その家は、映画にでも出てくるような古風な二階建ての屋敷だった。 裏のガレージに車を停める。ガレージも広く、あと二台は車が停められそうだ。 そして、ヘルガの言っていたとおり、大型のバイクが一台停めてある。 「これが、BMWのGT?」 興味深げにバイクを眺めるジョルジュに、ヘルガは頷く。 それから二人を促して、表に回り、大きな木製の玄関ドアを開けた。 「ただいま帰りました」 まるでホラーハウスのような屋敷の風体に、 まだ幼いジョルジュは母親の手をしっかりと握った。 奥のリビングのソファーには、一人の男が座って新聞を読んでいる。 ヘルガの声に、男は顔を上げて、 「おかえり」 と返答する。そして、ヘルガの連れて来た母子に不思議そうな目を向けた。 「お久しぶり、元気そうね」 見知っているのか、にっこりと微笑む母親をジョルジュは見上げる。 「ジョルジュ、あの人がうわさの男よ」 冗談めかした口調。ジョルジュは眉を寄せる。 「紹介するわね。私の息子よ」 前方に押しやられ、ジョルジュは頭を下げる。 「私と・・・・ヘルガの子供」 スコルピオンが目を見開き、本当か? とヘルガの方を見る。 ヘルガは複雑な表情で頷いた。 「初耳だって言いたいんでしょう? そりゃそうよ。 さっきまでヘルガ本人も知らなかったんだもの」 新聞を乱暴に脇に置き、スコルピオンは立ち上がった。 そして、ジョルジュに歩み寄り、 ヘルガがそうしたのと同じように膝を落として少年と視線を合わせる。 じっと見つめられ、ジョルジュはその青い瞳に魅了される。 「・・・・そうか。では、本当だったんだな」 「何が?」 「アメリカ留学中に、ヘルガがキャサリンと付き合っていたって言う」 口に手を当て、キャサリンがくすくすと笑う。 ヘルガは、どんな顔をしてスコルピオンにそのことを話したのだろう。 「よろしく、坊主。私がこの幽霊屋敷の主だ」 「ボクはボウズじゃありません!」 きっぱりと答えると、スコルピオンはおかしそうに笑い、立ち上がった。 「まあ座れ。コーヒーでも淹れよう」 スコルピオンがキッチンに去ると、ヘルガは二人をソファーに促した。 しばらくして、スコルピオンが3人分のコーヒーと、 一人分のミルクを持ってくる。差し出されたミルクに、 ジョルジュは一人だけ子ども扱いされたみたいで口をへの字に曲げる。 それさえお見通しだというようにスコルピオンは唇の端を吊り上げて笑い、 もともと座っていた場所に腰掛ける。ヘルガは、その隣に立った。 「・・・ヘルガ・・・さん、は、どうして座らないんですか」 ジョルジュの言葉に、ヘルガとスコルピオンは顔を見合わせ、 苦笑しながらヘルガは別の椅子に座った。 「ついクセなもので」 「相変わらずね」 キャサリンはヘルガのそんなクセをよく知っているようだ。 ジョルジュだけが何もわからず、疎外感を感じる。 しばらく大人三人は世間話を口にした。 ジョルジュはミルクの入ったカップを両手で持ちながら、 父と、この屋敷の主を交互に見やる。 母は、父は大切な仕事と大切な人がいて、 ドイツで暮らしているのだと言っていた。 大切な仕事とは、もちろん医者としての仕事だ。 なら、大切な人とは、この人なのだろうか。 もちろん、そうだろう。幼いながらも、なんとなくジョルジュは、 父にはきっとドイツに恋人がいて結婚でもしているのだろうと思っていた。 自分と母は捨てられたのだと。特にそれで恨むつもりはない。 自分は、アメリカで母と幸せに暮らしてきたから。 母はいつも屈託がなく、ジョルジュの父を誇りに思っているようなことを言っていた。 とても頭のいい人だと。 こうもあっさり子供の存在を受け入れてしまうことに、 ジョルジュは拍子抜けしていた。それに、ここにいるもう一人の男も。 母の口調からだと、父の大切な人、=恋人、だと思っていた。 たぶん、そうなのだろう。 性別は別としても、恋人だとして、 自分の恋人に子供がいるってことを、こんなに簡単に認められるものなのだろうか。 いやたぶん、簡単に認めるってことは、 きっと自分には関係のないことだと思っているからだ。 キャサリンは海の向こうの人で、もう何年も会っていないし、 連絡さえ取り合っていない。 そして、今日という日が過ぎれば、また海の向こうに去っていく。 この二人にとって、 ヘルガの昔の恋人(なのだろうか?)に子供がいようといまいと、 関係のないことなのだ。 結局は、ヘルガという男にとって、 ジョルジュという子供は存在意義のないもの、なのだ。 ミルクのカップを抱きながら、 ジョルジュはそんなことをぐるぐると考えていた。 