ドアを開けた時、スコルピオンはそこにいる青年が誰だかわからなかった。 長身というほどではないにしても、すらりとした体格をしていた。 育ちの良さのわかる細身のスーツを着こなし、手には重そうな革のカバン。 淡い蜂蜜色の髪はウェーブを描き、ゆるく結んで背中に垂らしている。 印象的な緑色の瞳は、驚いたように見開かれ、スコルピオンを見つめる。 メガネは、かけていない。 人が出てくると思わなかったのか、 青年は数秒唇を僅かに開いてスコルピオンを見つめ、 そして、目を細めてにっこりと微笑んだ。 「お久しぶりです、スコルピオン」 その声。その表情。 スコルピオンは、目の前の青年が、かつての親友、 あれほどまでに再会を夢見ていた愛しいヘルガであると、やっと気づいた。 「・・・・・・・ヘルガ・・・・・・・?」 「はい?」 青年は小首をかしげて微笑む。 「いつ・・・・・・ベルリンに?」 「一年程前」 「一年前?!」 なぜすぐに連絡をしてこなかったのか、思わず声を荒げる。 ヘルガは、困ったように眉を寄せた。 「あなた、ベルリンにいないじゃないですか」 ハッと己の現状に気づく。 「あ、ああ、・・・・確かに」 口ごもりながら答えると、ヘルガはおかしそうにくすくすと笑った。 「それに、忙しかったんです。こちらの病院に研修医として雇われまして。 勤務はほとんど休みがありませんし、 その合間を縫ってこちらの医大へ転入して、 単位を取りながら国家試験を受けて、卒論を書いて。 臨床研修を並行して行っていたので、短期間で学位をとることができましたが。 それでやっと少し時間ができたので、あいさつにと」 普通、経験の少ない者に医師免許は与えられないと医師会がごねていたんですけどね、 勤めている病院の医院長やNYでの医大の学長や大学病院での先生方が後押ししてくださって。 滑らかな口調でしゃべってから、 ヘルガは、しゃべりすぎたというように片手を口元に持っていった。 「たまたまこの近くを通りかかったら、 なんだかあなたがいるような気がして、来てみたんです。 本当にいたんで、驚きましたが」 見惚れるように、スコルピオンはヘルガを見つめる。 ずいぶんと、変った。 当り前か。別れてから、もう何年も経つのだ。 自分が、幼い日のヘルガをいつまでも追い求めていたことに気付き、苦笑する。 「おかしいですか?」 「いや、なんか・・・・お前、大人になったな、と、思って」 噴出すように、ヘルガは静かに笑った。 「あなたも」 そうかな、と肩をすくめる。そうだな。この何年かで、色々なことを経験した。 「入ってコーヒーでも」 入口を指示すが、ヘルガはゆっくりと首を横に振った。 「これから勤務ですので」 あっさりと断られる。なんとなく、断られるのはわかっていた気がする。 距離をあけたのは、自分だ。好きな女性がいると、ヘルガを突放した。 その後の事情を知らないヘルガは、距離を保って当然だろう。 それでも、淡い期待を断られ、落胆はする。 大人になったヘルガは、それはそれで綺麗だと思った。 まったく知らない人間でも、街ですれ違えば振り返るだろう。 「スコルピオン」 名前を呼ぶとき、少しだけ甘い口調になる。そこに、スコルピオンは熱を感じた。 「顔色が、悪いみたいですね。疲れているのではありませんか」 「まあ、な。政治家一年生はハードだから」 ゆっくりと、ヘルガの細い指がのびて来て、スコルピオンの額に触れる。 ボクサーには向かない、白くて細い指。 その指は、スコルピオンの記憶どおり、温かかった。 「熱が、ありますね? 37.5・・・くらいでしょうか。 あなたは平熱が低いので、7度以上の熱が出ると辛いはずです。 いつからですか?」 「さあ。