スコルピオンは、一度西ベルリンに戻り、上司である叔父に報告した後、
結婚の申請書を提出した。

 結婚。

 思いつきのような決意である。

 彼女と、マレーネと、「国境を越えても結婚したい」という情熱があるのかと問われれば、
それは「否」であった。本当は、誰でもよかったのだろうと、自分でも思う。
もちろん、今まで出会ってきた女性の中で、
彼女だけがスコルピオンの心に入り込んできたのは事実だ。
だから、彼女と「結婚してもよい」と思えた。

 なぜ、結婚にこだわるのか。

 それは、自分に課す「責任」である。

 その「責任」でさえ、本当は何でもよかった。

 スコルピオンは、自分に「責任」を与えた。

 妻を持ち、家庭を築く。

 男としての「責任」。

 それは、生きる糧となる。

 過去の呪縛からの開放を意味する、新しい「責任」。

 

 屋敷に戻ったスコルピオンは、荷物を全て片付け、
がらんどうになったリビング隣の執務室
(ドイツ軍を率いていた頃、そこは総司令室となっていた)に、
ピアノを買って置いた。
ピアノを置くと、そこはまるで別世界のような風景になった。

 これでいい。

 過去の自分は、もういないのだ。

 それから、庭師を雇って、庭を整理させた。
ヘルガの育てていたバラは、庭の大半を占めるようになっていた。
その半分を抜き取り、クリスマスローズを植えた。色とりどりのクリスマスローズを。

 彼女を、迎えるために。

 

 屋敷の中を整理して、スコルピオンは思う。

 自分はここで、家庭を持つ。

 新たな家族を迎える。

 そうして、過去と離別したスコルピオンを、ヘルガはなんと言うだろう。

 ヘルガが、もう二度とドイツに戻ってこないなどということは、想像もしていない。
五年先か、十年先か、半年先か。ヘルガは戻ってくるだろう。
そして、またここを訪れるだろう。その時自分は、ここで別の「家族」を持っているのだ。

 その頃には、ヘルガは医者として成功しているだろう。

 お互い、別の道を全うし、そして再会をする。「友人」として。

 ヘルガとは、「友人」になれるだろう。お互いのことを知り尽した、「親友」として。

 スコルピオンは、それだけを考えていた。

 そしてそれは、スコルピオンの「希望」であった。

 また会う時のため。

 ヘルガと再会するために。

(マレーネを利用するのではない)

 そう自分に言い聞かせる。

(彼女を愛する。愛せる)

 ヘルガ以上にかと問われれば、それには苦笑するしかない。

(いいや、俺は、彼女を愛するのだ)

 彼女のために部屋を作り、庭に花を植える。

 それでいい。

 これで、いいのだ。

 

 

 

 しかし、スコルピオンの思いは、最悪の方向へ進んでいた。

 一ヵ月後、叔父からの知らせは、まさしく最悪のものだった。

「結婚は、受理されない」

 スコルピオンは胸騒ぎを抑え、眉を寄せて理由を問うた。
西と東に別れていても、結婚という法的処理に問題はないはずだ。

 叔父は、大きく溜息をつき、首を横に振った。

「いいか、よく聞け。結婚は受理されない。
理由は、お前がかつて『ドイツの英雄であった』からだ」

「おっしゃる意味がわかりません」

「そうだろうな。無茶な言いがかりだから。だが、それが理由なのだよ、スコルピオン。
しかも、お前は今、有能な政治家の卵だ。やがて、ドイツを動かすブレーンになるだろう。
だからなのだ」

 スコルピオンは、息が詰るのを感じた。呼吸が、苦しい。

 どういうことだ? まったく理解できない。

「これは東ベルリンの役人の言いがかりだという事を踏まえて聞け。
いいか。お前は子供の頃、両親が死んだ。
それで、お前の後継人が東のヘラ・ハイデンばあさんになった。それは知っているな」

「はい」

「ヘラは正式な東ドイツ国民。
つまり、ヘラが後継人ということは、お前は東ドイツ国民となった、というわけだ」

 スコルピオンの眉間の皺が深まる。

「私は、西ベルリンで生れ、西ベルリンで育ちました」

「わかっている。両親とも西ドイツ国民で、お前の国籍は西ドイツだ。
だが、向うはそう言っているのだ。お前は東ドイツの人間であると。
だがお前は、両親が死んだ後、西に残った。当然のことであるが。
東に行かなかったということは、すなわち「亡命」にあたる、
と東ベルリンの役人は言っているのだ。亡命は政治的犯罪。
つまり、政治犯であるお前に、国境を超えての結婚の申請権利はない、と」

 血の気が引き、目の前が真暗になる。

 どういうことだ?

