ドイツでの生活は、想像と違っていた。

 父は、もっと優雅に生活しているのだと思っていた。

 仕事と、恋人に恵まれ、自由に。

 だが実際は、スコルピオンという男は週の半分は家に帰らない。
混乱の続くドイツで、首都ボンはあまりに遠かった。

 そして、病院が変われば時間に融通が利くなんて言っていた父は、
驚くほど多忙な毎日を送っている。たぶん、ジョルジュの母以上に。

 それでも、二人は親切だった。

 親切。そう、その言葉が合っている。
せいいっぱい、親切に勤めている。

 多忙な二人の間に挟まれ、
それでもなんとなく居心地のよさを感じてしまう。
それは、きっと、
二人ともジョルジュを「一人の人間」として扱ってくれるからだろう。

 擁護されるべき子供、ではなく、
知能指数にあっただけの人、として。

 父は、学校のことに口出しをしない。
母のように、あれこれ指示を出さない。
ただ、質問した分だけ、返ってくる。
勉強にしても、母は年齢に合った学習をさせようとしていたが、父は違う。
どんな勉強をしていても、自由にさせてくれる。
苦手な教科を克服させようなんて、考えていない。
だから、楽、なのだ。

 それはたぶん、子育ての経験なんかないし、
子供を育てるという意識が薄いからなのだろう。

 それでもいい。

 学校では、ギムナジウムに入れるだけの成績はあると言われたが、
とりあえず小学校に入って様子を見ることにした。慣れるまで。

 

 スコルピオン、この屋敷の主は、この屋敷を自虐的に「幽霊屋敷」と呼ぶ。
由緒ある家系らしく、近所では「お屋敷」と呼ばれていた。

 ジョルジュの住んでいたニューヨークの高級マンションとは、まったく違う。
時代が時代なら、わんさか使用人がいたことだろう。

 アメリカとドイツでは、歴史の長さが違う。

 屋根裏部屋に地下倉庫。探検すべきところはたくさんあった。

 特に屋根裏部屋は、ジョルジュの興味をそそった。
古い、あらゆるものが詰め込んである。

 アールヌーボーのスタンド、チッペンデールのアームチェア、
マイセンの壷。

 ハードカバーの初版本。

 屋根裏部屋で時間を過ごしていたとき、スコルピオンが上がってきた。
珍しく休暇がとれ、代わりに、ヘルガは病院の夜勤を入れていた。
いつもそう。スコルピオンが屋敷にいるとき、ヘルガは仕事を入れた。
それは、誰かが幼いジョルジュのそばにいなければいけないからだ。
彼らは、そんなことは言わないけれど。

「面白いものが見つかったか?」

 木箱に入った本を、ジョルジュは出しているところだった。

「これ、おじさんが読んだの?」

「ああ、そうだな。子供の頃。
グリム、ミヒャエル・エンデ、トールキン、トルストイ・・・」

 ジョルジュは、スコルピオンが好きだった。彼は博学だ。
でも、父とは違う。

「母が昔読んでくれました。エンデの時間泥棒の話」

 クスリ、とスコルピオンが笑う。

「自分で読むと、また違った世界が楽しめる。
好きなのを持っていくといい。埃ははたいてな」

 エンデの「モモ」を取り出し、ジョルジュの手に乗せる。

 それから思い出したように、木箱の奥を探った。

「モモは時間泥棒から時間を取り戻す」

 そう言いながら、ジョルジュの手の上の本に、懐中時計を乗せる。

「動くんですか?」

「さあな。時間泥棒から時間を取り戻したら、
動くようになるかもしれない」

 本を抱え、懐中時計をひっくり返す。年代ものだ。

「これ、おじさんの?」

「私の祖父が私の父に譲り、私の父が私にくれた」

「大切にしなかったんですか? 
こんな木箱の奥に押し込めたりして」

「時間泥棒に盗まれた。見つけたのはお前だから、これはお前のものだ」

 見つけたのはおじさんじゃないですか。
そう思うも、口には出さない。
このアンティークな時計は、それほど魅力的なものだった。

「おなかがすいたら降りてきなさい」

 そう言い残して、スコルピオンは降りて行った。

 

