薄汚れたコンクリート製の長い廊下を、革靴が高い足音を立てて歩いていく。 その素早さに、数人の男が足早について行く。 「本当にお一人で大丈夫なのですか?」 モスグリーンのロングコートを着た少年は、まっすぐ前を向いたまま。 突き当りのドアに行きつくと、後をついてきた男たちに、 ここで待っているように身振りをする。そして、ノックもせずにドアを開けた。 「来たな、ベルリンのお嬢ちゃん」 フランクフルトでも有数のボクシングジム。 腕に自信のある猛者たちが、ニヤニヤとその少年を迎え入れた。 「噂は聞いている。ベルリンの蠍が西ドイツ中のJrボクサーを傘下に収めているとか」 「ご存知ならば、話は早いですね」 少年はクリップボードを差し出す。 「ご署名を」 「断ったら?」 「力ずくで」 男のストレートが少年の目のわきをかすめ、メガネを弾き落す。 落ちたメガネを、男は足で踏み潰した。 「かかってきなよ、お嬢ちゃん」 男のジャブを、少年は軽い足どりで避ける。 が、ロングコートが邪魔をし、一歩が踏みこめない。 男のアッパーが顎をかすった時、少年はコートの襟に手を当て、 留金を外すとそれを後方に投げすてた。 一分。 身体が自由に動かせるようになった少年は、男にボディーブローを食らわせ、 更に飛びかかってくる者たちも容赦なく沈めた。 黙って見守っていた少年の付人は、少年のコートを拾い、その肩にかける。 「ありがとう」 少年は、ニッと笑うと、落したクリップボードとメガネを拾い、 割れたメガネはコートの胸ポケットに差込む。 そして、ダウンしいる男の隣に跪き、クリップボードを差し出した。 「サインを」 アウトバーンを使っても、片道数時間の道のりである。それでも、収穫はあった。 屋敷に戻ると、出迎えた男に 「スコルピオンは?」 と訊ねる。 「奥に」 言葉短く答え、少年に道をあける。 少年はまっすぐリビングの奥の執務室(かつてそうであったらしい、主の書斎)に向った。 ドアを開ける。 中は薄暗く、主はソファーに深く座り、腕を組んでビデオを観ていた。 「先月、フランスで行われた試合だ。どう思う?」 「面白いパンチですね。・・・・・・相当のスピードのようです」 「是非戦ってみたいものだ」 主は口元を吊り上げる。少年は身をかがめ、主に先ほどのクリップボードを出す。 主はそれを一瞥しただけで、クリップボードを少年に返した。 代りに、少年の胸ポケットの壊れたメガネを引きぬく。 「今月に入って、三つ目か」 「仕方がありません。油断を、しました」 「では、もうメガネを壊されないように、油断をしないことだ」 「はい」 主は少年の顎をひと撫でし、視線をビデオに戻した。 「ヘルガ様! デュッセルドルフからお電話です。試合の申込みをと」 少年は伝令を見、そして主を見る。 「受けよう」 主はビデオから目を離さないまま答える。 「では、スコルピオンが?」 「いや、ゲーリングを行かせろ。奴の実力も確めておきたい」 少年は小さく溜息をつく。 「・・・・・しかし・・・ゲーリングが指示に従うか」 「従わせろ」 主の言葉に、少年は背筋を伸ばす。 「はい」 それから、踵を返した。 「ゲーリングの居場所は?」 「それが・・・」 「調べて私に報告を。それから、デュッセルドルフには私から連絡をします」 靴音を響かせる少年と入れ替えに、別の男が入ってくる。 少年はその男をちらりと見ただけで、挨拶もせずに出て行った。 「フランクフルトから帰って来たばかりで、こき使うものだな、スコルピオン?」 「ヒムラーか。何か用か?」 「参謀殿は頬に傷があったようだが?」 「何か用かと聞いている」 男は肩をすくめた。 「私なら、ゲーリングの居場所を知っているし、奴を召喚することもできる。 参謀殿の手を煩わせることもない」 「部下の統率はヘルガの役目だ」 主は苛立たしげに指を組む。 「私を側近に置くつもりはない、ということだな?」 「そうだ」 フッと鼻で笑い、男はドアに向った。 「ヒムラー」 スコルピオンは振り返り、にやりと笑った。 「頼りにしている。