自宅の執務室で、デスクに座り、スコルピオンは憂鬱な気分でその手紙を読んでいた。

 同じ部屋にある長椅子に座ったヘルガも、何通かの手紙を読み返している。

 この通告は、もちろん予測できるものであった。
即急に解決しなければならない問題だ。

 現在、ボクシング界はふたつの組織に牛耳られている。
WBAからWBCは独立、お互いに反目し、
それぞれの「チャンピオン」を置いている。

 それは、「大人の理由」だ。

 スコルピオンはWBAドイツ支部からの手紙を読んでいた。

「何て言ってきているのですか?」

 自分の読んでいた手紙から顔を上げて、ヘルガはスコルピオンを見た。

「協会に所属しろとの一点張りだ。相変わらずな」

「それで?」

「よほど俺たちが欲しいらしい。叔父に圧力をかけてきたようだ」

「叔父さん、といいますと、ベルリンの市議会委員をやっている?」

「ああ」

 スコルピオンの家系は、代々政治家であった。
先の戦争でスコルピオンの祖父が国に反抗して以来、
その「名家」は名崩れになり、スコルピオンの父はその世界を離れた。
だが、一族の中では今だ力を持つ者はいる。スコルピオンの叔父がそうだ。

「叔父は俺のやっていることに口を出さない。
叔父に何を言おうと無駄なのにな。
こういった権力にしがみつこうとする奴は、権力に弱いのさ」

「では、叔父さんからは何も?」

「WBAの圧力など、叔父にとってはうるさいハエに過ぎない。
相手にしていないのだろう」

 手紙をデスクに投げ出し、スコルピオンは不満げに鼻息を吐いた。

「しかし、公式試合に出られないのは問題です」

 ヘルガの意見は、冷静で的確だ。

「WBAに所属せずにWBAの主催する試合に出ることは、現在不可能。
このまま放っておいてよい問題ではありません」

「わかっている」

 だから、憂鬱なのだ。

「WBAを抑える方法をお考えですか?」

「抑えるのは簡単だ」

 自分を見つめるヘルガに、唇を吊り上げて笑ってみせる。

「叔父に頭を下げればいい」

 ヘルガは眉を寄せた。それは簡単だが、気持ちのよいものではない。
スコルピオンもまた、彼の父と同様、権力には巻かれたくない人間なのだ。

「他に方法を」

 首を横に振って、ヘルガはそう言った。

「そうだな。それは最終手段として取っておこう」

 スコルピオンは肩をすくめて見せた。

「そちらはどうなのだ?」

 ヘルガの見ていた手紙を顎でしゃくる。
ヘルガもまた、小さくため息をついた。

「WBCの要求も同じです。評議会の西ドイツ支部への登録をと」

 腕を組んで背もたれに体を預け、スコルピオンは天井を見上げた。

 正直なところ、ヘルガは反対しているが、
叔父に頼んでWBAにねじ込むことは考えている。
たぶん、それが一番手っ取り早く問題もないだろう。
ヘルガの了承を取らず、自分ひとりで行動すればよい。

 しかし、WBCの方はどうするか。WBAだけで満足とするか。
いや、それでは納得がいかない。

 正攻法で説得に行くか。

 それはすでにやった。
双方の会に出向き、西ドイツ支部長と直接面会し、理想を告げた。
だが、双方とも「子供のたわごと」と、本気で取り合ってはくれなかった。

 それでもスコルピオンの実力は認めているのだろう。
以来、双方からのオファーが続いている。

「こちらの方が、厄介です」

 天井を見上げて思いをめぐらせていたスコルピオンは、
ヘルガの言葉に視線を戻す。

「支部長のリカルド・ハイデン氏は、
こちらの切り崩しにかかってきています」

「切り崩し?」

 眼鏡の奥のヘルガの眼光が、忌まわしげに細まる。

「評議会に所属しなければ、
今後一切の試合に出ることはできないと、
配下のチームの何人かは脅迫されているそうです。
どうするのかと陳情が上がってきています」

 なるほど。そうきたか。
スコルピオンに賛同して傘下に入ったチームは、かなりの数になる。
しかし、それらを切り崩してしまえば、
スコルピオンは窮地に追い込まれると踏んだわけだ。

 上から攻めるか、下から攻めるか、だな。

 スコルピオンはヘルガに先を促した。

「何と応えている?」

「脅迫に屈することはない、と。
しかし、それで脱退するようなら、それはそれでかまいません。
去る者を追う気はありません。それは、自由意志です」

 そう言うヘルガの言葉は冷静で、視線は鋭く冷たい。
その挑戦的な表情は、見る者をゾクゾクさせる。
弱き者はひれ伏し、強き者は戦いを挑みたくなる。
ヘルガの、己への絶対的な自信のなせる業だ。

 持って生まれたヘルガの冷たさ。
天才ともてはやされ、「天才たること」を要求し続けられた結果。
自分は他の人とは違うのだ。
同じ年代の子供たちのように、親に甘えることも、
流行の玩具で遊ぶことも、同年代の子供たちと無意味な会話を楽しむことも、
許されない。
分厚い氷の壁に囲まれた孤独を生きてきた。
自分は絶対であり、それを認めない者はあっさりと切り離す。
ヘルガは、自分と他者との距離を鋼の壁で隔てている。

 だからこそ、人の上に立ったとき、そのオーラで人を従わせてしまうのだ。
今までは無意識に。スコルピオンと知り合ってからは、意識的に。

 スコルピオンは、ヘルガに、自分がどんなに魅力的であるかを教えた。
顔も、体も、ちょっとした仕草も。
その気になれば、男を従わせることなど容易いと。

 ヘルガはその気転と洞察力で、周囲に気を使い、
幼顔の笑みで感謝やねぎらいの言葉を口にし、
意図的に周囲の者たちを虜にしてきた。そのヘルガが、

「私に従わないのなら、いつでも去りなさい」

 と言うのだ。結果は目に見えている。

 そしてスコルピオンは思う。
そんなヘルガに最初に囚われたのは、自分なのだと。

「今のところ、WBCの西ドイツ支部はハイデン氏の独壇場です。
氏の周囲を探っています」

「リカルド・ハイデン本人を落すか?」

 ヘルガは口元に笑みを作った。目は笑っていない、口だけの笑み。

「少なくとも、弱みのひとつは見つけましょう。
どう落すかは、それからです」

 恐ろしい少年だ。決して敵に回したくはない。
そうさせてしまったのが、スコルピオン本人だとしても。

 

 

 

 ヘルガは、ヒムラーたち三人が根城にしているジムを訪れた。
彼ら三人は、スコルピオンの下で練習しようと言う気がない。
別にそれはかまわなかった。必要なときに召集するだけだ。

