昨夜は、強い風が吹いた。

 小雨交じりの嵐は、空気中の塵を吹き飛ばし、
大地を清め、新たな朝を呼んだ。

 朝の光は神々しく、そして、暖かなぬくもりを与えてくれる。

 

 窓から差し込む朝の光に、眠りの淵から呼び戻される。

 冬が近づいているというのに、なんて暖かい。

 洗いざらしのシーツの感触。
ベッドに染み込んだスコルピオンのにおい。

 何年ぶりだろう、この感覚。安らかで、平穏で、愛しい。

 少年時代、こうして彼のベッドで目覚めるのが、何よりの幸福だった。
まだ半分夢の中に居ながら、お互いの身体を求め、
うつらうつらしながら抱き合い、そのぬくもりを確かめ合う。
繰り返される、キス。大切な時間。

 誰にも支配されない、二人だけの時間。

「スコルピオン・・・・」

 無意識に名前を呼び、ヘルガは目を覚ました。

「?!」

 とたん、がばっと起き上がる。
そこに居るはずの人物は、わずかな体温を残して消えていた。

 不安。

 母親を見失った子供のように、ヘルガはベッドから飛び起きた。

 

 服も着ず、裸足のまま階段を駆け下りる。

「スコルピオン!」

 名前を呼びながらキッチンに駆け込むと、
そこは芳しいコーヒーの香りに満ちていた。

「おはよう。よく眠れたか?」

 これは、幻影?

 あまりにも焦れすぎて、幻を見ているのか。

 見慣れたはずの風景。

 スコルピオンは、一人キッチンに立って、コーヒーを煎れていた。

「ス・・・・・」

「そんなかっこうで降りて来るな。また襲いたくなる」

 はたとヘルガは立ち止まり、自分のあられもない姿を見下ろした。
とたんに体中が羞恥で熱くなる。

「すみません」

 あわてて、また階段を駆け上って行く。
背中に、スコルピオンの微笑を感じながら。

 

 しばらくして、再び降りて来たヘルガを見て、
一瞬スコルピオンはその姿に見惚れた。

 今度は、スコルピオンの方が幻影に惑わされた気分になる。

 そこに立っているのは、きちんとネクタイを締め、凛としたヘルガの姿。

「髪・・・・」

 ヘルガは、二階の洗面所で髪を切ってきた。見慣れた姿。

(俺の、ヘルガ)

 肩でそろえた髪、細い縁の眼鏡。
背が伸び、大人っぽくなってはいるが、間違いなく、
スコルピオンの愛したヘルガの姿がそこにあった。

「切った、のか」

 多少照れくさそうに、ヘルガは自分の髪を触り、

「おかしいですか?」

 と訊ねる。スコルピオンは首を横に振った。

 ダイニングテーブルには、簡易的な朝食が並べられている。
少年時代、ヘルガがスコルピオンのために料理をすることもあったが、
たいてい朝食はスコルピオンが作っていた。簡単なものだが。

 そして、スコルピオンの煎れたコーヒー。

 自分の分にはミルクだけをたっぷりと入れ、
ヘルガの分にはそれに砂糖も入っている。

 昔のように、テーブルの角に向かい合わせて座る。
最も近い距離で、見つめ合うことのできる定位置。

 スコルピオンは、ヘルガの眼鏡に触れた。

「まだ、かけていたんだ?」

「私が近視なのは知っているでしょう? 
あなたの前でだけ、外していたんです」

「なぜだ?」

 近い距離で見つめあいながら、切なく微笑む。

「昔の自分と・・・・決別したかったから。
あなたの前で、昔のままでいる自信が、なかったんです。
自分は変わったんだって、そう思い込みたくて」

 だから、髪も伸ばした。

 無駄な抵抗だったとしても。

 髪を触るスコルピオンの手を引き寄せ、そっと口づけをする。
スコルピオンは、そんなヘルガの頬を撫でる。

「お前には、辛い思いをさせた」

 目を伏せるヘルガの頬を両手で包み、
スコルピオンは自分の方を向かせる。

「何もかも失った俺の犠牲に、したくなかった。
お前は、俺から離れて、自分の歩むべき道を進んで欲しかったんだ」

 目を上げてスコルピオンを見るヘルガの瞳は、緑色に揺らぐ。

「ちゃんと説明して納得させる自信が、なかった。
たぶん、怖かったんだ。
俺自身。お前と決別すると宣言する勇気も自信もなかった。
だから・・・・お前にばかり辛い決断をさせた。ヘルガ、許してくれ。
いつだって俺は、お前のことを忘れたことはない」

