マレーネからの手紙が途絶えた。 多忙にかこつけて、確かにスコルピオンも手紙を書く頻度が落ちていた。 それでも、数ヶ月に一度は出すようにしていた。 返事が来なくなったのは、いつからだろう。 それに気付いたのは、休暇でベルリンに戻った時だった。 スコルピオンは、ピアノの前に座って、自分を責める時間が極端に減っていた。 それは、ベルリンに戻ると、ヘルガに連絡をとり、 数時間会って食事をする習慣がついていたからだ。 ヘルガは、スコルピオンの屋敷に入ることはなかった。 スコルピオンも、それを求めたりはしなかった。 ただ、外で会って、食事をしながら何気ない会話を楽しむ。 それだけだ。それだけでも、十分だった。 ヘルガの勤務の都合がつかなければ、すぐに会うことは叶わない。 それでも、なんとか時間を作って、一時間でもヘルガは出てきてくれた。 ほんの少しの間、顔を見るだけでいい。それで、安心する。 そんなことに心を奪われ、 スコルピオンはマレーネから手紙が来ないことに気付かずにいた。 自分を叱咤し、もう一度手紙を書こうと決心する。 そして、最後に来た手紙がいつだったか、確めるためにピアノの前に座った。 ピアノの上に並べられた写真と、積み上げられた手紙の束。 最後の手紙は、ヘルガと再会する少し前の消印だった。 つまり、もう半年以上手紙が来ていないわけだ。 便箋を持って来てペンを握るが、言葉が思い浮ばない。 必ず迎えに行くから。 その信憑性のない言葉は、書き飽きた。 ではどうすればいい? 何を書けばいい? あれから、何年経った? 子供は、何歳になった? 自分は・・・・・・ 何をしたい? 結局ペンを置き、ピアノの部屋を出る。 自分は、どうすればいい? (教えてくれ、ヘルガ) このまま、 『東西統一』という妄想に近い理想を掲げたまま、現実に忙殺され続け、 政治家としてろくな権限を与えられないまま、『夢見がちな若造』と罵られ続け、 自分は、どこに向うというのだろう。 1989年秋。 この国の、そして自分の、未来を憂う。 その日、日勤を終えたヘルガと、レストランで待ち合せをした。 何気ない世間話。お互い自分のことは、まるで他人事のようにぽつぽつと語った。 例えば、ヘルガがアメリカの医大でキャサリンと再会し、親しく付き合っていたこと。 (淡々とした口調ではあったが、スコルピオンは自分へのあてつけかもしれないと思った。 ヘルガは、彼女と付き合っていたと表現した。 それがどれくらい信憑性があるのか、スコルピオンにはわからなかった。 ヘルガが、女と付き合うなんて、想像もできなかったから) 例えば、スコルピオンが政治犯扱いされ、東へ二度と入国できず、 かのピアニストと会うことができないこと。 ヘルガはそれを聞き流した。 いや、その方がいい。それはあくまで報告なのだから。 お互い、昔のように何かを熱っぽく語ることはない。 静かに、言葉を選びながら、話をする。 会わない間は、色々と話したいことがあるのに、 実際に会うと言葉が見つからない。 時には、一時間も会話もなく食事をすることもあった。 ゆっくりと、ただ、一緒にいる時間を愛しむ。 今回の休暇は突然取れたもので、ヘルガの都合を合わせると、 レストランを予約する暇もなかった。 ヘルガが時間が取れるからと言って来たのは、昨夜遅くだった。 混み合うバーで向い合い、近況をぽつぽつ話し合っていると、 突然ヘルガを呼ぶ声がした。 「ドクター・ヘルガ!」 そこには、30代後半くらいのがっしりした体格の男が、にこやかに立っていた。 「ドクター・ミラー」 男を見上げたヘルガは、にこやかに立ち上がる。 「急に勤務を交代してくれなんて言うから、どんな急用かと思えば、デートでしたか!」 「すみません。出勤前にビール、ってことはないんでしょうね?」 「もちろん水で我慢していますよ。ところで、紹介していただけますかな?」 スコルピオンも立ち上がり右手を出す。 形式的に握手をしたあと、ヘルガはスコルピオンを紹介した。 古い友人で、今は連邦議員であると。 相手の男も、自分の勤務する病院の先輩外科医で、 いつも世話になっているのだとスコルピオンに紹介した。 「ああ! どこかで見た顔だと思いましたよ! 先月の議会中継、拝見しましたよ。若いのにすばらしい演説をなさる! しかし、私は理想を追うよりもっと現実を見て欲しいと思いますね。 観光地化するベルリンにおいて、 保険に加入していない外国人旅行者の医療現場での扱いについてとか。 都市部と地方の医療格差についてとかね」 この男、明確な議論がしたいのではない。 ただ、『若すぎる議員』『理想主義者』に嫌味が言いたいだけなのだ。 