最も優秀な戦闘員として」 男は胸に手をあて、仰々しくわざとらしくお辞儀をすると、主の部屋を出て行った。 * 白い朝もやの光。 生まれたての穏かな風が、窓を揺らす。 静かなこの時間が、ヘルガは好きだった。 街の喧騒はなく、堅苦しい制服に身を包んで革靴で床を踏みしめることもない。 静かでやさしい、二人だけの世界。 木綿のシーツの肌触りと・・・・・ (スコルピオン) 隣で眠る男の髪に顔を埋める。 (セッケンのにおい) ふわりと包み込まれるような人肌の温もりに、口元をほころばせる。 彼の頬を撫で、首筋を、肩を、腕を滑らせ、そのゆるく握った拳に口づける。 「そんなに触ると、またしたくなる」 まだ眠たげなスコルピオンの言葉に、ヘルガはくすくすと笑う。 軽い口づけをかわしていると、階下のリビングから電話の音がしてきた。 「誰でしょう? こんなに朝早く」 「無視しろ」 目覚めたスコルピオンが、ヘルガの上から覆い被さって、キスを落す。 「ダメです。大切な電話かも」 そっとやさしくスコルピオンを押しのけ、 一度唇にキスをしてから、ヘルガはベッドを降りた。 昼間、何人もの人たちが出入りしている屋敷だが、 こんな早朝はヘルガとスコルピオンしかいない。 シャツを羽織っただけの姿で、ヘルガは階段下の電話の受話器を取上げた。 (リビングと書斎には電話を置いてあるけれど、今度寝室にも置こう) そんなことを考えながら。 『おはようございます、参謀殿』 「ヒムラー、ですか?」 『ゲーリングを捕まえて、そっちに送っておきました。そろそろ着くかもしれません』 ヘルガは眉を寄せる。こんな時間に? と、タイミングを合わせたように玄関の呼び鈴が鳴る。 「来たようです。ありがとう」 早々に受話器を置くと、ヘルガは一度寝室に駆け戻り、 メガネをかけ、とりあえずズボンとシャツ、そして素足に靴をひっかけて玄関に向った。 「おはようございます、ヘルガ様」 深々と頭を下げる男に、ヘルガは眉を寄せた。 「まだおやすみの最中でしたか」 「来訪は歓迎しますが、もっと常識的な時間にして欲しかったですね」 言いながら、屋敷の中へ促す。 「俺は早起きでね。もう一時間のロードワークを終えた」 ゲーリングは我物然の態度で屋敷に入ると、ヘルガの指示すキッチンの方へ向う。 キッチンでは、ラフな普段着姿のスコルピオンがコーヒーをいれていた。 「座れ」 不機嫌そうに椅子を指す。 「私は着替えて参ります」 キッチンの入口で、ヘルガが軽く頭を下げると、 ゲーリングはその腕を掴んで自分に引き寄せた。 「シャワーも浴びた方がいい。 清純なヘルガ様には似つかわしくない『オス』のにおいがぷんぷんしますよ」 とたんにヘルガは顔を赤らめ、腕を振り解くと二階に駆け上がっていった。 「かわいらしい、ベリーのような唇だな。ぜひ食したいものだ」 大きなマグカップにたっぷり入れたコーヒーを、 スコルピオンはテーブルに「どん」と置いた。 「座れ」 肩をすくめ、ゲーリングはマグカップの前に座る。 スコルピオンは、自分用に入れたコーヒーに、なみなみミルクを入れる。 そして、ゲーリングの正面に座った。 「あんたは、この一年で西ドイツ中のJr.ボクサーを手中に収めてきた。 俺もあんたに負けた口だが、顎でこき使われるつもりはない。 公式試合以外では、あんたの手下扱いはごめんだ」 「半年後の、世界大会を狙っている」 ゲーリングの言葉を無視するように、スコルピオンははっきりと言った。 「そのための足固めをしている」 ゲーリングはマグカップのコーヒーに口をつけ、片方の眉を上げる。 「・・・・・あんたは嫌いだが、ボクシングの腕とコーヒーの入れ方だけは絶品だな」 「今度ヘルガに触れたら、そのコーヒーを頭から飲むことになる」 やっぱり怒っていたのか。ゲーリングはほくそ笑んだ。 「スコルピオン、あんたの計画は、確かに完璧だ。あんたは公式試合にしか出ない。 その他で対抗者を黙らせるのには、ヘルガを使う。 あんたは常に最強の参謀を手元に置き、ヘルガの恐ろしさを以て己の位置を誇示している。 誰もあんたとヘルガには逆らわない。