竜之介が目を覚ますと、もう誠司はいなかった。 平日は学校のある誠司は、朝が早い。それは、いつものことだ。 眠たげに頭を振乱して、昨夜のことを反省する。 ああ、なんてこった。男に欲情するなんて。しかも、理性が利かないなんて・・・。 のっそりと起き上がると、いつものように朝食の支度がしてある。ありがたいものだ。 自分の失態を反省しながらも、抵抗しなかった誠司の真意を憶測する。 「息子は、いらないなあ」 ひとりごちて苦笑し、竜之介は顔を洗いに洗面所に向った。 昼休み。 誠司は静かな図書室で、興味のない本を広げたまま思いに耽っていた。 初めての経験は、神経を高ぶらせ、脳を麻痺させる。 思い出すと、また体が熱くなる。 あんなに興奮したのは、生れてはじめて。 初めてモデルとして写真が雑誌に載った時でも、あれほどの喜びは感じなかった。 あそこに いたいと思う。 強引で乱暴なくせに、臆病な竜之介は、思い出すと笑える。 へたくそなキスをしてくれる竜之介の唇は、温かい。 あそこにいたい。 竜之介のそばに、いたい。 でも・・・・・・・。 本を書架に戻し、図書室を出る。 校庭に出てから、誠司は携帯を開いた。 「・・・・・・中瀬社長、先日の話、お受けします」 竜さん、 オレ、あんたのこと、好きだ。 あんたには、いつまでも夢を追い続けて欲しい。 いつか、キレイな空が撮れますように・・・・・・。 デスクに突っ伏してだらけている竜之介の前に、部長は数冊のファイルを置いた。 「暇そうだねえ」 「いいえ、忙しいっす」 「うんうん、暇ならね、芸能グラフの編集、手伝ってきて」 「はあぁ?」 分厚いファイルには、写真のネガがぎっしり詰っている。 「PCで写真の校正、できるよね?」 「そりゃあ、できますが・・・・」 「では、行ってらっしゃい」 ああ、なんて人使いの荒い。 「かんたんだよ、この古いネガを取り込んで、ちょっとばかり色校正するだけだから」 この大量のネガを? 「あー・・・俺、何でも屋に転向しようかな」 「いいねえ、今の時代、一番重宝されるよ」 ファイルを両手で抱え、竜之介は肩を落す。 ああ、昔見た夢から、どんどんかけ離れていく・・・。 しかし、夢では食べていけないのだから、仕方ない。 「ああ、こりゃ今夜は徹夜だな」 そのとおり、竜之介は徹夜して、マンションに戻ったのは翌朝だった。 しかし、夜勤扱いではない。着替えてまた会社に行かなければならない。 寝不足でくらくらする頭で部屋に入ると、なんとなく違和感を感じた。 「?」 いつもと・・・違う? この時間、誠司はもう学校に行っているはずだ。 「おかえりなさい。徹夜だったんですか?」 居間からの声に、竜之介は目を瞬いた。 ひと月前のように、居間の隅に段ボール箱が積み上げられている。 「・・・・・せ・・・」 「オレ、就職決ったんです。芸能プロダクションからオファーが来てて。 本気でやる気があるなら、寮もあるからって。だから、お世話になりました」 ぺこりと頭を下げる誠司を、呆然と見つめる。 「本気・・・って・・・学校は?」 「やめます。退学届には親の承諾が必要だから、しばらく欠席にしておいて、 しーちゃん正月にでも帰ってきたら、書類書いてもらおうと思って」 「児童劇団は?」 「やめます」 にこやかに言う誠司の表情は、・・・・・カメラの前の、あの表情だ。 「待てよ、誠司! そんなに早急に決めなくても・・・・ とりあえず高校ぐらい行っておいた方がいいし・・・・」 「親でもないのに、オレのやることに口を出さないで下さい」 きっぱりと言われて、竜之介は愕然とした。 「・・・・誠司・・・・」 口元では笑んでいるのに、目は冷たい。 「じゃあカメラマンとして言わせて貰うが、お前、今のままじゃガキ相手のモデルがせいぜいだ。 それで食っていくには、よっぽどいいスポンサーでも捕まえないと・・・・」 「大手企業の広報部長さんが、オレの事、気に入ってくれているんです。 ナカセ・プロに移籍したら、五年契約で専属にしてくれるんです」 そんなうまい話・・・・そうそう転がっているわけない。 「・・・そんな甘いこと・・・」 「前から誘われているんです。今夜、ホテルで会う」 は? 竜之介は、ギリっと歯を噛んだ。わかっているのか、本当に? 「馬鹿が! 身体売って、なにしようって言うんだ?!」 「あんただって! オレの事抱いたじゃないか!」 「・・・・・・・・」 竜之介は言葉につまり、拳を握った。 「オレはひとりで生きていくんだ。放っておいてくれ」 いつかのスポーツバックを担ぎ、誠司はマンションを出て行った。 ふり向きもせず。 