そういう態度をされることには慣れている。求められれば論破もしよう。 だがスコルピオンは、手短に済ませることにした。 「理想なくしてこの国の発展はありえないと思っています。 ドクター・ミラー、あなたは医療現場にどのような理想をお持ちですか?」 スコルピオンの切り返しに、その男は楽しそうに笑った。 「現場主義のドクター・ヘルガとは、ずいぶん違った理念をお持ちのようだ」 それまで黙って見ていたヘルガも、クスリと笑う。 「私は、理想を語るより目の前の傷を縫合している方が好きですから」 スコルピオンは、ちらりとヘルガを見て口元をほころばせる。 突然機械音がして、ドクター・ミラーはポケットから小型の箱状のものを取り出した。 「ああ、病院からの呼出しだ」 医師の緊急呼出用のポケベル。 「私は口が悪くてね。失言を許してください、スコルピオン議員。 あなたの目を見ていると、若者が理想を語るのも悪くないと思えますよ。 本当に、この国は変るかもしれない」 今度はミラーの方から手を出し、握手をする。 二言三言、ヘルガはミラーと患者の話をし、 ミラーはヘルガの長い髪をかき上げてその耳にそっと囁いた。 「よい夜を」 慣れているのか、ヘルガはミラーに 「急患が少ないことを祈ります」 と、微笑みながら言った。 その男は、もう一度スコルピオンに挨拶をし、出て行った。 再び席につくと、スコルピオンは軽い溜息をついた。悪態をつかれたからではない。 あの男とヘルガが親しそうにしていたからだ。だがそれは、口に出さない。 「いい人なんですよ」 ヘルガはそう言い、手にしたフォークで皿の上のグリーンピースを一つ突刺した。 「外来患者への対応など、ずいぶん教わりました。 技術や知識は持っていても、現場の経験にかなうものはありませんから」 器用に、もう一粒。 「気を悪くしないでくださいね」 それは、悪態をついたことか、親密さを見せたことか。 ヘルガは無意識に髪を耳にかける。そんな仕草も、艶がある。 スコルピオンは、意識的に前者についてヘルガが言ったのだと自分に言い聞かせた。 「悪口には慣れている。それに、あの男に悪気がないのはわかる。 普段は、年寄り連中からもっと酷く苛められるからな」 何かを思い出すように、ヘルガはフォークの先のグリーンピースを見つめている。 「あなたは理想を説き、私はその理想のために働く」 そうであった。あの若き日々。その時間が、永遠に続くように思えた。そう願った。 なぜ、こんなにも離れてしまったのだろう。 「私は時々、自分に無力感を感じます。私は、何もできない」 「日々、患者を救っている」 「救える命には、限りがあります」 グリーンピースを弄ぶのをやめ、 ヘルガは視線を落したまま指を組んでその上に顎を乗せた。 「私は私なりの理想を持って病院勤務につきましたけど、現実は思い通りにはなりません。 絶対に助けようと必死に治療をしても、駄目な時は駄目なんです。 生れたばかりの赤ん坊が、もう助からないってわかったとき、 医者はどうすると思います?」 スコルピオンは、眉を寄せる。 「ご両親に抱かせてあげるんです。お母さんの腕の中で天に召されますように」 額に指を付け、嗚咽のような溜息をつく。 「私にはそれが理解できませんでした。最後まで保育器の中で治療を続けるものと。 はじめてその現場に立会ったとき、ドクター・ミラーと口論になったんです。 結局、何のための治療か、誰のための医療か。私は叱られました。 救えない命は、あるんです。 救えない命なら、その死を尊ぶべきだと。 死も含めて人の命なら、医者はいったい何をすべきなのでしょうか」 天才ともてはやされ、自分の頭脳に絶対的な自信を持っていたヘルガが、 一人の医者として壁にぶつかり、苦悩している。 越えなければいけない壁は、あちこちに存在する。 スコルピオン自身、・・・・・ヘルガと再会するまで八方塞を感じていた。 不意にヘルガは顔を上げ、切なげに口元で微笑んだ。 「すみません、こんな話」 「いや」 ヘルガの『死』に対する苦悩は、あの事件に由来している。 1983年 7月7日。 ケンザキとタカネを止めることができなかったと、ヘルガは泣いた。 人の死は、ヘルガにとって乗り超えなければならない『壁』。 「お前は俺に、生きろ、と言った。だから俺は生きている。 俺を生かすのは、お前だ。医者になったのなら、なおさら」 スコルピオンを見つめるヘルガの瞳は、哀しい。 「出ませんか。ちょっと風にあたりたいので」 「そうだな」 先に立ち上がったスコルピオンは、女性をエスコートするようにヘルガの手を取った。 「ありがとう」 そう言って、ヘルガはそれ以上スコルピオンが触れることを拒んだ。