寝室でレイの唇に触れたとき、エドワードはやはりためらいを感じた。
その表情があまりに幼く、自分の手で汚してしまってよいものなのかどうか
・・・理性が揺れる。
自分の中で、どこかその行為が穢れたものであると印象づいている。
誰かを愛した経験も、愛された経験もない。セックスの経験は何度もあるのに・・・・。

 緩やかなキスのあと、唇を離すと、レイは透明な表情をエドワードに向けた。
不安と怯えと、期待。

 エドワードは、自分を嘲笑する。愛し合う方法も、忘れてしまった。

「君が・・・・好きだ」

 囁いてシャツのボタンを外す。レイは力を抜いて、なされるがままに従った。

 愛している、と囁き、耳にキスをする。
そのまま唇を滑らせて、滑らかな首筋を這う。
エドワードの指がレイの素肌に触れるたび、レイは体をこわばらせた。

「怖いかい?」

 ベッドに仰向けに寝かせ、上からその瞳を覗き込むと、
レイはゆるゆると首を横に振った。

「心が・・・・溶けていくみたい」

 そして、クスリと笑う。

「あなたという液体に、溶けて同化していくみたい」

 面白い表現をする。

 エドワードはその胸に何度もキスをし、右手を下半身に滑らせた。

 

 

 

 

 クラウスは自宅マンションに帰ると、習慣のようにパソコンの電源を入れた。

 机の前に座り、起動するのにうなりをあげる、その機械の箱をぼんやりと眺める。

 頭の中は混乱していた。目はモニターを見つめていても、見ているのは過去の記憶だ。

 

 忘れていた、20年も昔の話。

(否、忘れたことなどなかった)

 レイは、あの男とそっくりなのに、なぜ気づかなかったのだろう。

(その事実を否定したかったのだ)

 なぜ今・・・・

(会えたのか)

 

 両手を突き出し、自分の手のひらを見つめる。

 

 なぜあの時、殺してしまわなかったのか。

 冷酷非常であることだけを、教え込まれていたのに。

 

 あの男は、・・・・覚えているのだろうか。

(覚えていてくれるのか)

 忘れているのなら、それでいい。

(本当に?)

 覚えていたら、殺さなければならないかもしれない。

(今度こそ)

 

 磨き抜かれた刃のような精神が、ガラス細工のようにひび割れる。

(思いがけない言葉に、己を驚かされたことはないか)

 エドワードの言葉が、重くのしかかる。

 

 だから、やめて俺んとこ来いよ。

 子供ひとりくらいなら、養ってやれる。

 

 クラウスはテーブルに拳を叩きつけた。

 

「・・・・・・・」

 パソコンのモニターがメールの受信を告げている。

 

 昔の話だ。考えるのはやめよう。

 素早くキーボードを叩いていき、次々と映し出される画面を読み取っていく。

「・・・これは・・・・」

 そうだ、感傷に浸っている暇などない。

 

 夢など、見ない。

 

 

 

 

 溶けていく・・・・。

 レイはそう言った。

 彼の中に身を沈めながら、エドワードはその言葉を実感していた。

 細く見えるレイの身体はしなやかで、華奢に見えるのに筋肉はついている。

「は・・・・あ・・・・」

 ぴくりと身を震えさせると、エドワードはきつく締め付けられた。

 乱れた黒髪が顔にかかる。
それをはらってやりながら、エドワードは潤む瞼に口づけた。

「痛い?」

 かみしめた唇が震える。

「やめるかい?」

 優しげな口調に、レイはうっすらと目を開けてエドワードを見上げた。

「無理強いは、したくない」

 レイは何度か唇を動かし、そしてやっと

「やめないで」

 とかすれた声を出した。

 その声が、エドワードの背筋を撫で上げる。必死で自制しているタガが、緩み始める。

「君を・・・・壊してしまいそうだ、レイ・・・・」

 動きを止めるエドワードの背中に、腕を回してレイは目を細めた。

「愛し合うのって・・・気持ちいい」

 誘われるままにエドワードはレイに深く口づけ、
彼の奥に、もっと奥に、身体と心を沈めていった。

 

 レイは、閉じた瞳が光に包まれるのを感じていた。

 光の中にいる。

(僕の中に、僕じゃないものがいる)