「・・・・でね、キンダー・ガーデン(幼稚園)でさじを投げられちゃって、 エレメンタリー(小学校)に入れられちゃって。 まだ六歳なんだけど、三年生のクラスに入れられちゃっているの。 クラス担任は、もう教えることがないとかへそ曲げちゃってて。 頭がいいからって上の学年に入れられても、結局は体が小さいから、 ちょっとかわいそう。近所で同学年の友達もいないしね。 アインシュタイン・アカデミーに初等科ができたから、来年度から入れるつもり」 「あそこは全寮制でしょう?」 「まあね。でも、頭がいいってだけで周囲から浮いちゃうよりはマシかな、と思って」 ふと、ジョルジュは話題が自分のことになっていることに気がつく。 「でね、アカデミーに入ったら休みの融通も利かなくなるし、 今のうちに一度こっちに来ておこうと思ったわけ。 小さいけど、いろいろわかっているから。父親がどんな人か知りたいって言うし」 ね? と母親に微笑みかけられ、ジョルジュは素直に頷く。 素直な子を演じながら、ジョルジュは、 本当はちょっと違うけどね、と頭の中でつぶやく。 大きい連中の中で浮いてしまうのは、さして気にならない。 べつに、友達も欲しいとは思わない。 アカデミーの寮に入りたいと言い出したのは自分で、 そう言ったのは英才教育を受けたいからではなく、 母親の苦労を軽減してあげたかったから。 母は優秀な産婦人科医で、仕事を誇りに思っている。 でも、小さな子供がいるせいで、思う存分勤務に集中することができない。 いつもへとへとに疲れていて、それでも家事も育児もこなそうとする。 そんな母が、見ていて痛々しくなったのだ。 それにつけ、父はどうなのだろう? 子供がいることも知らず、医者として悠々と功績を挙げている。 大切な人って何? あんまり自分勝手じゃないか。 だから、母に、父親に会いたいと無茶を言った。 本当は、母は会いに来るつもりなんかなかったし、 このままでいいと言っていたが。 でも、ジョルジュはどうしても会って一言文句を言ってやりたかった。 アカデミーに入るのは、それからだ。 もしお父さんって人が、ドイツで結婚しているとしたら、 文句のひとつで終わらせようと思っていた。 なぜなら、それ以上は相手の女性がかわいそうだと思ったからだ。 でも、この状況は・・・どうなのだろう? 「お母さん、ボク、ヘルガ・・・さんと一緒に住みたい」 突然の息子の言葉に、キャサリンが飲みかけのコーヒーを噴出す。 「はあ? 何を言っているの?」 無理に笑おうとする顔が、困惑に歪んでいる。 母を困らせるつもりはなかったが、父親を困らせたいとは思っていた。 もし最初から父親が取り乱したりしていれば、こんなことを言うつもりはなかった。 あまりにあっさりしすぎているので、父親の真意を知りたいと思ったのだ。 自分は、父親にとって、どうでもよい子供なのか。 「お母さんはいつも言っていたじゃないですか。 女性が一人で妊娠できるわけじゃないって。 父親はその義務を果たすべきだって。 だったら、ボクの父親もその義務を果たすべきです。 今までお母さんが一人でボクを育ててきたのですから、 今度は父親がそれをする番です。 お母さんが今まで犠牲にしてきたものを、 今度は父親が犠牲にすべきです」 言葉を失ったキャサリンは、金魚のように口をパクパクさせる。 まさか息子がそんなことを考えていたなんて。まだ小さい子供なのに。 ジョルジュは父親をじっと見つめた。 取り乱す姿を見たかった。 そんなこと、できないと言うのを期待していた。 だって無理でしょう? 今まで自由にしてきたのだから。 自由に仕事をして、自由に恋人と過ごしてきて、 今更、今初めて会った子供を養育するなんて、不可能だ。 ヘルガも、キャサリンと同じように、 こんな子供に指摘されるのが意外だというように目を丸くしている。 どんな正論でも、子供が言うと真実味が薄れる。 さすがにヘルガも、返答に困っているようであった。 無理だ、できない、と言えば、 ジョルジュは先ほどの言葉を撤回するつもりでいた。 端から、本気ではない。ただ、自分の存在をアピールしたかっただけなのだから。 「その子の言っていることは、正しい」 最初に口を開いたのは、意外にも父の恋人、スコルピオンという男だった。 「本気でここで暮らしたいと思っているのであれば、尊重すべきだ」 視線がスコルピオンに集まる。 「そうだろう? ヘルガ」 ヘルガはまだ困惑しているように視点が定まらない。 