こんな穏やかな日が来ることを、予想したことなど一度もなかった。 願ってもいなかった。マンハッタンを展望できる公園に車を停め、 愛車に寄りかかりながらバドはタバコを美味しそうにふかしている。 おりしも夕闇の迫る、もっとも美しい時間。クラウスは、その隣にたたずんでいた。 「・・・まだ、この車に乗っていたのか」 黄色いフォルクスワーゲン。バドは苦笑した。 「これは二代目だ。前の奴はな、乗り潰しちまった」 今ではどんな高級車でも乗ることができるだろうに、 なぜこんな大衆車にこだわるのか。 「ドイツ車は好きだ。頑丈でな。真面目なドイツ人の作った車だ。 真面目さでは日本人も負けないが、・・・・遊び心が足りない」 クラウスやエドワードが、もともとドイツ人であることを知ってか。 指先のタバコを弄びながら、バドは笑う。 「ヒトラーの三大遺産だぞ」 ドイツ人には癇に障る名前に、クラウスが僅かに眉を寄せる。 「ひげ文字の廃止、速度無制限のアウトバーン、それに、このビートル」 いつかのオンボロではない、ぴかぴかのワーゲンをコンコンと叩く。 「罪は罪として、功績は認めてしかるべきだ」 タバコの煙を吐き出し、ニッと笑ってからバドはマンハッタンを見上げた。 クラウスも、同じ景色を見る。ニューヨークに住んで長いが、 絵葉書のような風景を楽しんだことは一度もない。 「人は、酷い肉体的精神的ストレスを受けると、無意識にそれを繰り返し、 己を肯定させようとする。犯罪心理だ。 私は幼少の頃、目の前で家族を惨殺された・・・らしい。覚えてはいないが。 それが無意識のトラウマとなり、血を見ることで快楽を得るようになった。 それを利用し、無慈悲な暗殺者として育てられた」 バドのくわえたタバコの灰が、ぽとり、と落ちる。 「そうすることで、安定した精神を保つことができた」 真っ赤に染まる街に、目を細める。 「エドゥアルト・・・・エドワード卿は、私をなんとか立ち直らせようとしてくれたが、 私は与えられた指示を忠実にこなすだけしかできない。 今でも時々・・・血に渇望している狂気が垣間見える。 それを押さえる精神力だけは身につけたが」 指先ぎりぎりまで焔が近付き、バドはタバコを落として踏み消すと、 吸殻を車の灰皿に押し込んだ。 「心理学なんぞ、知らん。だが、人を癒せるのは人間だけだ」 目の前に思い出される血の色が、透明になって夕空に変わる。 「私から見れば、エドワードも狂っている。・・・いや、過去形にすべきか。 彼も、人間の本来の欲望を知らない。目的のためだけに育てられたのは、同じだから。 エドワードは変わった。自分が狂っていくようだと苦笑していたが、 たぶんレイと一緒にいるとき、彼は人間になれるのだ。 宝石を見て、美しいなどと言い出したときには、驚いた」 「ただの石ころにしか見えないか?」 「金の稼げる、石だ」 ふふん、と鼻で笑って、バドはまたタバコに火を点けた。 「石の魔力を知っているから、自分を悪魔の宝石などと呼べるんだろう?」 「・・・・いや、以前そう呼ばれた事があったからだ。 私を教育していた者が、私をそう呼んだ。危険な宝石だと」 タバコを手に持ったまま、バドはクラウスの金色の目を覗き込んだ。 「ああ、そうだな。イエローダイヤ・・・ってところか。 ダイヤモンドは美しい装飾品だが、最も鋭利な刃物にもなりうる。使い方次第だ。 今お前は、有能な秘書なんだろう? もう、何かを傷つけるだけの凶器じゃない」 目の前の、バドの瞳に吸い込まれる。 「いつか・・・悪魔の宝石を手に入れたいと言っていたな」 「男のロマンさ」 クラウスは、それ以上の言葉を詰まらせた。バドの瞳を見つめたまま、言葉が出ない。 「アレン?」 懐かしい響き。その名を呼んでいた家族は、今はいない。 ミュラーに引き取られた時、まるでそれまでの人間としての人格を否定するように、 その名を消し去られた。今ではエドワードだけが知っていて、・・・そして、使わない。 エドワードが、会長の座を与えられた時に、本名を使われなかったように。 否定された人間性は、どこに行ってしまったのだろう? 