「ヘルガ参謀直々にお越しとは」

 三人は長椅子やパイプ椅子に座り、くつろいでいた。
ヘルガが現れるや、それまでの会話を中断し、恭しくヒムラーが立ち上がる。

「何の御用ですかな?」

 小ばかにしたような、わざとらしい態度。
ヘルガはそれをさして気にしないように三人を見渡した。

「単刀直入に申しますが、
WBAやWBCから何か接触してきていませんか?」

 それまでその話題をしていたのだろう、三人が顔を見合わせ、
ヒムラーは二人に目配せし、ゲッペルスは鼻で笑い、
ゲーリングは肩をすくめて見せた。

「WBAからは、何も。WBCからは手紙を受け取っていますよ。
三人、それぞれに」

 ヒムラーは簡易テーブルの上の紙を見やった。

「見せていただけますか?」

「どうぞ」

 ゲッペルスは手を伸ばし、その内の一枚を拾ってヘルガに差し出す。
ヘルガはそれを受け取り、丁寧にタイプされたそれを真剣な面持ちで読んだ。

「皆同じ文面なのですね?」

「よくご存知で」

「配下の者たちが多数、同じ手紙を受け取っています。
実力のある者たちが、です。あなたたちの所にもこれが来て当然でしょう。
あなたたちの実力は、埋もれさせておくには惜しいものです」

「お褒めの言葉と受け取っておきましょう」

 ニヤリ、とヒムラーが笑う。

「わざわざヘルガ参謀ご本人が動いているということは、
書面にサインをするなと念を押すためですか?」

 それは支部長の名前で、
正式なJr,ボクシングの試合に参加したければ
WBCに名前を登録しろと言うものだ。
ご丁寧に返信用の封筒まで同封してある。

「いいえ。誰がリストアップされているのかを確認しに来ただけです。
書面に対する応答は、あなた方の自由です」

「サインすれば、スコルピオンを敵に回すことになる。
もっとも、サインしないスコルピオンと試合をすることはないだろうが」

 ゲッペルスはヘルガから紙を受け取った。
ヘルガの意図を探るように、その眼鏡の奥を覗き込む。
ヘルガはまっすぐにゲッペルスの目を見返した。

「別にスコルピオンを敵に回すことにはなりません。
しかし、スコルピオンと二度と手合わせできなくなるのは事実ですが」

 数秒、お互いの考えを読むように見つめあったあと、
ヘルガはふっと視線を外した。

「お邪魔しました」

 そのまま背を向ける。

「誰がサインして、誰がサインしないのか、
確認しなくていいのか?」

 ヘルガの背にゲーリングが声をかける。
ヘルガの態度は、あまりに冷たい。
その他の連中と同じように、自分に従わない者には関与しない、と言うように。
たぶん、そんなつれないヘルガの背にすがる輩は多いだろう。
誰も、ヘルガに自分を見てもらいたいのだ。
その、美しい緑色の瞳で。愛らしい表情で笑いかけてもらいたいと。

「サインするしないは、あなた方の自由です」

 一度だけ振り向き、『参謀』らしい冷ややかな視線を送っただけで、
ヘルガはジムを出て行った。

 ヘルガが出て行った後、三人はそれまでと同じように頭を寄せ合った。

「つれないなあ、俺のレーベン」

「誰がお前の命だ」

 飽きれたようにヒムラーがゲーリングに言い返す。

「蠍のフラウはご機嫌ナナメだな」

 ゲッペルスは頬を引きつらせるように言い捨てた。

「試合に出さないと脅されて、どれだけの奴がお嬢ちゃんを裏切るか」

 ヒムラーは指を顎に当てて視線を漂わせた。
別に、スコルピオンが全員に裏切られたとしても、
自分には関係のない話だが。

「ボクサーたる者、試合に出られないのは辛いね」

 クスクスとゲーリングが笑う。

「俺は、他の試合に出られなくなったとしても、
いつかスコルピオンを倒せればそれでいい。
自分の手で奴をノックアウトさせたい」

 ヒムラーは二人に視線を戻した。

「つまり、お前は書面にサインはしない、ということだな?」

 ゲッペルスの問いに、ヒムラーが頷く。

「こんなことをされて、
天才参謀と呼ばれるヘルガが黙っているとも思えんな」

 ゲッペルスは指を組んで背を伸ばした。

「蠍を立たせるために、ヘルガが策を練るだろう。
私はもうしばらく傍観させてもらう」

 二人の出した答えに、ゲーリングが鼻で笑う。
そして、問題の紙を持って立ち上がった。

「どうするつもりだ? まさか、スコルピオンを裏切る?」

 眉を寄せるヒムラーに、ゲーリングは唇を吊り上げる。

「試合に出られなければ、ボクサーとは呼べないだろう?」

「ヘルガを見捨てるか?」

 ゲッペルスも眉をひそめる。

「どうせ、俺のものにはならない花だ」

 ヒムラーとゲッペルスは顔を見合わせた。

「じゃあ、な」

 二人にニヤリと笑いかけ、ゲーリングもジムを出て行った。

 

 

 

 数日後。

 ヘルガはWBC西ドイツ支部の事務所を訪れた。
ここに来るのは、二度目だ。前回はスコルピオンの秘書的役割として。
今回は単独で。

 事前にアポを取ってあったので、
すんなりとリカルド・ハイデンの支部長室に通される。

「ようこそ、ヘルガ君」

 ハイデン氏は五十代半ばだろうか。
がっちりとした体格は、若かりし頃アスリートであった証拠か。
温厚そうに微笑んではいるが、その眼光は狡猾そうに光っている。

 そして何より、「ジュニア」は言葉どおりの「子供」と解釈した態度だ。
「ジュニア」の試合であっても、その責任者は「大人」が負うのが普通。
「ジュニア」のグループの代表が「子供」であることが納得できないようだ。
つまり、「子供」であるスコルピオンのやっていることは、
所詮「子供の遊び」の延長なのだと。

 だったら、
本気でスコルピオンの「グループ」を相手にしなければよいだろう。
だが、スコルピオンと彼の率いる連中の実力は、
無視できないものになっていた。

 自分の所の選手として、
スコルピオンと彼の取り巻きが欲しくなったわけだ。

 ヘルガもそのひとり。

 さまざまな大学や研究施設が、
アビトゥアを取得した後のヘルガを欲しがっている。
その天才児を、「ボクサー」として手に入れることができる。

 そんな野望が彼にはあることを、ヘルガは調べて知っていた。

 たぶん、WBAの会長よりも人間くさい。
理性と理論で構成されたヘルガの頭脳の一部では、
その男を「原始的な動物」と捕らえていた。
スコルピオン以外の人間と接するとき、
ヘルガはたいてい頭脳のその部分を活用している。
それがヘルガの「冷徹さ」である。