 身体が揺さぶられるたび、身体の中から光が溢れる。

 満たされる。

 何も考えられなくなり、もがくように両手を引き寄せると、
その腕の中にやわらかな存在を感じた。

 少しだけ目を開けると、そこに銀色の髪が揺れている。

「きれい・・・・」

 無意識に呟いた言葉に、エドワードはレイを見つめ返した。

「月の色・・・・月の色の髪、月の色の目・・・・」

 レイの唇を何度もついばみ、エドワードは囁いた。

「月は地球に恋をする」

 レイは、エドワードの背中に回した腕に力をこめた。

「・・・・・何かが・・・溢れてくる・・・・・流される・・・・・」

「そのまま、流れに従いなさい」

 深いところで突き上げられ、レイは何度も短い悲鳴をあげた。

「レイ・・・・」

 少年の中が、収縮する。
それに誘われるように、エドワードは彼の中に自分を開放した。

 

 レイ・・・・私の光。

 

 

 

 乱れたベッドの上で、疲れて眠る少年を腕に抱いたまま、
エドワードはその存在を肌で感じていた。

 愛しい、と思う。

 強く抱きしめたい衝動を押さえる。
今は、安らかに眠る彼を起こしたくはなかった。

 このまま時間が止まってしまえばいいのに。

 そっと髪を撫で、何度も優しく口づけをし、
エドワードは時間を忘れてレイを見つめ続けた。
何もかも忘れ、自分に課せられた業を打ち捨てて、この温もりに包まれていたい。

 

 

 

 ふわふわとした幸福感の中、エドワードはふと顔をあげた。

 それまでのぬくもりが、すっと冷めていく。

 レイを起こさないように気をつけながら、そっとベッドを抜け出し、
投げ出してあったスーツのポケットを探る。
と、携帯電話がバイブして着信を告げていた。

 今一度レイを見やり、部屋を出て受信ボタンを押す。

「会長、お休みでしたか?」

 クラウスの声に、エドワードは夢から現実に引き戻された。

「いいや」

「見つけました。マーリンです」

 一瞬、エドワードは血の気が引いていくのを感じた。
背中を、冷たい汗が流れる。

「資料を転送しますか?」

「10分で支度する。資料を持って来てくれ」      

    

   

 

 書斎で、エドワードはパソコンのキーボードを叩くクラウスに椅子を近付けて、
モニター画面に見入っていた。

「今まで、どこに?」

「アリゾナの薬品会社の研究施設です。
どうやら、極秘に調合の研究をしていたようです」

「本物なのか」

「・・・たぶん」

 更にいくつもの資料が映し出される。

「今サンプルを手にしていると思われるのは、この男」

 初老の男の顔が映し出される。

「ホセ・ウェルマン。南米の鉱山を所有している資産家です。
来月、ブラジルに帰る予定のようです」

 キーボードを叩くと、初老の男と一緒にいる年配の女の写真が出てくる。

「ホセの妻、ジェシカ・ウェルマン。彼女のこのペンダント」

 胸元をアップしていく。

「この中の液体がマーリンです」

「確かなのだろうな」

 クラウスは、ちらりとエドワードを見やった。

「ブラジルはマーリンの本拠地のあった場所。残党も多数残っています。
奴等の手に渡れば・・・・」

「魔女が息を吹き返す」

 エドワードは大きくため息をついた。

「たぶん、ご婦人は中身を知りません」

 緊張をほぐすようにエドワードは首を回し、こめかみに指を押し当てた。

 ホセという男は、きっとあの液体の持つ因縁を知らないだろう。
金になる麻薬、くらいにしか認識していないかもしれない。

 先代の時代なら、この夫婦を殺してもペンダントを奪うと判断しただろう。

 もしエドワードが命令すれば、
クラウスは今夜中にでもそれを実行すべく行動してくれる。
しかし、それはしたくなかった。もし許されるのであれば・・・・
あの時代のクラウスに戻したくはなかった。

