吹雪の夜、ヘルガは初めて親の許可なしに外泊をした。

 

 

 

 翌日、学校に行くなり学園長室に呼ばれる。

 そこには、怒りに震える母の姿があった。

「この学園では、どういう教育をしていらっしゃるのかしら?! 
信頼して息子を預けているというのに、昨夜帰らなかったのですよ!」

 そんなこと、学校に言う問題じゃない。

「お母様、それは私の問題で・・・・」

「黙ってなさい! 相手は誰ですの?! 
学校ではそういう教育をしていらっしゃるのかしら!」

 こういう親は、手がつけられない。なにせ相手の話をまったく聞こうとしないのだから。
息子のヘルガでさえ、いや、息子だからか、母を黙らせる手立てはない。

 学園長は、ただ「申しわけありません」と頭を下げる。それしか方法がないのだ。

「お母様、学園長を責めるのは間違っています。
叱られるのは私であって、学園側にはなんの落ち度もありません」

 いつもなら叱られた子犬のように尻尾を丸めて俯くヘルガだったが、
さすがに今回は母親の態度に怒りを感じた。

 いつもだ。

 いつもそうなのだ。

 このひとは、人の話なんか、聞きはしない。

 息子を、調教しがいのあるペットか何かのように考えているのだ。

 自分の言う事を聞かなければ、気がすまない。

「お母様!」

「黙ってなさい、ヘルガ! あなたはまだ子供なのよ? 
親の言う事を聞いていればいいの!!」

(子供)

 ヘルガは唇を噛締めた。血が出るくらい。
それでも、こみ上げるものは押えきれず、一粒、涙が零れ落ちる。

「子供?」

「そうです! 子供です!」

 全身が震え、両手をぎゅっと握る。

(子供)

「今まで・・・・・今まで、一度だって、子供扱いなんかしたことないくせに!!」

 都合のいい時ばかり、子供?

 熱が出て寝込んだ時に、そばにいてくれた?

 転んで怪我をしたときに、慰めてくれた?

 手を引いて、どこか遊びに連れて行ってくれた?

 頭を撫で、頬にキスをし、抱しめてくれたこと、ある?

 知ってる?

 普通の子供はね、そういうことをしてもらうんだよ!

「私はお母様の人形じゃありません!」

 悲鳴のような叫びを残し、ヘルガは学園長室を飛びだした。

 廊下に出てすぐ、人とぶつかり顔を上げる。

「・・・・スコルピオン・・・・」

 スコルピオンは、ヘルガを見下ろし、ニッと笑うとその手を取った。

「逃げようか」

 返答を待たず、ヘルガの手を引いて走りだす。
学園長室からは、まだ母のヒステリックな声が響いていた。

 

 学校を出て、路地を曲り、大通りを抜け、走って走って、壁に突き当った。

「これ以上は、行けないな」

 警備兵の立つ絶望的な壁の見える空地に、スコルピオンはヘルガの手を握ったまま座りこんだ。
ヘルガはゼイゼイと息を切らしている。

「大丈夫か?」

 両手をついて息をし、ヘルガが顔を上げる。頬には、涙の痕。

 スコルピオンは、ヘルガの目の下に唇を寄せ、残った涙を舐めとった。

 白い雪。

 銀世界。

「この壁は、俺たちの親の世代に作られて、俺たちの子供の世代まで続くんだろうな」

 壁を指差し、空を見上げる。

「空に、壁なんてないのにな」

 この壁は、いったい何を隔てているのだろう。

「夢を、見ないか?」

「夢?」

 やっと息の整ったヘルガが聞き返す。

「ああ。大人に支配されない、俺たちの理想の世界」

 ヘルガの目が見開かれる。

「この手で掴み取れる、世界」

 拳を突出し、スコルピオンはヘルガを見た。そして、笑う。

「夢物語だと、笑うか? ずっと考えていたんだ。俺たちが、自由になる方法」

 スコルピオンの拳に、ヘルガはそっと触れる。 

「お前と一緒なら、夢が見られる。一緒に、夢を見ないか」

 大人に支配されない、自由。

 自分の拳に触れるヘルガの手を、スコルピオンは上から握る。

「ヘルガ」

「はい」

 視線を合わせ、ヘルガは目を細めた。

「あなたの夢に、ついていきます」

 触れ合う程度の、優しい口づけ。

 スコルピオンは、ヘルガを抱しめた。

 

