「おじさん」 耳元で囁くような静かな声に、竜之介はうっすらと瞼を上げた。 「おじさん、オレ、学校に行きますから。 学校のあと塾とバイトがあるから、夕飯は友達と取ってきます。 おじさんが都合のいい時間に連絡ください。そしたら、オレ、寝に戻って来ます。 都合悪かったら、そう言ってください。だれか友達んとこにでも行くし。 一応朝飯作ってあります。 それから、洗濯も溜まってたみたいだから、洗って干しておきました 。オレの携帯とメルアド、紙に書いてテーブル置いてあります。んじゃ」 用件だけ言って、またそーっと出て行く。 にわかにそれが現実に思えず、竜之介はまた目を閉じた。 どちらにしろ、出勤時間にはまだ早い。 しばらくして目ざましが鳴って、やっと竜之介は起き出した。 居間に行くと、なるほどまっとうな朝飯と呼べるものがテーブルに並んで新聞をかけてある。 その隅に数字とローマ字の羅列された紙が置かれている。 ふと窓辺に目をやると、洗濯物が干してある。 なんとも異様な感覚。 夜中に小人さんでも現れたのか? 寝ぼけ眼で、竜之介は朝食をいただいた。 「いつにもまして、ボケてやがる」 会社について自分のデスクの前に座ると、上司の嫌味な笑いが飛んできた。 「おはようございますぅ」 「はいはい、おはよう。巽クン、本日の予定は?」 「午前中旅雑誌の方の撮影行ってきます。あー・・・横浜の美味いものと土産品ですね」 巽は出版社の撮影を仕事にしている。もともと、カメラマンに憧れていた。 好きなものを撮って、それを仕事にする。しかし、現実はそう甘くない。 上司の命令なら、ラーメンでも遊園地のキャラクターショーでも撮影しに行く。 「芸能の市原がイタリアに行ってるんだ。 代りに午後、ローティーン雑誌のモデル、撮ってきてくれ」 寝ぼけた表情で、上司に嫌な顔を向ける。 「ケバい子供の機嫌取りは、苦手なんすけど」 「巽――」 上司は指を組んで、うんざりしたようにそこに顎を乗せた。 「去年、モンゴル行って箸にも棒にもかからないような風景写真山ほど撮ってきたのは誰だ? しかも、仕事扱いで一銭にもなりゃしない。 そのぶん文句言わずに言われたものを撮るってのが、道理じゃないのかね? それとも、フリーになって路頭に迷いたいかね?」 「喜んで行かせて頂きます」 竜之介はデスクに頭をこすりつけた。 現実は、甘くはない。 「お前さんの写真には、何かが足りないんだよ。 オリジナルで勝負したかったら、ひとを感動させるような写真を撮ってみろ」 「仰せのとおりです」 技術だけの写真屋。今の竜之介は、ただのサラリーマンだ。 「では部長殿、読者がよだれをたらすようなラーメンを撮りに行ってまいります」 よろよろと立ち上がり、カメラバックを持って竜之介は取材に向った。 憧れのカメラの仕事なのに、はたして自分は楽しんでいるのだろうか? カメラのセッティングをしながら、小さく溜息をつく。 十代半ばの少女たちは、実に元気だ。 「はい、もうちょっと笑いを押えて、自然にね」 彼女たちは、元気で、真剣。本気でタレントになりたがっている。 素直で従順なだけに、竜之介にはついていけないものを感じる。年をとった証拠だ。 「はい、次、せいちゃん入ります」 雑誌のスタッフが、奥に声をかける。 (せいちゃん?) フイルムを入れかえる竜之介の手が、ふと止る。 「遅くなりましたー! すみませーん!」 少女たちに負けないくらい元気な声がして、ひとりの少年が駆込んできた。 「じゃ、ミキチャンのカレシ的な感じでね」 「はーい」 流行の衣装を着た少年が、スタッフに頭を下げて回り、 カメラマンの前でも深々とお辞儀をする。 「よろしくおねがいしまーす!」 そして、顔を上げた瞬間 「・・・・・・」 あ、と声をあげた。 「おじさん、カメラマンだったの?」 「お前、モデルだったのか?」 ふたりは同時に叫んだ。 その場に居合せたスタッフも、おや、と顔を見合わせる。 「誠ちゃん、知り合い?」 馴染らしい雑誌の編集スタッフに、誠司は笑顔を作って見せた。 「母の知り合いです」 「そうなんだー」 子供相手のスタッフは、扱いも慣れているらしい。 「時間も押しているんで、撮影お願いします」 何か言った方がいいのかとおろおろする竜之介は、慌ててファインダーを覗いた。 女の子と並んでポーズをとる誠司は・・・・・どこか異質に見える。 肉眼で姿を確認し、またファインダーを見る。 「・・・・・」 なんだろう、何か、違う。 「キミ・・・・えっと、誠司くん、笑って」 「ハイ」 誠司はにっこりと笑うが、竜之介はそこに違和感を感じていた。 人間の撮影は専門ではないが、経験がないわけでもない。 モデルと呼ばれる人間は、多数見ている。 たしかに誠司は、きれいな子だ。 でも・・・・・なんていうか、存在感が、ない。 いいように表現するなら、透明な、とか、ガラスのような、とか言うのだろう。 それはそれで特徴的でいいのかもしれない。 こういうきゃぴきゃぴした雰囲気の写真より、 専門的なファッションモデルの方が合ってるかもしれない。 笑っているのに、冷たい感じがする。 本当に、そこに存在しているのだろうか。 