 スコルピオンと過ごす夜は、貴重だ。

 特にその夜は、昔話の英雄の話を交わした。
火の山、ドラゴン、魔法使い。

「おじさんって、意外とロマンチストなんですね。
子供の頃は英雄になって、悪い魔法使いを倒したかったクチですか」

「そうだな。でも、英雄は一人でなるものじゃない。
サムがいなかったらフロドは英雄にはなれなかった。
何かを目指すには、支えてくれる人が必要だ」

 何かを含むような言い回し。

 わかっている。ここで生活するようになって、すぐにそれはわかった。
疲れて帰宅したスコルピオンが、
ヘルガの顔を見たとたんに表情が和らぐのを。ヘルガもまた、同じ。
そうやって、支えあっているのだ。

 わかっているからこそ、
ジョルジュはあえてその話を言及したりしなかった。

 代わりに、屋敷の中を見回す素振りを見せる。

「この屋敷は、魔王の迷宮みたいですね。
鍵のかかった部屋がひとつだけありますけど、
あれは魔王の玉座へ続く扉ですか?」

 ふ、とスコルピオンが笑う。今まで見たことがないくらい、悲しげに。
聞いてはいけないことを聞いてしまったのだ、とジョルジュは悟った。
何度か父に訊ねたことはある。
だがやはり、微笑に誤魔化されて、答えは得られなかった。

「・・・・・そうだな。魔法の鍵が見つかれば、開くかもしれない」

 魔法の鍵。

 それが何なのか、その時のジョルジュが知る由もなかった。

 

 翌日、ヘルガが病院から戻ってくると、
スコルピオンは入れ替わりで仕事に出かけた。

 自分のせいで、二人が一緒に過ごす時間がないのだと、
ジョルジュはわかっている。

 うん、もう少ししたら、アメリカに帰ろう。

 もう少ししたら。

 帰宅した父と、早めのブランチを取る。
そこでジョルジュは、
昨夜スコルピオンからもらった懐中時計を父に見せた。

「ロンジンの手巻き時計ですね。修理に出せば、きっと動きますよ」

 ぱっとジョルジュの表情が明るくなる。

「では、午後修理に持って行きましょうね」

 嬉しそうにするジョルジュを見るのが楽しいらしく、
ヘルガも微笑む。

「ね、お父さんもエンデとか読んだんですか? 
グリムとか・・・」

 おかしそうにヘルガは苦笑する。

「ミヒャエル・エンデ、日本人と結婚した作家ですね。
1929年生まれで、父親は画家。
シュタイナーの影響を強く受けています。
グリム兄弟は19世紀の文学者。
ドイツ語辞典を作った人でもあります」

 目を丸くしてヘルガを見ていたジョルジュは、
ふん、と唇を尖らせた。

「つまらないヒト。物語は読まないんですか?」

「読みますよ。作者の経歴や時代背景を考慮しながら」

「僕が聞いているのは、
ファンタジーを楽しまないのかってことです」

「作者のそのとき置かれていた状況が、
空想物語の中に色濃く反映されます。
私は、作られたキャラクターと一緒に空想世界を旅することはありません」

「リアリスト、なんですね」

 落胆したようにため息をつくジョルジュに、
ヘルガは肩をすくめる。

 一度だけ、旅をしたことがある。本当は。
それは、スコルピオンという英雄と一緒に、世界を目指す旅。
あれは、御伽噺の世界のようだった。

 楽しかった。

 もう、夢は覚めてしまったけれど。

 つまらなそうにパンを千切っていたジョルジュは、
あの鍵のかかった部屋の方を見る。
何度訊ねても、きっと父は答えてはくれないだろう。

 秘密の部屋。

 あの秘密の部屋が開くとき、自分はもっと父を理解できるだろう。

 たぶん。

 