ならば、俺が呼ばれる必要はない」 「兵士の確保、ですよ」 再びキッチンに現れたヘルガは、ギムナジウムの制服を着ていた。 制服といっても、学園側に強制されたものではない。 学生たちがそう呼んでいるだけの、「学園として模範的な服装」だ。 ネクタイにスーツ。そんな堅苦しい服装を普段からしているのは、 自他共に認める優等生のヘルガくらいなものだ。 「世界大会、あなたとヒムラー、ゲッペルスを起用しようと思っています。 もちろん、ベスト8以降のメンバーとして。 そのために、あなたの腕が落ちていないかを見たいのと、 あなたにどれだけ他人を従わせる力があるのかを確めたいのです。 私はあなたたち三人を、最も優秀な兵士として信頼しています。 しかし、世界大会前に、その信頼を確固たるものにしておきたい。 ご理解いただけましたか?」 ヘルガはゆっくりと歩いて、スコルピオンの後に立った。 ヘルガは、第三者の前では、決してスコルピオンとは並ばない。 必ず後で腕を組んで立っている。 「俺を試すために、デュッセルドルフを落して来い、と?」 「そうです」 スコルピオンは、自分の飲んでいたカップをヘルガの方に差し出した。 受取ったヘルガは、コーヒーを一口飲み、カップをスコルピオンに返す。 まるで、インディアンがタバコをまわす儀式のように。 そうやって、見せ付けられているのだ、とゲーリングは思った。 この二人の信頼関係を。 「なら、なぜヒムラーに頼まない?」 「頼みましたよ。遠まわしに。 彼はあなたをここによこしたことで、 自分の力をスコルピオンに見せしめたと思っているでしょう。 ヘルガ参謀でも扱えないゲーリングを、自分なら扱える、と」 すべて、お見通しか。ゲーリングは肩を震わせ、仰け反って笑って見せた。 「いいだろう。あんたらの手の上で踊ってやる。 デュッセルドルフでもどこへでも行ってやろう。 だが勘違いするな。俺が狙っているのも、『世界』だ。 あんたが負けるまで、あんたについて行ってやろう」 「あなたが負けるまで、あなたを使いますよ」 ヘルガの表情は、狡猾だ。たぶん、スコルピオン以上に。 ヘルガ参謀にとって、スコルピオン以外の全てのボクサーは、使い捨てなのだろう。 まあいい。それくらい冷徹の方が、面白い。 ゲーリングはコーヒーを飲み干し、立ち上がった。 見送りなど、期待しない。だが、玄関を出たゲーリングを、ヘルガは追い掛けてきた。 「デュッセルドルフの主要メンバーの資料です。 念のため、目を通して置いてください」 薄いファイルを差し出してくる。 ファイルを受取る時、ゲーリングはヘルガの指を掴んで引き寄せようとした。 が、触れた瞬間、ヘルガのストレートが空を切る。 予測していたゲーリングは、一歩後に飛退いた。 「刺があるから、バラは美しい。そうだな?」 拳を握り、余裕の笑みを見せるヘルガは、ガラス細工のバラのように美しい。 繊細で、冷たい。 「バラがお好きですか」 ゲーリングから目を離さないまま、ヘルガは手近にあった大輪のバラに手を伸ばし、 片手で器用に茎を折る。そして、開きかけた白いバラをゲーリングに向ける。 「どうぞ」 「?」 真意を掴めぬまま、ゲーリングはバラを受取る。 白いバラの茎を指で持った時、そのゲーリングの手をヘルガは両手で包み込んだ。 暖かい手だ。 「!」 そしてゲーリングは、痛みに顔を歪めた。 ヘルガは恋人にでもするようにゲーリングの手を、しっかりと包む。 「私は、愚弄されることを好みません」 にっこりとやさしげな表情で微笑み、ヘルガは手を離すと、 少し顎をあげて相手を見下すように朱に染まった唇を引き上げた。 「良い一日を、ゲーリング」 踵を返し、屋敷の中へ戻っていく。 ヘルガが消えた後、ゲーリングはゆっくりと手を開いた。 バラの刺で、手のひらが赤く染まっている。 「ボクサーの手を傷つけるとはな」 (アインシュタインの生れ代りだと? ヨーゼフ・メンゲレの生れ代りの間違いだろう?) かの有名な、ナチの悪魔の医者。 「面白くなってきた」 血染めのバラに口づけし、それを投げすてると、ゲーリングは屋敷を後にした。