スコルピオンは、苦痛の中、目を覚ました。

 閉めていないカーテンから、明けきらない朝の光が差し込んでいる。

 曇っているのか、部屋の中は薄暗い。

「気がつきましたか」

 自分を覗き込む顔。よく知っているのに、知らない顔。長い金髪。疲れた表情。

 誰だ、お前は?

 俺の知っているヘルガじゃない。

 俺の愛したヘルガじゃない。

「ここは、あなたの家です。昨夜、運びました。
安定剤を少し打ったので、眠れたと思いますが」

 その青年は、スコルピオンの脈をはかり、
サイドテーブルに置かれた注射器を片付けた。

 お前は、誰だ?

 スコルピオンは体を起こした。とたんに頭痛に顔をゆがめる。

「まだ寝ていた方がいいです」

 青年がスコルピオンの肩に手を置く。スコルピオンは、その手を振り払った。

「マレーネに、会いに行かなければ」

「何を言っているのです?」

「マレーネに、会いに行くんだ」

「あなたは東には・・・・」

 入国できないのでしょう? 
そう言って、ヘルガがスコルピオンの体をベッドに押し戻そうとする。

「マレーネが撃たれた・・・・安否の確認と、子供の消息を・・・・」

 焦点の定まらない目で、独り言のように呟く。

「投降すればいい・・・・東側の住人になると誓えば・・・・」

「馬鹿なこと言わないでください!」

 ヘルガはスコルピオンの肩を掴んで揺さぶった。

「撃たれたのが誰かなんて、わからないんです! 
亡命に失敗して射殺された人の身元は、発表されません! 
マレーネさんだっていう確信は、取れないんです! 
あなたが向こうに行けば、向こうの策略にまんまとはまるだけなんですよ? 
あなたは自分を捨てるつもりですか! 
そんなことして、マレーネさんが喜ぶと思っているのですか?!」

「うるさい!」

 振り上げたスコルピオンの右手が、ヘルガの頬を打つ。

「結婚すると約束した! 迎えに行くと約束したんだ! 
俺は行かなきゃいけない!」

 ベッドから飛び降りたスコルピオンの腕を、ヘルガは力いっぱい引っ張った。

「マレーネは殺された・・・・・俺が殺した! 
行って、マレーネを殺した奴を、この手で殺してやる!」

 正気ではない。

 ヘルガは歯を食いしばると、スコルピオンの腕を引っ張ってベッドの方へ振り投げる。

「落ち着いて!」

「黙れ! お前は誰だ? 邪魔をするな!」

 

 誰だ、って?

 ヘルガは、全身の血が抜けていくのを感じた。

 誰だ、って言った?

 

 今まで押し留めていたものが、せり上がってくる。
ヘルガは拳を握り、歯軋りをして、ベッドにもたれるスコルピオンを押さえつけた。

「そうですよ! あなたがマレーネさんを殺したんです! 
できもしない約束をして、放置して、あなたが見殺しにしたんです! 
そんなに好きだったら、最初から東に行けばよかったじゃないですか! 
何もかも捨てて! 
結婚の承諾が取れない? 何を甘ったれたことを! 
だったら亡命させればよかったんです! 方法はいくらでもあった! 
政治犯として確定されれば、西側政府が買い取ってくれた。
買い取るように、あなたのコネを使って仕向けることもできた。
第三国に連れ出して、西ドイツ大使館に駆け込むように指示することもできた。
東に親戚がいるのでしょう? 
だったら、安全にかくまってあげることだってできたはずです! 
何のための国会議員なんですか? あなたには、地位も権力も財産もある! 
それを全部駆使すれば、なんとでもなったはずでしょう? 
なのにあなたは、何もしなかった! 
本当は、結婚する気なんて、なかったんです!」

 スコルピオンのストレートが、ヘルガの顔に当たる。唇が切れて血が噴出す。

「黙れ! 黙れ!」

 スコルピオンの左拳。ヘルガはそれを避ける。
二発も食らったら、失神しかねない。が、体制を崩す。
よろめいた所を、スコルピオンが腕で押さえて床に叩きつける。

「そんなに俺が憎いか、ヘルガ!」

 憎い。

 ヘルガの瞳から涙が溢れ出す。

 憎い。

「憎いですよ! 私は・・・・私は、あなただけを見てきた。
あなただけのためにすべてを捧げて、あなただけのために生きてきた。
あなただけを愛して! なのにあなたは! 私を捨てたんです! 
私じゃないほかの女性(ひと)を愛して、私じゃない人のために正気を失って、
私じゃない人のためにすべてを捨てると言う! 
私にはあなたしかいないのに! あなたは私を必要としない!」

 叫びは嗚咽となる。

 スコルピオンはヘルガの細い首に手をかけた。

「・・・・・何も知らないくせに・・・・・!」

 力を込めると、ヘルガは苦しげに顔をゆがめ、スコルピオンの腕を掴んだ。
筋肉質の、力強い腕。

 この腕に・・・・

 もう一度、抱かれたい。

 抵抗することをやめ、悲しげにスコルピオンを見上げる。

(スコルピオン・・・・私、まだ、あなたを愛してる)

 言葉は声にならない。

 だが、その唇のわずかな動きに、スコルピオンは一瞬力を緩めた。

 その瞬間、ヘルガが馬乗りになるスコルピオンを、思いっきり蹴り上げる。

「!」

 転げ落ちてうずくまるスコルピオンのわきで、ヘルガは咽ながら体を起こした。
涙で視界がかすむ。
よろめきながら、サイドテーブルの上を漁り、液体の入った注射器を手にする。
それを背後に隠し、ヘルガは壁に寄りかかるように立ち上がった。

「スコルピオン」

 顔を上げたスコルピオンは、歪んだ表情をヘルガに向けた。

「私、あなたに嫌われてもいい。だけど、もう一度抱かれたい。
初めてしたときのように。めちゃくちゃにあなたに犯されたい。
私、あなたの腕の中で死にたい」

 立ち上がったスコルピオンは、ヘルガの首に手をかけながら、
噛み付くように唇を重ねた。キスと呼ぶには、あまりに獰猛な・・・・。

 そんなあなたの「熱」が愛しい。

 息も切れ切れに舌を絡ませながら、ヘルガは左手でスコルピオンの首を撫でる。
そして、右手に持った注射器を、正確に突き刺した。

「・・・・・」

 唇を離したスコルピオンは、いぶかしげな目をヘルガに向け、
そして、ゆっくりと崩れ落ちた。

 手にしていた注射器を投げ捨て、ヘルガは崩れるスコルピオンの頭を抱く。
そのまま、ずるずると床に座り込む。

 意識を手放したスコルピオンの頭をひざに乗せ、ヘルガは泣き続けた。

「それでも」

 乱れたスコルピオンの髪に口づけをする。
愛しくて、愛しくて、何度も、何度も。

「それでも、あなたには、生きていてほしいから」

 どんなに辛くても

 どんなに苦しくても

 

 あなたには、

 生きていてほしいから・・・・