 食事の後、ジョルジュは父と買い物に出た。
時計の修理も頼むために。

「トルストイは?」

「1828年生まれの、ロシアの小説家。
代表作は『アンナ・カレリーナ』や『戦争と平和』など。
後年、児童文学も手がけています」

「ジュール・ヴェルヌ」

「1828年、フランス生まれの小説家。
代表作は『海底2万マイル』」

「ジキルとハイド」

「作者はスティーブンソン。1850年生まれ」

「エドガー・アラン・ポー」

「1809年アメリカ生まれ。
推理小説の先駆けとなった作家」

 知っている言葉を、次々と口に出していく。
と、ヘルガがその説明を出す。
まるで、百科事典を調べているように。

 その問答は面白い。

 知らないことはないんじゃないかと思えるほど。

「ディズニー」

「1901年アメリカ生まれの漫画家」

「ディズニーランドに行った事は?」

「ありません」

「ジェットコースターは得意ですか?」

「乗ったことはありません」

 合わせていた歩調を速め、父の前に回りこむ。

「子供の頃って、どんな遊びをしてたんですか?」

「たぶん、あなたが遊びと称するものを経験したことはありません。
学校と、家庭教師と、図書館と」

「じゃあ、今までで一番楽しかったことは?」

 ジョルジュを凝視したヘルガは、
何かを思い出すかのように表情を緩める。

「・・・・・スコルピオンと・・・一緒にいたとき」

「今でも一緒にいるじゃないですか」

「出会ってからの二年が、一番楽しかったですね」

 ふうん、と応えて、また隣に戻る。

 そう、結局、
この人はあのスコルピオンという人と一緒にいることが一番なんだ。

「趣味とか、ぜんぜん違うのに」

 嫌味っぽくつぶやく。ヘルガはおかしそうに笑った。

「そうですね。でも、あの人と話していると、楽しいでしょう? 
自分のいる現実とは、別世界のような気がして」

「おじさんって、ファンタジー世界の住人なんですか?」

「そうかもしれませんね」

 英雄。ヒーロー。昔も、今も。

 逆に、スコルピオンは、現実世界に戻ってきてはいけない。
息子と並んで歩きながら、ヘルガは空を見上げる。
あの人の現実は、できるなら永遠に鍵をかけておいた方がいい。

 あの部屋が、開くことが、決してないように。

 否それは、ヘルガの願望か。

 遠ざけておきたい、現実。

「お父さん?」

 ジョルジュに腕を引っ張られ、ヘルガは我に返った。

「時計屋さん、ここでしょう?」

「ごめんなさい、そうです」

 苦笑いをして、ヘルガは息子の背を押して時計屋に入っていった。  

 

 

 

 特別な用があるときでなければ、
ヘルガは散歩を楽しむような人ではなかった。
いや、たぶん、そんな時間がないのだろう。
ジョルジュに頼まれれば、いやな顔をせずに屋敷を出たが、
そうでなければ部屋にこもって本を読んでいる。
医者というのは、大変な職業なのだ。
それは、母を見ているから知っている。

 あらかた必要な店などの場所を覚えてしまうと、
ジョルジュは父の手を煩わせないよう、
一人で散策に出かけることにした。

 暗くなる前には帰ると約束をして。

 ベルリンは新旧が混在している。
スコルピオンの屋敷のように、
びっくりするほど古い建物があるかと思えば、
新しいビルやショッピングセンターなどもある。

 キリスト教徒の多い国でもあるから、古い教会も多い。

 見事な彫刻を施された教会の前で、ジョルジュは足を止めた。
すばらしい建築だとは思うが、寂れて見える。
観光客の多い繁華街から外れた、わりと古い住宅街の中にあるせいか。

