帰国し、ヘルガに会った時、スコルピオンはその事を情熱的に話した。

「すばらしい女性だ」

 と。

 それは、半分本音で、半分は誇張だった。あるいは、自分に言い聞かせるため。

 スコルピオンが女性について話すのを、ヘルガは唇を噛んで聞いていた。
その表情は、見ている方が痛々しい。

 スコルピオンは、そんなヘルガの表情に胸を痛めた。
だが、ヘルガが悲しげな表情をすればするほど、わざとピアニストの少女を褒め称えた。

 それはまるで・・・・・・

 

 あんたなんか愛していないと、地団駄を踏むカルメンのように。

 私を殺しなさいと、強がる女のように。

 

 ナイフで胸を刺す代りに、ヘルガは出て行った。

 むしろ、刺された方がよかった。

 ヘルガは出て行った。

 それでいいのだ。

 

 一週間後、

 ヘルガはアメリカへ留学すると言ってきた。

 

 これで、別れられる。

 

 スコルピオンは、ヘルガの連絡先を聞くこともせず、見送ることもしなかった。

 

 この決別は、はたして正しかったのか。

 お互いにお互いの心を傷つけあうような、そんな別れ方が、正しかったのか。

 

 

 

 現実から逃げるように、スコルピオンは東へ渡った。

 そして、自分は「彼女を愛しているのだ」と自分に言い聞かせるように、
マレーネと会った。

 ここは、スコルピオンの住む現実とは別世界。
東ベルリンではロシア語を耳にし、ロシアの歌が街に流れる。

(同じ、ドイツなのに)

(りんごの花ほころび

 川面に霞たち

 君なき里にも 春は忍び寄りぬ)

 マレーネは、スコルピオンがかつて「英雄」と呼ばれていたことを知らない。

 Jr.ボクシングのチャンピオンであったこと知らない。

 有能な政治家秘書。

 未来の政治家。

 孤独を胸に抱え、いつも空を見上げている、美しい金髪の青年。

 自由の象徴。

 西への憧れ。

 自由への憧れ。

 マレーネは貧しく、音大の授業料を払うのもやっと。
彼女の類稀なピアノの才能で、かろうじて奨学金を受取り、細々と日々を送っていた。

 そんな清貧な生活も、スコルピオンにとって現実離れしている。
スコルピオンは、金に困ったことはなかった。
もともと、資産家の家系なのだ。贅沢を楽しむ趣味はなかったが。

 何度目かに会い、彼女のアパートに招かれた時、
そこにあるグランドピアノとクリスマスローズの小さな鉢が目を引いた。

「クリスマスローズは、好きなんです。小さくても、とても強い花なの。
冬の寒さにも、冷たい雪にも、負けないわ」 

 下を向いて花を咲かせるクリスマスローズは、
マレーネに似ている、と、スコルピオンは思った。可憐で、奥ゆかしい。

「花言葉は、いたわり。癒し」

 スコルピオンは、そっと彼女を胸に包んだ。

 スコルピオンを見上げるマレーネの瞳は、出会った頃のヘルガに似ている。

 戸惑いと・・・・・愛情。

 

 自分が、ヘルガを変えてしまったのだと思う。

 出会った頃は、まだ何も知らない子供だった。
自分の能力を持余し、そんな才能より、ただ誰かに必要とされたい、愛されたい、
そんなことを願う、純粋な子供だった。

 ヘルガの育てていた白いバラ。花言葉は、純潔。

 そんなヘルガを、欲しいと思った。汚したい、滅茶苦茶に踏みにじってみたい。
スコルピオンの汚れた欲望を、ヘルガは全て受け入れた。

 そして、

 ヘルガの冷笑は男たちを魅了し、スコルピオンに優越感を与えた。

 ヘルガは、スコルピオンの全て、だった。

 スコルピオンの思い通りに行動し、決してスコルピオンを裏切らない。

 スコルピオンの、生命、そのもの。

 ヘルガはそれを望んでいたのか?

 望んでいた。

 それは、断言できる。

 ヘルガは、スコルピオンのものに、なりたがっていた。

 自分の全てを支配する存在。

 ふたりは、一つの命を持っていた。

 ふたりで、一人の人間だった。

 ならば・・・・

 支配されていたのは、スコルピオンの方。

(俺は、ヘルガという存在から、自由になりたかったのか)

 

「何を、考えているのですか」

 囁くようなマレーネの声に、スコルピオンはハッと我に返る。

「あなたは、いつも何かを考えているのですね。あなたの心は、ここにはない。
あなたの心を持ち去ってしまったのは、誰なのでしょうか」

 心、か。

「私の欠けた心を埋めてくれるのは、マレーネ、きみのピアノの音色だけだ」

「ならば、あなたのために弾きましょう。
あなたの心の痛みが、少しでも癒されますように」

 理由を聞かない。それは、彼女の優しさ。

 優しい、ショパンの調べ。

 スコルピオンは、彼女を抱いた。

 女性を抱くのは、何年ぶりかわからない。

 ヘルガではない、誰かを抱くなんて。

 それでも、スコルピオンは、彼女を抱いた。

 ヘルガに感じていた、あの燃えるような欲望は、そこにはない。

 やさしく、そっと、こわれものを抱えるように。

 それは、決して欲望のはけ口などではない。

 それは、

 誰かにやさしくされたかった。誰かを、慈しみたかった。

 誰でもよかった。

 この孤独を、埋めてさえくれたら。

 はじめてヘルガとしたときと同じく、
彼女もまた、スコルピオンがはじめての相手だった。

「結婚しよう」

 スコルピオンは囁いた。

 この可憐な少女を、守りたい。そう思える。

 マレーネはスコルピオンを見上げ、頬を染め、「はい」と頷いた。