今朝から、少しだるかったかな。 午前中は仕事をして、午後からこっちに来たんだが」 「あなたの平熱が低いこと、あなたの秘書は知らないんですね?」 「だろうな」 ふう、と溜息をついて、ヘルガは自分のカバンを漁った。 「アスピリンがあるので、あげます。 どうせ、買置きのクスリなどないでしょう?」 小さなビンを取りだし、スコルピオンの手に乗せる。 「食後に一錠。ビスケットとか、甘いもので食事を済ませてはいけませんよ。 ちゃんと栄養のあるものを取ってください」 カバンの中から、もう一つ。まるでマジックのようにりんごが一つ出てくる。 「これ、あげますから。りんご、好きだったでしょう?」 昔懐かしい言葉が、次々と出てくる。 ヘルガは、スコルピオンのことを知り尽している。 「食後に薬を飲んで、今夜ぐっすり眠れば、明日には熱は下がります」 薬ビンと、りんご。 まるで、スコルピオンが病気であるのを知っていたかのように。 見た目は変っても、そこから感じる安心感は変らない。 この安堵感は・・・・子供が親に感じるものかもしれない。家族に対する依存心。 自分が求めていたのは、「恋人」ではなく「家族」であったのかもしれない。 無条件で、安心できる場所、存在。 「今度、ゆっくり食事でも?」 誘いの言葉をかけてみる。一歩、引いて。 一瞬、迷いの表情を見せたヘルガだが、 すぐにスーツの胸ポケットからボールペンを取りだし、 スコルピオンの左手を取ると、手のひらに数字を羅列した。 「アパートの電話番号です」 手に触れる、ヘルガの熱。 「それから、私の勤めている病院の救急外来の電話番号。 私がいなくても、私の名前を出せば診察してもらえます。 辛くなったら、我慢しないで電話してくださいね」 ヘルガ本人にではなく、病院に電話しろと。 それは、明かな「距離」だ。 「ああ」 番号を暗記するように手のひらを見つめる。ヘルガは、「では」と体を離した。 「ゆっくり休んでくださいね」 ニコッと笑って背を向ける。 引き止める言葉は、思い浮ばない。 門扉へ続く小道の途中で、ヘルガは思い出したようにふり向いた。 「体調がよくなったら、花壇に水をまいてあげてくださいね。 クリスマスローズが枯れてしまいますよ」 それだけ言って、去っていく。 クリスマスローズ・・・・・。 ズキリ、と胸が痛む。 今のこの屋敷は、 ヘルガを拒絶している。 それでも ヘルガに会えた安堵感は、スコルピオンの胸を満たす。 屋敷の中に戻り、手帳の最初のページに、二つの電話番号を書き写す。 ありあわせのもので食事を取り、りんごを食べて薬を飲み、再びベッドに入る。 今度は、眠れる気がした。 ヘルガがいる。 お互いの心に隔たりはあるとしても。それでも、手の届く所にヘルガがいる。 いつでも会える。 (実際には、会いに行かないとしても) 触れることができる。 (触れることはないにしても) 温かな指の感触。気遣い。 自分を一番わかってくれる人物。 ヘルガがいるだけで、ベルリンは自分の故郷となる。 深い眠りの縁で、マレーネのピアノを聴いた気がした。 ピアノの前の彼女は、やさしく微笑みながら、 両手に包んだ光の塊をスコルピオンに差し出した。 (あなたの心) 微笑むマレーネの頬は、涙で濡れている。 (なぜ泣く?) 待つことに、疲れました。 それでも、あなたの幸せを、祈っています。 久しぶりにぐっすりと眠ったスコルピオンは、 朝には熱も引き、体調を取り戻した。 昨夜、何か夢を見た気がする。 漠然とした夢の不安をかき消すように、スコルピオンは庭に出て水をまいた。 ヘルガの育てていた白いバラ。 マレーネのために植えたクリスマスローズ。 今は、 自分の道をまっすぐ進むしかない。