「人は、人にしか癒されないのさ」 無骨なバドの指がクラウスの髪を撫でた時、 クラウスはその手を掴んで引き寄せ、唇を重ねた。 「・・・・・」 目を開いたままのバドが、そっとその顔を押し戻す。 それから、真剣なクラウスの視線の前で、戸惑うように視線を外した。 「あー・・・・あのなあ、ガキじゃないんだからそういうのは・・・・」 「迷惑か」 「いや、だから・・・」 手にしていたタバコの灰が、ぽとりと落ちる。 「俺はその気はないんだけどなあ・・・」 半分まで減ってしまったタバコを吸って、溜息のように吐き出す。 「そりゃあな、俺も社長なんて座に着く前は散々遊んでいたしな。 喧嘩もセックスもやりたい放題で、・・・まあ、大概のことは知ってる。 レイの年齢の頃は、後先考えず遊び倒してたからな。でもなあ、責任背負わされて、 本当に俺を大切にしてくれてたシンシアの愛を知ってからな、 俺はシンシアだけを愛そうって決めたんだ。 もういない女をいつまでも思い続けてるのは馬鹿らしいと思うだろうが・・・ それくらいしか、俺にはしてやれん。 つまりだ・・・・お前がどんな男だろうと・・・まあたとえ女であろうとだな、 それとは関係なく、誰かの愛情を受け入れるわけにはいかないんだ」 クラウスの、金色の瞳が揺らぐ。 「いや、お前を傷つけるつもりはないぞ。 お前が愛情を求めることのできない不器用な子供のまま、 それを閉じ込めてしまっていることはわかっている。 だから、なおさら、そりゃあお前と刹那的に情交を交わすことは簡単だが、 ・・・・恋人にはなれない。俺は、シンシアをまだ愛している」 動揺を隠すように、バドはクラウスの髪をぐしゃぐしゃに撫でた。 「それにだ・・・・男とするってのは・・・・昔お前に犯られたっきりだし」 いつも整えている髪をめちゃくちゃにされ、クラウスは身体を起こして髪を手櫛で整えた。 「わかった」 短く返事をして、背を向ける。その襟首を、バドは掴んだ。 「待て待て。そう短絡的になるな。お前を否定しているわけじゃない」 顔だけ振り向いたクラウスを見たとき、バドは『やられた』と思った。 断りきれない。その切なそうな表情に、バドは溜息をついた。 「なんで、俺なんだろうなあ・・・」 「・・・私を、怖がらない」 「捨てられた猫みたいな目をされて、何を怖がるってんだ?」 短くなったタバコを、車の灰皿に押し付ける。 「あー・・・レイに何て言おう・・・・」 「言わなければいけないのか?」 父親が男に言い寄られて、仲良くなったとしても・・・・まあ、反対はできないよな。 「レイはお前を怖がっている」 「当然の反応だ」 バドは頭を抱えてため息をつき、 「まあ、いいや」 と呟いた。 「腹減ったな。メシでも食いに行こう」 車を指差す。 「食べたいものがあれば、作るが?」 ギョッとして、バドはクラウスを凝視した。 「・・・・車の修理だけでなく、料理までできるのか?」 「自分の体調管理も大切だ」 はあ、なるほど・・・徹底しているんだな。 「んじゃ、遠慮なく食わせてもらおうか。 男所帯でなあ、あんまり手料理なんてものに縁がないんだ」 ふ、とクラウスは笑った。 「ああ、いい顔だ」 バドも、つられるように笑みを零した。 工房は自宅に隣接されている。昔からの古い工房だ。 バドは職人の帰った夜中の作業場で、写真からデザインをおこしていた。 椅子を引き寄せて座っていたレイは、じっとその手元を見つめている。 「案外器用だよね、父さん」 「案外とか言うな」 写真をルーペで見て、細かなところまでメモしていく。仕事となればバドは真面目で熱心だ。 「父さん、首にキスマークついてるよ」 ぴた、と手を止めたバドが、屈みこんだままレイを見上げる。レイはニッと笑って見せた。 「親をからかうもんじゃない」 また視線を写真に戻す。レイは肩をすぼめて見せた。 「・・・・クラウスさんと、何を話したの?」 写真と図案を見比べ、石の種類を走り書きする。しばらくして、バドは静かに口を開いた。 