 ヘルガは唇を開きかけ、言葉を出す代わりにスコルピオンに口づけをする。

「俺を、憎んでくれればいいとさえ、思った。ヘルガ・・・」

「愛しています。たとえ、あなたが他の誰かを愛そうと。
私のことを忘れようと。私は、あなただけを愛しています」

 夢の続き。

 昨夜、愛し合ったのは、幻ではない。

 コーヒーの香りのする、長い長いキス。

 ふと、空腹を思い出す。

 やっと長いトンネルから抜け出た、安堵。

 二人は、しばらく無言で食事を口に運んだ。

 ゆっくりと、半分ほど食べたところで、
スコルピオンはやっと口を開いた。

「病院に戻れ」

 え? とヘルガが顔を上げる。

「お前のすべき仕事に、戻れ。俺も、ボンに戻る」

 ヘルガの表情が、困惑に歪む。

「俺は、お前を俺の犠牲にしたくない。
今更、この6年間を無駄にはしたくない。
お前は、医者としての仕事に戻れ」

 カツン、と音を立ててフォークを置く。
ヘルガはスコルピオンの袖口を掴んだ。

「どうして・・・? 私、あなたのそばにいたい」

 子供のように駄々をこねるヘルガに、
スコルピオンはその顎を掴んで自分に引き寄せた。

「ヘルガ、お前の主は、誰だ?」

「え?」

「お前の主は、誰だ」

 質問を繰り返す。ヘルガはまっすぐスコルピオンを見て、

「あなたです」

 と応える。

「あなたです、スコルピオン。私はあなたのもの。
あなたは私の命」

 そう答えるヘルガの唇に触れ、
スコルピオンは昔ながらの強い視線でヘルガを射抜く。

「そうだ。これは、命令だ。病院に戻って、医者を全うしろ。
俺の命は、お前が握っている。俺のために、戻るんだ。

 休暇のたび、俺はベルリンに戻って来る。お前に会うために。
お前の存在する場所が、俺の帰る所なんだ」

 一度目を伏せてから、ヘルガは悲しげに口元で笑んで

「はい」

 と答えた。

 

 

 

 その日の午後。

 ヘルガは一度アパートに戻って着替えてから、出勤した。

 当然、無断欠勤に対しての叱咤が待っている。

 院長室で、ヘルガは1時間も怒りに満ちた厳重注意を受け続けた。
その間、一言も反論せず、ただ謝り続ける。

「確かにキミは天才かもしれないがね、常識が欠けているのだよ! 
命を預かる医者としての責任を、軽んじているようでは困る!」

 はい、はい、申し訳ありません、
すべて自分の不覚と致すところです・・・・。

 真摯に謝り続ける若すぎる青年の態度に、病院長の怒りも鎮まっていく。
と、院長室のドアがノックされ、外科部長が入ってきた。

「お取り込み中申し訳ありません。院長、お客様が」

「客?」

「ええ、どうしても院長にお目通りをと」

 外科部長は院長に何やら耳打ちをし、
院長は不思議そうに首を傾げながら立ち上がった。

「それは、珍しい客だな」

「先方も多忙だそうなので、手短にと。職員用ラウンジでお待ちです」

「うむ」

 院長はヘルガに、今後の勤務については外科部長とよく話し合うように、
と言い残し、出て行った。ヘルガは、深く頭を下げて見送った。

 院長が出て行った後、部長と呼ばれるにはまだ若いその医者は、
大きくため息をついた。

「いいタイミングだ」

 そして、ヘルガにニヤリと笑いかける。

「救出成功」

 

 尻尾を丸めた子犬のように、ヘルガはその男の後をついて行く。
職員用の出口から出る。陽は傾き、肌寒さが戻ってくる。
木立を少し進むと、職員及び来客用(患者ではない)の駐車場に出る。
舗装された正規の道ではないが、ヘルガはその小さな木立が好きだった。
人通りがなく、静かで、鳥の声がする。
外科部長は、それを知っていて、わざわざそこにヘルガを連れ込んだ。

「さて」

 人気がないのを確認してから、彼は病院の外壁にヘルガを押し付けた。
モルタルの壁が冷たい。

「ドクター・ヘルガ。説明してもらおうか? 
私が24時間以上の勤務をしなければならなかったわけと、
キミの頬の傷と、髪を切った理由を」

 ヘルガはミラーを見上げて、目を細める。
院長同様、釈明をするつもりはない。

 いくら、世話になっている直接の上司であっても。

「院長への来客ね、若い議員さんでね。
受付で、まず私を呼び出してくれたんだよ。
それから、院長への謝罪をって。変わった人だ。
わかっているんだな、ドクター・ヘルガに対しての処遇は、
院長ではなく私が握っているって。
一瞬会っただけなのに、よく見抜いたものだ」 

 ヘルガは応えず、ミラーを見つめ続ける。

「彼が言うには、実は自分は軽い精神疾患を患っていて、
休養のためにベルリンの実家に戻ってきたとか。
しかし日ごろのストレスから症状が悪化し、
家から出ることができなくなった。
そこで、古い友人のキミに来てもらって、看病してもらったのだと。
職業柄、安易に精神科の診察を受けることもできず、
ヘルガに迷惑をかけてしまったと言っていたよ。
もし自分のことでヘルガが病院から処罰を受けるようなことがあるとすれば、
それはすべて自分のせいだし、
改めて正規の診察を受けて診断書を出してもらって、
その上で謝罪をしたいと」