「どうぞ、座りなさい」

 来客用ソファーを勧められ、ヘルガは外交的な最上級のうわべ笑いを見せた。

「お忙しい時間を割いていただき、ありがとうございます」

 秘書が紅茶とクッキーを持ってくる。
ヘルガはその女性秘書ににこやかに礼を言った。

 社交辞令として紅茶を一口飲み、穏やかな口調で口を開く。
辛抱強く、スコルピオンの理想を繰り返す。

「ご理解いただけませんか」

 と。

「キミたちの理想はすばらしいと思うよ。ああ、実にね。
しかしキミたちの理想はベルリンの壁を壊せと言っているようなものだ。
現実味がない」

「私もベルリンで生まれ育ちましたから、
壁を壊すことが不可能であることは重々承知しております。
しかし神は「扉を叩け、さすれば扉は開かれる」と説いております。
理想を掲げることは、神の扉を叩くことではないかと思っております。
扉を叩くことなく諦めることはしたくありません」

 ふふふ、とその男が笑う。
大人びたスーツを着てひとりソファーに座るヘルガを
眺めることを楽しんでいるように。

「スコルピオン君の統率力はすばらしいと思うよ。
実際、評議会に登録するよう出した手紙は、どれも返って来てはいない。
ただ一通を除いて」

 勝ち誇ったような笑みを見せ、ハインツは扉の外の男を呼んだ。

「ゲーリング君、入りなさい」

 扉から入ってきた男を、ヘルガは横目でちらりと見た。
表情を変えず、視線をハインツに戻す。

「キミのところの主要戦力だね? 彼は頭がいい。
裏切られた気分はどうかね?」

「裏切りとは、根底に信頼があってのこと。
私は彼を信頼などしておりません。
ですから、裏切られたとは思っておりません」

 意表をつかれたようにハインツは目を見開き、おかしそうに豪快に笑った。

「手厳しいな」

 ハインツがゲーリングを見やると、ゲーリングは肩をすくめて見せた。

「近々、私たちのボクシング評議会はジュニアの大会を開く。
その時、キミたちは現実を見るだろう。
協会にも評議会にも属さないジュニア・ボクサーが、
どんな扱いを受けるか」

「締め出されると言うわけですね」

「そういうことだ。現実に直面したとき、
スコルピオン君の率いるジュニア・ボクサーたちは考えを正すだろう」

「しかし、
西ドイツ中のジュニア・ボクサーたちが
スコルピオンをチャンピオンと認めるなら、
あなた方の行う試合が茶番になりますよね」

「世界はそれを認めない」

 きっぱりとハインツは言い放つ。

「世界は、ジュニアの西ドイツチャンピオンを、
そこにいるゲーリング君か、
あるいは評議会に属するジュニア・ボクサーの誰かを認めるだろう。
そういうことなのだよ、ヘルガ君。
そうすれば、その次の試合では、
チャンピオンを目指すジュニアたちは評議会に登録することになる。
英雄ごっこは終わりだ」

 表情を変えないまま、ヘルガはじっとハインツを見つめた。
考えをめぐらすように。

「ヘルガ君、キミはいくつだね?」

「14です」

「キミがいくら天才ともてはやされようと、
14歳の子供にできることなど、限られているのだよ。
冷静に現状を判断し、
君たちが信奉するスコルピオン君を
世界チャンピオンにする方法を考え直した方がいい」

 ヘルガは一度目を伏せ、おもむろに立ち上がった。

「お互いに譲歩する方法はないのか、ご検討いただけませんか」

「もちろん。キミとは友好関係を築きたいと思っている」

 自分の椅子から立ち上がったハインツは、ヘルガに右手を出してきた。
躊躇することなく、ヘルガはその手を握る。
ヘルガの手は小さく華奢で、ボクサーのものとは思えない。
ヘルガがスコルピオンのチームの次席で、
ボクサーとしての実力はかなりのものだという噂を、
疑いたくなるような手だ。
結局は「参謀」であり、ブレーンなのだろうとハインツは思った。

「私もそうなり得ることを祈っています」

 そう言って、ヘルガはちょっと笑った。
幼さの残る笑み。好感の持てる表情。

「後日、またお話に伺います」

「では、次回のアポイントは、直接私に電話をくれ」

 デスクの上から名刺を出して、ヘルガ少年に手渡す。
ヘルガは名刺を大切そうにしまった。

 それから頭を下げ、ヘルガはハインツの事務所を出て行った。
その際、すれ違ったゲーリングに目をやることもなく。

 

 

 

「はい、生体力学についてはいくつか文献を読みました。
・・・・興味深い分野ではあります」

 スコルピオンの執務室で、スコルピオンのデスクに座り、
ヘルガは受話器を肩と耳ではさんで話をしていた。
ヘルガが事務処理をするのは、いつもこの場所だ。
その間、スコルピオンはトレーニングに出ているか、
ソファーに座って本を読むなどしている。

「グリーブの本ですね? ええ、読みました」

 口調は軽快で、さも楽しげに聞こえる。

「解剖学からの痛みのメカニズムなどは、実に参考になります」

 しかし、実際ヘルガはにこやかに話し込んでいるわけではなく、
その楽しげな口調とは裏腹に、
片手を常に動かして便箋に何やら書き込んでいる。

「・・・そうですか! ぜひそのお話は聞きたいですね」

 一通り何やら書き終わると、それを丁寧にたたんで封筒にしまい、
封をし、ドアのところで待っている部下を手招きして呼び、
投函するよう身振りで指示をする。
一度受話器を持ち直し、
それからまたヘルガは別の手紙に目を通し始める。

「申し訳ありませんが、その日は・・・。
ええ、学生なもので、午前中は授業に出なければなりません。
・・・ギムナジウムの学生として、
ちゃんと授業数をこなすことがアビトゥア取得の条件になっておりますので」

 その手紙に対する返信も、また書き始める。

 その姿には、誰もが感心し、ため息をつく。
一度にいくつもの仕事をこなすのだ。
ヘルガの頭の中はどうなっているのだろうと、誰もが疑問に思う。

「・・・それは嬉しい限りではありますが、
・・・私は夕方以降の外出を禁止されておりますので。
・・・はい、母に。夜は勉強を。
・・・・・・いえ、そんなことはありませんが。
母がとても厳しいので。
今以上にボクシングに時間を割くことはできません。ですので・・・」

