真っ白い砂浜と同じ色の、純白の月。
 波にさらわれる砂粒と同じ色の、きらきらの星。
 海と同じ色の、澄んだ夜空。
 ちゃぷん、
 ちゃぷん、と水の音がする。
 海のゆりかご。
 体の重さを感じさせない、心地よい寝床。

 ペロペロの背に体を預け、ゆったりと波間に漂う。
 目を閉じ、波の音を聞く。
 昔
 遠い昔、
 母さんの腕の中で眠ってた時のように。
 あれは、
 母さんの胸の音だった。
 それと
 一緒に寝ていた、ライトの寝息。
 今は
 波に抱かれ、ペロペロの鼓動を聞いている。

 静かに流れる時間。

 初めて手にした、
 心地よい居場所。

「………」
 ぼんやりと夜空を見上げながら、口を開く。
 と、突然、どぼん、と海に落ちた。
 ペロペロが、突然潜水したのだ。
「うわっぷ」
 慌ててハートは両手両足をばたつかせる。
暴れれば暴れるほど、体が沈んで行く。
(ばかやろう! ペロペロ!)
 悪態をつき、息苦しさに目をぎゅっと閉じると、
落ちたときと同じくらい唐突に体が持ち上げられ、ハートは水面から顔を出した。
「ぷはっ」
 ペロペロの長い首にしがみついて、ゲホゲホと海水を吐く。
「お、溺れるかと思った!」
「ごめんごめん」
 いつものゆったりとした口調で、ペロペロは笑いながら謝った。
「魚の群れが見えたから」
「………オレより食欲が優先か!」
「ハートだって、ボクより優先する事があるでしょう?」
 ペロペロの顔が近づいてきて、ハートの顔をぺロリと舐める。
「………」
 ハートは口をへの字に曲げて、押し黙る。
 そう。
 昼間の話の続きだ。
 あれからずっと考えているが、まったく考えがまとまらない。
 ぐるぐる、ぐるぐる、いろんな事が頭の中で回って、
 自分がどうしたいのか、
 わからなくなる。 
「エサを追いかけるのは、本能だもん。止められないよ」
 そうだ。
 腹が減っていればいるほど、本能は止められない。
「それが、生きるってことでしょう?」
 ペロペロの背中で、ハートは頷く。ペロペロはハートを浅瀬に連れて行った。
足の着く浅瀬でも、ハートはペロペロの背中から降りない。
「………ねえ、ハート。
すごくすごく、ものすごく、おなかが空いたら、ハートはボクの事を食べる?」
「食べないよ」
 即答する。そんなことは、考えたこともない。
「食べないと死んじゃうくらいおなかが空いても?」
「食べないよ。
だって、食べてしまったら、もうペロペロとは会えなくなるだろう? 
こうやって背中に乗ることもできないし」
「うん。
でも、ハートが死んでしまったら、ボクももうハートとは会えなくなっちゃうよね。
もう、話もできないし、背中に乗せてあげる事も、
ハートに抱いてもらって草原を散歩する事もできない」
 一緒にいるから、できることが沢山ある。
知らなかった世界に連れて行ってもらえる。
「だからね、ボク、もしハートが死にそうなくらいおなかが空いたら、
ハートに食べられてもいいと思うんだ」
「馬鹿なこと言うなよ!」
「馬鹿じゃないよ。
だって、ハートがおなかが空きすぎて死んでしまったら、
もうハートとは一緒にいられないけど、もしハートがボクを食べたら、
ボクはハートの命になって、ずっと一緒にいる事ができるもの」
 それからペロペロは夜空を見上げ、陸のずっと遠くの方を眺めた。
「ハートには、ずっと生きていて欲しいけど。
この辺にハートのエサがなくなって、ハートがずっと、ずっと、遠くまで、
エサを探しに行ってしまったら……もう、ハートは帰って来ないかも」
「帰って来るさ。卵の山に行った時みたいに」
 ペロペロは首を横に振る。
「あの時は、ハートが家族に会いに行って、
そのまま家族と一緒に暮らすようになっても、
それでもいいと思ったんだ。ハートが幸せなら。
でもね、ハートは帰ってきた。この入り江に、帰ってきた。
そしたら、ボク、それまでより、ずっとハートのことが好きに思えた。
ハートが、『ただいま』って、帰って来てくれたことが、
すごくすごく嬉しかった。
 食べるものを探しに、ハートが遠くに行ったとしても、
おなかがいっぱいになれば帰って来ると思う。
 でも………
 卵を産んでくれる相手を探しに行ったら
 もし、そんな相手が見つかったら
 ハートは
 もう
 ………
 帰ってこないと思う」
 ちゃぷん、と波が音を立てる。
 ペロペロは、ハートを浅瀬に運んで、砂の上に降ろした。
 なんだろう、この気持ち。
 世界は、食うか食われるか。
 ウマソウを食べないと、母さんやライトを食べる事はないと、
そう誓った時、ハートの世界は確定したのではないか。
 食べる事、寝る事、この二つの問題は、もう解消されている。
 ここで、ゆっくりと寝る事ができる。エサを探しに行く事も。
ハートが肉を求めに行く事を、ウマソウも理解している。
そして、何も言わずにここで待っている。
 それでいい。
 ここは、安らげる場所だ。
 他に何を求める?

 別に、
 卵を産んでくれる相手なんか、
 いなくたっていいじゃないか。
 この安らげる場所を失うくらいなら。

 でも、
 体が求めている。

 食べ物を求めるのと、同じように。

「オレは………」
 食べ物を欲するように、交尾の相手を求めている。
 それは、本能、だ。
 逆らう事はできない。

「行かないよ」
 砂の上に立って、寄せては返す波を見つめる。
「行かない」
 どこにも。
 顔を上げると、ペロペロの後ろに、青白い月が輝いていた。
「オレ」
 ペロペロは、ハートを見下ろしている。
「お前を、食う」


 持って生まれた、白く輝く鋭い牙。
 肉に食らいつく、大顎。
 ハートは、牙でペロペロに食らいつく代わりに、
 自らのオスを
 その体に突き立てた。



 青白い月が、傾いている。
 夜明けは、まだ遠い。
 波は相変わらず、ちゃぷん、ちゃぷん、と静かなメロディーを奏でている。
「ハート」
 ペロペロは、波打ち際で横たわるハートの顔を舐めた。
「ハート」
 初めて肉を食った時のような満足感に、ハートは抗えない眠気を感じていた。
「ほら、溺れちゃうよ? 草の上で眠りなよ」
 ほとんど目を開けることもままならない。
「うん」
 充たされる、というのは、こういうことだ。
 促されるまま、よたよたと砂浜を歩き、
波の来ない崖の下まで行くと、そのままころんと寝転がる。
「ハート」
 遠くでペロペロの声がする。
「おやすみ」
「………おやすみ」
 崖の高いところで、ウマソウの寝息が聞こえる。
 ハートは充たされた満足感のまま、深い眠りに落ちていった。
 眠りについたハートを、しばらくペロペロは見つめていたが、
やがて沖に静かに泳ぎだした。
 静かに。
 安らかな眠りを妨げないように。


 そしてそのまま、
 ペロペロは
 朝になっても帰ってこなかった。