「マリファナってな、吸うと頭ん中がふわふわして、気持ちいいんだ」 写真から目を離さないまま、指先でペンを回す。 「俺にとっては、麻薬なんてその程度だ。シンシアの弟、お前のおじさんな、 その人は、いったい何から逃げたくて、何を忘れたくて死ぬほどコカイン吸ったんだろう。 お前は麻薬の存在そのものが許せないと言うが、 お前がどうあがこうと麻薬なんてなくならない。お前はどうすれば満足するのか。 クラウス・・・な、あいつ、ガキん頃、 ヤクで頭ぶっ飛んだ奴に家族殺されてるんだってさ。目の前で。 そんで人を殺すことで自分を生かしてたとかぬかしやがった。 そんなことをしたって、救われはしないのに。エドワード、あいつの事情は知らん。 ただ、自分に与えられた役目がすべてだと思っているらしい。 じゃあ、なんでお前なんかに惚れたんだろう。本当は、そこに救いを求めていたんじゃないのか」 回していたペンを指で挟み、バドはレイを見据えた。 「俺に、何ができる?」 「母さんは、バドを愛していた。だから、幸せだった」 それだけは断言できる。レイの言葉に、バドは嬉しそうな、哀しそうな表情をする。 「結局人は、誰かを愛したり愛されたりすることでしか救われないんじゃないか」 ペンを置いたバドが、レイの頬を撫でる。 「レイ、あの男はお前を幸せにしてくれるだろう」 たぶん・・・・その通りだ。レイは頷いた。 「ホラできた。写真と図案持って金庫行って、似通った宝石捜して来い。 すでに加工されている奴は、台座を外す。原石から削りだしてる時間はないからな。 俺は一服させてもらうぞ」 図案を受け取り、レイは立ち上がった。 「父さん・・・それで、父さんはクラウスさんを救えるの?」 タバコに火を点けたバドは、横目で息子を見た。 「本当にキスマークついてるよ」 とたん、ゲホゲホとバドが咽る。 「レイ!」 叫んだ時には、レイはすでに金庫に向かって走って行っていた。 パーティー当日。ぎりぎりまでペンダントの製作にかかっていたバドより先に、 レイは会場に来ていた。すべては事前に打ち合わせてあった。 レイとエドワードの関係は、普段からも極秘である。 それでなくても、エドワードほどの地位のある男が少年と恋人関係にあるなど、 とんだゴシップになる。どんなゴシップもエドワードは気にしないつもりでいたが、 レイは秘密のままの方がいいと言い張っていた。 レイの中では、自分の属する民族に対する強い意識もあるのだろう。 エドワードは、いつかレイのこだわりを克服したいと願っていた。 クラウスは地下の駐車場で待機をしている。 何かあったとき、レイは直接エドワードに報告することはなく、 クラウスを通すことになっていた。 「マダム!」 少年らしい無邪気さで、レイはマダム・ジェシカに両手を広げた。 「帰ってしまわれるのですね。残念です!」 マダム・ジェシカもレイに微笑みかける。 「レイ、私もよ。ニューヨークに帰ってきたら、真っ先にお店に行くわね!」 軽い抱擁を交わす。 「お父様は?」 「ああ、すみません。仕事が立て込んでて。でも、すぐに来ます。 マダムのお別れパーティーですから!」 にこやかに会話を交わすレイを、エドワードは遠くから眺めた。 バドもレイも、女性に対する接し方が上手い。 「マダムのお好きな石を取り置いておきますよ。 ・・・・あ、素敵なペンダントをなさってますね?」 初めて気付いたように、レイはマダムの胸元を見た。そして、僅かに顔をしかめる。 レイのその表情を、マダムは『別の店で買ったアクセサリーだから』と捉えた。 「主人のプレゼントなのよ。結婚記念日の。だから、国に帰って親戚に見せるまでは、 絶対外すなって。強引なんだから。私はねえ、あなたのお店で買った、 あのダイヤモンドのネックレスの方が気に入っているのよ」 じっとペンダントを見ていたレイは、目じりを下げて、 仕方ないというように肩をすくめる。 それから、もう一度ペンダントを見てマダムに視線を合わせた。 「内包されているのは、ダイヤモンドですね。 ピンク、ブルー、イエロー・・・とても高価なものです。