死ねればよかった。

 リングの上で。

 そうすれば、お前との約束も果せただろう。

 たとえ命を落しても、いつか生れ変って、また一緒に夢を追おうと。

 あの時、それは間違いなく本気だった。

 リングの上で、死ねたなら。

 

 

 

 ケンザキとタカネが昇天した。

 その時、お前は涙を流した。

 

 あれは、あの時感じたのは、『嫉妬』だった。

 お前が、誰かのために泣くことが。

 あるいは、

 リングの上で死ぬことができた、二人に対しての。

 

 お前は泣き濡れた瞳で、俺に言った。

「あなたは、どこにも行かないで」

 俺にしがみつき、静かに涙を零しながら、言った。

 

 

 

 全ての戦いを終え、帰国したスコルピオンに待っていたのは、
検査のための一週間の強制入院。
そして、もうボクシングのできる体ではないという宣告。

 ヘルガには、最初の約束どおり、アビトゥアの資格取得の許可。

「あなたは、どこにも行かないで。私を置いて、どこにも行かないで」

 スコルピオンにとって、それは死の宣告も同じ。

 もう二度と、リングに上らないで。

 ヘルガの言葉は、そういう意味。

 

 なぜ、死ねなかったのだろう。

 リングの上で。

 

 辛すぎる現実。

 

 夢中で夢を追い掛けていた少年時代は、終りを告げようとしていた。

 

 

 

 消毒液の匂いが鼻をつく病室で、ヘルガは眠るスコルピオンの手を、ずっと握っていた。

 ヘルガは試験の準備のため、毎日学校に通っている。
もともと、そういう約束だったから。
その合間、ヘルガはスコルピオンのもとを訪れ、ただ黙って付添った。

「参謀殿は、ずいぶん呆けてしまったようだ」

 背後からの声に、ふり向きもしない。病室を訪れたゲーリングは、小さく溜息をつく。
肩を落し、じっとスコルピオンを見つめているヘルガは、とても小さく見える。

「ヘルガ?」

 肩を掴み、無理矢理ふり向かせると、ヘルガは緑色の瞳をその男に向けた。

「以前のあんたなら、こうも簡単に触れさせることもしなかったのにな。
今なら、あんたを押倒すことも容易かろう」

 鋭さを失ったヘルガの瞳は、幼い子供のようにゲーリングを見つめる。

「スコルピオンがいなければ、なにもできない。今のあんたは、ただの生意気なガキだ。
手折るのも容易い。いっそ、堕ちたる英雄など捨てて、俺と組むか? 
ベッドで天国を見せてやるぜ?」

「あなたと組むつもりなどありません。それにあなたに陵辱されるくらいなら・・・・」

「死んだ方がまし、か?」

 ヘルガが眉を寄せる。「死」という言葉は、今のヘルガにはリアルすぎて笑えない。

 視線を外し、ヘルガは苦しそうに顔をゆがめた。

「誰に陵辱されようと、私はスコルピオンだけのもの。
スコルピオン以外の誰にも、心は譲れません」

 それからおもむろに立ちあがり、ゲーリングの隣をすり抜ける。

「学校があるので、失礼します」

 ふり向きもせず、そのまま出て行く。

 残されたゲーリングは、また溜息をついた。

「あんたの作り上げたドイツ軍だ。あんたがいなけりゃ、自然崩壊する。
ヘルガがあんたの意志を引き継いで、ドイツの総統になろうってのなら、話は別だがな。
あるいは、あんたがこのまま戦い続け、リングの上で息絶えれば、
あんたは英雄として永遠にその名を残すだろう。
日本に負け、負けを認め、日本と友情ごっこなんかして、引退すりゃ、
あんたは永遠に『負け犬』のレッテルを貼られる。負け犬に用はない。
誰もあんたについて行かないし、ドイツ軍総統としての信頼も堕ちる。

 どうするつもりだ?」

 忌々しげに言葉を吐き捨てる。

「起きて、いるのだろう?」

 ベッドの上のスコルピオンは、大きく息を吸い込んだ。

「・・・・・ボクシングは、やめる。ヘルガにも続けさせない」

 目を開けたスコルピオンは、じっと天井を凝視した。

「命が、惜しくなったか」

「命など、惜しくない。ヘルガがそれを望まないからだ。
たとえ負け犬と罵られようと、ヘルガが生きていろというのなら、
俺は喜んで負け犬になろう」

 ゲーリングは頭を振った。

「狂ってる。栄光より、たった一人の言葉に従うと言うのか」

 スコルピオンは、唇を結ぶ。

(そうだ)

 と、苦しげな息を吐く。

「あんたは、狂ってる。あんたにとって、ヘルガはどれだけのものだと言うのだ? 
ヘルガはいいだろう。あいつは頭がいいし、ボクシングを止めても、
いくらでも可能性が残っている。
むしろ、学校の教授漣などは奴が勉強の道に専念してくれることを喜ぶだろう。
だが、あんたはどうだ? ボクシングを止めて、何が残る? 
ヘルガみたいには、なれないのだぞ? 
結局、ヘルガに捨てられたら、あんたはただの燃えカスになっちまう。
それでも、やめると言うのか?」

 胸が痛む。心が揺れ動く。

 ボクシングを止めて、何が残るのかと言われれば・・・・・何も残らない。

 

 リングの上で、死にたかった。

 

「やめる。ドイツ軍は、お前らにくれてやる。好きにするといい」

 ゲーリングは頭を振りながら、諦めの溜息をついた。

「賞賛は、敵意に変るぞ?」

 スコルピオンは、応えない。ゲーリングは肩をすくめた。

「俺も、負け犬には興味はない。あんたのドイツ軍だ。あんたがいなくなれば、消滅する」

 軽蔑するように言葉を捨て、ゲーリングは出て行った。

 

 リングの上で、死にたかった。

 

 スコルピオンは唇を噛み、嗚咽を押し殺す。

 

 リングの上で、死にたかった。

 それが叶わぬのなら、

 

 誰か、俺を殺してくれ。

 

 

 

 俺が死ねば、

 ヘルガは涙を流すだろう。

 しっとりと泣き濡れながら、墓場に花を添えるだろう。純白のバラ。
屋敷に咲いているバラ。

(あなたを、愛していました)

 そう言って、俺のために泣くのだ。

 

 英雄を、必要としていたのは、ヘルガの方だった。

 ヘルガの理想が、俺を作り上げた。

 これは、

 ヘルガの見ている「夢」なのだ。

 

「もう、一緒には、いられない」

 消毒液の匂いのする病室で、

 スコルピオンは、ひとり、呟いた。 

 

 俺の道は途絶えたが、

 お前の前には、まっすぐにのびた道がある。

 

 破滅の道連れには、できない。

 

 ここから先は、

 ひとりで行くのだ。