう言ってやると、ナオミは涙を拭きながら苦笑した。
ジエンがいつもそうしているのだ。ティッシュを持ってきてやって、
「大丈夫だよ」と優しく微笑みかけてやる。
イアンはジエンのまねをして、ナオミの頬をティッシュで拭いてやった。

「サボってんじゃねえぞ! 客が待ってんだからな!」

 黒服の男が思いっきり控室のドアを開けると、中にいたホステスたちは一斉に罵声を上げた。

「入って来るんじゃないわよ!」

「タダじゃ見せないよ!」

 男は慌ててドアを閉めるが、向こう側でまだ文句をわめいている。

「ジエンはどうしたのよ! あの子が呼びに来ればいいでしょう?」

「あのガキは忙しいんだとよ。今ごろトイレの個室さ。」

 卑下した笑いを残して、男の声が遠ざかっていく。イアンは首をかしげた。

「・・・ジエン、どこか痛いのかな?」

さっきまで泣いていたナオミも、他の女の子たちも、
一瞬顔を見合わせてから気まずそうに視線をそらせる。

「大丈夫よ。トイレの掃除をしているだけでしょう?」

 化粧を済ませたリンダが、イアンの肩に手を置く。
イアンは、ジエンが何をして稼いでいるのか知らないし、知らなくていいことなのだ。

「じゃ、あたしは出るわよ。ニックに直々に怒鳴られたくないもの。」

 休憩していた女の子たちが出て行く。イアンはいつものようにひとり残された。
いつものことだ。少しすれば、また別の女の子が休憩に入ってきたりする。

 誰もいなくなると、イアンはそっと控室を出た。
イアンのような子供が、女の子たちが裸でいるようなこんな店にいたらいけない。
それはわかっている。だから、客の目に付かないように、こっそりと移動する。
特に、店主のニックに見つからないように。

(ジエン、おなかでも痛いのかな・・・。)

 店の奥のトイレに近付くと、男の低い声がした。客だ。見つかったらヤバイ。

 逃げ出そうとする気持とは裏腹に、イアンはそっとトイレの中を覗き見た。

「・・・・・・?」

 ちらり、とジエンの姿が見えた。だがいつもと違う。
トイレの壁に背中を押し付け、苦しそうに顔をゆがめている。
ジエンの前に男が立って何か行っている。

「ジ・・・・・」

 ジエンが、いじめられている・・・。

 そう思った瞬間、イアンは襟首を捕まれ、その場から引きずり出された。

「こんな所で何をしている?!」

 ニックだ。怒った顔をしている。イアンはすくみあがった。

「うろちょろするんじゃねえ!」

 襟首を捕まれたまま控室まで連れ戻され、中に放り込まれる。

「いいか、今度ここから出たら、店の外につまみ出すからな!」

 勢いよくドアを閉められ、イアンはブルっと震えた。

(ジエン、大丈夫なのかな? 何か失敗して叱られたのかな・・・?)

 ジエンはけっこうおっちょこちょいなところがあるし。
この前だって、ホットケーキ焦しちゃったし・・・。

 イアンがうろうろと歩き回っていると、また別のホステスが入ってきて一服を始めた。

「坊や、灰皿とって。」

 言われたとおりに灰皿を運びながら、誰かに聞こうか迷う。

 あのジエンの表情・・・・いつもと違っていた。
いつもと違って・・・・なんていうか・・・・。

(きれいだった・・・・。)

