西ドイツのJr.ボクシング界。 スコルピオンは地道に足元を固めていった。 彼の腕は、それなりに有名であったから、 彼の傘下に入ることを望む者も少なくはない。 だがもちろん、それを望まない者もいる。 ひれ伏すことを臨まない、力のあるJr.ボクサーの下には、 スコルピオンは使いのものをやった。力でねじ伏せるために。 それが、彼の参謀、ヘルガであった。 「私たちもずいぶんとなめられたものだ」 ジムのパイプ椅子にもたれ、 腕を組んだヒムラーは忌々しげにつぶやいた。 スコルピオンの使いのものが来るというので、 どんな強豪が現れるのかと期待していたのだ。 それが、こんな小柄な少年だなんて。 ボクシングなんて格闘技には不向きなほど、童顔で幼く見える。 さらには、この少年の別のうわさも耳にしていた。 『西ドイツの生んだ天才少年』 何かの雑誌で見かけた。スポーツ誌ではない。 最年少でギムナジウムに入学、将来を有望視されている。 とかなんとか。 メガネをかけたその少年は、ボクサーというよりは、 やはり図書館にでも埋もれている『ひ弱な天才少年』というレッテルが合う。 「それでは、私たちの傘下に入るというサインはいただけないのですね?」 少年は不思議な微笑をする。 断られることを、最初からわかっていたような。 「ここは力の世界だ。 私たちより上だというのであれば、貴様らの話にも耳を貸そう」 「もちろんです」 ヘルガは即答する。 さて、本気でこの少年は勝負を仕掛けてくるのか。 ヒムラーが考えあぐねていると、隣で傍観していたゲーリングが一歩進み出た。 「オレにやらせろ」 楽しそうに、ニヤリ、と笑う。 ゲーリングは、生意気な小僧の鼻っ柱をへし折るのを楽しんでいる。 それに、この少年の風貌は、好みだった。 ヘルガがゲーリングに視線を移す。緑色のきれいな瞳は、挑戦的だ。 「私はかまいませんが」 ヘルガは余裕の笑みを見せる。 ヒムラーは肩をすくめて、「好きにしろ」と促した。 リングに上がる。 少年の俊敏な動きに、ゲーリングは感心していた。 なるほど、なかなかのものじゃないか。 何発か打ち合う。少年はまったくひるまない。度胸も据わっている。 ならば。 相手の動きを伺うように動いていたゲーリングは、 自分の中のスイッチを切り替えた。 本気モードに。 リングサイドで見ていたヒムラーとゲッペルスは、 感心したように囁きあった。 「ゲーリングを本気にさせるとは、なかなかの腕だな?」 「顔に似合わず」 ゲッペルスが唇を吊り上げる。久しぶりの見物だ。 「だが、終わりだ」 ふっと小ばかにしたような鼻息を漏らし、ヒムラーはまた腕を組んだ。 その数秒後、ゲーリングのストレートがヘルガ少年の顎に入った。 ダウン。 ゲッペルスは片手を突き出してカウントを始める。 「1、2、3、・・・・」 ヘルガは起き上がれない。 ゲーリングはサイドのゲッペルスのところまで歩いてくると、 カウントしている指を払った。 「オレの勝ち、だ」 カウントなど必要ない。 そして、なんとか上体を起こしてロープにもたれるヘルガに屈みこみ、 顎を掴んで自分の方を向かせる。 「悪いな、お嬢ちゃん。相手が悪かったと思って諦めな」 苦しそうにゲーリングを見上げるヘルガに、 ゲーリングはニヤリと笑いかけると、 その頬を、ざらり、と舐めあげた。 「やめておけ、ゲーリング」 ヒムラーが止めに入る。 「勝者は敗者を食ってもいいんだろう?」 「楽しみは後に残しておけ」 残念そうにゲーリングは両手を広げ、 ヘルガを抱き上げてリングを降り、外で狼狽している少年の従者に手渡した。 「帰って蠍に伝えろ。1週間後、貴様の首を取りに行く、とな」 よろめきながら立ち上がると、 ヘルガはぎりっと歯軋りをしてゲーリングを睨みつけた。 「その顔、そそるな」 人差し指で少年の頬に触る。 ヘルガはその指を忌々しげに振り払い、よろめく。 