どれくらいそうしていただろう。 雲の切れ間から朝日が差し込み、ヘルガは泣きつかれた顔を上げた。 いけない、こんなことをしていては。 膝の上で、スコルピオンは眠っている。 力を込めてスコルピオンを抱き起こし、ベッドに寝かせる。 脈をはかり、安定しているのを確かめる。 毛布を肩までかけてやってから、散らばった注射器を拾い、ケースに片付ける。 昨夜、スコルピオンを殴って気絶させた後、救急車を呼んでもらった。 救急隊員に自分の素性を告げ、自分の患者だからと無理を言い、 安定剤と麻酔を分けてもらい、屋敷まで運んでもらった。 聖リヒト病院に報告はあがっているだろう。 そこの外科医が通常の手続きを踏まずに薬をもらい、 患者を病院に運ぶこともしなかった。 それに、今日は・・・日勤が入っていた。もう、勤務の始まっている時間だが。 医院長は規律には厳しい人物だ。かなり怒っているだろう。 でも、そんなことはどうでもいい。 クビになろうと、医師免許を剥奪されようと。 スコルピオンが苦しんでいる。 この人の、そばにいなければ。 たとえスコルピオンが、殺したいほどヘルガを憎んだとしても、 顔も見たくないほど嫌ったとしても、今は、この人のそばにいなければ。 次に目覚めたとき、正気に戻っていなければ、もう薬に頼ることはできない。 それでも、 「そばにいたい」 心臓を握りつぶされるような、切ない思い。 スコルピオンの中に、もう自分はいないのだとしても。 目が覚めたとき、自殺を図れるようなものが目に付くところにないのを確認し、 ヘルガはそっと寝室を出た。 洗面所に行き、鏡の中の自分を覗き込む。 ひどくやつれている。 もう1週間も寝ていないようだ。 顔を洗って、唇の傷を確認する。 もう血は止まっているが、念のためメディシンボックスを開けて中を漁り、 消毒液と止血テープで応急処置をする。 そばにあったタオルを濡らして、青く痣になっている頬を冷やす。 腫れるかも、となんとなく思う。 ボクシングをやっていた頃は、この程度の怪我は珍しくなかった。 本気で強くなりたかったから、毎日のようにスコルピオンのスパーを受けた。 スコルピオンも、本気だった。だから、スコルピオンの拳は、怖くない。 いや、知っているから、怖い。 スコルピオンは、ヘルガが自分以外の奴からパンチを食らうのを嫌った。 ヘルガに負けを許さなかった。特に顔を殴られるのは・・・・。 思い出すと、また胸が痛む。 ヘルガは、「スコルピオンのもの」だった。他の誰にも、触れることを許さない。 そんな、「彼のもの」であることが、あんなにも幸福であったとは。 昔の話だ。 もう、100年も昔の話。 伝説、逸話、御伽噺。 あの頃のスコルピオンは、そして自分も、もういない。 足元をふらつかせながら、キッチンに下りる。 空腹は感じないが、のどはからからだった。 水を飲んでから、思い出したように昨夜自分がソファーに脱ぎ捨てたコートを見やる。 ずっと、振動音がしている。 片手でタオルを押さえたまま、ポケットに手を突っ込むと、 緊急呼び出しのベルが、ずっと振動を続けていた。 これは、現実に戻る「鍵」。 現実なんて 現実なんて、残酷なだけだ。 ヘルガはベルの電池を抜き取り、それらをダストボックスに投げ入れた。 (キミには患者さんの命を預かる医者としての自覚はないのかね?) 「医者になりたかったわけじゃありません」 自分を叱咤する外科部長の、尊敬しているミラー医師の幻影に吐き捨てる。 なんだってよかった。 どうしても進路を決めなければならなかっただけ。 進路なんて・・・・どこにも行きたくなかったのに。 スコルピオンと一緒にいられれば、それだけでよかったのに。 なのに、なのにスコルピオンは・・・・・・ また涙が溢れてきて、唇を噛む。 愛しているって、言ったのに。ずっと一緒だと誓ったのに。 アメリカから、帰ってこなければよかった。 再会なんか、しなければよかった。 髪を伸ばしてめがねを外して、別人を気取ってみても、 少しも気休めにもなりはしない。 どんなに自分を偽っても、愛しい思いは少しも減らない。 ヘルガは階段を上り、スコルピオンの寝室に戻った。 ベッドサイドに跪き、眠るスコルピオンの手を握る。 冷たい手。 その手に頬擦りをし、キスをし、ヘルガはベッドにもたれかかった。 疲れていた。 疲れた。 スコルピオンに会うまで、ハードな勤務をこなしてきた。 会う時間を作るために。 最後にベッドで寝たのはいつだっただろう? 病院の仮眠室でちょっと横になった程度か。 そうでなくても、常に自分を激務に置いてきた。 よけいな感傷に支配されないように。 疲れた。 もう、疲れた。 スコルピオンに、愛されないことに、疲れた。 他の誰かを愛するなんて、無理。 (結局あなたは、スコルピオンのことしか考えてないのよ) キャサリンの言うとおりだ。 彼女は、どうしているだろう? ベルリンに戻ってから、一度も連絡をしていない。 彼女を、愛せればよかった。 愛するふりはできた。でも、彼女はそれを見抜き、愛されないことに拒絶した。 自分の居場所は、どこにあるのか。 職場? 病院? 