 事を荒立てず、血を流さずにペンダントを奪う方法を考えなければ・・・。

「クラウス」

 こめかみに手を当てたまま、モニターから目を離さずにエドワードは口を開いた。

「・・・・・バド・ブラント氏を知っているのか?」

 クラウスの息遣いが、一瞬止まる。

 ビンゴ、か。

 いつもなら質問に即答するクラウスが、言葉に詰まる。

「なぜ私に言わなかった?」

 横目でクラウスを見やると、端整な顔立ちが苦しげに歪んで見えた。

「名前は・・・知りませんでした。レイの父親であるとは・・・・」

「クラウス?」

 いつも冷静なクラウスが、頭を横に振る。

「20年も前の話です。
マーリンの手先であった麻薬バイヤーを殺すよう命令され、
それを完了させて戻る途中でした」

 途切れ途切れの息が、記憶を遡る苦痛を表す。

「嵐の夜で、雨が気配を消してくれるのを待っていたのです。
その時・・・たまたま通りかかった男が私を見付け、
小動物を拾うように自分の車に乗せた。
故障した車では近くのモーテルに行くまでが精一杯でした」

 戸惑うように言葉が途切れる。

「・・・ついて行ったのか」

 何故、と問いたい気持ちを押し殺す。

「つけたテレビでニュースが流れ・・・彼は私が犯人であることに感づいた」

 エドワードは眉を寄せ、息を飲んだ。

「気付かれて・・・・殺さなかったのか」

 それは、命令違反のはずだ。

「殴って気絶させ、その場を去りました」

「殴っただけ?」

 反射的な問いに、クラウスはエドワードの目をじっと見、
冷たい光を・・・恍惚的とも言える光を、その瞳に映した。

「殴って・・・・犯しました」

 クラウスの瞳の光をじっと見つめたまま、
エドワードは唇が乾いていくのを感じた。

「・・・・・殺せなかった・・・・のだな」

 バドの、あの瞳を思い起こす。横暴で情熱的な蒼い瞳。
周囲を包み込んでしまうような、独特の雰囲気。

「パーティーでお前を見て、バドは気付いたな」

「なら、今からでも抹消します」

「できるのか?」

「過去を証言されては、やっかいです」

 その必要はない。否、危ない橋を渡ることになっても、それをさせてはいけない。
エドワードが否定の言葉を出そうとした時、突然クラウスは立ち上がると、
書斎のドアを勢いよく開けた。

「!」

 エドワードは驚きに目を見開き、己のうかつさを呪った。

 レイが、近くの部屋で寝ていることに、もっと配慮すべきだった。

 書斎のドアの前で、血の気を失せさせたレイが、呆然と立っていた。

「レイ・・・・」

 名を呼ぶ。レイは、エドワードとクラウスを交互に見て、表情を歪めた。

「・・・・何の・・・話を?」

「レイ、勘違いしないで欲しい」

「父さんを・・・・知っているんですか」

「・・・・・レイ、それは・・・・」

「殺すって・・・・?」

 エドワードはレイに走り寄り、卒倒しそうな少年を抱き留める。
クラウスは、氷のように冷たい視線で、レイを見下ろしていた。

「クラウス、キッチンに行って何か飲み物を作って来い」

 何も言わず、クラウスは出て行った。

「レイ、話を」

「話? 話って何? あなたは誰なんですか!」

 

 ああ・・・・

 エドワードは、心のどこかが崩れていくのを感じた。

 何も知られずに、

 偽りの時間を過ごせたら、どんなによかっただろう。

 

 身体をこわばらせるレイを、半ば強制的に書斎に運び入れて、椅子に座らせる。
自分はその正面に座り、指を組んで大きく息を吸い込んだ。

「私の本当の名は、エドゥアルト・ミュラー。
先代のキング財閥の会長、アルフレート・ミュラーの養子だ。
・・・・・君が他言しないと誓ってくれるなら、最初から話そう」

 怪訝そうな表情のまま、レイは頷いた。

「アルフレートの父親、ロルフ・ミュラーは、戦時下のドイツの科学者だった」

 エドワードは、その歴史を淡々と語り始めた。

 

 

 

 ロルフ・ミュラーとハインツ・ロシュマンは、研究仲間だった。
軍の指揮下で、新しい鎮痛剤の研究をしていた。
当時のドイツは、戦争に使えるものの研究には、湯水のように費用を与えてくれた。
鎮痛剤は麻薬と深い関係にある。二人は、ある麻薬の合成に成功した。
強い鎮痛作用を持つが、それまでのように脳を麻痺させることのないものだった。
思考がはっきりとしたまま、痛みを感じない。戦場では最も喜ばれる作用だ。
さらにその薬には特典がついた。薬を服用して一定の条件下に患者を置くと、
簡単にその患者を洗脳することができたのだ。
薬を与え、敵を刷り込み、戦場に送る。そうすれば、強い信念を持ち、
痛みも死も恐れない、最強の(最悪の)兵士が生まれる。
二人は、その麻薬に『マーリン』という呼称を付けた。

