『孤高』という言葉は、彼のためにあるようなものだ、と、ヘルガは思う。

 ジムの中でも、彼は一人浮いている。
一人で過酷な練習メニューをこなし、誰もそれについて行かない。

 彼は一人で、何をしようとしているのか。何を目指しているのか。

 たった一人で、強くなって、

 たった一人で、天を目指すのか。

 自分の役割は、と、ヘルガは思う。

 スコルピオンは、ヘルガに何を求めているのか。

 己が強くなるために。

 まったく違う世界にいたヘルガを引きずり込み、

 『守ってやる』と。

 何故彼が孤独であり続けるのか、

 ヘルガは知るよしもない。

 何故それほどに、強くなりたいのか。

 強くならなければならないのか。

 

 秋が終り、白い冬がやってくる。

 日が落ちるのは早く、薄暗くなった世界を、ヘルガはスコルピオンと並んで歩いた。

 家路へと向う道。
ヘルガは帰宅するのが憂鬱で、いつも一人残って練習をするスコルピオンに、
最後まで付合うようにしている。
ヘルガの両親は共働きで、家に帰っても誰もおらず、帰宅した両親は、
ヘルガの成績のことばかりを気にかけていた。甘やかされた記憶はない。
常に上へ、更に上へと求められ、求められるがままに勉学に精を尽す。
そこに、『自我』はない。疑問をもってはならない。
もしそこに、『目に見える親の愛情』を求めてしまったら、
きっと空虚な現実が待っているだけだから。
トップの成績を保ち続けている限り、『自分は愛され続ける』のだ。
それがいつまで続くのか、ヘルガにはわからない。
両親は、女の子が欲しかったのかもしれない。
そうすれば、愛らしい女の子だったら、
こんなにも成績だけを求められることはなかったかもしれない。

 否、そんな非現実的なことを考えてはならない。

 仮定法過去など、無意味だ。

「あ」

 ふとヘルガは立ち止り、空を仰いだ。

「雪」

 天使の羽のような、ふわりとした白いものが、舞い落ちる。

「冷えると思ったら。今年の雪は、早いな」

 スコルピオンは片手を出し、その羽毛のような雪を手のひらで受けとめた。
それは、まるで白昼夢のように、すぐに溶けてなくなる。

 ヘルガは、自分のマフラーを外すと、スコルピオンの首にかけた。

「体を、冷さない方がいいです。あなたは、体温が低いから」

 口元で、笑みを形作る。

「寒くはない」

 スコルピオンは、コートの前を広げると、目の前のヘルガの体をそれで包んだ。

「スコルピオン?」

「暖かい」

 人のぬくもり。他人の体温など、感じたことはない。
今まで。スコルピオンの腕の中に絡めとられ、ヘルガは瞳を閉じて頷いた。

 

 一陣の風が、スコルピオンのコートをはためかせ、ヘルガは目を開けて、つと体を離す。

「風が、出てきました。今夜は吹雪くかも」

「そうだな」

 いつも別れる分岐点で、ヘルガは名残惜しそうに足を出そうとしない。
スコルピオンが去っていく背中を、見送るつもりだった。いつもそうしていた。

だって

(家に帰っても、誰もいないし、本を読む以外にすることもないから)

 少しでも、彼のそばにいたかった。

「うちに、寄っていかないか。ここから近いんだ」

 思いがけないスコルピオンの言葉に、心臓が高鳴る。

「でも・・・・こんな遅い時間にお邪魔しては、迷惑になりますから」

 クスリ、とスコルピオンが笑う。どこか切なげで、孤独の漂う笑い方。

「親は、いないんだ。一人暮しだから、気にしなくていい。いや、お前が親に叱られるか」

 ドクドクと心臓が鳴る。恥かしいほど。ヘルガはスコルピオンのコートの袖口を握っていた。

「私の親は・・・働いているので、夜遅くまで帰りません」

 僅かに震えながら袖口を掴むヘルガの指を、スコルピオンはそっと握った。

(来いよ)

 と。

 そして、歩き出す。

 雪は、本格的に降り始めていた。

 

 

 

 その家は、築百年は経つであろうと思われるほどの旧家だった。
ベルリンで、先の戦争で焼残った家屋は珍しい。
いや本当は、もっと新しいのかもしれない。だが、古びた印象は隠せない。