 スコルピオンは、自主トレを一区切りさせて、戻ってきた。
顔を上げたヘルガは、正真正銘、偽りのない笑みをスコルピオンに向ける。

「ええ、その時間でしたら。・・・・はい、ありがとうございます。
・・・いえ、私が直接そちらに。・・・はい。・・・はい。
・・・・ではそれでお願いします。ありがとうございます。失礼します」

 相手が電話を切るのを待って、受話器を戻す。

「スコルピオン、シュトラウス氏より援助の申し出が来てますが」

「いつもどおり処理してくれ」

「はい」

 引き出しから便箋を出し、返信を書き始める。

「電話は?」

「ハインツ氏です。明後日ランチの約束を」

「ランチ?」

 スコルピオンが眉をひそめる。

「はい。忙しいので食事をしながら話をしようということに」

 タイプは使わず、ヘルガは手書きで丁寧に手紙を書く。
スコルピオンがどれだけ理想を掲げて賛同者を集めたとしても、
所詮「ジュニア」は「ジュニア」。
資金面では誰かの手を借りることになる。
資金援助を申し出てくれる者もいるので、
ヘルガはその一人一人に丁寧な礼状を送った。
そういった決め細やかな心使いが、ヘルガの好感度をあげている。

 そんなことをしているので、
時によってはトレーニングの時間がほとんどなくなることもある。
ヘルガが雑用に専念しすぎるときは、
スコルピオンがそれにストップをかけるのも常だった。

「気に入らんな」

 ヘルガがチェックしていた手紙の束を、
スコルピオンも手に取り、一応に目を通す。

「本当に交渉するつもりはあるのか?」

「ないでしょうね」

 万年筆を走らせながら、ヘルガはさらりと応える。
スコルピオンは手紙の束からヘルガに視線を移した。

「スポーツ医学だの、生体力学だの、
そんな話をしていましたから」

「お前と話がしたいだけか」

「接触のきっかけではあります」

 文章を書ききった後、ヘルガはちょっと考え、
万年筆をスコルピオンの方に差し出した。

「サインをお願いします」

 不満げに、スコルピオンは礼状の下にサインをする。
スコルピオンの書く文字さえ愛しいように、
ヘルガはそのサインに向かって微笑みを見せ、手紙を封筒に入れた。

「ヘルガ?」

 スコルピオンの心配事を、ヘルガはまったく気にしている様子がない。
時折、スコルピオンは不安に駆られることがある。
ヘルガは、本当に自分の魅力を理解しているのだろうか? 
冷たく相手を突き放したり、やさしく接触したり、
ぎりぎりのところで相手の心を掴む手腕。
意識してやっているのだろうと思ってはいるが、
今のように無邪気に笑いかけられると、
他者が自分に対してどのような感情を抱くのか、
ヘルガがちゃんと理解しているかどうか不安になる。

「問題ありません。あの手の人物のあしらい方は心得ています」

 そうだろう。ヘルガは大人の中で育ってきたのだ。
『いい子』を演じることなど、お手の物だ。

「ゲーリングが評議会に登録したそうだな」

 ヘルガの笑みが、ふと鈍る。

「厄介だな」

「そうですか?」

「奴はこちらの内情を知っている」

「たいした情報は持っていません」

「いや、一番重要なことを奴は知っている」

 眉を寄せて、ヘルガが首をひねる。
それに対し、スコルピオンは唇を吊り上げて苦笑した。

「お前が俺のウイークポイントだってことだ」

 ヘルガが人質に取られれば、スコルピオンは完全に落ちる。

 ヘルガは片手を口元に当て、目を細めた。
ここに部下たちがいなければ、愛の告白を口にし、
抱きついてキスをするところだ。
その代わりに立ち上がり、広げていた書類をまとめる。
そしてスコルピオンに、意味ありげな笑みを見せ、
誘うようにちょっと唇を舐めた。

「今日は終わりにします。皆を帰らせましょう」

 今宵は、ここ、スコルピオンの屋敷に泊まるのだし。

 ずいぶん積極的な誘いをするようになったものだ。

「ジムで少し、体を動かそう。
ヘルガ、最近練習を怠り気味だろう? 感覚が鈍る」

「はい」

 残念、というように、ヘルガは肩をすくめて見せた。

 

 

 

 学生が昼間から入るようなレストランではない。

 それでもスーツを着こなすヘルガは、完璧なマナーをそつなくこなした。

 大人と対等に付き合えるよう、テーブルマナーも厳しく躾けられていた。
幼い頃から、両親は天才児を自慢するように、
高級レストランで学識者とヘルガを会わせたりしてきた。
食事は楽しむものではなく、社交場なのだ。
微笑を絶やさず、しっかりと受け答えをし、食べ物の好き嫌いはしない。
それは身についている。
だから、どんな高級料理を食べても「美味しい」とはあまり感じない。
「美味しいですね」と口にはしても。

 頭にスーパーコンピューターを組み込んだ、きれいな人形、なのだ。

 スコルピオンと出会い、「感情」というものを理解してからは、
ヘルガはさらに姑息になった。
他者にかわいがられる「術」を身につけたのだ。
それは、「子供らしさ」を垣間見せること。
とかく大人は優位に立ちたがる。
知っていることも知らない素振りをし、自分の知識をひけらかすのではなく、
「それは知りませんでした」と相手を持ち上げる。

 そんな自分を「卑怯」だとは思わない。
すべてが、スコルピオンのためならば。

 スコルピオンのためなら、どんなことでもする。

 肉体を使って誘惑する事だって、厭わない。

 相手を誘惑する偽りの笑みを、ヘルガは保ち続けた。

 会話は終始わき道にそれ、本題は一向に進まない。
ハインツは、ヘルガを探っているのだ。
ヘルガ本人、それを理解していた。
ヘルガの嗜好、興味のある勉強分野、将来の希望。
魚を釣る前に、そのエサを準備するための調査のようだ。

 ヘルガを落せばスコルピオンはついて来る。

 ハインツはそれを知っている。

 だが、それを知られたからといってどうということはない。

 なぜなら、スコルピオン以外の誰かが、
ヘルガを落とすなどありえないのだ。

「申し訳ありませんが、海外留学には興味はありません。
昨年、アインシュタイン・アカデミーから帰ってきたばかりですし。
別に祖国で名を上げようとか、そういうつもりもありませんが、
たくさんの科学者や物理学者を生んだ自国で、
学ぶべきことはたくさんあると思いますから」