 ロルフ・ミュラーは、次第に己の研究に恐怖を感じるようになっていった。
そこで、相棒のハインツとアメリカへの亡命を計画した。
研究資料を持ち、それを提出することで、アメリカ政府に保護を要求したのだ。

 まもなく計画は実行された。

 しかし、事態は急変した。

 ハインツ・ロシュマンがロルフ・ミュラーを裏切ったのだ。
ハインツは研究資料をひとり持ったまま、消えた。
約束の資料を持ち込めなかったロルフは、戦争が終わるまで捕虜として扱われた。

 ロルフがハインツを見つけたのは、戦後数年経ってからであった。
ハインツはブラジルへと渡り、ナチの残党と手を組んでいた。
そこで己の持つ知識を活用し、麻薬密造組織『マーリン』を立ち上げ、
巨額の富を得ていた。

 ロルフは怒り狂った。『マーリン』に対抗しうるため、
事業を立ち上げ、己の息子、アルフレート・ミュラーを社長に置き、
財産を築きながら、己はハインツ暗殺のための私設軍隊を作り上げた。

 何十年もその抗争は続き、十数年前、
ロルフはハインツの暗殺と『マーリン』の工場すべての破壊に成功した。

 

 

 

「アルフレートは己に与えられた使命に忠実な男だった。
彼は、生涯金を稼ぐことに費やし、結婚さえしなかった。
そんな彼の後継ぎとして、孤児だった私が養子として引き取られ、育てられた。
クラウスは・・・・ロルフ・ミュラーの作り上げた、暗殺者だ。
マーリン壊滅作戦でロルフ自身も死亡。かろうじて生き残ったクラウスは、
私の護衛という新たな任務を与えられた。
作戦成功のあと、アルフレートは財産のすべてを私に譲り、
そして・・・・マーリンの残党に暗殺された」

 半世紀もの歴史も、口にしてしまえば簡単なものだ。

「私の役割は、キング財閥の財産を守り、マーリンの残党に目を光らすこと。
それが私のすべてだ」

 瞬きも忘れて、レイはエドワードを凝視している。

「クラウスは・・・昔、君のお父さん、バド・ブラント氏に拾われた。
あの頃のクラウスは、
最も厳しい環境の中でためらいなく人を殺すことだけを教えられていた。
顔を見られたら、女だろうと子供だろうと、殺すよう指示をされていたはずだ。
それなのに、ブラント氏だけは殺せなかった。
たぶん、彼だけがクラウスを人間として扱ったからだろう」

「父さんを・・・・殺す?」

 レイの問いに、エドワードは首を横に振った。

「その必要はない。
確かに、キング財閥は裏では犯罪集団となんら変わりはないし、
それが表に出るのは快くない。だが、私はブラント氏を信じる。
それに、私は君を守ると約束した。クラウスは私の命令で動く。
絶対に手出しはさせない」

 レイは一度目をぎゅっと閉じ、顔を背けて息を吐き出した。

「エドワード卿は・・・・・・人を、殺したことが?」

 一瞬、エドワードは躊躇した。レイの質問の意味を、噛み締める。

「私は・・・指導者で責任者だ。
すべての指示は私が出し・・・・・それを実行するのは、クラウスだ」

 音もなくレイは立ち上がり、視線を床に落としたまま書斎のドアまで走っていった。

「・・・・・レイ」

 ドアに手をつき、レイは立ち止まる。

「すまなかった」

 うめくような苦しげなエドワードの謝罪に、
レイは顔を上げることもなく、出て行った。

 

 レイが屋敷から走り出ていったのを確認した後、クラウスは書斎に戻ってきた。

「よろしいのですか、引き止めなくて」

 椅子の上で脱力していたエドワードは、両手に顔を埋めた。
呼吸をすることさえ、嫌になる。

「私に、どうしろと?」

 数秒の間を置き、クラウスは持ってきたコーヒーをエドワードの前に置いた。

「お前の言うとおり、私が浅はかで愚かだったのだよ。
アルフレート卿に拾われた時点ですでに、私は人としての生き方を否定されていたのだ。
今更・・・・何を求めても無駄だ」

