この街は、どこを歩いても結局は壁に突き当たる。

 20年も前にできた壁は、街の風景の一部と化している。

 この壁がなくなることはないと、なくなることを願いながらも、誰もがあきらめている。

 西側から見る壁は、所々落書きがされ、単なる風景となっている。
が、東側から見る壁は、まったく様子が違う。

 壁の内側には監視塔が立ち、警備兵が銃器を持って見張り、
無人地帯や鉄条網があり、一般市民が壁に近づけないようになっている。

 見上げる壁の向こう側は、まったくの別世界なのだ。

 

 繁華街の喧騒を避け、スコルピオンとヘルガは住宅街を歩いた。

 若かりし頃、壁の前で夢を誓った。
それは思い出の場所であり、自分自身を戒める場所でもある。

 夜も更けはじめ、観光客の姿はほとんどない。
壁から数メートルのところに建つアパートも、窓の明かりは半分消えていた。
あのアパートの上階からは、東側が眺められるだろう。
眺めようという気があれば。

 風は肌寒く、人肌が恋しくなる季節。

 ほんの数年前、寄り添って歩いていた日々を思い出す。
まだほんの子供だった。夢を語れる、夢を語ることの許される子供だった。
孤独に震える子供は、寄り添い、お互いの存在を求め、温めあっていた。

 気持ちのすれ違いは、二人の間に隙間風を呼ぶ。

 こんな夜に限って、スコルピオンはマレーネのことを思い出していた。

(あなたの心)

 自分の心は、まだヘルガを求めている。なのに、手を伸ばすこともためらう。
彼女に対する、罪悪感。来ない手紙。出さない手紙。
いっそ、彼女に告白し、懺悔してしまおうか。
自分には、忘れられない、愛している人がいる、と。

「嫌な風」

 不意にヘルガが呟いた。

「え?」

 思いに浸っていたスコルピオンが足を止める。
ヘルガはスコルピオンを見て、悲しげに微笑んだ。

「私、やっぱり・・・・・・・・」

 動きかけた唇が、困惑に震える。

「ヘルガ?」

 一歩、近づく。冷たい風が、ヘルガの長く伸びた髪を巻き上げる。
スコルピオンは、手袋をしていない冷たい指で、ヘルガの唇に触れた。
熱い唇。

(あなたの、心)

 ゆっくりと顔を寄せ、お互いの呼吸がかかるくらいの近くまできたとき、
不意にスコルピオンは目を見開き、壁を見上げた。

 ほぼ同時に、ヘルガも「それ」に気付く。

 

『止まりなさい! 止まりなさい!!』

 

 監視塔の拡声器から聞こえる、冷徹な声。
アパートの明かりがいっせいに点き、窓から顔を出した住人が悲鳴のように叫んだ。

「亡命だ!」

 ヘルガの肩を掴んだまま、スコルピオンは立ち尽くしている。

「亡命だ! 女だ! 子供を連れているぞ!!」

 ヘルガの心臓が跳ね上がる。

 

 亡命。

 

 それの、意味するもの。

 

 周囲であがる叫び。

(誰か助けろ! 壁に引っ張り上げるんだ!!)

(無理だ! ああ、神よ!!)

 

 銃声。

 悲鳴。

 

(女が撃たれたぞ!)

 

 悲鳴、悲鳴、悲鳴。

 

『お母さん!!』

 

 子供の叫び。

「マレーネ!!」

 スコルピオンは、ヘルガを突き放すと壁に向かって叫んだ。

「マレーネ!!」

 監視塔からの銃声に、壁のこちら側も騒然とする。
家々から人が出てきて、東を呪う言葉を出す。
アパートの上階の住人が、
窓から転げ落ちるほど体を乗り出して状況を誰にともなく言っている。

「女は、だめだ! 子供は・・・・」

 

(救えない命は、あるんだ)

 ヘルガは目眩を感じ、地面に座り込む。

(救えない、命)

 壁の向こう。

 医者なのに。

 銃創の治療くらい、できる。

 ああ、この壁を乗り越えることができたら。

(誰か私にこの壁を越えさせて。怪我人の治療をさせて。
助かる命かもしれない。救える命かもしれない)

 

 サイレンの音に、ヘルガは我に返った。

 警官と、アメリカ軍兵士が住民の暴動を恐れて集まってきた。

「スコルピオン」

 震える足で立ち上がり、周囲を見回す。
スコルピオンは、二人の警官に取り押さえられていた。

 半狂乱になって、彼女の名前を叫んでいる。

(だめ、スコルピオン)

「だめ!」

 ヘルガが叫ぶと同時に、スコルピオンは警官を殴り倒していた。

「やめろ! 落ち着きなさい!」

 警官の言葉を無視し、その拳銃を奪うと、監視塔に銃口を向ける。

 駆けつけたアメリカ兵がスコルピオンに小銃を向けた。

「スコルピオン!!」

 ヘルガはスコルピオンにタックルし、拳銃を叩き落す。
スコルピオンは左手でヘルガの顔を狙うが、一瞬早くそれをよける。
ヘルガなら、できる。スコルピオンのクセは、知り尽くしている。
彼の拳の恐ろしさも。

 スコルピオンは、小銃を構えるアメリカ兵にも殴りかかろうとした。

(この国から出て行け! お前らが、壁を作ったんだ!)

「いけない! スコルピオン!」

 追いすがろうとするヘルガを肘で打つ。
それは顎にヒットし、ヘルガはよろめいて片膝をついた。
警官の一人がヘルガを助けようと手を出す。が、ヘルガはその手を押し戻した。

「スコルピオンを、止めなきゃ」

 怪我人が出ないうちに。

 止められるのは、自分しかいない。

「スコルピオン! あなたが殴るべき相手は、彼らじゃない!」

 精一杯のヘルガの叫び声に、一瞬スコルピオンの動きが止まる。
ヘルガは昔訓練した俊敏さでスコルピオンの懐に飛び込み、ボディに一発。 

 不意をつかれたスコルピオンが、体を折り曲げて顔を上げる。

「ヘル・・・ガ・・・?」

「ごめんなさい」

 ヘルガは、手刀をスコルピオンの後頭部に落とした。

 

 

 

 暗転

 

 

 

 暗闇の中、ピアノの音色が聞こえる。

 

(あなたの心)

 

 少女は、光の塊を差し出す。

 

(もう、なくさないでくださいね)