「しかし、今、ギムナジウムで足止めを食っているだろう? 
研究施設や大学院への紹介状を書いてあげることもできるんだけどな」

「学校生活を無駄だとは思っておりません。
授業は基礎の復習だと思っておりますし。
それに、同年齢の生徒と接するのも、
人間関係を構成するための勉強にもなります」

 実際には、年上の連中なのだけど。

 ヘルガには、どうあっても取り付く島がない。
ヘルガの望むようなエサが見つからない。
ハインツは用意していた手を出し尽くした。

「キミを誘惑するのは難しいようだな」

 くすくすとヘルガは笑った。

「私の望みは、評議会に登録することなく、
評議会の主催する試合に出られるよう、確約していただくことだけです」

「無茶を言う。子供のわがままを聞いてあげるわけにはいかないな」

「では逆に、こちらのわがままを聞いていただくためには、
どのような条件を飲んだらよろしいでしょうか?」

 ハインツの、ヘルガを見る視線が揺らぐ。
ヘルガはメインディッシュのフォークを置いた。

「・・・・・おや、グリーンピースは嫌いかい?」

 照れたようにヘルガは少し俯き、
上目使いにハインツを見て恥ずかしげに笑んだ。

「すみません。食べます」

 まるで怒られた子猫のようだ。

「いいよ、残しても」

 垣間見せる子供らしさに、ハインツは「理解ある大人」の笑みを見せる。

「デザートは?」

「あの、甘いものは苦手なので、フルーツを少しいただけますか? 
それから、砂糖の入っていないミルクティーを」

 ウエイターを呼んで、ご所望のものを注文する。

「キミのご両親は、食事にも厳しいんだね?」

「はい。残すことは許されません。・・・すみません、わがままを」

「いや、いいんだよ」

 わがままを許してくれる親切な大人。
その親切に甘えるように、ヘルガは砕いた笑みを作る。

「まだ少し、このことは考える余地がありそうだね。
譲歩の条件を、お互い模索を続けよう」

「ありがとうございます」

 デザートの後、握手を交わし、ヘルガはレストランを出た。

(疲れた)

 相手の望む姿を演じること。
慣れているはずなのに、終ると疲労を感じる。

(スコルピオン)

 頭の中で、何度も名前を呼ぶ。
それがまるでアスピリンのように、痛みを和らげてくれる気がして。
否実際、心の疲労は和らげてくれるのだ。

 ああ、早くスコルピオンの腕の中で、仮面を脱ぎ捨てて眠りたい。

 まだ昼間なのに。

 空を見上げ、ヘルガは胸の中で自嘲した。

 

 

 

 その後数日、動きはなかった。

 事務処理もひと段落し、ヘルガは汗を流す日々を送った。

 スコルピオンと一緒に汗を流すのは、好きだ。
スコルピオンと出会うまでは、これといった運動などしたことがなかった。

 今では、体を動かすのは楽しいと思える。

 ロードワークでひたすら走りながら、
次はどう出るかをぼんやりと考える。ハインツの性格は、大体読めた。
一歩踏み込んでみるか。どのみち、まともな交渉ではらちが明かない。

 向こうもこちらの出方を伺っているのか。

 ロードワークを終え、シャワーで汗を流すと、
ヘルガはハインツに電話をかけた。秘書を通さないホットライン。
秘書を通さないというだけでも、まともな交渉相手と思われていない証拠だ。

 ヘルガの方から連絡をしてきたというだけで、喜びの声色が伺えた。
食事のお礼を述べ、アポを取る。
話を詰めたいので、次は事務所でということになる。
そろそろ駒を進めよう。

 今夜はスコルピオンの屋敷に泊まる日だ。
軽いストレッチをしながらジムに行っているスコルピオンの帰宅を待つ。
やがて、スコルピオンは帰ってきた。

「今夜、叔父に会ってくる」

 出迎えたヘルガに、スコルピオンは言った。

「今夜?」

「ああ。夕食の約束をした。協会の方は抑える」

 では、叔父に頭を下げるのか。ヘルガは眉を寄せた。
スコルピオンは、己の家系を好いてはいないし、
自分のものではない権力を行使することは嫌っていたはずだ。
とは思うものの、
スコルピオンが自分で決定した事項に口を出すのもはばかれる。
それは、スコルピオン自身の問題だ。

 何か言いた気な表情のヘルガに、スコルピオンは詰め寄り、
力強く抱き寄せて唇を重ねてくる。
その強引なキスを受けながら、
スコルピオンは苦渋の選択をしたのだとヘルガは思った。

 目を閉じ、長い口づけを味わった後、ヘルガはスコルピオンを見上げた。

「・・・評議会の方は、私が抑えます」

「策はあるのか?」

 スコルピオン同様、内容は口にせず微笑んで見せる。

「あなたがいないのなら、今夜は家に帰ります」

 そう言うヘルガの腕を掴み、また腕の中に包み込む。

「わかった。なら、今すぐしよう」

 する? その疑問は、すぐに解消される。
スコルピオンの手が、ヘルガの背を、その下まで撫でていく。

「ここで?」

「たまには、いいだろう」

 質問ではない。応えなど求めない。そんな強引さが、好きだ。

「せめて、ソファーで・・・」

「立ったままだ。ちゃんと鍛えているか、見てやる」

 小さくため息をつく。その体位は、苦手だ。
スコルピオンに触れられるだけで、足の力が抜けて、崩れてしまう。

「しっかり立ってろ」

 服の中に忍び込んでくるスコルピオンの手を感じながら、ヘルガは頷いた。

 

 

 

 午前中、ヘルガはずっとぼんやりと授業を受けていた。
講義の内容など耳に入ってはいないが、もし質問をされれば即答するだろう。
もっとも、どんな質問をしたところで答えを知っているヘルガに、
あえて質問をしようとする教師などいないが。

 スコルピオンと体を重ねる行為は、胸を熱くさせる。
ヘルガの灰色の内世界に、色と熱を与える。
昨日は、と思うと、何時間も経った今でも頭の中を朦朧とさせる。

 立ったままというきつい体勢で、スコルピオンを受け入れた。
限られた時間の中で、溜まっていた欲望を全て吐き出すように、
激しく突き上げられた。
激しい行為の中で、スコルピオンが耳元で囁いた言葉が、
やけどするほど熱く耳の残っている。

(床を汚すな)

 結局、ヘルガは達することを許されず、そのまま自宅へと帰されたのだ。

 そんな非道な行為の意味は、わかっている。

 ヘルガの頭の中を、スコルピオンの存在で満たすためだ。

 思惑どおり、
ヘルガは家に帰ってからスコルピオンの熱が体から引くことはなく、
勉強などできるはずもなく、自分で自分を慰めることになる。
それでも、満足することはできない。
自分は、スコルピオンに抱かれたいのだ。
彼の腕の中でイきたいのだ。