 手入れのされていない屋根は色あせ、庭は枯れた雑草が生茂り、門扉は錆びていた。

「酷いだろ? 近所じゃ、幽霊屋敷だと噂されている」

 もともとは、名家だったのだろうが。

 錆びた門扉を押し開け、スコルピオンは古風な鍵を取りだすと、
それでドアの鍵を開けて、中に入った。

「どうぞ、ゴーストハウスへ」

 冗談だろうか、ヘルガは不信気に眉を寄せ、中に入る。目を引く、大きな暖炉。
リビングの奥はキッチンだろう。わきの階段は螺旋状にうねりながら二階へと続く。

「これでも月に一回ハウスキーパーが掃除に来るんだが、埃が積る方が早くてな」

 苦笑しながら、暖炉に火を入れる。

 まるで、戦前にタイムスリップしたような、古風なオレンジ色の明りに包まれる。

「コーヒーでも?」

「あ、はい。いただきます」

 スコルピオンの後についてキッチンに行くと、そこはリビングよりは新しい感じがした。
戦後リフォームしたのだろう。それに、新しいコーヒーメーカーもある。

「座ってろ」

 言われたとおり、一つの椅子に腰掛ける。
豪華そうな屋敷のわりに、装飾品がほとんどないのに気付く。絵画や彫刻といった類。

 だが、スコルピオンがコーヒーを入れてきたカップはマイセンの双剣だった。

「マイセン、ですね」

「知らない。家にあったから使っているだけだ」

 ちょっと驚き、スコルピオンを見る。

「そういえば、昔はこれと同じ柄で皿とか色々あったが、みんな割れちまったな」

 この人は・・・・・?

 ヘルガは、失礼だとは思いつつも、家の中を眺める。
スコルピオンは、そんなヘルガを黙って見ていた。

「おかしな家だろ?」

「そんなことは、ないです。・・・・名のある家なのだろうと」

「じいさんの代まではな。今じゃ落ちぶれてこの通りだ」

 熱いコーヒーに口をつけ、スコルピオンは肩をすくめる。

「あの、一人で住んでいるって・・・・?」

 思い出したようにスコルピオンは戸棚を開け、
ビスケットの缶を出してきてヘルガの前に置いた。
それから、改めてヘルガの正面に座る。

「二年前に事故でな、ふた親ともあっけなく死んじまった」

「・・・・でも、あなた、未成年でしょう? ひとりで住むって」

 法律的に無理だろうと言いかけ、出すぎた質問だとヘルガは口を閉じた。

「すみません」

「いや、いい。この家に誰か連れてくれば、絶対聞かれることだし、
個人的な日常生活を話せる友達ができれば、言わなきゃ通れない話だしな。
だから、面倒だから『トモダチ』はあまり作らないようにしてる」

 苦笑いしながら、ヘルガを指差し、『似たようなもんだろ?』と呟く。

「もともと政治家の家系なんだ。
ベルリンがまだ村の寄り集りだった頃かららしいが、そんな昔のことは、俺は知らない。
じいさんはとんだ理想家だったらしい。
戦争の時、反政府の地下活動してて、ゲシュタポにしょっ引かれてそれきり。
それに反感した親父はその世界からきっぱり離れて商人になったが、事業は負債続き。
母さんは俺を連れて、一度は家を出たが、親父が事故で死んだって連絡が来て、
アウトバーンをぶっ飛ばして帰る途中、事故を起した。
俺が病院で目覚めた時には、二人の葬儀は済んでた」

 ほおづえをつき、視線をどこかに漂わせ、どうしようもない戯言を話すみたいに、
スコルピオンは言葉を続ける。

「一番近い親戚は、壁の向こう側。
壁ができるなんて、じいさんは想像もしていなかったんだろうな。
正式な相続人にもしものことがあったら、
後見人にと選んでいたのがじいさんの年の離れた妹で、
この屋敷からそんなに遠い場所じゃないところに住んでる。
ところが、今じゃ『外国』だ。そのばあさんも、許可をもらって葬式には来た。
俺はばあさんにもらわれるんだろうと思った。なにせ、『こども』だから。
ところが、さすが後見人に選ばれることだけはあるばあさんでな。俺に言ったんだ。

『あんたが東に来ることは、いつだってできる。
でもね、一度壁を越えたら、あんたはもう二度と西には戻れない。
この家には帰れないんだよ。だから、がんばってみな。
もうだめだって思うまで、ここでがんばってみな。
あんたが頑張っている間は、あたしはこの家を誰にも売らないし、
あんたをどこか保護施設でも何でも、そんなところに行かせやしない。
できるかい?』