「ジョルジュ、と言ったな? お前は頭がいい。 たぶん、お前は自分の存在が否定されなかったことに苛立っているのだろう。 頭がいいから、見ず知らずの子供をつれてきて 『あんたの子供だ』とキャサリンが言ったとき、 それを否定しなかったヘルガに違和感を感じているのだ。 ヘルガは自分の感情を整理して話すのが苦手だからな、私が説明してやろう。 ヘルガはキャサリン、お前の母親を信頼している。 私はそれを知っている。遊びで女と付き合えるような奴じゃない。 たぶん、その時は本気だったのだ。 だから、キャサリンが嘘をつく女じゃないことを知っている。 そのキャサリンが『ヘルガの子だ』と言うのだから、 それを全面的に受け入れたのだ。 私も、彼女がそのようなくだらない嘘をつく女じゃないことは認めている。 だから、お前をヘルガの子供だと認める。 それに、何よりヘルガに似ているしな」 似ている、と言われて、ジョルジュは顔をしかめる。 「自分の作り上げた理論が正しいと思っている。 そうだろう? これは正論だ、と。そこに感情はない。 だがな、ジョルジュ、人間は感情の動物だ。 お前は正論ぶって冷たい言葉を投げかけ、 そこで感情が返ってくることを期待している。 ヘルガがお前に何の感情も抱いていないということを、否定したいのだ。 簡単に言えば、親に対する反抗。そうだろう?」 ずかずかと言い当てられ、ジョルジュは唇を噛む。 「それで、不器用な父親なら、どう答える?」 ヘルガの方を見る。ヘルガはジョルジュの方を見て、肩を落とした。 「正直、困惑しています。 ええ、あなたの言うとおり、 私は理論で説明できないことを感情論で話すのは苦手です」 「できないわけじゃない」 「それは、相手があなただから」 スコルピオンを横目で見て、わずかに頬を染める。 それだけで、ジョルジュは二人の関係が理解できた気がした。 「キャサリンには、申し訳ないことをしたと思っています。 知っていれば、ドイツに帰ってきたりはしなかった」 「それは困るわ。 だって私、スコルピオンみたいにあなたのことをすべて抱擁することなんて、 できないもの。 あなた、スコルピオンといるときだけ、 本当に笑ったり怒ったりするのよ。 私はあなたのことが好きだけど、本当に笑わせることなんてできなかった。 取り繕って夫のふりなんて、して欲しくないわ」 すみません、とヘルガは歪んだ笑みを作る。 「ほら、そういう笑い方をする」 指摘され、またヘルガはうなだれる。 「ジョルジュくん、の言うことは、正しいと思います。 私もその責任を負うべきです。 ですから、こちらで暮らしたいと言うのであれば、 それは引き受けるつもりです」 ジョルジュは、ミルクのカップをテーブルにたたきつけた。 「イヤならイヤって、言えばいいじゃないですか!」 子供っぽい声色に、ハッとヘルガが顔を上げる。 「本当は、認めたくないんでしょう? 認めているふりをしているだけなんでしょう?」 息を荒げるジョルジュに、ヘルガは眉を寄せ、 そしてやはり「ごめんなさい」と謝った。 「私・・・・わからないんです。 私自身、親に愛された記憶など、あまりないもので。 正直、いつも親の元を離れたいと思っていたので・・・」 追い詰められたとき、いつもそうして助けを求めているのだろう、 ヘルガはスコルピオンの方を見る。 スコルピオンはジョルジュの方に視線を送り、口を閉じる。 ヘルガは息を吸い込んで、一度深呼吸をした。 「よくわからないのですけど・・・・あなたを紹介されたとき、 なぜか、嬉しいって思えました。 キャサリンに迷惑をかけてしまったことは申し訳ないのですけど、 小さいあなたの存在が、嬉しく思えました。 もし一緒に暮らしてくれるのでしたら、それはやっぱり嬉しいのだと思います。 ただ、ここはスコルピオンの家です。 ですから、私一人の意見では決められません」 ジョルジュは母に視線を送る。キャサリンは両手を広げてみせる。 「ヘルガに必要なのは、私じゃなくて、そこにいる口の達者な嫌味な男だって事。 私の隣で無理して作り笑いをされるより、 私はヘルガが一番自然で幸せになれる場所にいて欲しいって思うのよ。 わかってくれる?」 次に、スコルピオンの方を見る。 「口の達者な嫌味な男は、ヘルガのためなら何でもしよう。 ヘルガが望むなら、息子を引き取るのは歓迎だ。 この家は広くて、空いている部屋がいくつもある。 ただ問題は、ヘルガも私も多忙で、家にいる時間は少ない。 使用人を雇って、ほとんどの面倒を見てもらうことになるが、 それでもよいか?」 