ドアが閉ると、竜之介は思いっきりソファを蹴飛ばした。 会社に戻った竜之介は、腕を組んでずっと歯軋りをしていた。 「おやおや、今日は機嫌が悪いね、巽クン?」 市原が背後でにやけている。 「市原、ナカセ・プロってどんな所だ?」 「知らない?」 「俺は人間専門じゃない」 市原が肩をすくめる。 「まともなプロダクションだよ。 業界の影響力も強いし、何よりタレントをあっという間にのし上げる力がある。 だから、あそこに入りたがるタレント志望は後をたたない。 なに、巽クン、タレント志望に転向? それとも、あそこの依頼受けた? うらやましい」 「うらやましい?」 市原は、竜之介の隣の椅子を引き寄せて座った。 「タレント売るためなら、手段を選ばないよ、あそこの社長は。 ごり押しすれば、カメラマンだってモデルを抱ける」 「・・・・・犯罪だろう?」 「それがちがうんだな。タレントは了承してるんだよ。 自分を売るためにはなんでもするって。嫌ならやめればいい。それだけだ。 テレビに出たい子は、五万といるからね」 竜之介は、睨むほど市原を見つめた後、すっくと立ちあがった。 「巽、どこに行く?」 「早退」 ジャケットとかばんを肩にさげる。 「巽! もしお前が気にしているのが、いつかの少年だったら、放っておけ! ここはそういう世界なんだ」 大きく溜息をつき、竜之介は振り返った。 「あの子な、俺の昔の女の息子なんだよ。俺の子だ」 「ええーー?! お前、そんな甲斐性あったんだ!」 驚くところが違うだろう。 がっくりと肩の力が抜ける。 「だから、早退。部長によろしく」 目を白黒させていた市原は、腕を組んで天井を見上げた。 「・・・・ばかが。また女に騙されて」 児童劇団に出向くと、あの団長は快く迎え入れてくれた。 「誠司ね、午前中退団届を出しに来ましたよ。 もっとも、親権者のサインが必要ですから、保留してありますが」 竜之介は無意識に、テーブルを叩いた。 団長は驚きもしない。 「静さんは、酷い母親なんかじゃない。ここにあの子を連れてきた時ね、私に言ったんです。 自分ひとりでは、ちゃんと躾けられないから。 それに、自分は働いているから、この子をひとりにしたらかわいそう。 私は託児所に預けることを勧めたんですがね、同じ預けるなら、 何かを身につけさせてあげた方がいい。いずれ、この子はひとりで生きていくのだから。 そう言っていましたよ」 高ぶる神経を深呼吸で整える。 「きっとあの子は、頭が良すぎたんでしょう。大人の顔色をうかがって、先読みしてしまう。 あの子は、あなたに迷惑をかけたくなかったんでしょうね」 「じゃあなんで、俺の家に来た?」 「きっと」 団長の年老いた顔が、やさしげに笑んだ。 「静さんは、あなたを信頼したんでしょう」 まったく・・・・! 本人の意思に関係なく、みんなで勝手に思い込みやがって! 「大丈夫ですよ、巽さん。誠司君はしっかりした子です」 「あいつが大丈夫でも、俺が大丈夫じゃないっての」 独り言のように、竜之介は吐き捨てた。 「その退団届、保留しておいてください。ちょっと首輪つけてきますから」 肩を怒らせて出て行く竜之介を、人生の先輩は微笑ましく見送った。 落着け、もっと冷静に判断しろ。これは、重要なことなんだぞ? 頭の隅でそんなことを思いながらも、竜之介は走り回った。 自分らしくない。非常に、自分らしくない。 のらりくらりと暮している自分は、こんなことをする性分じゃない。 それでも、今手放してしまったら・・・・一生後悔する。 やっと、撮りたいものを見つけたんだ。 夕方。 プロダクションの応接室で、契約の最終確認が行われていた。 「社長」 女性秘書が、困り顔で入ってくる。 「水無月さんの保護者の方がいらっしゃいましたが」 中瀬は誠司の顔を見る。誠司は頭を振った。静は、日本にはいないはずだ。 「お通ししなさい」 静かに指示すると、ドアから息を切らせた男が入ってきた。 「どちら様ですか?」 誠司が母子家庭で、母親は今不在であることは、中瀬は重々承知していた。 「誠司の親権者です」 よほど走り回っていたのだろう、竜之介はまだ肩で息をしていた。 「・・・・・・竜・・・さん?」 誠司は驚いた表情で竜之介を見ている。 じろり、と誠司を睨むと、竜之介は使い古した汚れた革かばんから折りたたんだ紙切れを出し、 それを広げて中瀬の前に置いた。 養子縁組を済ませた、戸籍の写しだ。 中瀬はそれを確認して、誠司に手渡す。誠司はそれを驚いたように見つめ、言葉を失った。 「未成年者の就労には、親権者の承諾が必要ですよね?」 