「・・・ヘルガ様!」 少年の側近が慌ててその腕を支える。 と、ヘルガはその腕も振り払った。 プライドだけは高いらしい。 その方が面白い。 去っていく少年に、ゲーリングはニヤリと笑った。 「負けた、だと?」 ジムで他の者の練習を指導していたスコルピオンは、鼻先を引きつらせた。 唇を噛むヘルガは、浅い息をしながら、 それでもスコルピオンから視線を外さない。 「一週間後に、再戦を」 プライドを傷つけられたヘルガは、絞り出すような声で言った。 「そうか」 ヘルガを睨みつけていたスコルピオンは、 おもむろに立ち上がると、リングに上がった。 「ヘッドギアとグローブをつけて上がれ」 他の者たちを下がらせて、自らもグローブをはめる。 「ヘッドギアなど必要ありません」 反論するヘルガを、一睨みする。 「つけて上がれ」 有無を言わさぬ命令。 ヘルガはそれらを持って来させ、装着し、リングに上がった。 ファイティングポーズを取る間もなく、スコルピオンのジャブを受ける。 よろめきながらも足を踏ん張る。間髪をいれず、パンチを受ける。 半分は避けたが、半分は避けきれない。 容赦ない嵐に、ヘルガは5分で膝を着いた。 「無茶です、おやめください・・・!」 止めに入ろうとする者に、ヘルガはキッと睨んだ。 「邪魔をするな!」 普段の温厚な口調とは違うその声色に、誰もが怯んだ。 スパーリングが(あれをスパーリングと呼ぶなら) どれくらい続いたのか、ヘルガにはわからなかった。 いつダウンしたのかも。 気がつくと、ぼんやりと天井を眺めていた。気を失っていたのか。 ライトは半分消され、 夕方のようなうっすらとした闇と光の狭間に包まれている。 静かだ。 誰もいないのか。 心臓の音と呼吸の音だけが聞こえる。 自分のと・・・・もう一人。 ヘルガは、次第にはっきりしていく意識で、頭を動かした。 視界にスコルピオンの顔が入る。自分を見下ろしている。 「・・・・スコルピオン・・・・」 そっとつぶやいて、目を閉じる。心地よさを感じる。 心臓と、呼吸の音。自分と、スコルピオンの。愛しさと、安心感。 ヘルガは目を開けると、体を起こそうと力を入れた。 「もう少し、横になっていろ」 額を押し戻され、元の位置に戻る。 スコルピオンの、膝の上。 「・・・大丈夫、です」 「顎に入って気絶したんだ。しばらく動かない方がいい」 そう、そうだったか? 覚えていない。 「気分は?」 吐き気などないか。そう聞いている。 ヘルガは目を閉じて自分の体の変調に集中する。 吐き気、めまい、鈍痛・・・・・。大丈夫。 そう判断し、目を開ける。 「最悪です。負けるなんて」 消されたライトの向こう、ゲーリングという男の顔を思い浮かべる。 あの勝ち誇った表情。忌々しい。 「お前は、負けたことがなかったな」 スコルピオンは感情を入れず、さらりと言った。 負けたことなど、ない。 なぜなら、 他の者たちのように練習を積んで這い上がってきたわけではないから。 相手は常にスコルピオン。いわば、英才教育のようなものだ。 それに、持ち前の素質も加わる。 それに油断していたのは、確かだ。 実際ヘルガは、「敗北」というものを知らない。 彼は「天才」であり、常に「賞賛の的」であった。 勉学の道において、他の追随を許さない。 それを当然とするのが、ヘルガの「プライド」だった。 本心でそれを望んでいなかったとしても。 スコルピオンは、そんなヘルガの「プライド」が、 繊細なガラス細工などではないことを知っている。 ガラスで例えるなら、硬質で分厚いガラスだ。 表面を傷つけられたとしても、驚くほどの精神力の強さで覆してしまう。 強いからこそ、自ら孤独の中に入り込み、自らを囲ってしまう。 分厚いガラスケースの中に。 だれも、ヘルガの才能と強さを理解し、抱擁することができないのだ。 脆くない彼の心は、簡単には壊れない。 