 ヘルガとスコルピオンが学園に戻ったのは、出て行って小一時間も経つ頃だった。

 学園長室では、憤り疲れ、へたり込むように座って、出されたコーヒーを飲む、
哀れな女の姿があった。

「お母様」

 哀れだ。この女は、哀れなのだと、ヘルガは始めて感じた。
彼女は顔を上げ、ヘルガの姿を見ると、どうしてよいのかわからないように顔を歪めた。

 ヘルガの後からはスコルピオンが入ってくる。
学園長は、気まずげにスコルピオンを退室させようとするが、
スコルピオンは、すっと女の前に立った。

「昨夜、ヘルガが泊ったのは、俺の家です。保護者の了承なしに外泊させたことは謝ります」

 女は眉をひそめる。

「お母さんにお願いがあります。二年間、ヘルガを俺に預けてください」

「スコルピオン?」

 ヘルガがスコルピオンの袖口を握る。

「二年間。ヘルガにアビトゥアの取得許可が下りるまで」

「何を・・・・言っているの?」

 怒り疲れた母は、力なく聞き返す。

「ボクシングを、やりたいんです。それには、ヘルガの力が必要なんです」

 ボクシング? ヘルガは何か言訳をしようと口を開きかけるが、
スコルピオンの手がそれを遮る。

「責任は、すべて俺が負います」

「何を言っているのかしら? 子供のあなたに、何の責任が取れると?」

 当然だ。自分は、まだ「子供」なのだから。突きつけられる現実は、重く、痛い。

「・・・・・俺には両親がいなくて、親戚は東ベルリンにいる祖母一人です。
お母さんが・・・もし市の児童福祉課に俺の素行の悪さを訴えれば、
俺は間違いなく祖母の元に送られます。
もし俺がどうしても気に入らなければ、そうしてください」

 ヘルガの息を飲む音が聞える。ヘルガの母は学園長に真実かどうか尋ねる視線を送る。
学園長は、「本当です」と応えた。

「あなた、東に行く、というの?」

「ヘルガの協力が得られないのであれば、俺はどこに行っても同じ。
シベリアに送られたってかまわない。俺には、ヘルガが必要なんです」

 あまりに突飛な申出。

「ヘルガ?」

 母親に名を呼ばれ、ヘルガはスコルピオンの手を握った。

「お母様・・・・二年間、私を自由にしてください。
そのあとは、お母様の言うとおりにします。何でも。
お母様の望む道に進み、お母様のために私の人生を使います。ですから」

 大きく溜息をつき、彼女は両手で顔を覆った。とんだ茶番。子供の戯言。

「・・・・・馬鹿ね、子供に何ができるというの?」

 その声は、親の苦悩を表していた。いつか、子供は親の手を離れる。
わかっていることなのに。

「いいわ。二年間、ね。でも、退学は許さないわ。
ちゃんと学校に行って、成績を残しなさい。
二年後にアビトゥアを取れなかったら、そこの子、その子を訴えることにします。
いいですね」

 不安げに息を詰らせていたヘルガの表情が、ふわっと和らぐ。

「ありがとうございます、お母様」

 やっと彼女は立ちあがり、学園長に非礼の赦しを乞う挨拶をして、出て行った。
ヘルガは慌てて後を追う。

 残ったスコルピオンの肩を、学園長は軽く叩いた。

「キミは、自分の決断を後悔するかもしれないよ。訴えられたら、誰もキミを擁護できない」

「かまいません。俺は、たった一度の夢が見られるなら」

 

 

 

 ヘルガは、週に三日、スコルピオンの家に泊る許可を得た。

 それから、ヘルガは一週間かけて屋敷中の掃除をした。
そんなことをしなくても、という消極的なスコルピオンに、

「埃だらけの家では、何か寂しいでしょう?」

 そう言って笑って見せる。

 晴れが続いた日を見計って、庭の雑草も抜く。完全に雪に覆われてしまう前に。

 泥だらけになったヘルガは、庭の一角に植物の群生を見つけた。

「・・・・・バラ、の芽ですか?」

「ああ、そうかもな。母さんが昔育てていたような気がする」

 仕方なく付き合っていたスコルピオンは、懐かしげに苦笑する。

「ではこれは、抜かないでおきましょう」

 春には花が咲くように。

 

 

 

 雪に覆われる冬。

 寒さに震えていた子供たちは、お互いの体で暖をとる。

 寒くはない。

 もう、寒くはない。

 

 

 

 春、ヘルガが世話をしてきたバラは、見事な白い花をつけた。

 白いバラは、ドイツでは特別な意味がある。
そうか、このバラを育てていたのは、祖父だったか。

 スコルピオンは、感慨深げにバラを眺め、それを屋敷内に飾ることをヘルガに禁じた。

 

 スコルピオンは、Jr.ボクシング界で、無敵のドイツ軍を率いるようになった。