それからの1年間は、怒涛のように過ぎていった。

 壁の崩壊は、青天の霹靂。

 そのニュースはドイツ中を震撼させ、狂喜を呼んだ。

 が、スコルピオンは感傷に浸る暇さえなかった。

 あと二ヶ月・・・・・。

 ほんの二ヶ月、彼女が・・・・・。

 そんなことを考えても仕方はない。

 過ぎてしまった過去は、取り戻すことはできないのだから。

 休みは一ヶ月に一度、あるかないか。

 それでも、半日でも駆け足でベルリンに戻り、
ほんのひと時ヘルガと濃密な時間を過ごし、また駆け足でボンに戻る。

 ヘルガもまた、多忙を極める。

 ろくに医者にもかかれなかった病人やけが人が、
少しでも質の高い医療を求めて押し寄せる。
喜びと同じくらいの混乱が、街中を満たす。

 

 スコルピオンは、消息のわからない息子を、探すつもりでいた。

 だが、そんな私的な事情は後回しにせざるを負えない。

 翌年夏には、統一条約に調印。

 ベルリンの四カ国占領の終了。

 秋には正式に統一され、
40年以上続いた(そして今後100年は続くと思われた)ドイツの分断は、
終わりを告げた。

 そして、40年以上も「仮に」置かれていた首都は、
ボンからベルリンに戻すこととなった。

 

 スコルピオンもまた、ベルリンに戻ってきた。

 完全な移転には、まだ時間はかかるし問題も山積みだが、
いずれベルリンは統一ドイツの象徴となるだろう。

 スコルピオンがベルリンの自宅から、
長時間かけて出勤することを決めたとき、
多少の反対はあったが、受諾された。
その代わり、専門の運転手が引っ付いて送迎することになる。
それは仕方のないことだ。

 

 空っぽだったあの屋敷は、またスコルピオンの「家」になった。

 ろくに片付けも整理もされていないままだった屋敷を、
人を雇って掃除させ、整理し、スコルピオンはピアノの部屋に鍵をかけた。

 処分する気はない。

 自分がこの屋敷の主でいる以上、
ピアノの部屋は永遠に彼女のための部屋なのだ。

 

 スコルピオンが屋敷に戻って一週間。
次の休みに、アパートを引き払ったヘルガが、同居人となった。

 それは、子供時代からの憧れでもあった。
いつか、ヘルガが成人し、親の保護を必要としなくなったら、
一緒に住もうと約束していたから。

 紆余曲折を経験し、その夢はやっと現実になった。

 

 休日、庭に水をまくヘルガをぼんやりと見つめる。
ここにヘルガがいること、当たり前のようにそこに存在していることが、
どんなに幸福であるか。

「庭の花を抜いて、好きな植物を植えるといい」

 玄関先に立って、ヘルガを眺めながらそう言う。
ピアノを処分しなかったことに、ヘルガは異論を立てなかった。
鍵をかけ、スコルピオンの思い出の中に大切にしまってしまったことにも。
だから・・・・・せめて、この庭だけは好きにさせたい。そう思った。
クリスマスローズは、それを好きだと言った女性を迎えることのないまま、
生い茂っている。
全部抜いてしまうことは心が痛むが、
ヘルガがそれを望むのなら、抜いてしまってもかまわない。

「好きな植物なんか、ないですよ。
私、植物とか花に興味はありませんから」

 意外だ、というようにスコルピオンが眉を上げる。

「見た目がみすぼらしいから、雑草を抜いたり、
枯れてしまうのがかわいそうだから水をあげているだけです。
知りませんでした?」

「てっきり、花が好きなのかと思っていた」

 水をまき終え、ホースを片付けながらヘルガが苦笑する。

「スコルピオンは、あまり私のことを知らないのかもしれませんね」

 ヘルガのことはすべて知っているつもりでいたのに・・・・。

「・・・・そうかもしれないな」

 自意識過剰だったか。

「なら、これから新しい発見をする楽しみがあるというわけだ」

 静かにヘルガは笑う。

 これからは、ずっと一緒なのだから。

 