ぎりぎりまで。 「最悪だ」 冷たい青い瞳でヘルガを見下ろしながら、スコルピオンは言葉を落とした。 「お前に、負けは許されない」 ぎり、っとヘルガのプライドに爪を立てる。 唇を結んだまま、ヘルガはスコルピオンを見上げている。 「お前は、常に完璧でなければならない」 冷水のような言葉とは裏腹に、膝の上のヘルガの髪を、 スコルピオンは愛しげに撫でている。 「一週間、雑務は他の者にやらせろ。 お前は練習に集中するんだ。 もともと備わっているカンを取り戻せ。筋力をアップさせろ。 いいな? 他の事は考えるな」 ゆっくりと、ヘルガが上体を起こす。 スコルピオンの隣に腰を落とし、じっと彼の青い瞳を見つめる。 意志の強い瞳の色。 スコルピオンは、その存在でヘルガを包み、すべてを征服する。 ヘルガにとって、それは心地よい服従。 だれも、ヘルガに命令することなどできない。 それを許さない。 だがスコルピオンだけは、ガラス張りのヘルガの心を鷲掴みして引き寄せる。 「返事は?」 「yes,my lord」 ヘルガの言葉に、スコルピオンは眉を寄せる。 時々、口癖のようにヘルガが使う外国語を、スコルピオンは好まない。 「ya,mein konig. Mein lebenshalt.」 目を細め、甘く発音した後、そっと唇を寄せ、触れる寸前で止める。 「次は、勝ちます」 スコルピオンはヘルガの顎を撫で、その指にヘルガが口づけをする。 「mein herrscher」 あなたが望む私でありえないなら、触れることさえ許されぬ。 敗北など、ありえない。 1週間後。 その三人はやって来た。 ベルリンの蠍を潰すために、戦いを挑んでくる者は少なくない。 その実力を示すために、スコルピオンはたいていの勝負は受けた。 (もっとも、 スコルピオンの存在が西ドイツのJr.ボクシング界に認知された後は、 公式試合以外の挑戦を受けることはなくなったが) その三人の存在は、大きい。実力もトップクラス。 ぜひ手中に収めておきたい。 そして、その三人にとっても、 頭角を現しつつあるスコルピオンの存在は、目の上のこぶ。 ましてや、スコルピオンの噂は三人にとって耳障りなものだった。 多くの少年たちが、スコルピオンの前にひれ伏すのだ。 男を魅了する男。 それは、「強さ」だ。 スコルピオンはすでにグラブを着け、三人を待っていた。 「挨拶は、いらないようだな」 ヒムラーは鼻先で笑った。 「誰が最初だ?」 にこりともせず、スコルピオンは三人を見渡した。 リングをギャラリーが取り囲んでいる。 公式試合でもないのに、よくもこうギャラリーが集まるものだ。 ゲーリングは腕を組んだまま不満げに頬を引きつらせる。 ギャラリーは皆、スコルピオンの勝利を確信している。 そう、これはスコルピオンにとっては、「見世物」なのだ。 自分の実力を知らしめるための「ショー」なのだ。 そして、まんまと自分らは奴の策略にハマったというわけだ。 ヒムラーが、ゲッペルスが、マットに沈む。 さすが、ベルリンの蠍、というわけか。 二人をノックアウトした後も、スコルピオンは息を乱すこともない。 これが、「カリスマ」ってやつか。 ゲーリングはリングに上がった。 スコルピオンの表情が、わずかに険しくなる。 「貴様の相手は、私ではない」 「?」 くるり、とスコルピオンは背を向けると、リングを降りた。 馬鹿にされているのか? ゲーリングが口を開きかけると、別の人物がリングに上がってきた。 開きかけた口のまま、一瞬呆然とする。が、すぐに口元をニヤリと引き上げた。 スコルピオンに代わってリングに立ったのは、あの少年。 ただし、試合用のウェアを身に着け、 ちゃんとグラブをはめ、めがねを外している。 ゲーリングは感嘆の息を漏らした。 先週会った時は、長袖のワイシャツを着ていたので気がつかなかったが (そうだ、あれはとてもボクシングをするような服装ではなかった。 