 できない、なんて答えられると思うか? 俺は、『できる』と答えた。
じいさんの名前は、まだ力があったんだな。
法律上は未成年が一人で生活するなんて違反するが、ばあさんはごり押しをしたんだ。
俺が弱音を吐くまで、だから俺はここにいることができる」

 ヘルガは何も言わず、ただコーヒーカップを両手で握りしめる。

「学校側は事情を知ってて、俺を『不幸な子供』扱いしたがる。
だから、このことは内密にしてくれと頼んである。
俺は、ちゃんと学校に行って単位もとるし、周囲に認められるように大学まで進むつもりだ。
俺がそうしている間は、口出しをしないでくれと頼んである。
俺は、このことは誰にも言わないし、この家にも誰も呼ばない。俺が、強くあり続ける間は」

 漂わせていた視線を、スコルピオンはヘルガに戻した。
ヘルガの緑色の瞳は、じっとスコルピオンを捕えている。

「つまらない話をして、悪かったな。お前は俺に、同情なんかしないだろう?」

 慰めが欲しいわけじゃない。「かわいそう」と涙を流して欲しいわけじゃない。

「俺は、俺が強くあり続けるために、お前の力を貸して欲しいと思う」

「あなたの、ために?」

「そうだ。俺のために」

 視線を落したヘルガは、ふと笑った。なんて、自己中心的。

「ひとつ、条件があります」

 カップにはりついた手を、ヘルガはやっと開放する。
コーヒーの熱が、手のひらに熱く残っている。

「私がそばにいる間は、強くあり続けてください。何があっても」

 身をのりだしたスコルピオンは、ヘルガの顔を両手で包み、自分に引き寄せ、唇を重ねた。

 強引な、キス。

 目を閉じ、ヘルガは冷たいスコルピオンの唇を感じる。

 やっと唇を離したとき、ヘルガは目を閉じたまま囁いた。

「あなたの過去など、私には関係ありません。私には、強いあなたが必要なのです」

 もう一度、唇を重ね、スコルピオンは体を起した。

「ならば、俺は、これからはお前のために強くなろう」

 

 

 

 寒々とした、薄暗い部屋で、二人の子供はお互いを求める。

 慰めも同情も、必要ない。弱音など、吐かない。

 自分の足で立っていられる、それが重要なのだ。

 上を目指そう。

 誰にも文句を言わせない。

 強くなるのだ。

 

 唇を重ね、舌を絡める。ドクドクと心臓が高鳴り、体温が上る。
顔が火照るのを感じる。恥じらいと、困惑と、求める心。

 ヘルガは、スコルピオンの手が自分のシャツのボタンにかかるのを感じる。
冷たい指が、首筋から胸を這う。

「あ」

 小さく悲鳴をあげて、スコルピオンの胸に顔を押付ける。

 誰にも触れられたことのない素肌は、敏感に反応した。

「セックスの経験は?」

 耳元で囁かれ、顔を赤らめて首を横に振る。
無理矢理キスをされたり、押倒されかけたこともある、が、それはまた別の次元の話。
転んで怪我をしたようなもの。

「ス・・・スコルピオンは、あるんですか」

 うわずりながら質問を返す。
スコルピオンはヘルガの髪を撫で、引きつるような笑いで頷いた。

「可哀相な子供を慰めてくれる、奇特な女がいるんだ。
去年の担任だった。
別に俺はそいつのことが好きだったわけじゃないし、むしろ鬱陶しいと思ってた。
何回かやって、手ひどくフッてやったら、別の学校に移っちまった」