「そうです」 「では、誠司の親権者として、就労を認めません」 竜之介の言葉に、誠司は戸籍をぐしゃりと握りつぶした。 「勝手なことを言うな!」 「うるせえ! 親の言うことを聞け!」 思いがけない怒鳴り声に、誠司は口を開けたまま、動きを止める。 やり取りを静観していた中瀬は、こほん、とひとつ咳払いをした。 「親子喧嘩は、どうかよそでやって頂きたい」 ぴくっと竜之介は口元を引きつらせ、すみません、と頭を下げた。 「誠司君、私はキミの意見を尊重したい。 そちらの方がもしキミの承諾なしに戸籍を移動したのだとしたら、私はキミをかばってあげよう。 しかし、もしキミがその方を親権者と認めた上で反抗しているのだとしたら、 常識的に私は強制することができない。わかるね」 誠司は中瀬に目をやり、竜之介を見る。 中瀬社長は、大人だ。それに比べて、竜之介は短絡的で感情的。 大手のプロダクションからじかに声がかかるなんて、もうこんなチャンス、二度とないだろう。 飛びこめば、絶対成功する。 成功させてみせる。 もし断れば・・・・・ 多少頭が冷えたのか、竜之介は深呼吸をした。 「誠司、お前の本当にやりたいことをやれ」 竜之介の言葉に、息を飲む。 やりたいこと。 自分が、本当にやりたいこと・・・・。 誠司は立ちあがると、中瀬に深々と頭を下げた。 「もうしわけありません」 がくがくと足が震えて、顔を上げられない。 中瀬の、落胆した溜息が聞える。 もうだめだ。 十年以上、劇団であらゆるレッスンを受けてきたのは、 この日のためだったのに。 「あきらめよう。もしこの先キミの気が変ったら、ウチのオーディションを受けるといい。 ただしその時は、もう特別待遇はないがね」 「はい」 誠司は、やっと顔を上げた。 「ありがとうございます」 その誠司の表情を見て、中瀬は唇をつり上げた。 涙を潤ませて、誠司は笑っていた。 「今、カメラテストがあったら、キミは合格しているだろうね。 意識的にその表情が作れるとしたら」 「?」 何のことかと首をかしげ、誠司は竜之介を見る。 竜之介は一瞬怯んで、慌てて自分のシャツの袖を誠司の顔にこすりつけた。 「汚ねぇ顔!」 「なんだと! 竜さんの服の方がよっぽど汚いじゃないか!」 笑いながら叫んで、竜之介の腕を払いのける。 こほん、と中瀬はまた咳払いをした。 「私は忙しいのだが?」 「あ、すみませんでした!」 条件反射的に、ふたりがびしっと頭を下げる。竜之介は、謝りなれていた。 竜之介に背中をどつかれて誠司は社長室を出た。 残った竜之介は、大人の表情を作り、中瀬社長に丁寧に謝った。 「申遅れましたが、私はこういう者です」 名刺を出して、手渡す。 「・・・カメラマン、ですか」 「撮影の技術スタッフです」 まだまだ、カメラマンと呼ばれるのはおこがましい。 「巽さん、貴方の前では、誠司君はいい表情をする」 「一応、親ですから」 新米の。と、竜之介は付け加えた。 「二年後が楽しみだ」 瞳を光らせる中瀬に、もう一度、竜之介は頭を下げた。 黄昏時。濃紺に染まった空が美しい。 竜之介の車の助手席で、誠司はすねた態度をとっていた。 「オレ、いまさら親なんていらない。それに、竜さん血縁じゃないし」 「んなことはわかってる」 前方を凝視したまま、竜之介もぶっきらぼうに言う。 「俺だって、子供なんかいらない」 いらない、とはっきり言われて、誠司は竜之介を睨んだ。 そんな誠司を、竜之介は横目で見る。 「子供なんか、いらねえよ。俺は、誠司が欲しかったんだ」 「・・・・・・」 突然の告白に、誠司は眉を寄せる。 「お前の向うに、空が見える。無性に、写真が撮りたいと思った。俺には、お前が必要なんだ」 そういう大切なこと、なんでもっと早く言わないんだ? 「それで、法的にオレを拘束した?」 「ああでもしなきゃ、逃げちまうだろう」 ばかだ。この人。誠司は苦笑した。おおばかだ。 「オレとヤりたいだけかと思った」 「なにおう?!」 左手を伸ばした竜之介が、誠司の栗色の髪を引張る。 「・・・・痛いよ! 毛が抜けるだろう!」 逆に竜之介の腕を引張る。 「うわ、危ない!」 ハンドルをよろつかせ、竜之介は赤信号で停まった。 「お前、性格違うぞ!」 「ネコかぶってたんだよー!」 べっと舌を出す。竜之介は、運転席から身体を乗りだして、そんな誠司にキスをした。 背後から鳴らされるクラクション。 慌てて竜之介は車を発進させた。 「児童劇団の団長さん、あとで謝りに行けよ」 ぼそり、と竜之介が言うと、誠司は「うん」と素直に頷いた。 「帰ろう、誠司」 さりげない竜之介の言葉に、誠司は唇を結んで頷いた。 帰ろう