どこかのお坊ちゃんのようなスーツ姿だった) 華奢にみえる体には筋肉がついている。 それも、無駄のないスレンダーな筋肉だ。 女の子のような愛らしいルックスでそのスタイルは、体中の神経を直撃する。 無意識にゲーリングは乾いた唇を舐めた。 「俺が勝てば、蠍の地位はもらう。お嬢ちゃん付きでな」 ニヤリと笑って見せる。 「好きにしろ」 リングの下で、スコルピオンは吐き捨てるように言った。 試合が始まってすぐ、ゲーリングは「おや」と思った。 驚くほど下半身が強い。 パンチの重さはそれほどないにしても、 俊敏さとスピードでそれをカバーしている。 なるほど、ただの頭でっかちの「参謀」ではないわけだ。 前回戦ったときは、よほど油断していたのか。 ゲーリングは次第に焦りを感じる。 何度パンチを受けても、ヘルガは怯まない。 「!」 そして、ボディーブローの直撃を受けたゲーリングは、 うずくまるように膝を折った。 すぐに立ち上がろうとするが、腰が砕ける。 なんてことだ。 ヘルガのスピードのあるパンチは、 ゲーリングの肉体にダメージを蓄積させていたのだ。 崩れるようにマットに倒れこむ。カウントが聞こえる。 なんとか顔を上げると、ヘルガのブーツが視界に入った。 そのまま起き上がることができず、10カウントが終了し、歓声に包まれる。 まさか、こんな・・・。 ひじだけでゲーリングはなんとか顔を上げ続けた。 見上げると、ヘルガは呼吸を整えるように深呼吸をしていた。 そして、ゲーリングを見下ろしながら、微笑む。 (ああ) 負けたのだ、という事実より、ヘルガの微笑みに魅了される。 なんて可憐で、残酷な笑み。 (天使とは) 脳裏に宗教画が思い浮かぶ。 (天使とは、かくも美しく残酷な存在であるか) 神のみのために存在し、神のみのために行動する。 それは、神を崇拝する者にはやさしく、敵対する者には容赦がない。 神のみに追随する者。人は天使を崇拝し、同時に恐れる。 (天使とは・・・・) リングサイドまで歩いていったヘルガは、 クリップボードを持って戻ってきた。 そして膝をついてゲーリングにそれとペンを差し出す。 「勝った者は負けた者を食らってもいいのでしょう? 服従のサインを」 ペンを取り、力の入らない指でサインをする。 そしてゲーリングは、ヘルガの指に口づけをした。 ゲーリングを見下ろすヘルガの瞳が、色香を帯びる。 ぞっとするほど淫妖な。 ゲーリングの唇の触れた箇所を、そっと自分の唇に押し当てる。 そして立ち上がり、ダウンしたままのゲーリングに背を向けた。 「vollkommen」 リングを降りるヘルガを、スコルピオンが片手を差し出して迎える。 ヘルガはスコルピオンの手を取り、 無邪気とも取れるほど嬉しそうに笑みを零した。 (オレの天使) 天使は人に慈悲を与えても、決して胸のうちは許さない。 神のためだけに存在しているのだから。 「本気で惚れた、なんて言うんじゃないだろうな?」 ゲーリングをリングから降ろしたヒムラーは、飽きれたように言う。 ゲッペルスは両手を広げて肩をすくめた。 「蠍は気に食わないが、お嬢ちゃんはいい」 「ノックアウトを食らって、脳細胞が壊れちまったか」 ふふ、とゲーリングは笑った。 「面白そうじゃないか。奴らがどこまでできるのか、見させてもらおう」 「それは同感だな」 ゲッペルスも賛同する。 「服従は遺憾だが」 ヒムラーはまだ不満げだ。 そんなヒムラーにゲーリングはニヤリと笑いかける。 「奴らの出してきた書類、ちゃんと読まなかったのか? あれは賛同を求める書類で、別に服従を強制するものじゃない」 ヒムラーの片眉があがる。 「オレが個人的にお嬢ちゃんに屈服しただけだ」 「お前がマゾだとは知らなかった」 ゲッペルスの嫌味にも、ゲーリングは慣れた素振りで唇を吊り上げる。 面白くなりそうじゃないか。