 

 

 そんな慌しい生活の中、再び転機は訪れた。

 ヘルガがキャサリンと再会するきっかけとなったのは、
ドイツで行われた学会だった。
彼女は産婦人科医としてのキャリアを積んでいた。
小児医療に関する学会で、偶然再会し、だがお互い多忙で、
ゆっくり話をする暇もない。
そのときはお互いの連絡先を交換する程度で別れた。

 そしてその後すぐ、キャサリンから電話が来た。

 遅い夏休みが取れたので、ドイツに行く。少し会って話がしたい、と。

 何の話かは、ヘルガは訊ねなかった。
それほど重要なこととは思わなかったからだ。

 運良く都合がついたので、ヘルガは空港までキャサリンを迎えに行った。

 そして、初めてその子供に会った。

 

「名前はジョルジュ。あなたの子よ」

 

 ヘルガに似た明るい柔らかな金髪の少年は、
値踏みをするようにじっとヘルガを睨んでいる。

 ほんの数秒、ヘルガは呆然と立ち尽くした。

 めまぐるしく記憶をさかのぼる。

 そうか、あの時、彼女は妊娠していたのだ。
だから、顔色が悪く、必要以上に早くヘルガをドイツへ追い返そうとしていた。

 なぜ、気付かなかったのだろう?

 答えは簡単。当時、ヘルガはスコルピオンのことしか考えていなかった。
彼女を思いやる余裕は、なかった。彼女もそれに気付いていた。
だから、こんな薄情な男をさっさと追い返し、
一人で産んで育てようとしていたのだ。

 愚かな自分を、自嘲する。

 ヘルガは膝を落とし、少年に視線を合わせると、自然と表情を緩ませた。
不思議と疑問はわかない。そうか、自分の子供、なのか。

「はじめまして、ジョルジュ」

 右手を出す。少年は拍子抜けしたように母親を見上げ、
初めて紹介された父を見、その右手を見下ろす。
年齢以上に頭のよい少年は、「父に会わせてあげる」という母の言葉に、
修羅場を想像していた。こんなにあっさり認められるとは、思ってもいなかった。

「知らなくてごめんなさい」

 あっさり認め、さらりと謝る。

 少年は、もう一度母を見上げた。

「知らなくて当然でしょう? 隠してたんだもの」

 飄々と母は笑っている。

「は・・・・じめまして・・・・」

 恐る恐る手を出すと、ヘルガは強く少年の手を握り、抱擁してきた。
まるで、何年も会えなかった家族に、やっと会えたかのように。
今、初めて会ったのに。

「こんなところで立ち話もないですから、
・・・・キャサリンさえよければ、家に来ませんか? 車ですぐです」

「家って、あいつの家でしょう?」

「ええ」

 やっぱりイヤですか、とヘルガの表情が微妙に歪む。
ヘルガは、妊娠しているキャサリンより、
自分を必要としていないかもしれないスコルピオンの方を選んだ。

 でもヘルガは知らない。そんなヘルガを、そんなヘルガだから、
キャサリンは愛したのだし、彼の子供が欲しいと願ったのだ。

「そうね、あいつの家を見ておくのも、悪くないわ」

「すみません」

 ばつが悪そうに苦笑して謝りながら、ヘルガはジョルジュを抱き上げた。

 あ、とジョルジュは驚きの声を上げる。

「長旅で疲れているでしょう? 荷物も持ちますよ」

 片手で少年を抱き、もう片方の手でキャサリンのボストンバックを持つ。
華奢でそんな風に見えないので、少年は目を丸くした。
そんな息子に、キャサリンはウインクして見せた。

「この人、けっこう力持ちなのよ。
いい機会だから、車まで運んでもらいなさい」

 キャサリンは若くて美人なので、けっこう男性にモテたが、
本人は誰とも付き合うそぶりは見せず、
ましてや下心のある男に息子を触らせることさえ拒んだ。
だから、こんな風に若い男の人に抱き上げられるのは、
ジョルジュには初めてのことだった。