 幼心にもずしんと響く。

「どうしたのよ?」

 立ちすくんだまま思いにふけるイアンに、ホステスが問い掛ける。
イアンは慌ててなんでもないと首を横に振った。

 しばらくすると、ジエンが控室に入ってきた。
ここに出入り自由な男は、ジエン(と、イアン)だけだった。

「ちょっと休憩させて。」

 コークのビンを二本持ってきていて、そのうちの一本をイアンに手渡す。

「ジエン・・・・・。」

 さっき・・・・。言いかけて止る。その先を、聞いてはいけない気がしたからだ。
今ここにいるジエンは、いつものジエンだ。ちょっと疲れていて、それでもにこやかで。

「何?」

 にっこりとジエンが首を傾げる。無邪気な表情。
イアンは、コークの蓋を開けて、とジエンに差出した。

「ねえ、なんでジエンだけここに入れるの? 他の男の人が来ると、みんな怒るんだけど。」

 控室にいたホステスは、けらけらと笑った。

「ジエンは不能なんだもんね。」

「不能・・・?」

 イアンが首をかしげると、ジエンはいつもの困った表情をした。

「女の子にイタズラしようとか思わないんだ。うーん、男として見られていないのかな。」

 ジエンの曖昧な答えに、イアンが「ふうん」と鼻を鳴らす。

「ボクは?」

「お子様だもの!」

 ホステスは笑った。

 それって、悪いことなのかな? イアンにはわからない。
でも、他の男の従業員たちのようにぞんざいに扱われないのだから、いいのかもしれない。

「ねえ、噂で聞いてるんだけど、ジエン、あんた客とってんの?」

 ホステスの質問に、肩をすくめて見せる。

「あんた、そういうタイプじゃないよ。やめな。ニックに言ってさ。」

「たまに、だよ。ちょこっと。ほら、ここはそういう店じゃないしさ。」

 ホステスは、「やめなよ。」と言ってタバコの煙を吐きかけ、また戻って行った。

「客取る、って、なに?」

 二人だけになると、イアンはジエンにぴったりと寄添った。

「え? あー・・・お客さんの話を聞いてあげたり、酒につきあったりするんだよ。
ホステスの仕事ね。本当は男の従業員はそういうのしないんだけど。たまにね。」

 じゃあ、さっきのもそういうのだったのかな? 

「イアン、隅っこで寝てなよ。まだ時間かかるし。」

 昼間寝ているので、それほど眠気は感じていなかったが・・・言うとおりにすることにする。
要するに、暇なのだ。ジエンを待っている間。

「ねえ、また休憩に来たら起してね。」

「うん。」

 ジエンがニッと笑うと、イアンはジエンをハグし、頬にキスをして、
毛布を引張って奥の長椅子に横になった。

 眠くはないつもりだったが、横になるとすぐに眠りについてしまった。

 どれくらい経ったのか、イアンはぼんやりと目を覚ました。話し声がする。
ホステスたちだ。タバコが煙い。

(ちょっと、大丈夫?)

(うん・・・・。)

(せめて上のベッド使えばいいじゃない。)

(その辺で立ってする方が、短時間で済むからさ。)

(ばかね。ちっとも気持ちよくなんかないくせに。)

(殴られるよりマシだよ。俺、ここにいたいんだ。それにさ、我慢できるよ。
もうすぐ冬だから。イアンに何か服を買ってあげなきゃ・・・。)

 ジエンの声だ。イアンは何度かまばたきをして、あくびをして起きあがった。

「・・・ジエン?」

「あ、イアン、起きた?」

 ぱっと笑ったジエンは寄って来て、イアンの頬にキスをした。

「もうすぐ終りだよ。ホール片付けてくるから、ちょっと待っててね。」

「うん。」

 何の話をしていたのだろう? リンダはもう帰り支度を済ませていた。

「あ、そうだ。イアン、あんた本読めるんでしょう? 近所の子供にもらったの。あげるね。」

 自分のバッグから子供向けの本を出す。イアンはありがたく受取った。
字が読めるといってもたかが知れている。
絵のほとんどない児童書は、イアンにも難解だった。でも、暇つぶしにはなる。

「ありがとう。」

 イアンはリンダにもキスをした。

 リンダが帰ったあと、ぱらぱらと本をめくっていると、ジエンが戻ってきた。

「帰ろう。」

 にっこりと笑う。イアンも笑い返す。

 なんだか、色々あった気がするけど、ジエンはジエンだ。
リンダにもらった本を抱え、ジエンと手を繋いで、イアンは店を出た。 

 