「酷い人、ですね」

「お前とたいしてかわらねぇよ。お前、自分で誘ってんの、わかってないだろ?」

 心外だというように顔をゆがめて見せると、スコルピオンはその額にキスを落した。

「男を誘うんだよ。その顔で、声で。寂しげな目をして。
お前が本気を出せば、多くの男がお前に平伏すだろう。お前は、そういう奴だ」

 からかわれているのかと、怒ったように両手を突っぱねてスコルピオンから体を離す。

「怒ったか?」

「当り前です! そんな、言いがかりをつけられて。私はそんなつもりはありません!」

 はだけたシャツを引き寄せる。かまわず、スコルピオンはヘルガの体を両手で包み込んだ。

「そしてお前は、誰にも落ちない。そうだろう? 誰にも心を許さない。
冷たい仮面を被り、冷笑するんだ。馬鹿な男たちだ、と」

 スコルピオンの腕の中で、じたばたもがくが、強い腕はびくともしない。

「そんな事言うなんて、酷い」

「酷い男なのさ、俺は。卑劣で、容赦がない。自分のためなら、他人を傷つけるのなど、平気だ」

 もがくのを止め、スコルピオンを見上げる。

「酷い人」

 そっと手を伸ばし、スコルピオンの頬に触れる。

「そうやって、自分を痛めつけているのですね。
立てなくなるほどトレーニングしたり、わざと他人に冷たくしたり。
一人になりたがっている。なぜですか」

「優しくされると、くじけそうになるからさ」

 切ない思いが込上げてくる。息がつまり、ヘルガはスコルピオンの唇に口づけた。

「お前が、欲しい。お前の透明な瞳を汚したい。俺だけのものに」

 酷い人。

 断れるわけ、ない。拒絶できるわけ、ない。

「お前の頭脳も、お前の才能も、お前の体も、純情も、全て俺のものにしたい。
許されるのなら、この屋敷に繋いでおいて、二度と出られないようにしておきたい。
生涯、俺だけを見続けるように」

 酷い人。

「ヘルガ、お前が欲しい」

 スコルピオンの、蒼い瞳を見つめる。宇宙へと続く、蒼い空の色。

「あなたが・・・・・・欲しい」

 あなたの全てが。その孤独ごと。

 

 

 

 それは、ヘルガにとっては『痛み』だった。

 生れて初めて与えられた快楽は、脳神経を麻痺させ、真っ当な判断力を狂わせる。

 そして、『痛み』。引裂かれるような痛みに悲鳴をあげ、赦しを乞う。
涙が溢れ、シーツを濡らし、ヘルガは夢中でスコルピオンの腕を掴んだ。

(求められている)

 貫かれる痛みの中、その言葉がヘルガの脳裏に浮ぶ。

(求められている)

 スコルピオンの荒い息遣いを耳で感じ、冷たい彼の肌が熱く火照るのを感じる。

(今、僕は彼に求められている)

 お互いの名を呼び、口づけをくり返し、深く打ち込まれるたび、それが喜びになる。

(ボクガ ホシイッテ イッタ? ボクノ スベテガ ホシイッテ? 
アゲルヨ ゼンブ ダカラ ダカラ ボクヲ ダイテ)

「あ、いや・・・いや! だめ! だめぇ!!」

 スコルピオンの腕に爪を立てながら、ヘルガは大きく仰け反り、
激しく脈打つ自分の欲望を感じた。

 

 空白。

 

 頭の中が真白になって、いっぱい詰っているはずの難しい方程式やラテン語や、
過去の偉人の名言とか、化学式とか、全部がすっかり抜け落ちて、何も考えられなくなる。

 何もないのは、なんて安らぎだろう。

 何も考えなくていい。

 天才なんて肩書は、ゴミ箱に捨ててしまえ。

 だって

(僕は、ただの子供なのだから)

(誰かに愛されたい、それだけを望む、ただの子供なのだから)

 

「ヘルガ」

 顔に冷たいものが当てられ、ヘルガはうっすらと瞼を上げた。

「ヘルガ、大丈夫か?」

 スコルピオンが、ヘルガの額にかかる髪を払いのけている。

「悪かった。失神しちまうなんて」

 まばたきをして、スコルピオンを見上げる。
心配そうなその顔は、なんだか彼に似つかわしくなく、可笑しい。

「そんなに、痛かったか? やめられなくて、悪かった」

 謝ってる。あの、高飛車なスコルピオンが。

「初めてなのに、無茶をした」

 はじめて・・・・・?

「僕、レイプされたこと、ある。昔。まだ、アカデミーに行く前。悲鳴も出なかった。
親にも、言えなかった。誰も知らない。僕も、忘れた。
何もかも、なかったことに。痛いとか、悲しいとか、感じない。
僕は・・・・・・勉強だけ、していればいい、から」

 空ろな瞳で、言葉を零す。

 難しい数式で、頭の中を埋めよう。何も、考えなくてすむように。

 そう、スコルピオンが、自分の体を痛めつけるみたいに。

「ヘルガ?」

「スコルピオン、寂しい?」

 寂しい?

 スコルピオンは、ヘルガに口づけし、ぎゅっと抱き締めた。

「寂しい。一人に、なりたくない」

 うん。

 ヘルガは、スコルピオンの背に腕を回し、その腕の中で頷いた。

 うん。

「僕が、そばにいてあげる」

 永遠に。

 
  あなたが、私を、必要としなくなるまで。