 はじめて紹介された父の腕は力強く、そして、暖かい。

 それまで思い描いていた否定的考えが、
さらさらとどこかに零れ落ちていく。

(この人が、お母さんの愛した人なんだ)

 そう納得すると、ジョルジュはこの男の人の負担にならないように、
身体を預けて抱かれやすい体勢をとった。 

 

 駐車場に置いてあった車は、年代物の赤いフォルクスワーゲン・ビートル。
車の前で降ろされたジョルジュは、不思議そうに車を見つめた。
母から、父は優秀な外科医だと聞いていたから、
もっと裕福なイメージがあったのだ。
ヘルガの着ているスーツは、確かに仕立てのよい高級そうなものだった。
なのに、こんなおんぼろの車?

 2ドアの後部席に二人を乗せながら、

「狭くてすみません」

 と謝る。

「スコルピオンの車を借りられればよかったのですけど」

「あいつなら、サンダーバードにでも乗ってそうね」

 狭いシートに埋もれながら、キャサリンが相変わらずの悪態をつく。

「国産車ですけどね」

「ベンツ?」

 ジョルジュが口をはさむと、ヘルガはにこやかに「そうです」と応えた。

「お休みなので運転手が私用に車を使いたいと言って。
それで、貸してしまったんです」

「運転手付きなの?」

 興奮したジョルジュの問いに、ヘルガは苦笑いをする。
事情を知っているようなキャサリンは、口に手を当てて笑っている。

「それで、あなたがビートル?」

「車は普段あまり乗りませんから。
知り合いが車を買い換えたときに、これを譲ってくれたんです。
ちょっとした買い物とかには十分ですよ」

 ヘルガは運転席に乗り込んで、キーをまわす。
エンジン音は快調のようだ。さすがドイツ車。古くても頑丈。

「それに、最近BMWのGT買ってしまったので、車まで買う予算がなくて」

 ゆっくりと駐車場を出ながら話すヘルガは、ちょっと楽しそうだ。

「BMWのGTって?」

 ジョルジュが母に問う。キャサリンはわからないというように肩をすくめる。

「バイクです」

 バックミラーをちらりと見て、ヘルガが答える。

「通勤には、車よりバイクの方が早いですから」

「意外と危険な男なのね」

 キャサリンの言葉に、またヘルガが笑う。

 ジョルジュは、この男の人がわからないと思う。
見た目は細くて優男風で、頼りなさげなのに。

 それに、運転手付きのベンツに乗っているスコルピオンって、誰?

「そういえば、あいつ、ベルリンに戻ってきているんだ?」

「ええ。ボンまで通勤していますよ。
ですから、疲労で居眠り運転しないように運転手を付けられているんです」

「首都はベルリンになるんでしょう?」

「取り決めでは。でも、首都移転なんか、そう簡単にはできませんよ。
各省庁がベルリンに移設されるまで、もう何年かかかるでしょうね」

「あなたがボンに行くことはなかったんだ?」

「ベルリンの病院を紹介してくれたのは、キャサリン、あなたですよ」

「まだそこにいるの?」

「そうです」

 穏やかに会話を進める母と、初対面の父を眺めながら、
ジョルジュは不思議な感覚を味わっていた。

 気の知れた友人。

 それにしても、あいつって、誰?

「お母さん、さっきから話しに出てる『あいつ』って、
誰なんですか?」

「私からヘルガを奪った人」

 え? と目を丸くする息子に、
キャサリンは笑いながらその髪をくしゃくしゃと撫でた。

「うそ」

 うそ? 

 普段から冗談ばかり言う母は、どこまでが本当なのかわからない。

「本当ですよ」

 前方を凝視しながら運転するヘルガの表情は、
至極真面目で、そして、悲しそうに見えた。