 ミラーを見つめるヘルガの表情に、その男は唇を吊り上げる。

「全部うそだって顔をしているな?」

「スコルピオンがそう言うなら、そうなのです」

 ヘルガの返答に、ミラーの方が驚かされる。

「でも、診察を受ける必要も、診断書を出す必要もありません。
私が自分の判断で彼に付き添っていたのですから・・・・」

 ピクリ、とミラーの頬が引きつる。
ヘルガがこんなに掴み所のない話をするのは、初めてだ。
自分に対して、常に実直でいたのに。

「まさか」

 ミラーはヘルガの傷のある唇をつねった。

「ただ恋人と一緒にいたかっただけ、
なんて言うつもりじゃないだろうね? 
顔に傷を作って、髪を切って、いったい何をしていたのだね? 
私はキミを信頼し、期待していたのに。
私はキミに裏切られたというわけか?」

 ヘルガが痛みに眉を寄せていると、突然それが消え、
代わりにミラーが小さく唸り声を上げた。

「スコルピオン!」

 冷たい目をしたスコルピオンが、ミラーの腕をねじり上げる。

「いけません。放してください。そういう話ではありませんから」

 ヘルガの言葉に、スコルピオンはすぐに手を離し、
「申し訳ありません」と頭を下げた。

 スコルピオンという男、人間の身体のつくりを熟知している。
あのままちょっと力を加えれば、腕の骨が折れていただろう。

 ミラーは、顔を上げたスコルピオンを、力いっぱい殴りつけた。

「何を考えているんだね、キミは?! 
私はポーランドの出身でね、
キミが若いときどれだけ名声をあげたか知らないし、
最年少の議員だとどれだけもてはやされているか知らないが、
私が大切に育てている若い医者に、
手を出すのは止めていただきたい! 
ヘルガ君の将来を潰すつもりか? 
一時的な感情で有能な医者の将来を踏み潰さないでくれ!」

 スコルピオンの唇から、ぽたり、と血が滴り落ちる。

「ご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした。
今後このようなことはいたしません。神に誓って」

「キミの神とは、誰だね?」

「自分自身、です」

 目を上げたスコルピオンの視線に、ゾクリと寒気がする。

 ヘルガは一切口を挟まず、様子を見守っている。

 二人のその落ち着きよう。感情的になる自分が馬鹿みたいだ。
ミラーはため息をついて頭を横に振った。

「誓いを破らぬことを願っているよ」

 そう言って、ミラーは白衣のポケットからベルを出して、
ヘルガの手に乗せた。

「今度は壊さないように」

「はい」

「それから」

 ヘルガの短くなった髪を、ぐしゃっと撫でる。

「短い方が似合う。私が妻子持ちでなかったら、
プライベートで誘うところだ」

 意外だ、というように、ヘルガの眉が上がる。
反対に、スコルピオンが顔をしかめる。
ニヤリと笑ったミラーは、ヘルガの髪にサッとキスをした。

「あなたがヘルガの上司としてでないのなら、今度は殴り返します」

 スコルピオンの言葉に、ミラーは両手を広げて見せた。

「すぐに私の部屋に来なさい、ドクター・ヘルガ。
今後の勤務について通達する。
昨日今日、キミの代わりに働いてくれた職員分は取り返さなければならないよ。
しばらく休みはないと思いなさい」

「はい」

 ひらひらと手を振って、ミラーは建物の中に入って行った。

 それを見送った後、ヘルガがスコルピオンに近づき、唇に触れる。

「大丈夫ですか? ドクター・ミラー、けっこう力があるから」

「俺を誰だと思っているんだ?」

 ふっとヘルガが微笑む。
そして、ハンカチでスコルピオンの唇についた血をふき取る。

「また、私のために頭を下げたのですね」

「それでお前が手に入るのなら、安いものだ」

 口元をほころばせて、ヘルガの頬に触れる。

「今から向こうに戻る。
亡命者銃殺の非難抗議文の作成とか、
犠牲者の身元公表の要望書とか・・・・
お前が帰ってから、本部から電話がひっきりなしだ。

 また電話をする。それまで、浮気なんかするんじゃないぞ」

 スコルピオンの言葉に、ちょっと驚いてヘルガが苦笑する。

「昔はそんなこと言わなかったのに。信用されていないんですか?」

「昔より、臆病になったのさ」

 軽くキスをしてから、スコルピオンは去っていった。

 振り向かずに、まっすぐ。

 

 お互いの心を取り戻すため、どれだけ遠回りをしたのだろう。

 どれだけ犠牲を払ったのだろう。

 

 その贖罪は、

 これからだ。

 

 

 

 

 その2ヵ月後。

 

 東ドイツは、東ドイツ国民の旅行の自由化を発表した。

 

 事実上、

 ベルリンの壁は崩壊した。