旦那様は、 奥様というダイヤモンドをこうして閉じ込めておきたいという 願いがおありなのではありませんか? そして、その回りを美しく飾りたい。そんな愛情が伝わってきますね」 マダム・ジェシカは、頬を染めてくすくすと笑った。 「独占欲の象徴かしら」 「いいえ、愛情です」 レイはしばらく世間話をし、頃合を見計らって会場を出た。 会場のホテルの廊下を、さりげない足取りで歩き、 時には立ち止まってかけてある絵画を眺めた。 「これは、リャド、ですよね?」 そばにいた男に、にこやかに尋ねる。その男は眉をしかめた。 「いえ・・・私には・・・」 「僕はリャドの絵は好きです。近年価格が上がっていると聞きましたが ・・・是非一枚手に入れたいですよね」 男は困惑しているようだ。レイはにこやかに笑い、男のスーツの胸元に視線を走らせる。 「埃が」 襟元に手をかけると、男は慌てたようにレイの手を振り払った。 「失礼。絵画に興味はありませんでしたか。こんなところにお立ちになっているので、 てっきり絵を見ているものと思いました」 頭を下げ、レイはエレベーターホールに向かった。エレベーターが開くと、 後ろをちらりと見やり、男に微笑みかける。そして、そのまま地下まで降りていった。 地下駐車場をうろうろと歩き回り、一台のリンカーンの前で足を止める。 そして、窓をコンコンと叩いた。内側から金色の目が光る。 「ハイ。暇そうだね。50ドルでどう?」 窓が開き、その男はレイを睨んだ。 「10分で終わるよ。それ以上のサービスがお好みなら、追加料金で」 「帰れ」 「つれないね。試してみない?」 男は窓を閉めると、ドアを開けた。その中に、レイはさっと滑り込み、足元にうずくまる。 「会場前に二人。駐車場にも二人」 「前の通りには三人だ」 クラウスの足元で、その膝に肘をついてレイは口元を吊り上げた。 「もっと普通に話し掛けて来い。男娼のふりなどして、よくない噂が立ったらどうする」 「心配してくれるんだ」 「会長の愛人なのでな」 「恋人と呼んで」 ふうとクラウスはため息をついた。エドワードの気苦労を知った気がする。 それに、バドも気が休まらないわけだ。 「それで?」 「作戦変更。ペンダントのデザインが違う」 クラウスは驚いたようにレイを見下ろす。 レイは自分の携帯電話を出して、父親に報告した。 「内包物ね、色が違うんだ。あれはダイヤだよ。・・・・うん。 普通の人は気付かないかもしれないけど、マダムは宝石好きだから、きっとバレる。 ・・・・よかった、まだそっちで。時間稼ぎはしておくよ。よろしく」 電話を切って、またクラウスを見上げる。 「ペンダントをすり替えることはできない。だから、マダム拉致して液体だけ抜く」 「拉致?」 「父さんが上手いこと言って連れ出すよ。車に工具積んでくるから。 エドワード卿には予定通り旦那の確保をお願い。一時間くらい。 その間、僕が見張りを引き付けるよ」 堂々としたレイの発言態度に、クラウスは驚かされる。 そうやって飄々と麻薬バイヤーからブツをせしめてきたのか。 「だめだ」 一言言うと、レイが口を尖らせる。 「お前を危険な目に合わせると・・・・会長に叱られる」 それに、バドにも。 「見張りは私が引き受ける」 「手伝うよ」 「お前は会場にいろ」 「やだ」 「レイ!」 クラウスの膝に手をかけていたレイは、ぐいと身を乗り出した。 「あなたに任せたら、見張り、殺されちゃうかもしれないでしょう?」 さっとクラウスの血の気が引く。 「一緒にやる。あなたは僕を守る。僕はあなたに殺しはさせない」 呆然と目を見開くクラウスに、レイはにっこりと笑った。 「僕はエドゥアルトを愛している。彼はあなたを救いたい。だから、僕もあなたを救いたい」 レイは身体を伸ばして、クラウスの頬に、さっとキスをした。 「エドワード卿に連絡を。僕は会場で父さんを待ちます」 時計を見やり、車から出る。クラウスから離れる時、レイはその耳元で囁いた。 「キスマークは、見えるところにつけちゃダメだよ」 クラウスは顔に熱を感じた。レイはいたずらっぽく笑い、 手をひらひらさせて、会場に戻って行った。