 両手から顔を上げ、疲れた表情をクラウスに向ける。

「バド・ブラントには手を出すな。私が話をつける」

 クラウスは、わずかに頭を下げた。

 エドワードは知らない。
バドという男が、クラウスにとってどれだけ重要な存在であるか。

 そう、今エドワードが自分の置かれている立場に絶望しているように、
20年前、クラウスはそのどうしようもない感情に翻弄されたのだ。
暴力さえも受け入れてしまう、あのバドという男に。

 

 

 

 レイは大きな通りまでとぼとぼと歩いていき、タクシーを拾って家に帰った。

 家に入ると、明かりの消された真っ暗なリビングで、父は古いビデオを見ていた。
片手にビールのビンを持ち、ぼんやりと昔の映画を眺めている。

「・・・・・父さん」

 声をかけると、バドは振り向かずに息子を手招いて隣に座らせた。

「こんな夜中に、どうした? 喧嘩でもしたのか?」

 ビール瓶を置き、優しげに息子の肩に手を回す。レイは父の肩に頭を乗せた。

「父さん、何してるの?」

 テレビの中では、古い西部劇が演じられている。

「時々な、俺は自分を省みることにしている。
昔の西部劇を見てると、自分がなんて愚かな存在かを思い知らされる」

 わずかに顔を上げて、レイは父を見上げた。
息子を見下ろし、バドが苦しげな笑みを口元に作る。

「俺は、シンシアを何も理解していなかった。
シンシアがどこで生まれ、どこで育ち、どんな信念を持ち・・・・
どう扱われてきたのか。
爽快な西部劇を、彼女らはどんな気持ちで見ていたのだろうな。
俺がもっとシンシアを理解するよう努力していたら、
彼女をひとりで死なせはしなかった。なのに・・・すべては後の祭りだ」

 レイはまた、バドの肩に寄りかかった。

「母さんはインディアンだった。民族に誇りを持ってた。
・・・・父さん、それを知ってたら、父さんは母さんを愛さなかった?」

 テレビの中で、凶悪なインディアンが叫びをあげて善良な白人を襲っている。

「肌の色や宗教の違いを、俺は気にしない。だが、気にかけてやるべきだった。
シンシアが、俺にふさわしくないなんて・・・そんなことを思っているなんて、
これっぽっちも思わなかった。知ってたら、俺は絶対にシンシアを離さなかったよ」

 肩の上のレイの髪に頬を寄せ、バドがレイの髪を撫でる。

「何があった?」

 レイは戸惑った。さっき聞いた話を、全部父に話してしまおうか・・・。
これは、バドにも関係する話なのだ。これはバドも知っておくべきだ。
そして問いたい。クラウスと再会して、どう思っているのか。