 ニューヨークにいた頃、教会に行った事は何度かある。
だが、ジョルジュ自身は信者ではない。
いや、一応名目上はプロテスタントで、聖書を読んだこともあるが。

(聖書はね、世界で一番読まれているファンタジー小説なのよ)

 母はそう言っていた。そのとおりだと思う。
結局は、自分も父と同じ現実主義者なのだろう。
神など、存在しない。

 父なら、そう、父なら、きっと空で聖書を暗唱するだろう。
その意味や時代背景の解説付きで。

 そう思うと、なんだか面白い。

「お祈りを?」

 ハッと気付くと、教会の前に少年が立っていた。
ジョルジュと同じか、2,3才上くらいの。

「あ、・・・いえ」

 ここでの生活が半月になるとはいえ、友達も作らず、
誰かに話しかけられるなどめったにないことなので、
ジョルジュは口ごもった。それに、

(ボクはシンジャじゃない)

「どうぞ」

 にっこりと微笑んで、その少年はジョルジュを中に手招いた。
断る理由も見つからず、なんとなく中に入る。
お祈りのやり方くらいは知っている。そんな時、なんて言うのか。
当たり障りのないやり方を。そういう雑学は、母から教わった。

(何でも知っておくと便利よ)

嫌味な天才と馬鹿にされないために、雑学は必要なのだと。

「私はオスカーといいます。
あなたは、この辺りの住人ではありませんね? 
観光客、ですか? ドイツ人ではないようですが?」

 中はやはり閑散としている。平日の昼間なんて、そんなものか。

 ジョルジュはオスカーという人物を見た。
不思議な雰囲気のある少年だ。銀色の髪、聖職者の着るような服。

 この教会の、司祭の子供だろうか。
カソリックなら司祭は結婚できないから、司祭の見習いとか。

「父はドイツ人です。
ただし、ドイツ人をゲルマン民族と限定して指すのであれば保障はもてません。
純粋なゲルマン系は、少ないと聞きますから。
父は自分がどの民族に属するのか、話すことはないので。
母はアメリカ人です。
でも、純粋なアメリカ人はアメリカ大陸の先住民だと母は言っていました。
だから、アメリカ人のほとんどは移民だと。
母は白人なので、イギリスかフランス、あるいは別の国の移民かもしれません。
だとしたら、僕はただの混血で、何人かと答える事は容易ではありません。
すべての人類の祖先は、
一人のアフリカ人女性のDNAに由来するという研究結果も出ているので、
僕を含めたすべての人はアフリカ人になるのかもしれません。
もし国籍だけで言うのであれば、僕はアメリカ人です」

 驚いたように少年はジョルジュの話を聞いていた。

 こんな話し方をするから、友達ができないのだ。
それはわかっている。でも、それでもいい。べつに、友達なんかいらない。

(だって僕も、父さんと同じように、子供の遊びに興味はないから)

 目をしばたたいたオスカーは、冷笑する代わりに、にっこりと笑って見せた。

「面白い発想ですね」

 面白い?

 思わずジョルジュもニヤリと笑ってしまう。

「人類すべてがアフリカ人、という発想は宗教に反しますが」

「では別の言い方をします。
すべての人類はアダムとイヴに由来するので、
人種の区別は無意味です」

 面白そうに笑いながら、オスカー少年は右手を差し出してきた。
思わずジョルジュもその手を握る。

「僕は、ジョルジュ」

「ではジョルジュ、奥でお茶でも?」

 子供なのに、ずいぶんと大人びたことを言う。
そんな人並みはずれた雰囲気が、ジョルジュの興味をそそった。

「少しだけ」

 

 ジョルジュは、すぐにニューヨークに帰るつもりでいた。

 その時は、まだ。

 ジョルジュの知らないところで、ヘルガは息子を正式に認知し、手続きを済ませた。

 もしこのままドイツに居つくのなら、
自分の籍に入れようとキャサリンに申し出る。
もう少しして落ち着いたら、本人の意見を聞こう、とキャサリンは応えていた。 

 その時は、まだ。