 翌日、ジエンはニックに呼びだされた。

「もうあのガキを店に連れてくるな。」

 驚いたジエンが目を丸くする。

「イアンが・・・何か悪いことをした?」

「そうじゃない。あんなのが店にいると、まかり間違ってそんなことが通報されたらマズイ。」

 本当は、そんなことはない。ホステスの誰かの子供だと言っておけばいいのだから。

「それに、・・・・わかるだろう、ジエン? 
ここはおおっぴらにセックスを売ってんだ。ガキが見ていいものじゃない。」

 まともに育ててやろうと思っているなら。

 イアンはうつむいた。いつもつれて歩いている人形を取上げられたような顔をしている。
ニックは溜息をついた。

「お前、あのガキにしゃぶってるところ見られたいのか?」

 慌てて首を横に振る。

「だったら、アパートに閉じ込めておけ。いいな。
どうせ今日も連れて来てるんだろう? 時間をやるから、アパートに連れて帰れ。」

 しゅんと肩を落して、ジエンは事務室を出て行った。

 入れ代りに、リンダが事務室に入ってくる。

「優しいのね、ニック。ジエンに情が湧いたのかしら?」

 ニックはタバコに火を点け、リンダを睨んだ。

「何の用だ?」

「さっき店長が言ったこと、ジエンに言ってって頼みに来たの。
イアンは、こんなところに来ちゃいけないわ。」

「昨日、ガキがうろちょろしてた。あのガキ、ジエンが客にやられてるところ、目撃してるぞ。」

 え、とリンダがぽかんと口を開ける。

「リンダ、お前はジエンと仲がいいみたいだから言っておくが、
あのガキな、ここに来る前に輪姦されてんぞ? 
お前らやジエンが思ってるほど何にも知らないガキじゃねえ。
俺は別にいいんだ。今から仕込んでやれば、そっちの店に売るとき、高値がつく。
きれいな顔してるしな。それにあのガキは頭がいい。
どうすれば金を稼げるのか、すぐに学ぶだろう。」

「・・・・・店長・・・。」

「もういいだろう? 着替えて化粧でもして来い。」

 すごすごとリンダは引き下がり、事務所を出て行った。
ニックはタバコを深く吸いこみ、溜息をつく。

「ったく、面倒なのを買っちまった・・・。」

 ひとりごちて、ニックはタバコを灰皿に押付けた。

 

 アパートに連れ戻されたイアンは、不満に唇を尖らせた。

「ボク、何か悪いことした?」

「そうじゃないけど・・・・。」

 いつものように、ジエンがちょっと困った顔をする。

「ボク、ジエンと一緒にいたい。」

「うん、俺も一緒にいたいけど・・・・部屋で待ってて。お願いだから。」

 ベッドに腰掛け、不満げに足をぶんぶん振る。

「イアン、なあ、本、読んでてよ。それでさ、俺が帰ってきたら、どんな話だったか教えて。
俺、字とか読めないし。イアンが色々教えてくれると嬉しいな。」

 以前リンダにもらった本を指差す。イアンは渋々本を取上げ、ぱらぱらとめくった。

「ボクがジエンの先生になる?」

「うんそう。」

 イアンはニコッと笑みを取り戻した。

「ジエン、大好きだよ!」

 イアンがぎゅっと抱きつくと、ジエンも抱擁を返した。

「俺も、イアンのこと大好き。夜、外に出ちゃダメだよ? 
イアンがいなくなったら、俺、きっとおかしくなっちゃう。」

 こくり、とイアンは頷いて体を離した。

「じゃ、行って来るね。」

「行ってらっしゃい。」

 テレビドラマで見た夫婦みたいだ。イアンはおかしくて笑いながら、ジエンを見送った。

 

 イアンが来なくなって、控室のホステスやダンサーは、つまらないとぼやいた。
が、お子様がいないので下ネタを堂々と話せると喜びもした。

 誰かのためと思えば、ジエンはがむしゃらに働けた。
仕事の効率を考え、早く帰れるように自分で調整する努力も始める。
それを見るニックは感心した。ジエンは、娼婦より女衒の方が向いているかもしれない。
女の扱いも上手いし。

 しばらくしたら、体を売ることをやめさせよう。そして、経営の方に回そう。
それで使えそうなら、読み書き計算を習わせてもいい。

 そんなニックの考えとは関係なく、ジエンはその日一日の仕事をこなしていった。

 

 この地方は、冬でもあまり気温は下がらない。
それでもジエンはイアンに冬用の服を買ってやり、休みの日は二人で出かけた。
二人は常に自由だった。

 狭いアパートに帰ってくると、二人はベッドに寝転がり、
物語や雑誌をイアンが読んで聞かせた。

 その日も拾ってきた旅行雑誌をめくりながら、世界中の写真を楽しむ。
ジエンは、その中のひとつの写真を指差した。

「・・・ギリシャ・・・・ギリシャだって。」

「ギリシャって、どこにあるの?」

 ジエンの質問にイアンは首を傾げて見せる。

「知らない。」

 そんなくだらない問答にも、二人は笑い転げた。

「いいなあ。きれいだなあ。」

 真青な空をバックに、白い家が並んでいる。

「こんなキレイなところに、いつか行ってみたいな。」

 ジエンはじっと写真を見つめた。

「俺さ、いっぱいお金稼いで、それで、いつか海辺に家を買うんだ。」

「ここより広い?」

「もちろん! そしたら、二人で住もうな。」

 顔いっぱいに笑みを作って、イアンは頷いた。

 静かな海辺の小さな家。ささやかな夢。

「うん。一緒に住もうね、ジエン!」

 同じ夢を見ることに、イアンは幸せを感じた。