 身に覚えのないことで、犯罪者扱い?

「ただし、お前が己の犯罪を悔改め、東に投降するなら、結婚の許可を出すそうだ」

 足の力が抜け、スコルピオンは、そこにあった椅子にへたり込んだ。

「私が・・・・・東に行けば、結婚を許可する?」

「そうだ」

 そんなこと、考えてもいなかった。

 東に行く?

 こんな形で?

 西ドイツ国民であり続けるために、両親亡き後、あの空っぽの屋敷で、
ひとり孤独に耐えてきたのに?

 子供が一人で、あの大きな屋敷で。

 泣くことも、弱音を吐くことも、自分を叱咤して堪え続けて。

「そこで、私の意見を言おう」

 叔父は、呆然とするスコルピオンの肩に、手を置いた。

「彼女のことは、諦めなさい。お前は有望で、将来がある。
私だけではなく、多くの者が、お前に期待をしている。
東に投降しようなんて馬鹿なことは考えるな。もちろん、申請は何度でも出そう。
だが、受理を期待するな。これは、美談として伝えてやる。
東ベルリンの悪行の一つとしてな。

 辛いだろうが、彼女のことは諦めるんだ。

 次の連邦議会選挙には、お前を押そうと思っている。
お前ほどのカリスマ性があれば、当選するだろう。
史上最年少の連邦議員だ。

 たった一人の女のために、お前の将来を潰すな」

 両手で口を抑え、背を丸めて俯く。

 これは、陰謀だ。

 東側の、そして、東を悪者にしたい西側の。

「スコルピオン」

 結婚すると、約束した。ベッドの中で。迎えに来ると。

「スコルピオン?」

「マレーネに会って、事情の説明を」

「それもできない。お前は、東に入国できない。『政治犯』だからな」

 なんてことだ。

 こんな事になるなんて・・・・・。

「代りに、使いの者をやろう」

「まさか、手紙や電話もダメなんて、・・・・ことは、ないでしょうね?」

「もちろんだ。そんなことまでは規制されない」

 大きく息を吸い、吐く。

「・・・・・一度、家に戻っていいですか。気持の整理をつけたいので」

「ああ。今日は、ゆっくり休んでくれ」

 ふらつく足どりで、スコルピオンは立ち上がり、事務所を後にした。

 

 屋敷に戻り、真新しいピアノの前に座る。

 こんなはずでは、なかった。

 マレーネに、嘘をつきたかったわけではない。

 彼女を傷つけるつもりはなかった。

 本気で、結婚を考えていた。

(お前が結婚をするのは、大賛成だ。お前に見合う女性を探して、紹介しよう)

 叔父は言った。

(私が結婚したいのは、マレーネだけです)

 スコルピオンは、そう応えた。

 彼女の、ピアノの音色を思い出す。優しい旋律。孤独を慰めてくれる。
彼女の、寂しげな微笑。

(あなたの心は、いったい誰が持ち去ってしまったのでしょう)

 マレーネも、気づいていた。
スコルピオンが、誰か、ここにいない誰かを思い続けていることを。
それでも、彼女はピアノを弾いてくれた。
スコルピオンの頬を撫で、やさしい口づけを。

「ヘルガ、私は、どうしたらいい?」

 独りごちてピアノに突っ伏す。

 ヘルガに会いたい。今までの激情とは別の感情が胸に溢れる。

 ヘルガなら、なんて言うだろう。的確な助言をしてくれるに違いない。
奴は冷静で、頭がよく、機転も効く。

 まさしく、スコルピオンの頭脳であった。

「私は・・・・卑怯だな」

 ヘルガのためにと、奴を遠ざけ、酷い素振を見せて、アメリカに追いやった。
それは、本当にヘルガのためだったのか。自分の、傲慢ではなかったか。

 辛い決断を迫られ、またヘルガに助けを求めたくなる。

 自分から、遠ざけておきながら。

 何度も受話器を取ろうとし、腕を引込める。電話番号さえ、知らない。
知っていたら、電話をかけていたかもしれない。
そんなことをしたら、ヘルガはすぐに帰ってくるだろう。
そして、スコルピオンに助言を・・・・。

