ヘルガが先に大学進学を決めたのは、良かった。

 スコルピオンは学校に戻った。
ボクシングをやめ、それに費やしていた時間を、すべて勉強に当てる。
Jrボクシングの若き英雄を失ったことは、ボクシング界にとっては痛手であったが、
優秀な一学生が戻ってきたことは、学校側にとっては歓迎すべきことだった。

 ヘルガは、あっさりとアビトゥアを取得し、医大へ進学した。
それは、彼の母親の希望であったし、ヘルガ自身もそれを望んだ。
たぶん、スコルピオンの身体が、現代の医学ではどうしようもないほど痛んでいることへの、
ささやかながらの抵抗であったかもしれない。
「スコルピオンを守るため」ヘルガは、唯一の道を選んだ。

 それにしても、ヘルガが先に進学したのは、スコルピオンにとって幸運であった。

 あれから、スコルピオンは一度もヘルガを抱いていない。
それどころか、キスをすることも、抱しめることも、触れることさえ、拒んだ。

 それでもヘルガは、時間の許す限りスコルピオンのもとを訪れ、彼の勉強を手伝った。
それくらいしか、今はすることがなかったから。

 そして会うたび、スコルピオンに熱い視線を向ける。

 本当は、・・・・スコルピオンは、わかっていた。ヘルガは、待っていたのだ。
スコルピオンが以前のように、「俺について来い」と言うのを。
ヘルガの進む道を、指示すのを。
もし一言でもそんなことを言えば、ヘルガは全てを捨ててスコルピオンについて行くだろう。
たとえ、今までの勉強のすべてが無駄になっても、たとえ、茨の道でも。
それが、破滅へと続く道でも。

 だから、スコルピオンは、一言もそのようなことは発しない。
ヘルガの進路について、一言も何も言わない。

 そして、触れることも。

 もし触れてしまったら、もう一度抱いてしまったら、もう、離れられなくなってしまう。

 破滅の道へと誘ってしまう。

「政治家に、なろうと思う」

 ヘルガに勉強を教わりながら、スコルピオンは言った。

「お前には、話していなかったと思う。
俺の後見人は、東にいるばあさんだとは話したよな。
だが実際、西で俺の後見人としてばあさんが選んだのが、
じいさんの知り合いで、連邦議員の叔父だ。
俺が一人で自由に学生生活を送る条件として、
卒業したらその叔父のところで政治を勉強するってことだったんだ。
俺の親父は政治家を嫌って事業家になったが、
俺にはじいさんの意志を継いで欲しかったらしい。
だから、ギムナジウムを卒業したら、叔父のところで政治を勉強して、
将来は政治家になろうと思う」

 それは、本当のことだった。ただし、強制はされていない。
プロのボクサーになるなら、それもいいと言われていた。
が、ボクサーとしての道を絶たれたのであれば、
自分のところに来いと誘われたのは本当だ。

 そんなことを、今になって話したのは、ヘルガが自分の進路を確定したからだ。
もしヘルガが進路を決める前にその事を話していたら、
ヘルガはスコルピオンと一緒の道を歩みたがったかもしれない。
それは、十分に可能だ。むしろ、政界だってヘルガの頭脳を欲しがるだろう。

「・・・・スコルピオン、私は・・・・・」

「お前は、いい医者になれるだろう」

 釘を刺す。ヘルガは表情をゆがめ、視線を落した。
あくまでも、同じ道を来させないつもりか。

「・・・・・あなたは・・・・・いい政治家になれるでしょう」

 そう呟くヘルガは、辛そうだった。

 

 離れなければならないのだ。

 

 お前が、「生きろ」というのなら。

 

 ヘルガと離れることの辛さを、スコルピオンはヘルガ以上に味わっていた。

 辛かった。

 苦しかった。

 スコルピオンの屋敷には、再び訪れる者はいなくなった。

 庭は荒れ、部屋には埃が積る。

 思い出せるあらゆるモノは、封印した。

 ボクシングをしていた頃の、あらゆる物を、屋根裏部屋の奥にしまい込んだ。

 写真の一枚でさえ。

 それでも夜な夜な、スコルピオンは目を覚ました。

 孤独の中に。

 そして、屋敷中のドアを開けて回った。

 どこかに、ヘルガがいるような気がして。

 否、

 いないことを確認なするために。

 

(寂しい?)

 

 そういったヘルガは、もう、どこにもいない。

 追い出したのだから。

 

(寂しい?)

 

 この孤独を、どうやって癒したらいい?

 

 ヘルガを呼び戻すのは、簡単だ。今、電話の一本でもかければいい。

 すぐに奴は飛んで来るだろう。

 そして、

 孤独を舐めあう。

 いつか見た映画であったように。俺はヘルガを俺の檻に閉じ込め・・・・・

(抱きあいながら、朽果てるか)

 

 そんな幻想を抱いて、苦笑する。

 

 一睡もできない朝を迎え、スコルピオンは鏡の中のやつれた自分を嘲笑する。

(今はまだ、死ねない。まだ)

 ヘルガの背中を見送るまで。

 あいつが、俺のいない世界で、生きる道を見つけるまで。

 

 

 

 それでも引裂かれるほどの辛さに耐えられなくなると、スコルピオンは東の祖母を訪ねた。

 逃げるように、東へと足を運んだ。

 

 その後一年で、スコルピオンはギムナジウムを卒業した。
もともと、成績は良かったし、ヘルガが勉強を手伝ってくれたこともある。
時間は、あり余るほどあったし。

 そして、大学へ進むと同時に、政治家の叔父のところで勉強するようになり、
「政治家秘書」としての仕事を与えられた。

 ヘルガと会う機会は極端に減ったが、それは望んでのことだった。

 

 そして間もなく

 スコルピオンにとっての運命的出会いがあった。

 

 叔父と一緒に、東で行われた音楽祭に招待され、出かけたときだ。

 音楽祭の前座としてピアノを披露した少女。まだ学生だという少女は、ショパンを弾いた。

 それまで音楽に興味のなかったスコルピオンは、
生れて初めて、そのピアノの音色に心を動かされた。

 それが、マレーネとの出会いであった。