「ボクは何もできない子供じゃありません! 一人で留守番くらいできます!」 「だめです!」 唐突に、感情的にヘルガは口をはさんだ。 ジョルジュは驚いて口をあけた。 「子供を一人で留守番なんてさせられません! ・・・・・私、病院をやめます」 「何を言っているの?!」 今度声を荒げるのは、キャサリンの方。 「私はそんなつもりでこの子を連れてきたわけじゃないわ!」 立ち上がったヘルガは、ジョルジュの前に行って、跪いた。 そして、キャサリンを見上げる。 「医者を辞めるわけではありません。 ・・・実は、すっと前から連邦中央病院からオファーが来ていまして。 外来専門の初期治療より、 難しい患者さんの手術などを担当する専門医にならないかと。 実際、病院では簡単な治療や入院手術は行いますが、 高度な治療が必要となれば専門の病院に転院させてしまいます。 結局私は技術屋ですから、専門医の方が合っていると。 私の上司からも薦められていたんです。やっと決心がつきました。 非常勤でもいいからと言われているので、何年かはそれで働こうと思います。 それなら週末はお休みをいただけますし、平日も夕方には帰ることができます」 ジョルジュの目をまっすぐに見て、ヘルガは微笑んだ。 「ごめんなさい、私、間違っていました。 スコルピオンの言うとおり、 あなたは私があなたをどう思っているかが知りたいのでしょう? 一般論的に父親は子供の扶養義務があります。 ですから、私にはあなたを養う義務があるわけです。 あなたは私がそれを行使すべきと言う。 そして私もそれを受け入れるべきだと。 でも、違うんです。私はね、親に愛されたいと思っていました。 それが叶わず傷つくくらいなら、 親の愛情なんてものを最初から否定してしまおうと。 だから、あなたに対して私にあるのは『義務』なのだと。 それは間違いです。 あなたを空港で見たとき、私が感じたのは『義務』ではありません。 あなたを抱き上げたいと思いました。『義務』だからではありません。 うまく説明することはできませんが、 私、あなたと一緒にいたいと思います。 不思議ですね。ほんの何時間か前まであなたの存在さえ知らなかったのに。 今はあなたの存在が嬉しい。 あなたを生み育ててくれたキャサリンに感謝します。 イヤでも認めているふりをしているわけでもありません。 あなたが本当に一緒に暮らしてくれるのなら、どんな無理も通しましょう。 あなたがキャサリンと暮らしたいのなら、 それは仕方のないことなので諦めます。 でも、全寮制のアカデミーに入るくらいなら、 ここで私が勉強を見てあげます。どうですか?」 ヘルガに見つめられ、その目を見返していたジョルジュは、 すっと視線を落とした。 認めたくなかったのは、自分の方だった。 母を捨てた父を、ひどい人間だと思いたかった。 自分を捨てた男を、いつまでも思い続けている母を、理解できなかった。 ぽとり、と床に水滴が落ち、ジョルジュはそれを不思議に眺めた。 なんだ、これは? (涙?) もういい、ごめんなさい、ボク、アメリカに帰ります。 そう言うつもりで口を開くが、言葉は出ない。 「・・・・ヘルガさんは、お母さんの事、どう思っているんですか」 「かけがえのない友達。尊敬する女性。 そして、ともに腕を磨く医者としてのライバル」 顔を上げると、水滴が頬をつたう。 ヘルガはそれを指でぬぐうと、そっとジョルジュを抱擁した。 「キャサリンがいなければ、今の私は存在していません。 いくら感謝してもしきれないくらいです」 「ボクは、愛し合って生まれた子供ではない、のですね」 一瞬、ヘルガの腕に力がこもる。 「・・・・あの時・・・・私には彼女が必要でした。それは本当です」 ジョルジュの母を、愛しているとは決して言わない。言えない。 「ねえ、ジョルジュくん、私と一緒に暮らしてみませんか?」 そうなんだね、お母さん。そういうこと、なんだね。 ジョルジュは、こくり、と頷いた。 突き詰めてしまえば、結局・・・・。 一晩考えた挙句、ジョルジュは父とドイツで暮らすことを決めた。 アカデミーの寮に入るなら、母親と離れて暮らすのなら、 それはどこでも一緒だから。 それに、父親を憎めないし、父の大切な人、あの男にも魅力を感じる。 悔しいけど、 母と同じように、彼らが「好き」なのだ。 帰ってきたくなったら、いつでも帰っておいで。 母はそう言った。 父と暮らすことを決めたとき、ジョルジュは、 すぐにニューヨークに帰ることになるだろう、と思っていた。 この街で、『彼』に出会うまでは。