 その熱を引きずったまま、今に至る。

 早くスコルピオンに会いたい。そんなことばかり考える。
会って、抱かれたい。なりふりかまわず。

 授業の後、ヘルガはいつものように図書館で時間を潰した。
今日の午後は、約束があった。

「いい顔ですね」

 読んでもいない本を広げたままでいたヘルガは、その声の主を見上げる。

「最高にそそられる」

「何か用ですか、ゲーリング?」

 投げやりな口調。ゲーリングはニヤリと口元を吊り上げる。

「これから、奴のところに行くのでしょう?」

「あなたには関係のない事です」 

「オレも呼ばれている。向こうで会いましょう、ヘルガ様」

 去っていくゲーリングの背中を見送った後、
ヘルガは開いたままの本に目を落した。
さて、今日はあの男はどんな話題を吹っかけて来るか。
ボクシングの歴史、協会と評議会の因縁、あるいは運動力学か人体構造か。
どんな質問にも答えを用意しておく。
スコルピオン率いるJr.ボクシングチームで、ヘルガは完璧な参謀なのだ。
スコルピオンに次ぐボクシングの腕と才能、そして、頭脳。

 目を閉じ精神を集中させ、体の熱を静める。

 余計なことは考えまい。今は、あの男を説得することだけに集中するのだ。

 どんな手を使っても。

 

 

 

 約束の午後3時きっかりに、ヘルガはその男のもとを訪れた。

 前回と同じ、うわべだけの笑顔と挨拶、秘書の持ってくる紅茶とお菓子。

 ランチを共にしたとき、
ヘルガはあえてその年配の男に「すき」を見せておいた。
ヘルガは子供で、己は大人、という優越感を与えるために。
スコルピオンのように、常に対等な立場から話をするだけではダメだ。
それがわかったから。ある意味「慈悲」さえ求める態度。
自分はいい。慈悲の対象と見られても。
そのことでスコルピオンを立たせられるのなら。これは、駆け引きなのだ。

 それに、ヘルガの童顔は十分駆け引きに利用できる。
それを自分でも理解している。

「条件をまたいろいろ考えてみたんだがね」

 ハインツはにこやかに交渉を始めた。

「もし評議会に属してくれるのなら、
スコルピオン君をプロとして登録してもいい。
彼にはそれだけの腕があるからね。最年少のプロボクサーだよ。
世界のタイトルマッチを用意してあげよう。
どうだね? 悪い話ではないと思うが」

 あの手この手を考えるものだ。

「申し訳ありませんが、今はまだプロになるつもりはありません」

「それはキミの考えだろう? 彼本人はそれを望んでいるのではないかね? 
ジュニアの選手としての命は短い。だがプロは違う。
世界中が彼に注目するだろう。彼のカリスマを賞賛すると思うがね? 
ボクサーとしての彼を尊敬しているのなら、
彼をさらに上へと押し上げてあげるべきだと思うが」

「スコルピオンは理想を持っており、その理想のために動いてます。
ただ強いだけのボクサーなら他にもたくさんいるでしょう。
彼らとスコルピオンの違うところは、その理想、理念です。
そのために、大人の作り上げた既存の団体に属することなく、
自らの力で世界を目指しているのです」

「夢物語、だね」

「夢を本気で語れるのは、子供時代だけです」

 ふう、とハインツは諦めたようにため息をついた。

「キミは、少し現実を見た方がいいみたいだ」

 ハインツは事務室から秘書に内線を入れた。
しばらくして、一人の男がドアから入ってくる。
ヘルガは男を振り返ることをしない。誰かはすでにわかっている。
ほんの一時前、図書館で再会を予告されたのだ。
それの意味するところのヒントも含めて。

「さて現実、キミは腹心の部下に裏切られた。ゲーリング君は賢いね。
理想より現実を選んだわけだ。
キミは彼を信頼していないからショックではないと言っていたね。
現実はどうだろう? 私は彼からいろいろと情報を貰った。
ヘルガ君、キミに関する情報を」

 ヘルガは微動だにせずハインツを見つめ続ける。

「キミがそこまでスコルピオン君にこだわる本当の理由。
それは、彼の理念なんかじゃないね? 彼は、キミの恋人だ」

 無意識に、ごくり、とヘルガは息を呑んだ。

「私も最初は信じられなかったよ。
キミはまだ幼く、純粋で真っ直ぐだ。
スコルピオン君のカリスマ性に陶酔することはあっても、
まさかそんな関係ではあるまいと」

 緊張と動悸を鎮めるように、ゆっくりと息を吐き出す。

「いや、未だに信じられないね。キミが男に抱かれるなんて」

 振るえる手を無意味に持ち上げ、ティーカップを倒してしまう。
そんなヘルガの動作に、
ハインツは獲物を見つけた肉食獣のように歯をむき出した。

「だが、それならそれで、話が早い。
どうだろう、評議会への登録無しで試合に出られる権利を出そう。特例でね。
もちろん、キミの心つもりひとつだが」

 カタカタと震えながら、倒れたティーカップを元に戻す。
テーブルクロスに琥珀のシミが広がっていく。

「・・・・脅迫、ですか?」

「取引、だよ」

 汚れたテーブルクロスは、何かを象徴するよう。
それを見つめ、視線を上げずに、ヘルガはしばらく苦しそうに息を吐いていた。
俯いたまま唇を噛み、思いっ切り息を吸い込んで顔を上げる

「取引なら、書面に表してください。口約束など、信頼できません。
これが脅迫なら、答えは否です。でも取引なら・・・・」

「もちろん」

 用意周到。ハインツは引き出しから紙を取り出すと、
サインをし、立ち上がってヘルガの元に持ってきた。
差し出された書類を、目を見開いて読む。
形式ばった書式の、正式に通用する書類だ。
評議会会長の特例措置で、全ての大会への参加許可を記している。

 ヘルガが書類を受け取ろうと手を伸ばしかけると、
にやりと笑ってハインツは子供のように書類を高く掲げた。

「取引、だよ」

 伸ばした手を握り、ヘルガはまた俯く。

 ハインツは書類を自分のデスクの上に戻し、代わりにカメラを手にした。

「特別な許可を出すんだから、少し楽しませてもらうよ」

 ニヤニヤ笑いながら、俯いて肩を震わせているヘルガにレンズを向け、
シャッターと押す。

「会長、約束ですよ」

 それまで傍観していたゲーリングが、一歩踏み出す。

「ネタを流したんです。先に食わせてくれるんでしょう?」

「ああ、そうだったね。もちろんだよ。いい写真を撮らせてくれ」

 覚悟を決めたように、ヘルガは目を閉じた。
唇を結び、脱力したようにソファーに身を預ける。

 視界を遮断すると、五感が研ぎ澄まされる。
目の前に立つ男。シャッター音。
ゲーリングはヘルガの服に手をかけ、ゆっくりとネクタイをゆるめ、
シャツのボタンを外していく。
人を殴ることを常とした厳つい指が、素肌に触れる。
それに嫌悪するように、ヘルガは少し眉をしかめる。
指は滑らかな動作でボタンを全て外し、胸をはだけさせ、
次にズボンのベルトにかかる。
躊躇なくファスナーを下ろし、じらすように半分だけズボンを下ろしかける。