一生懸命やっているつもりでも、どこか違和感がある。 自分の人生をかけるほど、情熱を感じるわけではない。 スコルピオンと、世界を目指していたときのような。 疲れた。 スコルピオンの手を握ったまま、目を閉じる。 体は重く、どろどろに疲れているのに、眠気は感じない。 頭の中で、耳障りの悪いベルが鳴り響いている。 ぼんやりと、時間だけが過ぎていく。 このまま、スコルピオンが目を覚まさなければいいのに。 そうしたら、ずっとこのまま自分だけのものであるのに。 人の声に、スコルピオンは目を覚ました。 部屋の中は薄暗く、部屋の隅のスタンドランプだけが灯っている。 夜なのか。 頭を回し、声のする方を見る。 ランプは電話台に置いてあり、小さな人影がぼそぼそと言葉を出している。 会話というより、独り言のような。 「・・・・・事情は話せません。今すぐ・・・・いいえ、出勤できません。 申し訳ないとは思っていますが・・・・・お怒りはごもっともです。 ・・・・・かまいません。・・・・はい。 クビになさりたいなら、ご自由に。 ・・・・・本当に・・・・・すみません。 なんでも、処分はお任せします。 ・・・・・・もうこれ以上は・・・・・・すみません。切ります」 力ない声で言った後、ヘルガは受話器を置いた。 小さく見える肩が上下して、ため息をつく。 しばらく人影は立ち尽くしていた。 スコルピオンは、次第に感覚が戻っていくのを感じた。 深い眠りから覚醒していくような。 「・・・・・ヘルガ」 擦れた声を出す。人影は振り向いた。 疲れきり、やつれ、それでも微笑もうと努力している。 「スコルピオン・・・目が、覚めたんですね? 気分はどうですか?」 ゆっくりと歩いてきて、 起き上がろうとするスコルピオンをそっと押し戻す。 「急に動かない方がいいです」 そう言いながら、脈を図る。 「ヘルガ、病院から、だな? あれからどれくらい経った? 仕事を休ませてしまったんだな?」 脈に手を当てたまま、ヘルガは俯いている。 スコルピオンはゆっくりと起き上がった。 めまいはするが、どうしても起きてヘルガに触れたかった。 「一日です。丸一日。・・・あなたを一人にするわけにはいかなくて。 それに、この顔で患者さんの前に出るわけにも、ね」 顔を上げたヘルガを見て、スコルピオンは眉を寄せる。 「俺が、殴った。そうだな?」 頬が腫れ、唇には青痣ができている。 スコルピオンはヘルガの顔を撫で、ほつれた長い髪をかきあげた。 懐かしい手触り。 「すまない。俺は・・・・・」 謝罪の言葉も思いつかない。 ヘルガのためをと思ってきたのに、結局、こんなにも傷つけてしまった。 「ねえ、スコルピオン、なんで・・・・・東に行ってしまわなかったのですか? 彼女のことを愛していたなら・・・・・」 悲しげな、心もとないヘルガの問い。 ずいぶんと泣いたのだろう、瞼が腫れている。 スコルピオンは、ヘルガの髪を撫で続けた。 愛しいヘルガ。 自分でもわかっていて、否定したかった本音。 「お前に・・・・会えなくなるから。今の地位など、未練はない。 だが、向こうに行ってしまったら、もう二度とお前に会えなくなる。 それだけは、耐えられない。 離れていても、ここにいれば、またいつかお前と会える。 お前の、言うとおりだ。 俺は・・・・・俺は、本気で結婚しようとなんかしていなかった。 お前を忘れるために、彼女を利用していたに過ぎない。 俺は、マレーネに謝罪しなければならない。 マレーネを・・・・お前以上に愛することができなかった・・・・」 顔を上げたヘルガの瞳から、涙が零れ落ちる。 「ヘルガ・・・俺は、間違っていた。 お前と離れることが、こんなに辛いなんて。 お前の人生を、俺の犠牲にしたくなかったんだ。 お前には、自分の道を歩いてほしかった。 俺といたら、お前は俺の影になってしまう。だから」 「だから、私を突き放した?」 ヘルガの零す涙を、指で掬う。 「なのに、忘れることができず、未練がましく、ここにしがみついていた。 何をどうあがいても、俺の心はお前に縛られているというのに。 結局、マレーネを死に追いやり、お前を傷つけた。ヘルガ・・・・」 頬に触れるスコルピオンの手に、自分の手を重ねる。 ヘルガは目を閉じ、そっとスコルピオンの唇に口づけた。 「私が・・・・彼女を死なせてしまったのですね」 「お前のせいじゃない」 「私のせいだと言って。あなたが、私のことを愛してくれていたから。 お願い。私、あなたに愛されないことが耐えられない。 もう、離れるのはいや」 しがみついてくるヘルガを、抱きしめる。 こんなにも、こんなにも、人は人を愛せるものなのだろうか。 離れたくない。たとえ死んでも。 たとえ、何を犠牲にしても。 たとえ、誰を犠牲にしても。 「愛してる、ヘルガ」 それが、どれほど残酷なものであろうと。 「もう、離さない」 どれだけ罪を犯すことになろうと。 スコルピオンは、ヘルガを抱いた。 数年前、そうしたように。 ずっと押さえつけてきた欲望は、獣のように猛り、その身体を貪る。 はじめて抱いたときのように 肉体の疲労が極限まで達していたヘルガは、スコルピオンの腕の中で意識を手放した。