「父さん・・・・」

「ん?」

「クラウスさんのこと・・・・覚えてる?」

 聞きなれない名前に、一寸バドは首をかしげ、それからやっと思い出したように

「ああ」 

 と呟いた。

「覚えてるさ。昔、嵐の夜に拾ったんだ。ずぶ濡れの野良猫を」

 レイの身体が、緊張に硬くなる。

「餌でもやって逃がしてやろうと思ったら、噛み付かれた」

 身体を緊張させたまま、レイが視線だけ父を見やる。

「・・・・・それで?」

「それだけだ」

「それだけ?」

 父の手をぎゅっと握り、レイがバドの顔を覗き込む。

「父さん・・・・あの人が、どういう人か知ってた?」

「知らねえな。関係ないし。傷ついて怯えて威嚇してる猫にしか、見えない」

「嘘だよ! あの人が人殺しだって、知ってたんでしょう? 
どうして? 怖くないの?」

 興奮するレイをじっと見つめて、バドはふと笑って息子の髪を撫でた。

「教えられたのか? それで、怖くなって逃げ帰ってきた?」

 レイは唇を閉じ、視線を落とした。

「あれは、狂人でも変質者でもない。・・・きっと、何か理由があるんだろう」

 優しく撫でられ、レイは深呼吸をしてまたバドの肩にもたれた。

「あれの飼い主が、エドワードなんだな? 立派に成長してて安心したよ。
きっと、飼い主がいいんだな」

 父の腕の中で、目を閉じる。

「何が、不安なんだ?」

 タバコの臭いの染み付いた、バドのシャツに額を押し付ける。

「生きる・・・世界が違う」

「それがどうした。
だいたい、得体の知れない金持ちについて行ったのは、お前だろう? 
今更何だっていうんだ」

「ただの資産家じゃない」 

 ふと、バドがため息をつく。
肩が上下して、レイは離れないように余計に顔を押し付けた。

「じゃあお前は、あの男の資産に惹かれたのか? 
地位や財産に惚れたのか?」

 顔を押し付けたまま、頭を横に振る。

「なあレイ、俺はお前を愛しているよ。
お前が俺の知らない国で生まれ育って、俺の知らない言葉を話して、
俺の知らない文化を敬愛していても。お前が髪を長く伸ばしていても、
日曜に絶対に教会に行かないと知っていても。
いつかお前が『サンダンス』なんて野蛮な儀式を受けるかもしれないとわかっていても。
お前のばあさんが迷信的なメディスンウーマンなんて呼ばれてて、
お前がばあさんを信じて愛していると知っていても。
・・・俺はお前を愛しているし、お前が俺の息子であることにはかわりはない。
俺は一応クリスチャンだし、ネイティブにはまったく興味はないが、
そんな俺をシンシアは愛してくれた。お前は俺を愛せないか?」

 レイは、また強く首を振る。

「環境で誰かを愛するんじゃないだろう? 
その人間の本質が好きなら、
相手の置かれている状況や立場で嗜好を判断すべきじゃない。
容認するか、克服するか、変えていくか。
それは強くなきゃできることじゃないが、俺はお前に逃げて欲しくない。
もちろん、あの男が嫌いになったって言うんなら、いつでも帰って来い。
俺はいつでも大歓迎だ。・・・・でもな、レイ、そうじゃないんだろう?」

 こくり、と今度は首を縦に振る。バドはふと笑って、レイの額にキスをした。

「今夜はもう寝て、ゆっくり休め。
気分が落ち着けば、自分がどうしたいのか、どうすべきなのか、見えてくる」

 父にしがみつきながら、レイは呟いた。

「でも僕・・・逃げてきちゃった・・・」

「大丈夫。相手は大人だ」

 やっと顔を上げたレイの瞳は、潤んでいた。

「息子を泣かすなって、俺が蹴り飛ばしてやる」

 にやりと笑うバドに、レイも歪んだ笑みを作った。

「あの人・・・強いよ」

「親の愛は無敵なのさ!」

 声を出して笑い、バドはレイの頭を自分の膝の上に乗せた。

「寝ろよ。昔は仕事してる俺の膝の上で、よく居眠りしてただろう」

 こくり、と頷いて、レイは父の膝の上で目を閉じた。

 

 映画はスタッフロールが終わり、ブラックアウトしていた。

 バドはレイを膝に乗せたまま、いつまでも何も映らないテレビ画面を見つめていた。

 覚えている・・・・あの少年の、金色の瞳。
殴られた痛みも・・・・俺を犯しながら、あいつは泣きそうな顔をしていた。

 それが息子にもかかわってくることならば、ちゃんと話をするべきだろう。

 

 レイが完全に寝てしまったのを確認してから、バドは息子をベッドに運んで寝かした。

 それからしばらく物思いにふけり、完全に夜が明けた頃、
バドは以前エドワードに貰った名刺を出してきた。彼の私用の携帯番号が記されている。

 こんな早朝だというのに、エドワードはすぐに電話に出た。

「話がある。・・・・そう、息子のことだ。・・・いや、心配はない。
今は落ち着いてぐっすり眠っているからな。
・・・・・いや、あんたのテリトリーには入りたくない。
こっちでレストランを予約しておくから、12時半に来てくれ。住所は・・・・・」

 

 

 

 指示された住所をメモに取り、エドワードは携帯を切った。
エドワードも、一晩中起きていた。クラウスと仕事の打ち合わせをしていたのだ。
こんな時は、とにかく自分のすべきことに集中していたかった。

「クラウス、本日の12時以降の予定はすべてキャンセルしてくれ」

「すべて、ですか」

「すべてだ」

 携帯電話をメモの上に置き、秘書という役職の男を見る。

「バド・ブラントと会う。お前は車の中で待機していろ」

 バドと会う・・・。

 

 会いたい・・・。

 

 クラウスは頭を下げ、了承の返事をした。