「きれいだね、まったく、きれいだ。想像どおりだよ。
着やせするんだね。その胸の筋肉も、腹筋も、魅力的だ。
まだ幼いキミのソコも」

 続けざまに聞こえるシャッター音。
ヘルガは歯を噛みしめ、鼻で震える息を吐く。
羞恥と言う拷問に耐えるように。

 ひとしきりのシャッター音の後、顔に、ゲーリングの息遣いを感じた。

「しゃぶってくださいよ、ヘルガ様」

 卑猥な言葉に、少しだけ瞼を上げる。
目の前の男の顔は、思いのほかすっきりとしていた。
倒錯した思考に酔い、欲望をむき出しにするハインツとは違う。
じっとヘルガの瞳を見つめている。
ヘルガは唇を開き、淫らな紅い舌をちらりと見せた。

 ゲーリングの顔が近づいて来て、唇が触れ合う、その瞬間。

「!!」

 短い悲鳴を上げてゲーリングは飛び退いた。唇から血がにじんでいる。

 ヘルガが噛み付いたのだ。

 すかさずヘルガは拳を握り、ゲーリングの顎の辺りにジャブを入れる。
ゲーリングはよろめいて後ずさった。 

目の前からゲーリングがいなくなると、
ヘルガはそれまでが演技であったかのように冷静な表情で、
テーブルの上のティーカップを床に払いのけて、身軽にテーブルに飛び乗った。

 繊細な陶器の割れる、透明な破壊音。

 驚いたハインツは、逃げるように後ずさってデスクに背中をぶつける。
そんな男に、ヘルガは乱れた服装のまま詰め寄った。

「・・・ゲーリング君!」

 助けを求めるようにハインツがゲーリングを見る。
唇の血を手の甲で拭いながら、ゲーリングは肩をすくめて見せた。

 救援は期待できないことを理解すると、ハインツはヘルガに視線を戻す。
ヘルガの緑色の瞳は、ぞっとするほど澄んでいて、
獲物を見つけた子猫のように残酷に輝いている。

 そしてヘルガは、ハインツの手からカメラをゆっくりと奪い取った。

「写真を公表されたら、困りますよね? 
見まごう事なきあなたの事務室で、
未成年を脱がせて陵辱しようとした証拠写真」

「・・・・な、なに・・・? き、キミだって困るだろう? 
こんなことが知れたら」

「どのみち、ボクシングを始めてから母には勘当されたも同然。
公にされたところで、私には失うものなどありません。あなたと違って」

 ハインツは目を見開き、自分がはめられたのだと悟った。

「・・・脅迫、するつもりか」

「いいえ。取引、です」

 やさしげに微笑んで見せるヘルガの表情は、まさしく天使のようだ。
美しく純粋で、何よりも残酷。

「最初から、仕組んでいたのか。
ゲーリング君を信頼していないというのも、嘘だな?」

「嘘ではありません。あの者を信頼などしていません。
しかし、あの者が私を裏切ることがないのは、事実です。
私は事実を知っているだけです」

 なんて狡猾。

「ミスター、こんな一瞬の快楽より、無謀な夢を見る方が楽しいと思いますよ」

 無謀な夢、か。

 ふ、とハインツは鼻から息を漏らし、そのまま乾いた笑いを吐き出した。

「なんて無謀な子供たちだ。恐れを知らない。
・・・・そうだな、それも楽しかろう」

 にこっとヘルガは笑って見せ、カメラのふたを開けてフィルムを引き出した。

「ご理解いただき、ありがとうございます。
では、取引は成立したということで」

 手を伸ばして、ヘルガはハインツの背後から問題の書類を取り上げた。
それをゲーリングの方に差し出す。
ゲーリングは書類を受け取り、くるくると丸めた。

 まるでただコートでも着るかのように、ヘルガは自分の服を整える。

「惜しいな。もう少し堪能したかった」

 ネクタイを締めなおしてから、ヘルガはそっとハインツの耳元に唇を寄せた。

「ぜひジムに遊びに来てください。私の上半身などいくらでも見られます」

「スコルピオンに殺されるかもしれないがな」

 にやりと笑ってゲーリングが付け足す。

「お嬢ちゃんは、蠍の所有物だ」

 冗談だろうが、それでもハインツはごくりと息を飲んだ。

 堅苦しいほどにびしっとスーツを着込んだヘルガが、事務室のドアに向かう。
ドアの前で立ち止まり、くるりと向きを変えると、ヘルガはハインツに頭を下げた。

「ご協力ありがとうございます。ご期待を裏切らないよう、頑張ります」

 そして何も知らないような無邪気な笑みを作って見せ、
ゲーリングを引き連れて出て行った。

 

 

 

 ゲーリングはヘルガの後ろを無言でついて行った。
行き先はわかっている。スコルピオンの屋敷だ。

 自分で判断し行動したとはいえ、スコルピオンの怒りは覚悟しなければなるまい。
ゲーリングはそっとため息をついた。

 今日に限って、いつも出入りしている部下たちがいない。
いや、奴らはヘルガの雑用を手伝うために屋敷に通っているようなものだ。
ヘルガ本人が不在なら、奴らも仕事はないわけだ。
妙に静かな屋敷に、ヘルガは我が家然と入っていく。
そして、開け放したままのスコルピオンの執務室の前で足を止めた。
スコルピオンは自分のデスクに座り、熱心に電話で話している。

「・・・」

 ゲーリングは顔をしかめた。
スコルピオンが何語をしゃべっているのか、一瞬わからなかったからだ。
ヘルガは5ヶ国語以上の会話をこなすのは承知の事実で、
聞いた事のない言葉をしゃべっていたとしても驚きはしない。
が、スコルピオンが外国語を話しているのを、ゲーリングは初めて聞いた。

 ヘルガも驚いたようにドアの前で立ち止まっている。
いや、実際驚いているのだろう。
さっきまでの計算された表情ではなく、素の表情をしている。
そんなヘルガの表情を意外だと思うし、
スコルピオンの前ではいつもこんな愛らしい表情をするのかと思うと、
ゲーリングは嫉妬を感じる。