 スコルピオンは、頭を振った。

 自分は、どこまでヘルガを傷つければ気が済むのか。

 

 マレーネ、ピアノを弾いてくれないか。

 夢を見るように。

 眠れるように。

 

 

 

 更に衝撃的な事実が、スコルピオンを襲う。

 叔父の部下の女性が、マレーネに会いに行った。
事情を説明するために。スコルピオンを諦めさせるために。

「私のおなかには、彼の赤ちゃんがいます」

 マレーネは言った。

「私は、待ちます。約束をしたんです。きっと、迎えに来てくれると」

 命を宿した女性は強い。

 雪の下で花を咲かせるクリスマスローズのように。

 スコルピオンは、何度も手紙を書いた。
その中で、本当は、自分のことなど忘れて、よき夫を探すよう諭すつもりだったが、
それを書くことはできなかった。

 ただ、

 自分はいつかこの国を変えてみせる。壁がなくなったら、きっと迎えに行く。

(きみと、私の子供を)

 そんなこと、不可能だとわかっていたが。

 

 壁がなくなることなど、ないと、知っていながら。

 

 

 

 それまで以上に、スコルピオンは仕事に集中した。
そして、その年行われた連邦議会選挙で、見事当選を果した。  

 ベルリンが三カ国占領下という複雑な立場にあったので、
首都はボンに置かれており、
国会議員となったスコルピオンもボンへの移住を余儀なくされた。

 アパートを借り、基本的にそちらで仕事をし、
生活の重点を置いていたが、何日か休暇が取れるとベルリンの屋敷に戻った。

 マレーネとは、手紙のやりとりをしていた。だが次第に、その回数は減っていく。
現実から遠ざかっていくように。夢から覚醒していくように。

 マレーネは、赤ん坊の写真を送ってよこした。数ヶ月に一枚。

 緩慢に過ぎていく日々の中で、子供の成長だけが時間の流れをあらわしていた。

 スコルピオンは、弾く者のないピアノの上に、その写真を並べていた。

 これは、自分に対する戒め。

 東に残した、妻となるはずだった女性と、自分が養育しなければならない子供。
それは決して夢の中の出来事ではなく、進行する現実。

 それでも、時の流れは痛みを鈍感にさせる。

 ボンにいる間は、それが現実なのか空想世界での出来事だったのかを曖昧に感じさせる。

 ベルリンに戻り、閑散とした屋敷で、
一度も弾かれたことのないピアノの前に座り、子供の成長を眺める。

 これは、自分のしたことなのだ。

 彼女を傷つけ、苦しみを与え続けている、自分の罪、なのだ。

 

 スコルピオンは、次第に憔悴していく自分を感じた。

 新人議員としてのボンでの仕事は多忙で、
体力に自信のあるスコルピオンでも、正直キツイ。
やっと休みが取れても、こうしてベルリンに戻り、自分の心の傷を掘り返す。

(そうやって、自分を痛めつけているのですね)

 幼いヘルガの幻想が、疲れ果てたスコルピオンの隣に立つ。

「やさしくされると、くじけそうになるからさ」

 そう呟いて振り返る。そこには誰もおらず、重い空気が漂っているだけ。

 

 そんな生活が続き、スコルピオンは1カ月ぶりに休暇が取れたので、
いつものようにベルリンに戻った。

 頭痛がしていた。

 スコルピオンを屋敷まで送ってくれた秘書は、
そんなスコルピオンの体調不良に気づかない。
スコルピオンの態度は、いつもと変らなかったから。

 着替えて、シャワーを浴び、ベッドに入る。

 睡眠薬が欲しい、と、思うことはよくあった。
が、処方箋がいる。処方箋を得るために、通院することなどできない。
それは、ゴシップになるから。

  毛布にくるまって目を閉じ、眠るための努力を一時間も続けていた頃、
スコルピオンは玄関のチャイムに気がついた。