無意識に、この子は自分の存在を消していないだろうか。 何枚かおざなりに撮って、撮影は終了した。 いつものように機材を片付けてから、はっと顔を上げて竜之介は誠司を探した。 モデルたちは、もうそこにいなかった。 「どうです?」 編集の女性が竜之介に微笑みかけてくる。 「現像して、今日中にそっちに回します。・・・問題は、ないでしょう」 たぶん。 「誠ちゃんね、読者アイドルなんですよ。 カッコいい男の子を並べて、どの子がいいかアンケートをとるんです。 誠ちゃんはいつも上位に入るんですよ」 女の子の世界というのも、怖いものだ。 男どもがグラビア アイドルをピンナップするのと、変わりない。 「キレイな子ですからね」 つきあい程度の返事をして、竜之介はカメラバックを閉じた。 「では、またあとで」 自分で写真を現像し、編集部に持っていく前にチェックを入れる。 これでもこの道短くはない。上司いわく、箸にも棒にもかからない、無難な写真だ。 女の子と並んで笑う少年は・・・・・ 昨日、俺の部屋に転がりこんできた。 母親に置いて行かれて。 いや、もうそんな年齢でもないか。 人気モデルなら、なるほど自分の生活費くらい稼ぎ出しているだろう。 想像するほど「かわいそうな子供」ではないらしい。 写真をまとめ、竜之介は雑誌の編集部に向った。 こういう仕事の常で、マンションに戻った時には十二時近かった。 部屋に入って明りを点け、居間の隅に積み上げられたダンボール(誠司の荷物)を見たとき、 そういえばもうひとりこの家の住人がいたことを思い出した。 しまった、忘れてた! 手帳をひっくり返して、あのメモを探り当てる。 携帯に電話すると、誠司はあっけらかんとしていた。 (行ってもいいんですか?) なんて聞いてくるものだから、竜之介の方が恐縮してしまった。 こういうことに、慣れているのだろうか。 しばらくすると、誠司は飄々とやって来た。 「あー・・・すまなかった。遅くなって」 「ぜんぜーん、大丈夫です!」 カメラの前で見せるような、ニコニコとした表情。 まるで家出人のような大きなスポーツバックを肩にかけている。 そこからペットボトルを出して水を飲んでいるところを見ると、 生活用品一式が入っているらしい。 「飲物なら、冷蔵庫使えよ。あ、今はビールしか入ってないが」 「ありがとうございまーす」 昨日よりテンションが高いらしい。 「・・・・まあ、座れ」 言われるままに、誠司はぺたんと座った。 「お前、モデル、だったんだ? てっきり高校生かと・・・」 「高校も行ってます。児童劇団に在籍しているんで、 放課後レッスン受けて、できそうな仕事のオーディション受けて」 「じゃあ、俳優志望?」 「決めてません。モデルは手っ取り早いし需要も多いんで。 あの雑誌では、けっこう使ってもらってるんです」 ニコニコしているが、あまり自慢ではないらしい。 普通、雑誌に載ったらもっと得意げになる筈だ。本当に、バイト感覚なのかもしれない。 「・・・それから・・・あー・・・朝飯、ありがとう。美味かった」 誠司の、表情が変る。 嬉しそうだ。 「よく、しーちゃんの、作ってたから」 「静は、料理とかしないんだ?」 「そんなことないけど、夜の仕事してたから」 モデルの話より、こっちの話題の方が食いつきがいい。それに、表情も明るい。 「だいたい家事はオレ、やってたんです」 そうか、女手ひとつ、というのは、大変なんだな。ましてや若くて、手に職もない。 想像する以上に、静はがんばっていたのかもしれない。 「・・・そっか」 じゃあ、もし本当に自分が父親だったら・・・かなり無責任な人間になるわけだ。 「おじさん、責任感じなくていいですよ。おじさん、父親じゃないから」 しんみりしていた竜之介は、は?と眉根を寄せた。 「だって、昨日・・・・・」 「ああでも言わないと、追い返されていたでしょう? さすがのオレも、突然路上生活はできないし」 ・・・・・・・騙された? 「ごめんなさい」 笑っているのに悲しげに見える表情を見ていて、竜之介は肩を落した。 「ンなこと言って・・・・じゃあ今から出行けと言ったら、どうする?」 「どうしよう。繁華街でも行けば、買ってくれる人、いるかも」 そうか、己の面がいいことだけは、自覚してるんだな? 竜之介は、無言で仕事部屋に行き、すぐ戻ってくると、一つの鍵をテーブルに置いた。 「この部屋の合鍵。ひとつしかないから、無くすなよ。無くすと大家に叱られる」 鍵をじっと見て、仁王立ちする竜之介を、誠司は驚いたように見上げた。 「一応、昔の女から預ってる子供だし、何かあったら寝覚めが悪い。 仕事部屋だけは立入り禁止。あとは勝手にしていい」 誠司は鍵と竜之介を見比べている。困惑しているのか。 「あとなあ、おじさんと呼ぶのはやめてくれないか。俺はまだ独身なんだし」 「・・・・・・竜ちゃん?」 「ちゃんはやめろ! ちゃんは! 静じゃないんだから!」 「・・・・さん?」 「んー、まあ、それでいい。鍵、ちゃんとしまっとけ」 そっと鍵を握り締めた誠司は、口元をほころばせる。 「・・・・・・・」 その表情に、竜之介は何かを感じた。