 電話をしながらヘルガに気付いたスコルピオンは、
何かをしゃべりながら、片手を挙げて二人に挨拶のゼスチャーをした。

 しばらくして話がついたらしく、
スコルピオンは電話機に向かって頭を下げる身振りをし、受話器を置いた。

「スコルピオン・・・・WBAの本部に掛け合ったんですか?」

 WBAの本部と言えば、ベネズエラで、公用語はスペイン語。
スコルピオンはスペイン語で会話をしていたのだ。

「権力に弱い奴は、上からの圧力にかぎる。本部長は理解ある人物だ。
本部の方から手を回してくれることになった」

「でも、叔父さんと話をすると、昨夜・・・」

「叔父には、迷惑だろうがもう少し目を瞑っていてくれと釘を刺しただけだ」

 そう言うスコルピオンは、叔父との約束を口にはしなかった。
そのことをヘルガに話すつもりはない。
夢が潰えたときは、叔父のもとに行くと。

「そちらは?」

 ヘルガが手を出すと、ゲーリングはその手に先ほどの丸めた書類を置いた。

「書面での確約を取りました」

 書類を、ヘルガはスコルピオンに手渡す。
スコルピオンはそれに目を通すと、今度は視線をゲーリングに向ける。
一瞬、ゲーリングは怯んだ。何を言われるのかと。

「単身潜入、ご苦労であった」

 予想していなかったスコルピオンの言葉に、両方の眉が跳ね上がる。
単身潜入なんて、誰にも言っていなかったはずだ。

「オレが、裏切ったとは思わないのか?」

「確信のもてなかった私に、ヘルガは言ったのだ。
ゲーリングは絶対に裏切らない、とな」

 ゲーリングがヘルガを見下ろす。
ヘルガはそんなゲーリングに目もくれず、
見惚れるようにスコルピオンだけを見つめていた。

「おかげで助かりました」

 ヘルガのスコルピオンに見せる笑みは、他の誰に向けられるものとは違う。

「危ない橋を渡ったんじゃないだろうな?」

「そんなことはありません。
先に潜入しているゲーリングが、私を補助しているのはわかっていましたから。
このように何事もなく書類にサインをいただけました」

 しれっとしたヘルガの態度に、ゲーリングは畏怖を感じる。
何もかも計算づくで、
ゲーリングがあのような行動に出ることも計算のうちに入っていて、
あんなことをされても身に危険はなかったと言い切ってしまうのだ。

 だがスコルピオンは何かを感じ取ったのか、ヘルガに片手を出し、
近寄って来たヘルガを抱き寄せた。

「震えているな」

 そう言ってヘルガの手を握る。
気丈なヘルガの態度が崩れ、ヘルガはスコルピオンの胸に体を預けた。

 そこで初めて、ゲーリングは、ヘルガがそう見せようとしているほど、
本当は冷淡ではないことに気付く。

 それを悟り、抱擁できるのがスコルピオンだけだということも。

「今回の件については、言及はしない。
ゲーリング、ヒムラーとゲッペルスが心配をしていた。
戻って報告をするがいい」

「あの二人は、心配などするタマじゃない」

「自分に相談なく行動したお前に、ヒムラーは腹を立てている。
だがヒムラーはプライドが高いのでこちらに相談などしにはこない。
その代わりに、ゲッペルスが何度もそ知らぬ顔をしてジムに来て様子を伺っていた。
小言は覚悟するんだな」

 確かに、何も相談することなく別行動を決めた。
もしかしたら、自分はあの二人を試したかったのかもしれない。
そこに何らかの絆があるのだとしたら。

「ヒムラーは口うるさいし、ゲッペルスの無言の圧力はそうとうなプレッシャーだ。
反省文じゃすまないかもしれないな」

 そう言ってゲーリングは笑って見せた。

 自分に寄りかかってくるヘルガの髪を撫でながら、
スコルピオンは「行け」と身振りする。
ゲーリングは一度頭を下げ、屋敷を出て行った。

 

 ゲーリングがいなくなると、スコルピオンは両手でヘルガを抱きしめ、唇を重ねた。
深く、濃厚に。

「大丈夫か?」

 鼻先を触れさせながら囁くと、ヘルガは伏目がちに頷いた。

「お前をひとりで行かせるべきではなかった」

「いいえ。・・・単独行動も計画のうちです。
あなたがいたら、話は堂々巡りをするばかりで、先に進みはしなかったでしょう」

「奴を誘惑して落したな?」

 肯定するでも否定するでもなく、ヘルガは唇を結ぶ。

「本当に、何もされなかったのか?」

「何もされていません。ゲーリングに聞いてみてもいいです」

 こんなに怯えているのに?

 ヘルガの頬を撫で、唇を舐める。

「相手がゲーリングなどなら、それほど心配もしない。
だが、権力を持った大人は別だ。本当に何をされるかわからないぞ」

「大人のあしらい方は心得ています」

 幼少の頃から、常に大人に「奇異な目」で見られ、
「興味の対象」とされてきたのだから。

「ヘルガ、お前は人形じゃない。人形のように扱われていた頃とも違う。
以前のお前なら、何をされても侮蔑するだけでダメージにはならなかっただろう。
今は違う。観賞用の人形のように扱われると、心が傷つく。
俺の前で平気な顔をするなと言っただろう? 
本当は、性的欲求の対象にされることに恐怖を感じるのだろう。
あのタヌキオヤジが倒錯した性欲の持ち主であるという情報は、上がってきている。
いくらゲーリングが味方につくことを確信していたとしても、
人数を集められたり薬でも使われたりしたら、おしまいだ。
そんなことくらいわかっているだろうに。
・・・いや、俺も早くに気付くべきだったな」

 体の震えが戻ってきて、ヘルガはスコルピオンにしがみついた。
そんなヘルガを抱きしめ、何度もキスをする。

「スコルピオン・・・・昨夜の続きを・・・」

 頬を紅潮させ、瞳を潤ませてヘルガが見上げる。     

「やはり、嫌なことをされたんだな?」

 小さく首を横に振る。

「あまり強情すぎるのは好きではない。
明日の朝一番に書類を郵送したい。
WBA本部宛に、正式な試合の申し込み書を作成してくれ。
もちろん、スペイン語で」

「・・・・今から、ですか?」

「お前には少しお仕置きが必要みたいだからな。
素直になれるまで、事務仕事をしていろ」

 スコルピオンが腕を放す。
泣きそうな顔でヘルガは唇を結び、拗ねたようにくるりと背を向け、デスクに座った。

「30分で終らせます」

 唇を尖らせて、子供のように言い捨てる。

「ああ。ベッドで待ってる」

 スコルピオンは目を細め、笑んで見せた。

「白状したら、昨夜の分もイかせてやるからな」

 頬を染め、ヘルガはうっとりと頷いた。

 

 

 

 スコルピオンが西ドイツのJr,ボクシングのチャンピオンと認められるのは、
もう少し先の話。